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京都の平安時代彫刻を代表する名品―四天王立像と薬師如来坐像―

特別展「空也上人と六波羅蜜寺」(本館特別5室)の会場に入って、正面に鎮座する四天王立像と薬師如来坐像。


重要文化財 四天王立像 京都・六波羅蜜寺蔵
中央:重要文化財 薬師如来坐像 京都・六波羅蜜寺蔵

特別展「空也上人と六波羅蜜寺」にご来館のお客さまは、きっと目当ての空也上人立像をまずご覧になり、
ふと後ろを振り返ると、5体の大きな仏像に驚かれるかもしれません。


重要文化財
 空也上人立像 康勝作 鎌倉時代・13世紀 京都・六波羅蜜寺蔵


空也上人から薬師如来、四天王を望む

仏の組み合わせとして、薬師如来が本尊で、四天王はセットだと思われるかもしれませんが、じつは一組の群像ではありません。

六波羅蜜寺は空也上人が創建しましたが、本尊は今も秘仏として伝えられる十一面観音菩薩立像であり、同時にこの四天王立像も造られました。
いわば、六波羅蜜寺はじまりの仏像ですね。

一方の薬師如来坐像ですが、本来どこに祀られていたのかわかりません。

現在の本堂(貞治2年〈1363〉再建)には、江戸時代ごろには本尊を中心として、向かって左側にこの薬師如来坐像、右側に地蔵菩薩立像(出品作品№9)、
そして壇上の四隅に四天王立像が安置されていたようですが、江戸時代以前については手がかりがありません。
とはいえ、立派な出来栄えと大きさから、どこかのお堂の本尊だったのでしょう。

ここで問題です。
四天王は、1体だけ後の時代に補われたものですが、どれかわかりますか?


広目天

 


増長天

 


持国天

 


多聞天

  • 広目天

  • 増長天

  • 持国天

  • 多聞天


顔を見比べていただければわかりやすいかもしれません。


広目天

 


増長天

 


持国天

 


多聞天

  • 広目天

  • 増長天

  • 持国天

  • 多聞天

 

正解は増長天です。
増長天だけ、眉や頬の膨らみがやわらかく、表情が豊かですね。
持国天をはじめ、他の3体はしわが文様のようにくっきりと刻まれています。
髪の毛は持国天しか比べられませんが、一本ずつの髪の毛は彫らず、おそらく彩色で表していたのに対して、増長天は一本ずつの髪の毛を丁寧に刻んでいます。

よろいや衣の部分もポイントです。


広目天

 


増長天

 


持国天

 


多聞天

  • 広目天

  • 増長天

  • 持国天

  • 多聞天


たとえば、増長天は衣のひだをより自然に表わそうとしていますが、
他の3体はデザインや意匠として表現されているようで、実際にはありえないような衣のたたみ方をしていたり、リズミカルにひだを刻み出したりしています。

また、平安時代(9~10世紀)には、衣のひだを渦巻き状に表現することが好まれますが、増長天には見当たらないのも違いの一つです。


広目天の袖に見られる渦巻き

 


多聞天の袖に見られる渦巻き

  • 広目天の袖に見られる渦巻き

  • 多聞天の袖に見られる渦巻き


一般的に平安時代(9~10世紀ごろ)と鎌倉時代(12~13世紀ごろ)に多く認められる表現上の特色ですが、
増長天も巧みに他の像に調子を合わそうとしているので、一見するとわかりにくいかもしれません。

たとえば、鎌倉時代のこの大きさの仏像なら、両目は水晶製の玉眼としてもおかしくありませんが、この増長天は他の像にあわせて木から彫り出しています。
いつしか増長天が失われたことで、鎌倉時代に他の3体を参照して補われたのです。
とはいえ、どこか時代特有の表現や作者のクセが現れるもので、ぜひ他にも違う点を探してみてください。



重要文化財 薬師如来坐像

  • 重要文化財 薬師如来坐像


最後に薬師如来坐像ですが、穏やかさを増した表情や、衣のひだの整った彫り方から、創建時よりもう少し時代が下り、10世紀後半ごろに造られたと考えられます。
製作時期の違いは、表現だけでなく製作技法からもわかります。
創建時の遺品である十一面観音像や四天王像(鎌倉時代の増長天を除く)は、像の大半を一本の木から彫り出す、「一木造」の技法で製作されていますが、薬師如来坐像はどうでしょうか?

少しわかりにくいですが、よく見ると体部と脚部の間に隙間があるため、脚は体とは別の木材から彫られていることがわかります。
上から見た方がわかりやすいですが、腹の前と足裏の間くらいに隙間がありますね。


薬師如来坐像の脚部

ただし、一本の木から彫りやすい立像と異なり、坐像の場合は前方に脚部が大きくはみ出るので、一木造でも脚部を別の木材で造ることは珍しくありません。

興味深いのは、顔から胸、腹にかけて痕跡がうかがえるのですが、像の中心で左右に接合される構造である点です。
昭和35年(1960)に本格的な修理が実施されており、そのときの解体写真を見れば構造がよくわかります。


薬師如来坐像の解体修理写真(提供:文化庁)

日本で本格的に木彫が行われるようになった平安時代(9世紀)には、仏典の記述にしたがって一本の木から仏像を彫ることが一般的でしたが、
古来、木に対する信仰をもっていた人々にとって、木が仏になるという発想はなじみやすかったのでしょう。

10世紀にかけて、木材加工の技術的な進展と効率的な技法の普及によって、無理をして全身を一本の木から彫り出すのではなく、
体の中心から離れた手足や衣の一部に、別の木材を補うことが多くなります。
それでも、顔や体の中心という仏として重要な部分だけは、やはり一本の木から彫刻されていました。

ところが、10世紀の後半になると、大胆にも体の前後や左右で別々の木材を用いる仏像が出てきました。
体の中心となる部分に複数の木材を用いる技法を、「寄木造」と呼びます。

この薬師如来坐像は、なかでも最初期にあたる例としても重要なのです。

そもそも、大きな仏像を一本の木から彫るのはとてもたいへんなことです。
まず大きな木材を入手しなければならず、これは昔の日本でも簡単なことではありません。
にもかかわらず、仏像の種類や姿勢によっては、木材の多くの部分を削り取ってしまうなど、効率もよくありません。
しかも、木材の塊がひとつであれば、大人数で作業するのも困難で、時間もかかったでしょう。

平安時代中期から後期(10~12世紀)にかけて、摂関家や皇族の間では、功徳を求めて大きな仏像をたくさん造ることが流行しました。

限られた時間で多量の仕事に迫られた仏師たちの間で工夫がなされ、
最初は仏像の前後や左右、次第に前後左右に四材を寄せて体の中心を造るようになりました。

これが「寄木造」のはじまりであり、その大成者と呼ばれる仏師定朝(?~1057)が活躍した時代から、
およそ100年前に造られたのが、この薬師如来坐像なのです。

時代を象徴する仏像が集まる寺院である、六波羅蜜寺。
細かな表現や技法にも注目すると、もっと展覧会が楽しめるかもしれません。


重要文化財 四天王立像(左から広目天立像、増長天立像、持国天立像、多聞天立像) 平安時代・10世紀(増長天のみ鎌倉時代・13世紀) 京都・六波羅蜜寺蔵
中央:重要文化財 薬師如来坐像 平安時代・10世紀 京都・六波羅蜜寺蔵

カテゴリ:「空也上人と六波羅蜜寺」

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posted by 西木政統(文化財活用センター企画担当研究員) at 2022年04月13日 (水)