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1089ブログ

特別展「書聖 王羲之」10万人達成!

書の世界のスーパースターである王羲之、その書の実像や後世に与えた影響などに迫る
特別展「書聖 王羲之」(2013年1月22日(火)~3月3日(日))は、
おかげさまで、2月22日(金)に10万人目のお客様をお迎えしました。
たくさんのご来場、誠にありがとうございます。

10万人目のお客様は、千葉県・習志野市よりお越しの米地奈美(よねじなみ)さんです。
高校時代に書道部に所属し、王羲之の字をお手本にしていたという米地さん。
今日は、会社を早退して、本展覧会を観にお越しくださったとのことです。
米地さんには、東京国立博物館長 銭谷眞美より、記念品として
本展図録と展覧会オリジナルグッズを贈呈いたしました。



10万人セレモニーの様子。左から、米地奈美さん、銭谷眞美館長
2013年2月22日(金) 東京国立博物館平成館にて


本展覧会には王羲之の字姿を伝える資料や、王羲之の影響を受けた後世の書家の作品など、
たくさんの書の名品が並んでいますので、米地さんにもご満足いただけたことと思います。

ただいま、国宝「孔侍中帖(こうじちゅうじょう)」
(原跡=王羲之筆 唐時代・7~8世紀摸 前田育徳会蔵)も公開中。
[展示期間:2013年2月19日(火)~3月3日(日)]
王羲之の字姿を伝えるもっとも信憑性の高い資料とされる唐時代の摸本のひとつで、
桓武天皇(737-806)も借覧したという由緒正しい作品です。
会期も残りあとわずか。どうぞお見逃しなく!

カテゴリ:news2012年度の特別展

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posted by 林素子(広報室) at 2013年02月22日 (金)

 

特集陳列「南九州の古墳文化」

平成24年度 文化庁考古資料相互活用促進事業(考古資料相互貸借事業)として、宮崎県立西都原考古博物館と当館所蔵の宮崎県・鹿児島県内で出土した考古資料で、独自性の高い南九州地方の古墳文化をご紹介します。(特集陳列「南九州の古墳文化」3月3日(日)まで)
考古資料相互貸借事業は、国立博物館所蔵の考古資料を地元の地方博物館所蔵品と交換・展示し、相互に広く公開する目的で平成10年度に始まり15年目を迎えました。

展示全景、展示室入口
(左)展示全景、(右)展示室入口

さて、九州地方は日本列島を構成する主な4つの大島のうち、南北約320km、東西約220kmの規模をもち本州西端に接する位置します。
いわゆる北九州地方と南九州地方は、ちょうど東京-名古屋間くらいの距離ですね。
九州北部(長崎・佐賀・福岡県)地方は、対馬海峡を挟んで北西約200kmに朝鮮半島と向かい合い、弥生時代以降は連綿として大陸の影響を受けてきました。新来の文化は主に日本海や瀬戸内海地方を経て、中国・近畿地方へ伝えられました。
対して、九州南部(鹿児島・宮崎県)地方は、南(太平洋)側に1000kmにおよぶ西南諸島(琉球列島)が連なり、北東側には遠く四国西南部を望んでいます。

これまで先史・原史(縄文・弥生~古墳)時代の九州南部地方のさまざまな交流が明らかにされてきています。
すでに縄文時代(後期)には、市来貝塚(鹿児島県いちき串木野市)を標識とする市来式土器が西南諸島(沖縄本島)に及んでおり、屋久島では大規模な集落も確認されています。
また、豊後水道を挟んで四国西南部(伊予・土佐)との交流もみられます。
一方、弥生時代(中期~後期)には四国北岸部の瀬戸内系土器が出土し、これらの模倣土器が作られることから、豊後水道を経た瀬戸内海との交流も深めていったようです。
やがて、後期後半には畿内系土器が出土するようになり注目されます。

古墳時代前期(3~4世紀)に、九州北部の瀬戸内沿岸部に畿内型古墳が出現しますが、大正年間の調査などで、中期(5世紀)に宮崎県西都原古墳群などで高い水準の古墳文化が成立していたことが知られていました。
近年、宮崎県・鹿児島県の地元自治体・大学の調査研究によって、九州南部にもいち早く古墳文化の定着が確認され、前期~中期には九州最大の前方後円墳が、次々と営まれていたことが明らかになっています。

概説パネル
南九州の古墳文化解説パネル

これまで古墳文化発祥の畿内地方から遠隔地であることや、地下式横穴墓と板石積(いたいしづみ)石棺墓などの特異な墓制の存在からその独自性が強調されてきました。しかし、最近では大規模な古墳群と地下式横穴墓の一体性も解明されつつあり、このような九州南部の独自性の高い古墳文化の位置づけは今後の課題です。
日本古代国家形成期の古墳時代において、どのような歴史的位置を占めるかは23日(土)に開催される特別講演会(シンポジウム形式)に譲るとしまして、ここでは本特集陳列の見どころをかいつまんでご紹介します。


まず、前半部は九州東南部地方の独自性の高い地下式横穴墓からの出土品です。
地下式横穴墓は、地表から掘下げた1~2mほどの「竪坑」の底から、横方向に設けた「玄室」を墓室としていることが特徴です。
古墳時代中期(5世紀)から終末期の7世紀初めまで、霧島山系の北麓盆地部(宮崎県えびの市など)から宮崎平野と鹿児島県志布志湾(肝属平野)周辺地域を中心に分布しています。
えびの市内だけでも1000基を超えると推定されていて、在地系の古墳として定着していたことがわかります。

しかし、宮崎平野や肝属平野では5世紀後半の前方後円墳とも重複する例が見つかっており、墳丘をもつ畿内古墳文化とも融合していた可能性が高まってきています。
さらに従来、出土品に中期(5世紀)の古墳文化を代表する鉄製帯金式甲冑や武器類が多いことが著しい特徴であることは知られていましたが、近年の発掘調査でますます増加し、やはり地方において最大の甲冑出土古墳の集中地域であることがはっきりしてきました。
逆に云えば、“見慣れない”構造の古墳でありながら、中身は近畿地方と遜色ない内容で、被葬者の社会的位置を暗示しています。

鉄製帯金式甲冑 (左:宮崎県六野原8号地下式横穴墓出土、右:宮崎県西都原4号地下式横穴墓出土他)
鉄製帯金式甲冑 (左:宮崎県西都原4号地下式横穴墓出土、右:宮崎県六野原8号地下式横穴墓出土、古墳時代・5世紀  宮崎県立西都原考古博物館蔵)

一方、同じ出土品でも、なかには他の地方ではみられない“特異な”遺物が含まれることも注目されてきました。
その代表は蛇行剣です。
蛇行剣は古墳時代中期から後期(5~6世紀)に全国で約70例が出土していますが、そのおよそ半数が地下式横穴墓出土品です。
ただ、とっても使いずらそうですので・・・(= 戦争の道具としては大変キケン!です)、まさに九州南部の古墳文化を象徴する存在といえます。

同様に、本来の武器の機能をわざわざ“損ねる”ような製品は、実は5世紀には近畿地方でも多様な形態が知られています。
今回、当時大陸の戦闘で主流であった最新の武器である鉄矛の「“変わり”矛」(蛇行鉄矛・刀形鉄矛など)も小特集(考古展示室)していますので、是非ご覧頂きたいと思います。


(左) 蛇行剣 宮崎県大萩31号地下式横穴墓出土 古墳時代・5世紀  宮崎・宮崎県立西都原考古博物館蔵
(右上)蛇行鉄矛 兵庫県加西市亀山古墳出土 古墳時代・5世紀 東京国立博物館蔵 平成館考古展示室にて展示中
(右下)鉄矛 香川県綾川町小野津頭出土 古墳時代・5世紀 東京国立博物館蔵(宮武喩・大澤伊三郎氏寄贈) 平成館考古展示室にて展示中


また、九州地方全体で出土する圭頭形鉄鏃や(うまく表現できないほど“変わった形”の・・・)異形鉄鏃も、九州東南部地方独特のカタチをもつことが特色です。
当時の(近畿地方でも流行っていた)“トレンド”を採り入れた九州南部バージョンといえます。
ほかにも、奄美大島以南の西南諸島でしか獲れない南海産貝(イモガイ)製釧なども他の地方には見られません。
弥生時代以来の西南諸島との伝統を背景にした九州南部地方の交流の足跡と、独自のファッションを窺わせるもので注目されます。

ちなみに、当時最新で貴重品の初期馬具も、畿内地方では(おそらく沢山あったに違いないのですが・・・)副葬品にはあまり選ばれていません。しかし、地下式横穴墓には(なぜか?・・・)たくさん副葬されています。
もしかして?・・・、イイものが手に入った(!?)ということで、即(!)永遠の眠りの伴侶にしてしまうような(“屈託”のない)おおらかさを感じるのは私だけでしょうか・・・。

鉄鏃と貝釧・鉄鐸・初期馬具 (左:宮崎県小木原7号地下式横穴墓出土他、右:宮崎県旭台6号地下式横穴墓出土他)


貝釧・鉄鐸・初期馬具(左上:宮崎県小木原7号地下式横穴墓出土他)と鉄鏃・土器(右上:宮崎県旭台6号地下式横穴墓出土他、左下:鹿児島県溝下古墳出土、右下:宮崎県西臼杵郡高千穂町大字田原出土他・土器は宮崎県西都市下三財古城出土)

次に、後半部に展示されている埴輪にも、重要な特徴が見られます。
古墳時代中期(5世紀)に西日本最大級の前方後円墳として出現する宮崎県西都原古墳群の男狭穂塚・女狭穂塚古墳(全長175・175m:実は岡山県を除けば西日本最大!です)とその周辺の古墳には、きわめて高い技術で製作された埴輪群が樹立されていたことは、古くから知られていました。

近年の宮崎県立西都原考古博物館の発掘調査によってその全貌が解明しつつあり、埴輪のほとんどが高い技術で製作される西日本でも稀な例であることがいよいよはっきりしてきました(他の古墳では通常、“地元の職人”が製作したと考えられる製品が混じっているのが普通です・・・)。
その典型が、戦後早く重要文化財に指定された子持家形埴輪と船形埴輪であることは誰しも認めるところとなっています。



(左)重要文化財 埴輪 船  宮崎県西都市三宅 西都原古墳群出土  古墳時代・5世紀(東京国立博物館蔵)
(右)
重要文化財 埴輪 子持家 宮崎県西都市三宅 西都原古墳群出土 古墳時代・5世紀(東京国立博物館蔵) 平成館考古展示室で展示


このようなある種の“文化的落差の混在”をギャップ?と感じてしまうのは、現代人の「古墳文化」に対するステレオタイプな考えに基づくものでしょう。
少なくとも、これらの古墳造りに参加した大半の人々は“地元”の人々と考えられますし、その指揮をしたのは(間違いなく・・・)西都原古墳群に集った首長たちとみられます。

むしろ、地下式横穴墓を代表とする独自性の高い古墳に眠る九州南部の人々が、ありのままの姿を見せてくれている“メッセージ”と考えた方が素直に理解できそうです。
そこには日本の古代国家成立期に各地方の畿内古墳文化への明確な主体性と、決して一方通行ではない地域間交流の多様な在り方があったことが如実に示されているようです。

このように、5世紀を中心とした九州南部地方には、独自の墓制の存在にもかかわらず近畿地方の最新の技術と製品が“投入”されている様子が明らかにされつつあります。
日本上代史にも登場する「日向・諸縣(もろあがたの)君」ら、南九州の首長達との関係があるのかどうか。 
あるとすれば、どのような「事情」なのか、その歴史的な評価はこれからです。

これらの地下の“メッセージ”から、当時の人々のダイナミックな活動振りに想いを馳せていただければ幸いです。
 

関連事業
特別講演会「南九州の古墳文化 ―日本古代国家成立と九州南部地域文化の展開―」
2013年2月23日(土) 13:00 ~ 16:15 平成館-大講堂

関連記事
<1089ブログ>特集陳列「南九州の古墳文化」特別講演会へのいざない

 

カテゴリ:研究員のイチオシ考古

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posted by 古谷毅(列品管理課主任研究員) at 2013年02月22日 (金)

 

王羲之の複製を作ろう!

「書聖」つまり「書の神様」として尊敬され、世界史の教科書や書写のお手本でもおなじみの王羲之は書を芸術へと高めた最初の人物。
でも王羲之が生きていた時代の直筆(真蹟)はひとつも伝わっていません。
では私たちの書のお手本はいったいどうやってつくられたのでしょう?特別展「書聖 王羲之」には一体何が展示されているのでしょうか?

それは精巧な複製。
複製をつくる技術には、臨書(りんしょ)や拓本(たくほん)などいろいろな技がありますが、そのひとつである双鉤塡墨(そうこうてんぼく)に挑戦するワークショップを開催しました。

双鉤塡墨は書の上に紙を置き、文字の輪郭に沿って線を写し塗りつぶす方法。
「写すとはいっても、文字の書き順を考え、墨の濃淡、筆の運びに注目することが必要」とのお話を胸に刻み、早速双鉤塡墨に挑戦です。
今回は展示中の行穰帖が題材。この作品自体、双鉤塡墨の技術を使ってつくられています。
行穰帖の写真の上に、薄くにじみにくい和紙を置き、まずはその輪郭をできるだけ細い線で囲みます。

(左)ご指導くださった山中翠谷先生 (右)書き順どおりに丁寧に。緊張感が漂います
(左)ご指導くださった山中翠谷先生 (右)書き順どおりに丁寧に。緊張感が漂います

続いてその中を書き順通りに細い線を重ね塗っていきます。ここで先生のお言葉をもう一度。墨の濃淡と筆の運びに注目です。
たとえば「九」の文字、線が交わるところは確かに濃い!はねやはらい、墨の濃淡まで再現されています。

行穰帖(こうじょうじょう)  (部分)
行穰帖(こうじょうじょう)  (部分)
原跡=王羲之筆 唐時代・7~8世紀摸 プリンストン大学付属美術館蔵 Princeton University Art Museum / Art Resource, NY


集中力を切らさず作業を重ね、できたのがこちら。

完成

なんとも気の遠くなるような作業でした。
どうしたらよりその魅力を伝えられる複製を作ることができるかを真剣に考え、手間隙を惜しまず作られた複製は時代を越えて大切にされてきました。
その人びとの気持ちを思うと、いま自分の目の前にこれだけの王羲之の複製があることがまるで奇跡のよう。
今回ワークショップにご参加いただけなかった皆様も、展示室で王羲之の複製に託された人々の思いに触れていただければと思います。
 

カテゴリ:教育普及催し物2012年度の特別展

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posted by 川岸瀬里(教育普及室) at 2013年02月19日 (火)

 

蘭亭序の楽しみ方―蘭亭序、はなざかり―

「永和九年、歳は癸丑にあり」。この文章で始まる作品が、王羲之の最高傑作・蘭亭序です。東晋時代の永和9年(353)3月3日、会稽郡(かいけいぐん、現在の紹興)の長官を務めていた王羲之は、風光明媚な蘭亭に41人を招いて詩会を催しました。川の水を引いて曲がりくねった流れを作り、人々は小川の左右に陣取ります。川上から杯が流れ着くまでに詩を作り、もし詩が出来なければ、罰として大きな杯に3杯の酒を飲まされるという、文人ならではの優雅な宴です。

詩会での成績が「蘭亭図巻」に記されています。それによると、2首の詩を成した者11人、1首を成した者15人、詩を作れなかった者16人。


蘭亭図巻─万暦本─
蘭亭図巻─万暦本─(らんていずかん(ばんれきぼん))(部分)
原跡=王羲之等筆 明時代・万暦20年(1592)編 東京国立博物館蔵


王羲之は主催者だけに2首詠んでいます。

蘭亭図巻─万暦本─(らんていずかん(ばんれきぼん))(部分)
蘭亭図巻─万暦本─ (部分)


さらに、この宴には王羲之の息子7人のうち6人が参加。3人が2首、2人が1首作り、末っ子の王献之は詩を作っていません。「蘭亭図巻」の王献之を見てみると、片膝立ててそっぽを向き、いかにもやる気のない様子なので、罰杯3杯を飲みたいがために、わざと詩を作らなかったのだろうかなどと想像しましたが、この時の王献之の年齢を調べたら、わずか10歳。なるほど納得しました。まだお酒も飲めず(本当は飲んだかもしれませんが)、詩を作ることも難しかったのでしょう。しかし、ヒゲを生やしたこのふてぶてしい姿が10歳とは…。

蘭亭図巻─万暦本─(らんていずかん(ばんれきぼん))(部分)
蘭亭図巻─万暦本─ (部分)

王羲之は、この詩会で出来た詩集の序文を書きました。これが世に名高い蘭亭序です。美しい自然に包まれながら、前半では宴の様子を述べ、後半では流れゆく時間の中で生命のはかなさに思いを馳せます。

定武蘭亭序─韓珠船本─(ていぶらんていじょ(かんじゅせんぼん))
定武蘭亭序─韓珠船本─(ていぶらんていじょ(かんじゅせんぼん))
王羲之筆 原跡=東晋時代・永和9年(353)台東区立書道博物館蔵


当時、東晋の人々にとって、中原の地を回復するための北伐は、国家最大の悲願でした。王羲之は、今の東晋が戦いに勝てるだけの実力を持ち合わせていないと、北伐に反対しましたが、その意見は受け入れられず、軍は北進を開始したのです。こうした背景のもとに書かれた蘭亭序に、王羲之晩年の憂いが投影されるのは当然かもしれません。蘭亭序には、いたるところに訂正のあとがあります。揺れ動く王羲之の心のありようが映し出されているようです。その時の感情の高揚を文字や行間に込めながら、流麗な筆さばきによって表現した蘭亭序。王羲之は後に何度も書き直しましたが、宴で書かれた蘭亭序をしのぐ作はできませんでした。

王羲之が自ら傑作と認めた蘭亭序は、その後多くの拓本が作られ、南宋時代には800本を数えたといいます。明時代の大家である董其昌(とうきしょう、1555~1636)は、「蘭亭に下拓なし」(蘭亭序の拓本に、つまらないものはない)という言葉を残しています。それほどに由緒あるさまざまな蘭亭序が作られたのです。今回の展覧会会場でも、蘭亭序はなざかり。みなさんもぜひ、お気に入りの蘭亭序をさがしてみてください。

「蘭亭図巻─万暦本─」および「定武蘭亭序─韓珠船本─」は、特別展「書聖 王羲之」(平成館、3月3日(日)まで)にて、展示中です。
また、東京国立博物館から至近距離にある(徒歩15分!)台東区立書道博物館においても、「不折が学んだ、書聖・王羲之。」を3月3日(日)まで開催中です。
あわせてご来館くだされば幸いです。

カテゴリ:2012年度の特別展

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posted by 鍋島稲子(台東区立書道博物館) at 2013年02月18日 (月)

 

特集陳列「南九州の古墳文化」特別講演会へのいざない

今回の特集陳列「南九州の古墳文化」(平成館企画展示室、3月3日(日)まで)を記念して、2月23日(土)に開かれる特別講演会(シンポジウム形式)の司会・コーディネーターを務めることになりました横浜市歴史博物館長の鈴木靖民と申します。
専門は、日本と東アジアの古代史です。
 
企画展示室入口風景
企画展示室入口風景

「南九州の古墳文化」展は、平成24年度の文化庁考古資料相互活用促進事業(考古資料相互貸借事業)の一環として開催されています。
大正年間の発掘から著名な西都原古墳群に建設された宮崎県立西都原考古博物館の所蔵資料と東京国立博物館所蔵資料で、宮崎県と鹿児島県内から出土した豊富な考古資料が展示されており、大変見ごたえのある内容です。
これまで東京をはじめとする東日本では、あまり紹介されることがなかった南九州地方の特色ある古墳文化を知る絶好の機会といえます。

概説パネル
概説パネル

従来、8世紀の古代の南九州(主に宮崎県、鹿児島県)は、「隼人」とよばれた人々が住む、ほかの地方とは異なる自然環境にあり、稲作農業のない辺境であるとされてきました。
考古学では、古墳時代(3~7世紀)の多様な墓制の中でも、他の地方には見られない特異な地下式横穴墓や板石積(いたいしづみ)石棺墓、立石土坑墓という特殊な墓の存在が明らかにされ、その証拠だと考えられていた時代もありました。
しかし、地域は限られますが、古墳時代前期から大型の前方後円墳も出現し、最近では地下式横穴墓と併存する場合さえあることも明らかにされつつあり、注目を浴びています。

宮崎県地下式横穴墓出土遺物・西都原古墳群出土埴輪 全景
宮崎県西都原古墳群出土埴輪(左:東京国立博物館蔵)・同 地下式横穴墓出土遺物(右:宮崎県立西都原考古博物館蔵)

これをどう理解するか。
私が専門とする文献史学の立場からも、「隼人」が異民族ではなく、7世紀の天武朝期以後の大和の王権が作り上げた擬制的な集団に過ぎないという説が出されています。


そこで、今回は宮崎県と鹿児島県から第一線の考古学、文献史学の研究者を招き、一堂に会して、この地域独自の特色の実態を捉え直し、
そして、講演とディスカッションを通じて、南九州の地域社会の特色、大和や瀬戸内地方、北部九州との関係に迫り、日本古代の豊かな文化と歴史を究明したいと考えています。
 

特別講演会「南九州の古墳文化 ―日本古代国家成立と九州南部地域文化の展開―」
2013年2月23日(土)  13:00 ~ 16:15 平成館大講堂
当日先着380名 聴講無料(ただし当日の入館料が必要)

 

カテゴリ:news考古

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posted by 鈴木靖民(横浜市歴史博物館長) at 2013年02月17日 (日)