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空也上人立像はなぜつくられた?

空也上人立像。僧侶の肖像彫刻として、こんなに多くの人に愛されているお像は、他にはなかなかないのではないでしょうか。
人びとを救うために行脚しながら、南無阿弥陀仏の念仏を唱えている様が表され、
その念仏の一語一語がほとけ様となって、口の中から現れて出て来ているという奇跡を、立体として具現化しています。
一度見たら忘れられない、抜群のインパクトです。

 
重要文化財 空也上人立像
康勝作 鎌倉時代・13世紀 京都・六波羅蜜寺蔵 (写真=城野誠治)

この像が作られたのは、空也上人が生きた平安時代から250年近くを経た鎌倉時代のはじめ。
作者は、鎌倉時代の大仏師運慶の四男、康勝(こうしょう)。像内に「僧康勝」という署名と花押(サイン)が記されており、康勝が20歳そこそこの時につくったとみられます。


「僧康勝(花押)」の墨書銘(空也上人立像の像内腹部)
写真提供:奈良国立博物館


それ以外の制作背景については、まったくわかりません。ですが、どこから見ても破綻のない人体表現、隙のない細部の描写は、写実性に秀でた運慶一門の手になることをよく示しています。
運慶が20歳の頃のデビュー作、奈良・円成寺大日如来像については、運慶の父の康慶(こうけい)が制作の責任者という立場で関わっていたことがわかっています。
空也上人立像についても、父の指導を受けつつ、若き康勝が試行錯誤しながら奮闘している様を想像してしまいます。

なぜ鎌倉時代初頭に空也上人像がつくられたのか、それ以前に空也上人のお像はなかったのか、
もしあったとしたらそれは私たちが知っている空也上人像と同じ姿をしていたのか等、疑問はつきません。
空也上人立像がつくられた鎌倉時代初頭といえば、源氏と平氏による内乱の記憶が新しい頃のことです。
寿永2年(1183)、平氏が都落ちするにあたっては、六波羅蜜寺周辺にひしめいていた自らの邸宅を焼き払い、その際に六波羅蜜寺も類焼してしまいます。
被害の規模などはわかりませんが、おそらく大損害を被ったのではないかと想像されます。
運慶一門は代々地蔵菩薩をあつく信仰していましたが、霊験あらたかな地蔵菩薩像で知られていた六波羅蜜寺にも、運慶一門が深く関わりのあったことが知られています。


重要文化財 地蔵菩薩立像 
平安時代・11世紀 京都・六波羅蜜寺蔵

そうした機縁から、運慶が六波羅蜜寺の復興のために尽力しようと、開祖である空也上人立像をつくって貢献した・・・? などと、さらに想像が膨らみます。
ともあれ、運慶一門による篤い信仰と表現力の粋を集めてつくりあげられた空也上人像を、お見逃しなく。

カテゴリ:「空也上人と六波羅蜜寺」

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posted by 皿井舞(客員研究員) at 2022年04月05日 (火)