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1089ブログ

屏風をたのしむ、初級編~まずは大きさに注目!(前編)

はじめまして、絵画・彫刻室で日本絵画を担当の金井と申します。

まだまだ暑い日が続いていますが、朝夕はだいぶ過ごしやすくなってまいりました。
今回は、「屏風をたのしむ、初級編」と題しまして、本館・日本ギャラリーのうち、
7室「屏風と襖絵」についてご紹介したいと思います。
展示室は一足お先に、もうすっかり秋の彩りです。


本館 日本ギャラリー 7室 展示風景

 
現在、7室では、以下の3つの屏風を2011年9月25日(日)まで展示しています。

・重要文化財「蔦の細道図屏風(つたのほそみちずびょうぶ)」 6曲1隻 深江芦舟筆 江戸時代・18世紀 東京国立博物館蔵
・「扇面散屏風(せんめんちらしびょうぶ)」 6曲1双 宗達派 江戸時代・17世紀 山本達郎氏寄贈 東京国立博物館蔵
・重要美術品「粟穂鶉図屏風(あわほうずらずびょうぶ)」 8曲1双 土佐光起筆 江戸時代・17世紀 個人蔵

 蔦の細道図屏風
重要文化財「蔦の細道図屏風」 全図

 

日本の伝統的な絵画には屏風のほか、絵巻(巻子)や掛け軸、画帖、冊子といった
さまざまな形状がありますが、屏風の持つ特徴は、なんといってもその画面の大きさです。
種類によって高さや横幅はまちまちですが、
最も標準的なものは、縦が約170cm、横が約360cm程度にもなります。
この大画面をどのように使うか? それがそれぞれの画家の腕の見せどころなのです。


ところで日本の伝統絵画の中で大きな画面といえば、屏風のほかに襖絵や扉絵があります。


これらと屏風の大きな違いは、「可動性」、つまり、動かせるか、動かせないか、ということです。
あたり前のようですが、実はこの違いは作品に大きな影響をもたらします。

屏風は、間仕切りや風除けのための家具(調度品)です。
これに対して襖や扉は、建物に組み込まれた建築の一部としての役割があります。
そのため、こっちの襖を、あっちの部屋で転用・・・というのは難しいのです。

そのため、襖絵のテーマ(画題)は、部屋の用途に大きく左右されます。
たとえば会社の社長室に、子供部屋のようなポップな絵は似合いませんよね?
それと同じように、誰が使うのか(天皇?将軍?家臣?)、
何に使うのか(会議室?応接間?寝室?)によって、襖絵の画題が選定されていきます。

それに比べて、屏風はテーマがとても自由です。
どこの部屋にでも持っていくことができますし、外に持ち出すことさえできます。
「来客対応用の屏風」「寝室用の屏風」「夏用の屏風」「正月用の屏風」など、
何種類も用意しておけば、一つの部屋の雰囲気をあっという間に変えることができます。
そのため、用途に応じてさまざまな屏風絵が描かれました。

では今回展示されている作品は、それぞれどんな工夫が凝らされているのでしょうか?
後編では、展示されている作品を順にみていきましょう。

(後編は近日公開します。どうぞお楽しみに!)

カテゴリ:研究員のイチオシ

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posted by 金井裕子(絵画・彫刻室) at 2011年08月31日 (水)

 

「空海と密教美術」展の楽しみ方  シリーズ(3)-1 彫刻

密教美術初心者代表・広報室員が専門の研究員に直撃取材する、『「空海と密教美術」展の楽しみ方』。
第3回目のテーマはいよいよ「彫刻」です。今回は、彫刻が専門の丸山士郎研究員にインタビューしました。

展覧会開催まで、実に7年もの歳月を費やしたという本展覧会。本当に豪華な、夢のようなラインナップとなりました。今回はその中でも、展覧会の最後を締めくくる「仏像曼荼羅」について聞いてみます。


『大切なあなた』

広報(以下K):「仏像曼荼羅」を初めて拝見したとき、そのかっこよさに思わず「わぁーっ」と歓声をあげてしまいました。展示空間が、仏像のエネルギーで満ち満ちています。興奮冷めやらぬまま会場を後にした方も多いのではないでしょうか。
さて、教王護国寺(東寺)からこれだけ多くの仏像が一気にお堂を出るのは初めてと伺いましたが、これらの8体はどのような基準で選ばれたのでしょうか?

 東寺講堂の諸像8体による仏像曼荼羅 東寺講堂の諸像8体による仏像曼荼羅(イメージ)

丸山(以下M):東寺講堂には全部で21体の仏像があります。中央に「如来」が5体、その右側に「菩薩」5体、左側に「明王」5体、そして周囲を「天部」がかためています。
本展覧会は<空海ゆかりの作品>がキーワードですので、空海の時代につくられたのではない「如来」はリストに入れませんでした。「菩薩」と「明王」に関しては、制作当時の表現が色濃く残り、かつ状態の良い2体を選びました。「明王」はさらに、姿が面白いお像という点もポイントでした。あとはこちらからの希望をお伝えし、お寺側にご承諾いただいたという経緯です。

K:そうやってこの8体が選ばれたのですね!この中で特に思い入れのある仏像はありますか?

M:やはり、持国天立像です。私の仏像人生の中で、エポックメイキング的な存在ですから。
  国宝 「持国天立像(四天王のうち)」

K:それはどうしてですか?

M:学生の頃に初めて持国天立像と出会ったのですが、それまではどの仏像を見ても、迫力という意味においては西洋の彫刻に負けてしまうような気がしていました。しかし東寺の持国天立像は立体のとらえ方が素晴らしいですよね。迫力も西洋彫刻に負けていません。とても感銘を受けたわけです。

K:そんな特別なお像だったなんて!ある意味丸山さんの仏像人生を決定づけたといっても過言ではありませんね!
確かに造形的な意味でも目を引く作品ですね。正面から見たときには気付かなかったのですが、左斜め後ろ側から見たときに、衣がこちら側にたなびいているのがよく分かり、向こうから風が吹いているのだと感じました。

M:そうなんです。正面からだけでなく様々な角度から見ても、仏像に動きがあり見事ですよね。そういう発見があるのも、この展示の楽しいポイントです。


『マンダラのパワー、今も昔も』

K:御請来目録には、「密教の教えは奥深く、文章で表すことは困難である。かわりに図画を借りて悟らないものに開き示す」とあります。東寺講堂の立体曼荼羅は、そういう経緯でつくられたものだと思います。これらの仏像は本当に勢いがあり、その造形のかっこよさに心を奪われてしまったのですが、立体曼荼羅に込められた教えとはどういうものなのでしょうか?
図録では、立体曼荼羅は「金剛頂経」という経典の考えに空海の考えも加えて構成されたと考えられる、とありますが、そもそもこの「金剛頂経」とはどういうものなのですか?

M:初歩的な理解ですが、仏の智慧の世界「金剛界」を明らかにするもので、「即身成仏」へと導くためのお経です。「即身成仏」とは、真言密教の中心となる信仰で、人は誰でも現在の身のまま悟りを開くことができるという考え方です。「金剛頂経」にはそのための修法が書かれているだけで、端的に「密教の教えはこういうものです」という書き方はされていません。重要なのは、曼荼羅から何を感じ取るか、ということだと思います。
「仏像曼荼羅」を見て、どう思いましたか? 

仏像曼荼羅 会場風景「仏像曼荼羅」会場風景

K:なんだかグッと来ました。上手く言葉に出来ませんが。

M:そうですよね、グッと来るのです。東寺講堂は、当時お坊様たちの修行の場でしたので、現在のように広く一般に開かれた場ではなく、一部の人間しか見ることは出来なかったと思われますが、やはり同じようにグッと来たはずです。ビジュアル的なアピール力がある。空海にとって曼荼羅とは『仏が森の木のように整然と並び、赤や青に輝いている』のだそうで、その世界が本当によく表れています。

K:赤や青に輝く…。そういえば仏像を良く見ると彩色がまだ残っている部分がありますね。

M:それを元に、頭の中で当時の彩色の再現をしてみると、確かに鮮やかな色に溢れ、輝いているように感じます。


(さらに盛り上がったインタビュー後半は近日公開します。どうぞお楽しみに)

カテゴリ:研究員のイチオシnews彫刻2011年度の特別展

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posted by 小島佳(広報室) at 2011年08月29日 (月)

 

重陽の節供とキモノのデザイン

旧暦9月9日(今年は10月5日にあたります)は、重陽(ちょうよう)の節供です。「重陽」とは「陽」の重なる日、という意味です。「陽」とは中国で信仰されてきた陰陽道における前向きな良い物事のことをいい、数では奇数が陽とされました。
「9」は奇数の中でも一番大きな数で「極陽」であり9月9日は「9」が重なることから重陽と呼ばれるようになりました。陽が重なるのだから吉日だと思われるでしょうが、陽が強すぎるのは返って良くない、と考えられていました。そこで、9月9日には邪気を払うために、さまざまな行事が行われてきました。節供には、季節の花がともに祀られることが多いのですが、重陽の節供の頃は丁度菊の季節にあたります。また、菊は「翁草」「千代見草」「齢草」とも称され、長寿の効能があると古代中国では信じられていました。

そのような信仰が日本にも伝わって、その日、宮中では菊の香りを移したお酒を飲んで長寿を願い、前夜に菊花に綿を被せ(これを「被綿(きせわた)」と称します)、綿に菊の露を染み込ませ、あくる朝にその露で体をぬぐうといった行事が行われました。江戸時代には「菊合わせ」といって大切に育て美しく咲かせた菊花の鑑賞会が行われたり、同じ頃に実る栗を入れたご飯を炊いたりして、庶民にまでこの節供が親しまれるようになりました。その影響もあるのか、キモノのデザインにも、節供にちなんだ模様を凝らしたものが見られます。

実は、重陽の節供は1月7日の人日(じんじつ)、3月3日の上巳(じょうし)、5月5日の端午(たんご)、7月7日の七夕(しちせき・たなばた)と共に祀られる五節供の1つなのですが、近代以降、なじみのうすい行事となってしまいました。
そのなごりは、秋に行われる菊の品評会や老舗の和菓子屋に並ぶ主菓子「菊の被綿」などにしのばれますが、もともと重陽の節供にちなんだ風物だと気づく日本人がどのくらいおられることか・・・と案じられます。
菊花をデザインした江戸時代のキモノはたくさんあって、菊が日本人に愛好されていた様子がうかがえます。
私もなぜか忘れられてしまった日本の風習を思い、重陽の節供をはさむ時期には菊模様のキモノを展示するように心がけています。


振袖 白綸子地菊雲鳥蝶模様  江戸時代末期~明治期(19世紀)
8月9日(火)から10月10日(月・祝)まで、本館10室「浮世絵と衣装―江戸(衣装)」で展示されている振袖。
紅染めの雲模様と菊花の刺繍がなんともあでやか。

今年は展示されていないのですが、当館に所蔵される「振袖 縹縬地花器菊花模様」(写真1)には、褄から裾にかけて、花瓶に生けた菊、蒔絵の花活けに刺した菊、あるいは、贈り物にしたのでしょうか、中が仕切られた 箱の中に綺麗に並べられた菊花の蒔絵手箱などが美しく繊細に刺繍されていて(写真2,3)、まさに江戸時代の菊合わせの趣向を見るようです。裾裏(「八掛 (はっかけ)」 と称します)にも、同じような菊の模様が刺繍されています(写真4)。室内ではキモノの裾は長く引きずって着用します。歩いた時に裾がはらりとめくられて 裏の模様がちらっとのぞくという、なんとも粋なデザインなのです。


(1)振袖 縹縬地花器菊花模様 江戸時代末期~明治期(19世紀)
(注)この作品は展示されていません




(2)花瓶に生けた菊                (3)蒔絵の花活けや手箱


(4)裾裏の刺繍

 

カテゴリ:研究員のイチオシ

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posted by 小山弓弦葉(工芸室) at 2011年08月28日 (日)

 

後期の見どころ紹介「孫文と梅屋庄吉―100年前の中国と日本」

本館特別5室で開催中の特別展「孫文と梅屋庄吉―100年前の中国と日本」(~2011年9月4日(日) )も、いよいよ後半をむかえました。
8月15日(月)の閉館後に陳列替えを行い、およそ115点の作品を一新しました。
展示風景


後期(8月16日(火)~)の展示から、主な作品を紹介いたします。


天安門
(左)天安門「北京城写真」より 小川一眞撮影 光緒27年(1901) 東京国立博物館蔵
(右)現在の天安門


光緒27年(1901)に写真師小川一眞が撮影した天安門の姿です。
当時、北京は義和団事件後の占領下にあり、慈禧皇太后(西太后)と光緒帝は西安に逃れていました。
小川一眞は紫禁城の建築の調査を主な目的とした伊東忠太ら、東京帝国大学の北京城調査に同行し、清朝末期の北京城の姿を撮影しました。



浅草十二階凌雲閣
浅草十二階凌雲閣 明治時代(19世紀) 長崎大学附属図書館蔵

現在ではスカイツリーが話題になっておりますが、およそ100年前には、浅草に建てられた12階建ての凌雲閣が、東京のシンボルとして人気を博しておりました。
残念ながら関東大震災で崩壊しまいましたが、写真にその姿が残されています。



日よけの広東
『亜東印画輯』 日よけの広東 亜東印画協会 民国18年(1929)頃 東京国立博物館蔵

広東は孫文の故郷です。
日本は連日猛暑に見舞われておりますが、亜熱帯に属する広東は、夏季になると、街頭の商店は強い日差しを避けるために大簾をかけて日覆をしていました。


孫文と梅屋庄吉の関連資料とともに、およそ100年前の日本や中国の姿をお楽しみください。

カテゴリ:研究員のイチオシ2011年度の特別展

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posted by 関紀子(特別展室) at 2011年08月24日 (水)

 

列品解説「東大寺山古墳出土大刀群と金象嵌銘文の世界」 補遺3

特集陳列 「よみがえるヤマトの王墓―東大寺山古墳と謎の鉄刀―」(~2011年8月28日(日))も、あと6日間ほどとなりました。



会期末は担当者として寂しい反面、多くの方にご覧いただいたという安堵感も入り混じり、いつも少々複雑な気分です。
しかし、これからの方はもちろん、もう一度見ていただく方にも新たな発見をしていただけるように、前回のブログ 補遺2で遺した、当時の人々が大刀の意義について「満足した部分(X)」と、「満足できなかった(?)部分(Y)」があったという予測にもとづく大刀改造の謎の背景について、追加の補足をさせていただきたいと思います。


金象嵌銘大刀(きんぞうがんめいたち)を含む家形・花形飾環頭大刀(いえがた・はながたかざりかんとうたち)は、中国製大刀を改造して、中国式環頭をモデルにした日本列島独自の意匠を"鏤(ちりば)めた"環頭に付け替えたものでした。
類例がない独創的な造形には、高度なテクニックと並々ならぬ情熱を感じさせます。


苦労して製作した環頭には、直弧文(ちょっこもん)や家形など、当時の人々にとってなじみ深いモチーフが選ばれていました。
少なくとも、これらの大刀がよほど大切にされたことは間違いありません。


素環頭大刀と青銅製環頭(左:中国出土:当館・天理参考館蔵、右: 東大寺山古墳出土:形・形飾環頭・当館蔵)

もう一度、金象嵌銘文を見てみましょう。
前々回のブログ 補遺1で、銘文は古代東アジアの刀剣銘文の典型で大きく3つの部分で構成されていることを記しました。

A:中国王朝の権威が及ぶことを示す後漢の元号
B:架空の日付を伴う材質・製作の正当性を示す常套句
C:辟邪除災(招福)(へきじゃじょさい(しょうふく))を意図する吉祥句

環頭が付け替えられた理由は、銘文のC部分にあると予想がつきそうです。
それは、大事にされた理由が中国皇帝の権威を示すA部分や高い品質を述べたB部分とすると、わざわざ傷付けてしまうことは少々矛盾するからです。
しかも、気に入っていたのはCでも、壮大な宇宙観[ブログ 補遺1:画像1]を語る前半部分よりは"現世利益(?)"的な後半部分である可能性が高いようです。

象嵌銘文(1)
「A:中平□□[184~189](年)、B:五月丙午、造作文刀百練清(釖)、C:上應星宿、(下辟不祥)」

それは、列品解説(7月26日(火))でご紹介した厳密な古代中国の宇宙観を表していた方格規矩四神鏡(ほうかくきくししんきょう)[ブログ 補遺1:画像2]は、国産化されるとすぐに四神像が形骸化し、渦巻き文様(渦文)化することからも解ります。


四神像の変遷(変形方格規矩四神鏡[4~5c])[田中 琢1981]


国産鏡(倣製鏡)では、四神などの霊獣像はさらに簡単な図像に変化して数を増したり、ついには半球形や点状に変化してしまいます。
変形方格規矩四神鏡の他に、倣製鏡の獣形文鏡は
捩文鏡(ねじもんきょう)  →  乳文鏡(にゅうもんきょう ) →  珠文鏡(しゅもんきょう) 
と変化します。
その移り変わりは、考古展示室の銅鏡(舶載鏡と倭鏡)コーナーでも展示していますので、是非ご覧いただきたいと思います。


舶載(輸入)鏡と倭(国産)鏡 ([3~6c]当館蔵) [考古展示室]


中国王朝の権威や壮大な宇宙観、舶来の稀少な品質よりも、自分たちに身近な存在に深い関心を寄せる。このような側面は、東アジアでも有数の日本列島製の刀剣銘文にも窺うことができるようです。

その典型は、実は考古展示室で展示している国宝の銀象嵌銘大刀(熊本県玉名郡和水町江田船山古墳出土:[5c]当館蔵)に見ることができます。
これらの多くは、どうも当時の人々に気に入るような形に中国式銘文が"改造"されているようです。

象嵌銘文(4)
「A':治天下獲□□□歯大王世、D1:奉事典曹人名无(利)弖、B:八月中用大鐵釜併四尺廷刀、
八十練(九)十振、三寸上好(刊)刀、C:服此刀者長壽子孫洋々、得恩也、不失其所統、
D2:作刀者名伊太(和)、D3:書者張安也」

ここでは中国の銘文形式(A~C部分)を踏襲しながら、随所に日本列島独特の文章(D部分)が挿入されていることが判ります。
Aに中国王朝の権威を示す元号はなく、代わりに日本列島の大王の世界観を示す「治天下」という言葉が使われています。
(Bはともかく・・・)Cではこの大刀のもつ呪力を具体的に述べますが、その根拠となる宇宙観は示されていません。
特徴的なのは中国式銘文にはないDで、銘文の主人公「无(利)弖」(D1)と刀鍛冶「伊太(和)」(D2)や、作文した撰文者(せんぶんしゃ)「張安」(D3)が登場します。
もちろん、「獲□□□歯大王」は記紀にみえるワカタケル大王[幼武尊・若建命など](雄略天皇)と考えられる人物で、「无(利)弖」(D1)の主人(A':D4)です。
また、D2・3は製作に尽力した人物であることは容易に推測できます。


国宝 銀象嵌銘大刀(熊本県玉名郡和水町江田船山古墳出土:[5c] 当館蔵) [考古展示室]


同様な部分は、埼玉県行田市埼玉稲荷山古墳出土鉄剣ではより顕著に表れています。
主人公・「乎獲居臣」(D1)に至る8代の系譜とその人間関係が記され、まさにDだらけです。
B'も主人公の指示と語っており、濃密な(ベタベタの?)人間模様が描かれていることが解ります。

象嵌銘文(5)
「A':辛亥年[471or531]七月中記、D1:乎獲居臣、D2:上祖名意富比跪、D3:其児多加利足尼、D4:其児名弖已加利獲居、D5:其児名加披次獲居、D6:其児名多沙鬼獲居、D7:其児名半弖比[表面]」
「D8:其児名加差披余、D9:其児名乎獲居臣、D1':世々為杖刀人首奉事来至今、獲加多支歯大王寺、在斯鬼宮時、吾左治天下、B':令作此百練利刀、D1'':記吾奉事根原也[裏面]」

家形・花形飾環頭大刀への改造は、これらの銘文と同じように自分達にもっとも関心が深い(大好きな・・・)ものを追加するという行為で、やはりよほど気に入っていたからに違いありません。
大陸の権威や宇宙観を横眼に(?)、身近な伝統的装飾や社会関係に関心を寄せる姿は、海外の"大国や先進国"から自由な精紳で活動していた証(あかし)といえるでしょう。
良くも悪くも、その後の日本人の気質やものづくりにも一脈通ずるものが感じられる気がしますが、如何でしょうか。

東大寺山古墳に副葬された"改造大刀"の出現は、その後の日本列島に住む人々の行動や性格の行方(ゆくえ)を占うともいえるもので、古墳時代の人々のそんな素朴な、いじらしいとも云える一面をこれらの大刀は物語っているように思われます。




ご来場の皆様にはその一端でも感じ取っていただければ、今回の展覧会の目的の一つはすでに果たされたといえます。
どうぞ当時の人々の関心の在り処や情熱に想いを馳せて、ご覧いただければ幸いです。
 

 

カテゴリ:研究員のイチオシ考古

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posted by 古谷毅(列品管理課主任研究員) at 2011年08月23日 (火)