今回の特集陳列「動物埴輪の世界」(平成館考古展示室、2012年7月3日(火)~10月28日(日))で、鶏・水鳥の群れの次に展示されているのが、犬、猪、鹿の四足動物の埴輪のグループです。
これらの埴輪がどのような意味を持っていたかを知るには、どの動物とどの動物の関係が深いかを探ることが大切です。
狩猟関係の埴輪群(後列:左から犬・猪・鹿、前列:左から猪・猪・鹿)
それには、埴輪が古墳のどこから、どのように出土したのかを確かめる方法があります。
犬と猪が組み合わせとなった良好な事例が、群馬県高崎市保渡田VII遺跡で発見されています。
群馬県高崎市保渡田VII遺跡の猪狩りの場面(左から男子(狩人)・犬・猪)
(写真:かみつけの里博物館提供)
そこでは、犬と猪の埴輪、そして、烏帽子のような形の帽子をかぶった男子埴輪が一つの場面を構成していました。この男子は、手の部分を失っていますが、おそらく、弓を引く狩人(カリウド)の姿をあらわしていたと考えられます。猪の背中には矢が刺さり、一筋の血が流れています。
狩人の放った矢がまさに猪を仕留めた緊迫した場面をあらわしています。また、狩人と猪の間には犬がいて、猪狩りの手伝いをしていたようです。
このような猪狩りの場面をあらわした埴輪を古墳に並べた事例は多く、古墳に葬られるような有力者にとって重要な行事であったと考えられます。
また、狩猟は、古墳時代の有力者にとって重要だっただけでなく、洋の東西、時代を問わず、よく似たモチーフが確認できます。
中国の前漢~後漢(前1世紀~後1世紀)の灰陶狩猟文壺には、馬上から振り返りざまに矢を放つ「パルティアンショット」で虎を狙う人物が描かれています。
同様のモチーフは、西方のササン朝ペルシャ(4世紀)の銀器や唐(7~8世紀)でも錦や絹などの文様として登場し、後者は日本にも法隆寺や正倉院などに伝えられています。
(左) 灰陶狩猟文壺 前漢~後漢時代・前1~後1世紀 中国 横河民輔氏寄贈(展示未定)
(右) 重要文化財 狩猟文錦褥 奈良時代・8世紀(展示未定)
こうした狩猟について、娯楽や軍事訓練とする見方もありますが、娯楽や軍事訓練とは考えがたい情景もあらわされています。
前7世紀頃のアッシリアの王、アッシュール=バニパル王がライオン狩りをしている様子を表現したレリーフでは、襲いかかるライオンに王がひるむことなく対峙し、ライオンを仕留める姿が描き出されています。また、ササン朝ペルシャの銀器には国王がみずから槍や剣を手にし、熊や豹と戦うモチーフも取り上げられています。
こうした事例からは、狩猟は娯楽というよりも、王が命がけで執行する重要な儀礼であったのではないかと考えられます。
猪はライオン、熊、豹ほど恐ろしい動物ではありませんが、『古事記』にはヤマトタケルが東征の最後に討とうとした伊吹山の神が白い猪に化身してヤマトタケルを苦しめるという物語が登場します。
神の化身である猪を狩ることは、その土地を治める有力者にとって必要な命がけの行為と認識されていたのではないかと考えられます。
埴輪 矢追いの猪 伝千葉県我孫子市出土 古墳時代・6世紀(腰部に刺さった矢の表現)
では、鹿はどうでしょうか?
鹿についても、『日本書紀』に神に化身する存在として登場します。ただし、古代人にとって猪と鹿は異なる役割が期待されていたようです。
8世紀の万葉集巻九、一六六四番に雄略天皇の詠んだとされる
「夕されば 小倉の山に 臥す鹿の 今夜は鳴かず い寝にけらしも」
(夕方になると小倉の山で腹ばいになる鹿は、今夜は鳴かないで寝てしまったようだ)
という歌があります。
また、『日本書紀』仁徳天皇三十八年秋七月条も、毎夜、大王が鳴声を聴いていた鹿を殺した佐伯部を安芸国へ追放したという記事が載っていることなどから、天皇が土地の精霊である鹿の鳴き声を聞くという儀礼行為があったと指摘する研究者もいます。
埴輪 鹿 茨城県つくば市下横場字塚原出土 古墳時代・6世紀(胴部に刺さった矢の表現)
動物埴輪では猪と同じく矢が刺さった表現がなされた鹿も造形されていますが、その数は少なく、多くは振り向いた姿であらわされています。また、ほかの動物埴輪と組み合うことなく単独で配置されたものが多いようです。
埴輪の鹿は鳴きませんが、その鳴き声を聞くために用意されていたのでしょう。
よく見ると、犬や鵜の埴輪の頸には紐や鈴のついた首輪が表現されています。同じ狩猟の場面に登場する埴輪でありながら、犬や鵜の埴輪は、猪や鹿とは違って(人間社会における位置づけが正反対で)、人間に飼育された動物ということになります。
犬は、今も昔も人間に忠実な動物で、猪狩りにあたっては命がけで人間の手伝いをしています。
8世紀の『播磨国風土記』には、応神天皇の狩犬である麻奈志漏(マナシロ)が猪と戦って亡くなり、応神天皇は麻奈志漏のお墓を作ったことが記されています。
ところで、鵜といえば岐阜・長良川の鵜飼を想い出しますが、鵜飼は日本の各地でなされていました。鵜は鳥の中でも賢い動物で人間が飼育しやすい動物といわれています。
鵜形埴輪実測図(群馬県保渡田八幡塚古墳出土)
[若狭徹論文 2002『動物考古学』19、動物考古学研究会より]
また、山口県下関市の土井ケ浜遺跡は弥生時代の集団墓地として著名ですが、そこでは鵜を胸に抱きかかえたまま葬られた女性が見つかっています。
この鵜は女性が大事に飼っていた鳥だったのでしょうか。
鵜をなぜ埴輪としてあらわしたのか。
現在、確認されている鵜の埴輪の数はそれほど多くはなく、明快な解答をえられる段階にはありません。
しかし、少なくとも鵜が古墳時代の人々にとって、親しみのある動物であったことだけは間違いないようです。
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posted by 山田俊輔(考古室研究員) at 2012年09月12日 (水)
現在、11万件以上のコレクションを擁する東京国立博物館ですが、このコレクションももちろん一朝一夕で成り立ったものではありません。明治5年(1872)に博物館が歩みだした頃には、実は何もなかったと言ってよい状態でした。そもそも「博物館とは何だろう」ということを知っていた人は、当事者である博物館職員の他、日本にはまだ数えるほどしかいませんでした。ですから、博物館の最初のコレクションは、まず館員が資料を館に寄贈するところから始まったのです。
創設時の館長である町田久成(1838-1897)の寄贈になる館蔵品は100件以上にのぼります。町田は薩摩藩の高級武家の出身であるためか、寄贈品の中には甲冑や馬具、装束の他に薩摩琵琶などが含まれています。また幕末に英国留学の経験があり、当館の図書のなかには、そこで入手したらしい「町田久成献納」の印がある洋書も見られます。重要文化財の指定を受けている中世の百科事典『塵袋』も町田の寄贈です。
重要文化財 塵袋(部分) 印融写 室町時代・永正5年(1508) 町田久成氏寄贈
東京国立博物館140周年特集陳列「資料館における情報の歴史」(本館16室、2013年1月8日(火) ~ 3月3日(日))にて展示予定
町田と二人三脚で博物館を作った田中芳男(1838-1916)は、本草学者として幕府に出仕し、フランスに留学しました。田中の寄贈品リストも150件以上になり、国内外の貨幣、考古遺物、民俗的な資料などが含まれます。今回の特別公開では中国陶磁の優品「青花魚藻文壺」を展示します。
博物館初期の功労者の一人である蜷川式胤(1835-1882)からの寄贈も多く見られます。蜷川は京都の出身で故実に通じ、自らも古物の収集を手がけていましたので、博物館創設時から自分の収集品を館に献納していました。
館蔵品を確認していると時々古い札がついており、そこに明治5年に蜷川が献納した旨を自分で書いている場合があります。そんな時に私は、博物館という誰も知らない仕組みを作る仕事に身を投じた当時の職員たちのことに思いをはせ、少し襟を正します。
「壬申(明治5年)冬 蜷川式胤」の書き入れと蜷川の印のある札(右拡大部分)
折形免許目録 江戸時代・18世紀 蜷川式胤氏寄贈(展示未定)
博物館という存在とその仕事が次第に見えてくると、資料や作品を寄贈して社会的に役立ててほしいという考え方に基づいて、寄贈を申し出る人が増えてきます。それによって博物館のコレクションは豊かになってゆきます。次回(その2)はその時代のことについてご紹介します。
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東京国立博物館140周年特集陳列「秋の特別公開 贈られた名品」(本館特別1・2室、2012年9月15日(土)~9月30日(日) )では、数多くの寄贈品の中から国宝・重要文化財の指定を受けた優品を選りすぐって公開します。ぜひご覧ください。
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posted by 田良島哲(調査研究課長) at 2012年09月10日 (月)
トーハクでは来年、特別展「飛騨の円空-千光寺とその周辺の足跡-」(2013年1月12日(土)~4月7日(日)本館特別5室)を開催します。
2012年9月6日(木)に報道発表会を行いました。
主催者より当館の島谷弘幸副館長と、今回この展覧会で多大なご協力をいただいている千光寺・大下大圓ご住職よりご挨拶申し上げました。
左:島谷副館長 右: 千光寺・大下大圓ご住職
そして、この展覧会の担当をしている浅見龍介東洋室長より出品作品の見どころをご説明しました。
表面・裏面の彫り方など作品1点1点詳しくご説明しました
当館では、円空の作った仏像いわゆる「円空仏」が展覧会で出品されたことは過去にもありましたが、
飛騨の円空仏を一堂に展示するのは今回が初めてのことです。
それでは、作品の一部をご紹介します。
まず展覧会の目玉の一つであり、ポスター・チラシにも登場する、「両面宿儺坐像」。
「両面宿儺」とは1つの胴体に2つの顔、4本の手足を持つとされる『日本書紀』に登場する飛騨の怪物です。
『日本書紀』は、大和朝廷が編纂した記録なので、朝廷に従わない飛騨の豪族を象徴的に「両面宿儺」としたのかもしれません。
しかし、千光寺ではいつの頃か「両面宿儺」を開山とする伝承が生まれ、円空が千光寺滞在中にその像を造ることになりました。
当館で開催しました2006年特別展「仏像 一木にこめられた祈り」と2008年特別展「対決 巨匠たちの日本美術」では、様々な作品とともに円空仏も展示しました。
この時、「両面宿儺坐像」も展示候補でしたが、その願いはかないませんでした。
大変貴重な機会です。
両面宿儺坐像(りょうめんすくなざぞう)
江戸時代・17世紀 総高86.9cm 千光寺蔵
素朴さと愛らしい表情のこちらは「三十三観音立像」。
33体あったはずですが、現在31体しか残されていないのは近隣の人々に貸し出して戻って来なかったとのことです。
三十三観音立像(さんじゅうさんかんのんりゅうぞう)
江戸時代・17世紀 総高61.0cm~82.0cm 千光寺蔵
そして、この優しい表情と、少し横にもたれている姿の作品は「柿本人麿坐像」。
柿本人麿坐像(かきのもとのひとまろざぞう)
江戸時代・17世紀 総高50.2cm 東山神明神社蔵
右手を頬にあて微笑んでいる姿の「如意輪観音菩薩坐像」。
如意輪観音菩薩坐像
江戸時代・17世紀 総高74.8cm 東山白山神社蔵
一木作りが多い円空仏の中で、脇手が別材で作られた「千手観音菩薩立像」。
千手観音菩薩立像
江戸時代・17世紀 総高114.3cm 清峰寺蔵
円空は5cmにも満たないものから2mを超えるものまで様々な仏像を作っています。
一般に可愛らしく、素朴で親しみやすいと言われることが多い円空仏ですが、力強さや木への信仰も感じられ造形も魅力的です。
展覧会では、これまで円空仏を見たことがある方も初めての方にも、
様々な視点から見ていただき、多彩な造形とともに、温かみも感じていただけばと思います。
こちらでご紹介した以外にもまだまだ見どころ満載の円空仏がたくさん出品されますので今後もこのブログでご紹介していきます。
どうぞお楽しみに!
カテゴリ:彫刻、2013年度の特別展
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posted by 江原 香(広報室) at 2012年09月08日 (土)
東京国立博物館140周年特集陳列「広田不孤斎の茶道具」(本館4室、2012年9月4日(火) ~ 11月25日(日))では、 不孤斎(ふっこさい)広田松繁氏より御寄贈を受けた茶道具を展示いたします。
広田松繁氏は明治30年(1897)に「おわら風の盆」で有名な富山県八尾町(現富山市)に生まれました。幼時に父親と死別したことから、明治42年(1909)に12歳の若さで古美術商に奉公に出ます。関東大震災ののち、大正13年(1924)、27歳の時に盟友南天子西山保とともに壺中居(こちゅうきょ)を設立しました。
その当時、中国洛陽近郊の鉄道工事をきっかけにその存在が知られるようになった唐三彩などの出土陶器や、清末の混乱期に流出した明、清時代の官窯器などが古美術市場にあらわれるようになりました。これにともない、客観的な美的鑑賞の視点から、茶道具となっていない中国陶磁や朝鮮、日本陶磁を研究し、鑑賞の対象とする動きがあらわれました。いわゆる鑑賞陶器です。広田松繁氏は大正末期から終戦までの間にたびたび中国を訪れて古陶磁を買い付け、岩崎小弥太、細川護立、横河民輔といった大コレクターに納めました。
広田松繁氏は昭和22年(1947)に5件、昭和42年(1967)に1件、そして逝去の前年の昭和47年(1972)にコレクションのほぼ全て、490件を東京国立博物館に御寄贈されました。その主体が大正末年以降に請来された中国陶磁であるのは、氏の歩いた道に由来しています。
晩年壺中居を隠退して相談役となり、不孤斎と号するようになってからは、鎌倉の自宅に茶室を設け、茶の湯に親しんでいました。そのため、広田コレクションには墨跡や古筆の床の間の軸をはじめ、水指、茶杓、茶入、茶器、茶碗、向付、鉢、その他高麗物、和物の優れた茶道具が少なくありません。それらは伝来、由来に頼ったものではなく、古美術商らしい厳しく研ぎ澄まされた鑑識眼が貫かれています。彫三島茶碗 銘木村(写真1)は、これほどの茶碗を手に入れることができたとして、不孤斎が茶を点てて先祖の墓前に供えたというエピソードがあります。また、豆彩束蓮文水指(写真2)は清朝雍正官窯の名品に塗り蓋を添えて水指としたもので、不孤斎ならではの大胆な見立てです。また、数々の名品ばかりでなく、小品にも見どころのあるものが多いのが広田コレクションの大きな特色です。青磁杯(写真3)は南宋時代の官窯の青磁ではないかといわれた逸品。小品ながら存在感があります。
左から、
(1) 彫三島茶碗 銘 木村 朝鮮 朝鮮時代・16~17世紀
(2) 豆彩束蓮文水指 景徳鎮窯 中国 清時代・雍正年間(1723~35年)
(3) 青磁杯 中国 南宋~元時代・13~14世紀
いずれも広田松繁氏寄贈
近代を代表する古美術商の鑑識眼を経て形成されたコレクションから、近代の数寄者の眼を感じ取ってみてください。
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posted by 今井敦(博物館教育課長) at 2012年09月07日 (金)
書を見るのは楽しいです。
より多くのみなさんに書を見る楽しさを知ってもらいたい、という願いを込めて、この「書を楽しむ」シリーズ、第21回です。
いま、本館3室(仏教の美術―平安~室町)で料紙装飾の美しい写経が並んでいます。
その中で、国宝「竹生島経」(ちくぶじまきょう) をご紹介します。
国宝 法華経 方便品 (竹生島経) 平安時代・11世紀 (2012年10月8日(月・祝)まで、本館3室にて展示)
花や鳥が大きく描かれた料紙が目を引きます!
「竹生島経」は『法華経』の方便品(ほうべんぼん)で、
琵琶湖にある竹生島に伝わったことから、
この名前で呼ばれています。
平安時代、末法(まっぽう)の世が1052年に来ると恐れられて
『法華経』信仰が高まりました。
貴族たちは、『法華経』の写経をするとともに、
その料紙を美しく飾り始めます。
それを装飾経と呼びます。
「竹生島経」は装飾や書風から、11世紀初めの作品と推定され、
素紙(なにも装飾のない紙)に大ぶりの文様が描かれていて
素朴な風合いです。
このあと、装飾経は、料紙を染めて金銀箔を撒くなど、
どんどんきらびやかになります。
「竹生島経」の文字を、
奈良時代に書かれた「大聖武」(おおじょうむ)と比較してみました。
左:国宝 法華経 方便品 (竹生島経) 平安時代・11世紀 より
右:賢愚経 巻第三 断簡 (大聖武) 伝聖武天皇筆 奈良時代・8世紀(展示未定)より
右側、奈良時代の「言」と比べると、
左側、「竹生島経」の「言」は、口の角がやわらかく曲がっています。
右側、「大聖武」は、ニンベンなど、ぎゅっと力強くとまっています。
左側、「竹生島経」は、柔和な感じの線です。
「竹生島経」のやわらかく、おだやかな感じの書は、
「和様」(わよう)の書です。
「和様」は、「三跡」(平安時代中期の著名な三人の能書) である
小野道風(894~966)、藤原佐理(944~998)、藤原行成(972~1027)らによって
確立した、日本独自の書風です。
写経は、どれも同じような端正な字で書かれていると
見過ごしてしまうかもしれませんが、
じっくり文字を見てみると、違いが見えてきて面白く、楽しめます。
初心に戻って、
書を楽しむブログ第1回で紹介しましたが、
いろいろな写経の中から、自分の名前を探して、
比較してみてください。
美しい料紙も堪能しながら。
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posted by 恵美千鶴子(書跡・歴史室) at 2012年09月05日 (水)