あかりをつけましょ ぼんぼりに~
お花をあげましょ 桃の花~♪
去る2月20日(土)、トーハクではファミリーワークショップ「ひいな遊び―立雛を作ろう!―」が開かれました。雛祭りを前にして、自分オリジナルの立雛を作ってみようという企画です。午前中は親子を対象に、午後は大人だけを対象にして2回開催致しました。
おひなさまというと、初節句にお店で買ってくるイメージですが、江戸から明治にかけては紙や織物で立雛を作ることが女の子の間で行われていました。自分より年少の子供に遊び道具としてお人形を作り与えることは、お裁縫の稽古にもなったことでしょう。
そもそも雛祭りの源流のひとつは、平安貴族の子どもたちが行った「ひいな遊び」に遡ります。これはミニチュアの建物や家具、そして人形を使ったオママゴトであったと考えられます。やがて時代はくだり、江戸時代の初期になると男雛・女雛のおひなさまを女の子のため3月3日に飾る風習が生まれます。
初期のおひなさまは立雛とよばれる男女一対の紙人形で、今回モデルとした「古式立雛」(江戸時代・17~18世紀)もその一つです。ペラペラの薄い作りで立たせることが難しく、手に持って遊ぶ「ひいな遊び」の流れを受けたものでした。素朴な人形であるだけに、遊びを通じた人形と子どもの本来的なありかたを伝えています。
古式立雛 江戸時代・17~18世紀
特集「おひなさまと日本の人形」(2016年3月1日(火)~4月10日(日)、本館14室)にて展示
ワークショップは好きな色の厚紙を選んでもらうところから始まりました。この厚紙に3種類の版をつかって模様を摺り、切ったり折ったりして胴体を作っていきます。
教育普及室の室員とボランティアさんをスタッフとして、立雛製作を事前練習した成果をアドバイスに活かしつつ、みなさんおしゃべりも楽しみながらワイワイ製作しました。
胴体製作で特に難しいのが男雛の袴作り。スーツにビシッと入った折目はカッコイイものですが、同じように袴にも折目を入れ、男らしさを演出します。袴の折り方は言葉で説明しづらく、みなさん見本をみながら悪戦苦闘でした。
そして何といっても一番の難関は頭(かしら)作りです。今回のワークショップでは120度の熱で焼き固める粘土を使ったのですが、焼くのに30分かかるため、頭の形は10分ほどで仕上げて頂きました。講師の私に急き立てられながら、大焦りでの製作です。
そして頭の色塗り。あらかじめ白色で下地を塗った上から、髪や目鼻を描いていきます。お顔を描くのは一発勝負であるなか、「お人形は顔が命!」とプレッシャーをかけられ、これも10分ほどで仕上げていただきました。なにせ2時間のワークショップで模様の刷りから胴体の組み立て、頭作りまでするから大変です。
最後に完成した立雛を緋毛氈のうえに一同に並べて鑑賞会。同じ方法で作ったお人形ですが、色の組み合わせや表情に強く個性があらわれ、世界にひとつの可愛らしい立雛が生まれました。みなさんとても楽しそうに製作を進められ、企画した側としても大満足のワークショップでした。
後片付けも終わり、早速できあがった立雛を小さな自宅に持って帰って、神棚の前に飾ってみました。気の強そうな女雛は妻に似ているような・・・、といって怒られた私です。もうすぐ雛祭りですね~♪
*東京国立博物館本館14室では3月1日(火)ら4月10日(日)の会期で特集「おひなさまと日本の人形」が開かれます。また今回、展示に合わせ『東京国立博物館セレクション おひなさまと日本の人形』が出版されました。みなさまのご来場を心よりお待ち申し上げます。
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posted by 三田覚之(教育普及室・工芸室研究員) at 2016年02月24日 (水)
仏像ファンの皆様、お待たせいたしました。
東京国立博物館では、今秋、特別展「平安の秘仏―滋賀・櫟野寺(らくやじ)の大観音とみほとけたち」(9月13日(火)~12月11日(日)、本館特別5室)を開催します。
滋賀県にある櫟野寺(らくやじ)は、重要文化財に指定される20体もの平安時代の仏像がいらっしゃるお寺です。
ご本尊は、像高3mを超すという大きな大きな十一面観音菩薩坐像。
滋賀県は十一面観音の優品が多く、櫟野寺の観音様も仏像ファンの方にはお馴染みかもしれませんね。
この大きな大きな観音様が、お厨子を出て、お寺を出て、トーハクにお出ましになるというのです!
2月15日(月)には、本展の報道発表会を行いました。
本展主催者を代表して、当館副館長の松本伸之(左)と櫟野寺住職の三浦密照(右)よりご挨拶を申し上げました
本展の最大の注目ポイントは、もちろん本尊である重要文化財「十一面観音菩薩坐像」の出陳です。
像高3.12m、台座・光背も含めると総高5.m以上という大きさ!
重要文化財の坐像としては日本最大の十一面観音菩薩です。
重要文化財 十一面観音菩薩坐像
平安時代・10世紀
滋賀・櫟野寺蔵
そんな大きな仏様が果たして会場でどのように展示されるのか、皆様ご期待ください。
しかもこちらのご本尊、普段は公開していない秘仏です。
ご本尊がお寺を離れて公開されるのは、今回が初めて。
ますます期待がふくらみます!
報道発表会では、本展担当研究員・丸山士郎が展覧会の見どころを説明しました。
「展覧会では、ご本尊を横からもご覧いただけます」
※普段は厨子に納められているため、横からのお姿はご覧になれません。
櫟野寺には、ご本尊の他に19体の重要文化財の仏像が伝わります。
像高2mを超える薬師如来坐像をはじめとする平安彫刻の傑作を、一時にご覧いただけることも本展の注目ポイントです。
ちなみに丸山研究員の”推しブツ”は、毘沙門天立像。
重要文化財 毘沙門天立像
平安時代・10~11世紀
滋賀・櫟野寺蔵
目をつり上げ、口をへの字に歪めた表情に親しみを覚えるのだそうで、お気に入りのアングルは横顔なのだとか。
開幕まで半年以上ありますが、会場で横顔チェックをお忘れなく!
報道発表会の出席者には、「櫟野寺オリジナル金の測量野帳」と「手裏剣ティーバッグ」をお持ち帰りいただきました。
櫟野寺オリジナル金の測量野帳(コクヨ株式会社様ご提供)と手裏剣ティーバッグ(一般社団法人 滋賀県茶業会議所様ご提供)
金の測量野帳は展覧会特設ショップで販売する予定なので、ぜひチェックしてください。
また、櫟野寺のある滋賀県甲賀(こうか)市は、県内の生産量の95%以上を占めるお茶の名産地(ショップでの販売は未定)。
お寺の所在地についても知っておくと、仏像の理解も深まるはずです。
展覧会公式サイトでは櫟野寺の紹介動画も公開中。こちらもぜひご覧ください。
今から楽しみな特別展「平安の秘仏―滋賀・櫟野寺(らくやじ)の大観音とみほとけたち」。
20体の仏様のお出ましを、仏像ファン一同、期待してお待ちいたしましょう!
カテゴリ:news、2016年度の特別展
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posted by 高桑那々美(広報室) at 2016年02月18日 (木)
大人気漫画「キングダム」に登場!
特別展「始皇帝と大兵馬俑」の会期は2月21日(日)まで。 いよいよ残り9日間となりました。
おかげさまで毎日たくさんのお客様にご来館いただいております。
会期終了も近づき、混雑により待ち時間の発生も予想されますが、まだの方はぜひご覧いただきたいと思います。
とはいえ、兵馬俑はともかく、他の作品は何だか難しそう、とつい敬遠してしまう方もいらっしゃるのではないでしょうか。
ご安心ください。
展覧会はそれぞれのご関心に従って、自由に楽しんでいただいて結構なのです。
たとえば、大ヒット漫画「キングダム」(原泰久作、集英社『ヤングジャンプ』で連載中)をご存知でしょうか。
中国の戦国時代末期(前3世紀後半)、天下の大将軍になることを夢見る信という少年が、嬴政(えいせい、後の始皇帝)や仲間とともに戦いを通して成長していく壮大な歴史ドラマです。
会場出入り口の平成館1階ロビーでは、「キングダム」のヒーローたちと記念撮影も
この物語の世界は、地域・時代ともまさに本展と重なります。
「キングダム」の読者でしたら、きっと本展の展示品のなかに知っているものを見つけることができます。
本展関連トークイベント「キングダムからみた兵馬俑の世界」(1月20日~22日)の講師・谷豊信の薫陶を受けて、私もこの漫画にすっかり魅せられてしまいました。
ここでは「キングダム」ファンも楽しめるオススメ作品をいくつかご紹介します。
連日大盛況だったトークイベント「キングダムからみた兵馬俑の世界」
【2号銅車馬/どうしゃば】
トップバッターは2号銅車馬です。
2号銅車馬(展示は複製)
(原品)秦時代・前3世紀 西安市臨潼区秦始皇帝陵銅車馬坑出土
秦始皇帝陵博物院蔵
(C)陝西省文物局・陝西省文物交流中心・秦始皇帝陵博物院
「キングダム」1巻で政の側近・昌文君(しょうぶんくん)の乗っていた馬車はこれによく似ています。
政の側近・昌文君の乗っていた馬車
(「キングダム」1巻より)
実際、本展公式サイトに寄せてくださった作者・原泰久さんのコメントによると、連載当初の馬車はこれを元にして描いたそうです。
ですが、スッポンの甲羅のような屋根をもつ4頭立てのこの馬車は、始皇帝陵の中心部分から出土したことと形状から、始皇帝専用の馬車を1/2サイズで忠実に写した模型であると考えられています。
先導車だった1号銅車馬とあわせて計6千もの青銅製パーツで構成され、表面には余すところなく色が塗られ、金銀の車馬具で華やかに飾り立てられています。
【弩弓/どきゅう】
兵馬俑は実在した始皇帝の軍団を丸ごと細部まで忠実に写した陶製の群像であると考えられています。
もともと様々な武器を手にしていましたが、柄や盾といった木や革を材質としたものはほとんど土の中で朽ちてしまい、残っていません。
それでも槍先や剣身など青銅でできたパーツがたくさん兵馬俑の足元から出土しており、兵馬俑の装備が本来どのようなものだったのか窺い知ることができます。
そのひとつが、弩弓と呼ばれる武器です。
弩弓(複製)
(原品)秦時代・前3世紀 西安市臨潼区秦始皇帝陵園出土
秦始皇帝陵博物院蔵
(C)陝西省文物局・陝西省文物交流中心・秦始皇帝陵博物院
木でできた縦長の台の先端に、弓を横倒しに装着する飛び道具で、引金をひくと台のうえに載せた矢が発射される仕組みです。
現代のクロスボウと呼ばれる武器によく似ています。
照準がついているので狙いを定めやすく、通常の弓よりも強力でした。
その威力はいったいどれほどだったのでしょう。
「キングダム」に描かれた弩弓による戦闘シーンは、そんな想像を掻き立てます。
超大型の弩弓を装備した魏国の部隊
(「キングダム」28巻より)
ちなみに、さきほどの2号銅車馬といっしょに出土した1号銅車馬の輿正面にも、弩弓が懸けられています。
会場でぜひ探してみてください。
【封泥/ふうでい】
「キングダム」のある場面で重要な書類に施した封が出てきます。
重要な書類の巻物に施された封泥
(「キングダム」38巻より)
巻いた書類のヒモなどに泥を貼りつけ、送り主はそのうえに捺印します。
しばらく経つと泥が乾いて固まります。
この泥を割らなければ、なかの書類を読むことはできません。
これは途中で何者かが封を解いて盗み見たり改変することを防ぐためのもので、「封泥」といいます。
現在でも欧米では封筒の裏にロウを塗って封をすることがありますが、封泥も似たようなものでした。
秦時代の封泥の使用法(推定)
さらに、封泥の表面に捺された印面を見れば、送り主が誰で、書類が本物か偽物かを知ることができました。
特別展「始皇帝と大兵馬俑」には合計4個の封泥が展示されています。
「キングダム」に登場する人物の印が捺されているものは残念ながらありません。
しかし、そのなかでもっとも「キングダム」に近いといえるのが、「郎中丞印」の4文字をもつ封泥でしょう。
「郎中丞印」封泥
戦国~秦時代・前3世紀 西安市未央区相家巷出土
西安博物院蔵
(C)陝西省文物局・陝西省文物交流中心
郎中丞は皇帝親衛隊の副隊長に相当する官職です。
始皇帝亡き後、親衛隊隊長の「郎中令」について宮廷政治の実権を握ったのが、「キングダム」にも登場する宦官(かんがん)の趙高でした。
この封泥に捺印した郎中丞は、もしかしたら趙高を支える副官だったのかも知れません。
【将軍俑/しょうぐんよう】
最後はやっぱり兵馬俑にも触れないわけには参りません。
いまのところ、「キングダム」に兵馬俑とまったく同じ顔の人物は登場していません。
けれども、もしかしたら「キングダム」の終盤になると、主人公の信が将軍俑に似てくる可能性があります。
「キングダム」の主人公・信
将軍俑
秦時代・前3世紀 西安市臨潼区秦始皇帝陵1号兵馬俑坑出土
秦始皇帝陵博物院蔵
といいますのも、原泰久さんが本展公式サイトに寄せてくださったコメントでこのようなことをおっしゃっています。
「将軍俑は信が将軍になったときにもう一度見直そうと思います。将軍ってこうなのかと思わせる表情やたたずまいは参考になるはずです。」
将軍俑とは、兵馬俑のモデルとなった軍団の司令官であると考えられます。
地位の高い者しか着用の許されなかった形状の冠や鎧を身につけ、不敵な笑みを浮かべた表情は威厳と自信に満ちています。
この風格から「キングダム」のヒーロー・信の将来の風貌に想像をめぐらすのも、また一興でしょう。
カテゴリ:研究員のイチオシ、2015年度の特別展
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posted by 川村佳男(平常展調整室主任研究員) at 2016年02月12日 (金)
カテゴリ:news、2015年度の特別展
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posted by 高桑那々美(広報室) at 2016年02月10日 (水)
東京国立博物館には、歴史的な価値の高い写真のコレクションがいくつもあります。
徳川家が去った後の江戸城の最後の姿を写した「旧江戸城写真帖」、近代日本最初の文化財調査の記録「壬申検査写真」、文化財保護の基礎を築いた「臨時全国宝物取調写真」、北京・紫禁城の深奥を捉えた「北京城写真帖」などです。
このような当館の古写真コレクションに、新たに貴重な一群が加わりました。それが今回特集で展示中の「中国史跡写真」(2016年1月2日(土)~ 2016年2月28日(日)、本館15室)です。写真カードで約4500枚にのぼるこの写真は、関野貞(1867~1935)と竹島卓一(1902~1992)という二人の東洋建築史学者の長年にわたる調査の成果です。
関野は東洋建築史研究を代表する学者の一人で、若い頃は奈良で古寺の調査と修理に従事するとともに、平城宮跡の位置を確定しました。東京帝国大学教授となった明治時代の後半からは朝鮮半島と中国大陸を踏査し、各地の古建築や史跡の意義を明らかにしました。関野が東大を退官した後、新設された研究機関、東方文化学院東京研究所の事業として構想したのが、中国歴代王朝の皇帝陵と遼・金王朝時代の建築の調査です。昭和5年(1930)に始まった関野の調査に助手として随行したのが竹島でした。二人は江南から調査を始めて北上し華北に至りますが、昭和10年に関野は急逝しました。その遺志を受けた竹島が調査を継続しますが、昭和12年には応召して戦地に赴くこととなり、調査は中絶します。
主に竹島が撮影した史跡・建築の写真は研究書『熱河』『遼金時代の建築と其仏像』の素材となるとともに、原板と焼付の一式が東方文化学院に納められました。しかし竹島は納入した写真以外に自分で撮っていたものも含めて、第二次大戦後も一人で焼付写真の整理を続けていました。竹島は戦後、名古屋工業大学教授として教壇に立つかたわら、東洋古建築に関する学識を見込まれて、火災で損傷した法隆寺金堂の保存工事事務所長を務め、その再建に尽力しました。また若い頃から研究していた宋代の建築書『営造法式』の研究によって、昭和48年には学士院賞・恩賜賞を授賞しています。
左:霊隠寺大殿前東塔 大正7年(1918) 竹島卓一氏寄贈
右:明成祖長陵 石人(文臣) 竹島卓一撮影 昭和6年(1931) 竹島卓一氏寄贈
竹島が整理を続けていた写真はその没後、ご息女が手元に留めて、やはりこつこつと目録を作っておられました。そしてご息女がたまたま当館で、関紀子(当館アソシエイトフェロー)が担当した古写真の特集陳列「清朝末期の光景」(2010年)をごらんになったことから、私たちとのご縁ができたのです。寄贈を受けた写真については、東方文化学院の資料を引き継いだ東京大学東洋文化研究所の平勢隆郎教授のご理解によって、東大所蔵分の写真との突合せとそれに基いた学術的な目録の刊行を果たすことができました。『東方文化学院旧蔵建築写真目録』(2014年)と『東京国立博物館旧蔵「中国史跡写真」目録』(2015年、いずれも東京大学東洋文化研究所から刊行)の2冊です。細かい確認点の多い調査には関と三輪紫都香(当館アソシエイトフェロー)が従事しましたが、竹島家二代にわたる整理がなければ、このように短い期間で成果をまとめることはできなかったでしょう。
今回の展示で紹介した写真は、「中国史跡写真」のごく一部です。関野が最初に撮影した写真は大正7年(1918)のものですから、およそ100年を経て皆さんの前に姿を見せたことになります。私たちも写真の保存と整理に尽くされた方々に常に思いを馳せながら、その継承と公開を図ってゆきたいと思います。(文中敬称略)
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posted by 田良島哲(博物館情報課長) at 2016年02月09日 (火)