このページの本文へ移動

1089ブログ

六波羅蜜寺の2体の地蔵菩薩像

特別展「空也上人と六波羅蜜寺」(本館特別5室)も会期が残すところあと2週間となりました。
本ブログでは、2体の地蔵菩薩像について解説します。

六波羅蜜寺の近くには鳥辺野(とりべの)という埋葬地がありました。
ここを死後の世界とみなし、隣接する六波羅蜜寺のある地域は冥界に通じる道とされていました。
冥界で死者は裁判を受け、生前の行ないに応じて、六つの世界のどれかに生まれ変わりますが、この六つの世界いずれにも現れて救いの手を差し伸べる仏が地蔵菩薩です。
そのため、この地域では地蔵菩薩が厚く信仰されてきました。



六波羅蜜寺 本堂
六波羅蜜寺にも2体の地蔵菩薩像が伝わっています。

1体は平安時代中期に活躍した定朝(じょうちょう)の作と伝わる地蔵菩薩立像。


重要文化財
 地蔵菩薩立像 平安時代・11世紀 京都・六波羅蜜寺蔵
定朝の雅で穏やかな作風は貴族を中心に受け入れられ、やがて全国へ広まり、定朝様(じょうちょうよう)と呼ばれます。

もう1体は、鎌倉時代初期を中心に活躍した運慶(うんけい)の作とされる地蔵菩薩坐像。


重要文化財 地蔵菩薩坐像 運慶作 鎌倉時代・12世紀 京都・六波羅蜜寺蔵
運慶は慶派仏師の棟梁(とうりょう)として多くの造仏を手掛け、その天才的な作風は高く評価されてきました。

平安時代と鎌倉時代のそれぞれを代表する仏師が作った、または作ったと伝わるこの2体の造形には、それぞれの作風が反映されています。
いくつかのポイントを比べてみましょう(以下、伝定朝作の地蔵菩薩像を「伝定朝作像」、運慶作の地蔵菩薩像を「運慶作像」とします)。

まずは顔立ちです。


「伝定朝作像」 頭部

「運慶作像」 頭部

  • 「伝定朝作像」 頭部

  • 「運慶作像」 頭部
「伝定朝作像」は、伏し目がちで頬がほっそりとし、鼻や口は小ぶりに表わされ、落ち着きのある穏やかな印象です。
体に比べて小顔につくられているのも、その穏やかさをより一層際立たせています。
一方、「運慶作像」は、正面を見据えた目や、張りの強い頬など、人間に近いような写実的な表現です。また、眉や鼻梁をはっきりと刻み、メリハリのある立体感が伝わります。

次に横から見てみましょう。


「伝定朝作像」 上半身左側面
 

「運慶作像」 上半身左側面

  • 「伝定朝作像」 上半身左側面

  • 「運慶作像」 上半身左側面
「伝定朝作像」は奥行きがとても薄く、肩も華奢(きゃしゃ)です。立体感よりも正面から見たときの美しさ、バランスの良さを重視したのでしょう。
「運慶作像」は対照的に、奥行きを十分にとった量感があります。胸や肩もがっしりとしていますね。

そして、衣の襞(ひだ)の表現に目を移してみます。

「伝定朝作像」 脚部周辺
 

「運慶作像」 腹部周辺

  • 「伝定朝作像」 脚部周辺

  • 「運慶作像」 腹部周辺

「伝定朝作像」の同じ方向になだらかに表わされた襞は、彫りが浅く、数も少なく、衣の薄さが伝わってきます。
「運慶作像」は襞を深く彫り、数も多く、本物の衣を意識した表現です。

以上のように、同じ地蔵菩薩像ながらこの2体にはそれぞれの仏師の作風が反映されています。展示会場で、ぜひ他にも違いや特徴を見つけてみてください。

「運慶作像」は、これまでに実施されたX線調査やCT調査によって、像内に大量の紙束や巻物、水晶製とみられる容器を納めた宝塔などが納められていることがわかりました。
紙束や巻物には経典の文章や造像に関わった人の名前などが書かれていると考えられ、水晶製の容器には舎利(釈迦の遺骨)が納められているかもしれません。
 

「運慶作像」 X線断層(CT)画像(上下方向の断面)
大量の紙束や巻物があることがよくわかります。

 
「運慶作像」 X線断層(CT)画像(左右方向の断面)
円筒の上に屋根をのせた宝塔があります。

  
「運慶作像」 CT三次元画像(宝塔)                                                     
宝塔や丸い容器のかたちが立体的に把握できます

詳しくは、当館の研究誌『MUSEUM』696号(2022年2月発行)に掲載されていますので、そちらもぜひご覧になってみてください。

カテゴリ:2022年度の特別展

| 記事URL |

posted by 増田政史(平常展調整室) at 2022年04月22日 (金)

 

京都の平安時代彫刻を代表する名品―四天王立像と薬師如来坐像―

特別展「空也上人と六波羅蜜寺」(本館特別5室)の会場に入って、正面に鎮座する四天王立像と薬師如来坐像。


重要文化財 四天王立像 京都・六波羅蜜寺蔵
中央:重要文化財 薬師如来坐像 京都・六波羅蜜寺蔵

特別展「空也上人と六波羅蜜寺」にご来館のお客さまは、きっと目当ての空也上人立像をまずご覧になり、
ふと後ろを振り返ると、5体の大きな仏像に驚かれるかもしれません。


重要文化財
 空也上人立像 康勝作 鎌倉時代・13世紀 京都・六波羅蜜寺蔵


空也上人から薬師如来、四天王を望む

仏の組み合わせとして、薬師如来が本尊で、四天王はセットだと思われるかもしれませんが、じつは一組の群像ではありません。

六波羅蜜寺は空也上人が創建しましたが、本尊は今も秘仏として伝えられる十一面観音菩薩立像であり、同時にこの四天王立像も造られました。
いわば、六波羅蜜寺はじまりの仏像ですね。

一方の薬師如来坐像ですが、本来どこに祀られていたのかわかりません。

現在の本堂(貞治2年〈1363〉再建)には、江戸時代ごろには本尊を中心として、向かって左側にこの薬師如来坐像、右側に地蔵菩薩立像(出品作品№9)、
そして壇上の四隅に四天王立像が安置されていたようですが、江戸時代以前については手がかりがありません。
とはいえ、立派な出来栄えと大きさから、どこかのお堂の本尊だったのでしょう。

ここで問題です。
四天王は、1体だけ後の時代に補われたものですが、どれかわかりますか?


広目天

 


増長天

 


持国天

 


多聞天

  • 広目天

  • 増長天

  • 持国天

  • 多聞天


顔を見比べていただければわかりやすいかもしれません。


広目天

 


増長天

 


持国天

 


多聞天

  • 広目天

  • 増長天

  • 持国天

  • 多聞天

 

正解は増長天です。
増長天だけ、眉や頬の膨らみがやわらかく、表情が豊かですね。
持国天をはじめ、他の3体はしわが文様のようにくっきりと刻まれています。
髪の毛は持国天しか比べられませんが、一本ずつの髪の毛は彫らず、おそらく彩色で表していたのに対して、増長天は一本ずつの髪の毛を丁寧に刻んでいます。

よろいや衣の部分もポイントです。


広目天

 


増長天

 


持国天

 


多聞天

  • 広目天

  • 増長天

  • 持国天

  • 多聞天


たとえば、増長天は衣のひだをより自然に表わそうとしていますが、
他の3体はデザインや意匠として表現されているようで、実際にはありえないような衣のたたみ方をしていたり、リズミカルにひだを刻み出したりしています。

また、平安時代(9~10世紀)には、衣のひだを渦巻き状に表現することが好まれますが、増長天には見当たらないのも違いの一つです。


広目天の袖に見られる渦巻き

 


多聞天の袖に見られる渦巻き

  • 広目天の袖に見られる渦巻き

  • 多聞天の袖に見られる渦巻き


一般的に平安時代(9~10世紀ごろ)と鎌倉時代(12~13世紀ごろ)に多く認められる表現上の特色ですが、
増長天も巧みに他の像に調子を合わそうとしているので、一見するとわかりにくいかもしれません。

たとえば、鎌倉時代のこの大きさの仏像なら、両目は水晶製の玉眼としてもおかしくありませんが、この増長天は他の像にあわせて木から彫り出しています。
いつしか増長天が失われたことで、鎌倉時代に他の3体を参照して補われたのです。
とはいえ、どこか時代特有の表現や作者のクセが現れるもので、ぜひ他にも違う点を探してみてください。



重要文化財 薬師如来坐像

  • 重要文化財 薬師如来坐像


最後に薬師如来坐像ですが、穏やかさを増した表情や、衣のひだの整った彫り方から、創建時よりもう少し時代が下り、10世紀後半ごろに造られたと考えられます。
製作時期の違いは、表現だけでなく製作技法からもわかります。
創建時の遺品である十一面観音像や四天王像(鎌倉時代の増長天を除く)は、像の大半を一本の木から彫り出す、「一木造」の技法で製作されていますが、薬師如来坐像はどうでしょうか?

少しわかりにくいですが、よく見ると体部と脚部の間に隙間があるため、脚は体とは別の木材から彫られていることがわかります。
上から見た方がわかりやすいですが、腹の前と足裏の間くらいに隙間がありますね。


薬師如来坐像の脚部

ただし、一本の木から彫りやすい立像と異なり、坐像の場合は前方に脚部が大きくはみ出るので、一木造でも脚部を別の木材で造ることは珍しくありません。

興味深いのは、顔から胸、腹にかけて痕跡がうかがえるのですが、像の中心で左右に接合される構造である点です。
昭和35年(1960)に本格的な修理が実施されており、そのときの解体写真を見れば構造がよくわかります。


薬師如来坐像の解体修理写真(提供:文化庁)

日本で本格的に木彫が行われるようになった平安時代(9世紀)には、仏典の記述にしたがって一本の木から仏像を彫ることが一般的でしたが、
古来、木に対する信仰をもっていた人々にとって、木が仏になるという発想はなじみやすかったのでしょう。

10世紀にかけて、木材加工の技術的な進展と効率的な技法の普及によって、無理をして全身を一本の木から彫り出すのではなく、
体の中心から離れた手足や衣の一部に、別の木材を補うことが多くなります。
それでも、顔や体の中心という仏として重要な部分だけは、やはり一本の木から彫刻されていました。

ところが、10世紀の後半になると、大胆にも体の前後や左右で別々の木材を用いる仏像が出てきました。
体の中心となる部分に複数の木材を用いる技法を、「寄木造」と呼びます。

この薬師如来坐像は、なかでも最初期にあたる例としても重要なのです。

そもそも、大きな仏像を一本の木から彫るのはとてもたいへんなことです。
まず大きな木材を入手しなければならず、これは昔の日本でも簡単なことではありません。
にもかかわらず、仏像の種類や姿勢によっては、木材の多くの部分を削り取ってしまうなど、効率もよくありません。
しかも、木材の塊がひとつであれば、大人数で作業するのも困難で、時間もかかったでしょう。

平安時代中期から後期(10~12世紀)にかけて、摂関家や皇族の間では、功徳を求めて大きな仏像をたくさん造ることが流行しました。

限られた時間で多量の仕事に迫られた仏師たちの間で工夫がなされ、
最初は仏像の前後や左右、次第に前後左右に四材を寄せて体の中心を造るようになりました。

これが「寄木造」のはじまりであり、その大成者と呼ばれる仏師定朝(?~1057)が活躍した時代から、
およそ100年前に造られたのが、この薬師如来坐像なのです。

時代を象徴する仏像が集まる寺院である、六波羅蜜寺。
細かな表現や技法にも注目すると、もっと展覧会が楽しめるかもしれません。


重要文化財 四天王立像(左から広目天立像、増長天立像、持国天立像、多聞天立像) 平安時代・10世紀(増長天のみ鎌倉時代・13世紀) 京都・六波羅蜜寺蔵
中央:重要文化財 薬師如来坐像 平安時代・10世紀 京都・六波羅蜜寺蔵

カテゴリ:2022年度の特別展

| 記事URL |

posted by 西木政統(文化財活用センター企画担当研究員) at 2022年04月13日 (水)

 

空也上人立像はなぜつくられた?

空也上人立像。僧侶の肖像彫刻として、こんなに多くの人に愛されているお像は、他にはなかなかないのではないでしょうか。
人びとを救うために行脚しながら、南無阿弥陀仏の念仏を唱えている様が表され、
その念仏の一語一語がほとけ様となって、口の中から現れて出て来ているという奇跡を、立体として具現化しています。
一度見たら忘れられない、抜群のインパクトです。

 
重要文化財 空也上人立像
康勝作 鎌倉時代・13世紀 京都・六波羅蜜寺蔵 (写真=城野誠治)

この像が作られたのは、空也上人が生きた平安時代から250年近くを経た鎌倉時代のはじめ。
作者は、鎌倉時代の大仏師運慶の四男、康勝(こうしょう)。像内に「僧康勝」という署名と花押(サイン)が記されており、康勝が20歳そこそこの時につくったとみられます。


「僧康勝(花押)」の墨書銘(空也上人立像の像内腹部)
写真提供:奈良国立博物館


それ以外の制作背景については、まったくわかりません。ですが、どこから見ても破綻のない人体表現、隙のない細部の描写は、写実性に秀でた運慶一門の手になることをよく示しています。
運慶が20歳の頃のデビュー作、奈良・円成寺大日如来像については、運慶の父の康慶(こうけい)が制作の責任者という立場で関わっていたことがわかっています。
空也上人立像についても、父の指導を受けつつ、若き康勝が試行錯誤しながら奮闘している様を想像してしまいます。

なぜ鎌倉時代初頭に空也上人像がつくられたのか、それ以前に空也上人のお像はなかったのか、
もしあったとしたらそれは私たちが知っている空也上人像と同じ姿をしていたのか等、疑問はつきません。
空也上人立像がつくられた鎌倉時代初頭といえば、源氏と平氏による内乱の記憶が新しい頃のことです。
寿永2年(1183)、平氏が都落ちするにあたっては、六波羅蜜寺周辺にひしめいていた自らの邸宅を焼き払い、その際に六波羅蜜寺も類焼してしまいます。
被害の規模などはわかりませんが、おそらく大損害を被ったのではないかと想像されます。
運慶一門は代々地蔵菩薩をあつく信仰していましたが、霊験あらたかな地蔵菩薩像で知られていた六波羅蜜寺にも、運慶一門が深く関わりのあったことが知られています。


重要文化財 地蔵菩薩立像 
平安時代・11世紀 京都・六波羅蜜寺蔵

そうした機縁から、運慶が六波羅蜜寺の復興のために尽力しようと、開祖である空也上人立像をつくって貢献した・・・? などと、さらに想像が膨らみます。
ともあれ、運慶一門による篤い信仰と表現力の粋を集めてつくりあげられた空也上人像を、お見逃しなく。

カテゴリ:2022年度の特別展

| 記事URL |

posted by 皿井舞(客員研究員) at 2022年04月05日 (火)

 

特別展「空也上人と六波羅蜜寺」開幕したほ!



ほほーい、ぼくトーハクくん!3月1日(火)から始まった、特別展「空也上人と六波羅蜜寺」にやってきたほ!事前予約もばっちりしたから早速いくほ。

そうだね、会場は本館の特別5室よ。

まずはこの作品から見にいくほ。


重要文化財 空也上人立像 康勝作 鎌倉時代・13世紀 京都・六波羅蜜寺蔵

半世紀ぶりに東京で公開することになった空也上人立像ね。

教科書にも載っているから、知っている人は多いと思うほ!なんだか一度見たら忘れないような気がするほどインパクトがあるほ。

制作した康勝はあの有名な仏師、運慶の四男ですって、どことなく運慶らしさを感じられるわね。

どこらへんがだほ。

例えば、ぐっ!と一歩前に出した足からは力強さを感じられるし、履いている草履もとてもしっかり足を支えているように見えるわ。脛も筋肉が張っているように見えてとてもリアル!この全体のリアルさと力強さから運慶らしさを感じられる気がするわ。

お顔もリアルだほ!



この喉仏もとってもリアルね。首筋も鎖骨も、くっきりしていて今にもしゃべりだしそうな気がするわ。

口から出ている仏さまにも注目だほ!どうしてこのような表現をしたんだほ?

空也上人は、橋や道路等の整備をしたり、京都に流行り病が蔓延した時は、疫病がおさまって世の中が穏やかになるように祈ったりと、さまざまな人々に救いの手を差し伸べ続けていたのよ。だから庶民から有力者まで幅広い人々に信仰を集めたの。このことはその後も語り継がれていったから空也上人がとなえる「南無阿弥陀仏」の6文字が阿弥陀仏の姿になって現れた言い伝えを表しているのよ。

空也上人がお亡くなりになっただいぶあとに作られたのに、こんなにもリアルで、しかも言い伝えとあわせて作られるなんて、すごいほ!

360度ぐるりと、見ることができるから裏側もよく見てみましょうね。裏側の衣のしわしわ具合もとってもリアルなのよ。

ほーいだほ。お、次はこの作品をみるほ!


重要文化財 地蔵菩薩立像 平安時代・11世紀 京都・六波羅蜜寺蔵

平安時代を代表する仏師の定朝作と伝えられているわ。

なんだか柔らかくて、優しい感じがするほ。

平安時代は貴族社会だけど、鎌倉時代は武家社会で、時代背景が違うから特徴にも影響を与えているのかもしれないわね。この展覧会では平安時代から鎌倉時代の彫刻作品を見ることができるから、時代によって雰囲気の違いなどを見比べることも楽しめるわ。

知識がなくても楽しめる気がするほ!

さっきの空也上人立像もだけど、お像を見たままを感じるのでよいので、自由に楽しんでほしいと思うわ。

もう少し紹介するほ!


中央
重要文化財 薬師如来坐像 平安時代・10世紀 京都・六波羅蜜寺蔵
左から、四天王立像のうち
重要文化財 広目天立像 平安時代・10世紀 京都・六波羅蜜寺蔵
重要文化財 増長天立像 鎌倉時代・13世紀 京都・六波羅蜜寺蔵
重要文化財 持国天立像 平安時代・10世紀 京都・六波羅蜜寺蔵
重要文化財 多聞天立像 平安時代・10世紀 京都・六波羅蜜寺蔵

六波羅蜜寺の前身である西光寺の本尊十一面観音菩薩立像(六波羅蜜寺の秘仏本尊として現存)をつくった際にこの四天王立像もつくられたと伝えられているわ(増長天は違う時代の補作)。そして、薬師如来坐像は空也上人の弟子である天台僧の中信(ちゅうしん)が造像としたと伝えられるのよ。

次はこちらの作品だほ!


重要文化財 伝平清盛坐像 鎌倉時代・13世紀 京都・六波羅蜜寺蔵

教科書で見たことある人は多いかも。

彫刻作品のほかにも、仏画や巻物の作品も会場にあったほ!


左から3幅
十王図 陸信忠筆 中国 南宋~元時代・13~14世紀 京都・六波羅蜜寺蔵
※展示期間は各幅ごとに異なります。展示期間は作品リストでご確認下さい
地蔵菩薩霊験記絵巻断簡 南北朝時代・14世紀 京都・六波羅蜜寺蔵 ※4月10日(日)まで展示


会場を出て左手にある本館11室では関連展示として、六波羅蜜寺ご所蔵の作品を5件展示しているわ。

いろいろ見ることができて大満足だほ。今度は京都に行ったら六波羅蜜寺でも実際に見てみたいほー。今年の5月22日からは、新しい宝物館「令和館」で拝観できるみたいだほ。

:展覧会は5月8日(日)までで、会期中に展示替えがあります。入場には事前予約を推奨しているので、展覧会公式ウェブサイトをご確認下さい。


 

カテゴリ:トーハクくん&ユリノキちゃん2022年度の特別展

| 記事URL |

posted by トーハクくん&ユリノキちゃん at 2022年03月11日 (金)

 

ポンペイ入門(2) 街の様子編

考古室研究員の山本です。
前回に引き続いて、今回はポンペイの街の様子や特産品などの特色について解説します。

ポンペイの城壁で囲まれた街の広さはおおよそ66ヘクタールほど。
東京国立博物館がある上野公園は53ヘクタールですから、上野公園より少し広いくらいです。
城壁の外にも裕福な市民たちが建てた別荘が点在していました。
ポンペイではこれまでに全体の3分の2ほどの面積が発掘されています。


ポンペイ市街図 Ⅰ~Ⅷ区の区域分けは古代のものではなく、発掘に際して新たに付されたものです。

街は南北に1本(スタビアーナ通り)、東西に2本の大通り(北からノーラ通り・アッボンダンツァ通り)で区切られています。
街の主要な建物は南西のほうに固まっていました。
中心に位置するのがフォルムと呼ばれる広場。その周りに役所や裁判所などの公的機関、市場や神殿が集まっていました。
フォルムは上下二重に柱が並んだ廊に囲まれ、市場のほかにも多くの露店が並びにぎやかな情景でした。


フォルムの日常風景 1面 62~79年 ポンペイ、「ユリア・フェリクスの家」、アトリウム出土 フレスコ ナポリ国立考古学博物館所蔵

さらにフォルムの南東にあるのが大劇場と小劇場(音楽堂)。
劇場はギリシャ都市によくみられる建物の一つですが、ポンペイが位置するカンパニア地方では仮面を付けて演じる笑劇(アテラナ劇)が発祥したと言われ演劇が盛んだったようです。

 
:俳優(悲劇の若者役)、:俳優(女性役、おそらく遊女) 1世紀後半 ともにポンペイ、「カロリーナ王妃の家」、庭園出土 土製 ナポリ国立考古学博物館所蔵

ここであらためてポンペイの地図を見てみてください。
ここまでで見てきた街でも南東にある多くの公共建物が集まる地区は道や地区の形が雑然として配置された印象を受けます。
いっぽうでそれ以外の地区は大通りに沿って整然と区画されているように見えます。
おそらく、古くからの街の中心が南西のほうにあり、それ以外は宅地として順に整備されたのでしょう。
ただし、こうした場所から離れて位置する建物があります。
それが円形闘技場と大運動場です。

特に円形闘技場は、城壁の南東の角を取り込むように利用して建てられています。
劇場がギリシャ文化を下地にする要素とすると、円形闘技場はまさしくローマ的な建築物。
一説には円形闘技場で行われた剣闘士試合もカンパニア地方が起源と言われます。


円形闘技場での乱闘 1面 59~79年 ポンペイ、円形闘技場での乱闘の家、ペリステュリウム出土 フレスコ ナポリ国立考古学博物館所蔵
紀元後59年に円形闘技場で起きた、ポンペイとヌケリア両市民の乱闘の模様を描いたフレスコ画。背後の城壁とともに闘技場の姿を写実的に描いています

ちなみにこの円形闘技場、かつてのローマ世界に含まれる地域の中で現在まで残っている事例としては最も古いもの。
上の作品で見た円形闘技場乱闘事件の際、ちょうどローマ皇帝だったのがネロでした。
同じころローマではネロの巨大な像〈コロッスス〉が建てられており、彼の死後にこの像の跡地に巨大闘技場が建設されることになります。これがローマのコロッセオです。
ポンペイの円形闘技場はコロッセオよりも古くに作られたものなのです。

次に名産品について見てみましょう。
ポンペイには3つの特産品がありました。
ワイン、オリーブオイル、ガルム(魚醤)です。


バックス(ディオニュソス)とヴェスヴィオ山 1面 62~79年 ポンペイ、「百年祭の家」アトリウム出土、東壁 フレスコ ナポリ国立考古学博物館所蔵

この絵を見ると、ヴェスヴィオ山の麓に葡萄棚が広がっているのがわかります。
画面左の葡萄を身にまとったバックスは酒の神であり、下の蛇は葡萄を守護する神アガトダイモンの象徴です。この絵じたいがワイン製造業者の家に飾られたものとも言われています。
大プリニウスは、ポンペイのワインは深酒すると翌日に残りやすいと書き残しています。
当時のワインはアルコール度数が16~18度と高く、ふつう水で割って香辛料や海水や石灰などの添加物で味や色を調整していたそうです。今とずいぶん違いますね。


単把手付きガルム(魚醤)用小アンフォラ 1口 1世紀 ポンペイ、「ファウヌスの家」出土 土器 ナポリ国立考古学博物館所蔵

ガルムは魚を発酵させて作る調味料で魚醤の一種です。
イタリアでは現在でもアンチョビの副産物として製造されているものがあります。
魚醤はかつて日本でも一般的な調味料でしたが、仏教の影響もあって次第に大豆を原料とする醤油が広く使われるようになったと言われています。
現代の日本では目にする機会が少ないですが、秋田の「しょっつる」のように親しまれている地域があります。
ローマ世界ではこのガルムをいろいろな料理に用いていました。
ガルムには発酵によりグルタミン酸が多く含まれており、いわゆる「うま味」が強く作用したことが当時の人々に好まれた理由のようです。

当時の食生活に触れておくと、裕福な人々の家では台所で奴隷たちがさまざまな料理を作っていました。


目玉焼き器、あるいは丸パン焼き器 1個 1世紀 ヴェスヴィオ山周辺出土 ブロンズ ナポリ国立考古学博物館所蔵

そうではない多くの人々は、食堂(テルモポリウム)で食事を食べたり料理を買って持ち帰ったりして食べていたようです。
ちなみに特別展会場のうち第2会場入り口に設けてあるグッズ売場は、2020年末にポンペイ遺跡で実際に発掘された食堂をイメージしてデザインしています。

水は誰でもふんだんに使うことができました。
紀元前1世紀、イタリア半島を縦断するように位置するアペニン山脈を源とする上水道がポンペイにも引かれてきます。
上水は街のいちばん高いところにあるヴェスヴィオ門わきの浄水場でろ過されたのち、鉛製の水道管で街じゅうの水汲み場に運ばれました。
ただし下水道は存在せず、生活排水は道路の側溝などに流されていました。


水道のバルブ 1個 1世紀 ポンペイ出土 ブロンズ ナポリ国立考古学博物館所蔵
鍛冶組合の管理のもと、工業製品には高い技術が用いられていました。

いかがでしょうか?ポンペイの街と歴史を理解するのに少しでもお役に立てたなら幸いです。
さて、次回からは「そこにいた」人々の生き様を語る出品作品にクローズアップしましょう。

カテゴリ:2022年度の特別展

| 記事URL |

posted by 山本亮(考古室研究員) at 2022年01月31日 (月)