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1089ブログ

舎利を祀る塔

2月15日は何の日でしょう。バレンタイン・デーの次の日?
かつて多くの男子が落涙した日かもしれませんが、大昔違う涙の流れた日です。
それは仏教を開いた釈迦の命日。

今からおよそ2,400年前(一説に2,500年前)に、インドのクシナガラというところのガンジス川の支流の畔、沙羅双樹(さらそうじゅ)の間で、北を枕にして人間・ゴータマ・シッダールタは80年の生涯を閉じました。その様子は「仏涅槃図(ぶつねはんず)」(図1)に描き継がれており、釈迦の死を悼んで泣き咽(むせ)ぶ弟子や信徒、動物の姿が描かれています。旧暦の15日のことなので、空には満月が輝き、皓々(こうこう)と釈迦の亡骸を照らしています。その後釈迦は荼毘(だび)に付されました。


(図1)重要文化財 仏涅槃図(ぶつねはんず) 
平安時代・12世紀
本館3室「仏教の美術―平安~室町」にて2月18日(日)まで展示


因みに、釈迦の死は多くの物語を伴っており、金色の棺に納められ、天から死を悼んで降りてきた母・摩耶夫人(まやぶにん)に対し、甦って説法をした話(金棺出現)や、火葬後に残った遺骨を、釈迦を慕う八つの部族が分け合って塔に祀(まつ)ったという話(分舎利)などが知られています。金色の棺に北枕というと、現在本館1階特別5室で開催中の特別展「中尊寺金色堂」にて展示されている藤原清衡(ふじわらのきよひら、1056~1128)の「金箔押木棺(きんぱくおしもっかん)」(重要文化財)の事例を思い出します。金色に輝く棺(図2)。何か関係があるのでしょうか。



(図2)重要文化財 金箔押木棺 
平安時代・12世紀 岩手・中尊寺金色院蔵
建立900年 特別展「中尊寺金色堂」(~4月14日(日))にて展示

それはさておき、先に述べたように、釈迦の遺骨は舎利と呼ばれて大切にされ、信徒によって分けられ、塔に祀られたとされています。舎利というと、お寿司のお米の部分が思い浮かぶかもしれませんが、形が似ていることに加え、お米が一粒一粒に至るまで大切にされたことから、そう呼ばれるようになったのではないでしょうか。

舎利を祀る塔は、インドに端を発し、中央アジア、中国、朝鮮半島を経て、飛鳥時代には日本に伝わりました。
『日本書紀』には、敏達天皇十三年(584)に渡来人の司馬達等(しばたっと)が食器の中に舎利を発見し、これを献上された蘇我馬子(そがのうまこ、?~626)が塔を建立(こんりゅう)して祀ったことが記されています。
私も子供の頃にご飯を食べていて、石のようなものに出くわしたことがありますが、捨ててしまいました。今思えばあれは舎利だったのかもしれません。残念。
その後蘇我馬子によって建立された法興寺(飛鳥寺)にも百済(くだら)からもたらされた舎利が塔の心礎に納められました。この辺りが我が国の舎利信仰の始まりです。

舎利は司馬達等のように急に出現することもありましたが、インドが本場なので、より本場に近いところで入手されたものが由緒あるものとしてありがたがられました。
高名なのは、戒律の作法を伝えた中国の僧・鑑真(がんじん)和上(687~763)がもたらした奈良・唐招提寺の舎利3,000粒と、弘法大師空海(774~835)が、大同元年(806)に唐から帰国した際にもたらした京都・東寺の舎利80粒です。
いずれも中国直伝の品で、インド(天竺)がどうしたら行けるのかわからないような遙かな憧れでしかなかった時代に、由緒正しい舎利として革命的に尊崇されたことと思われます。唐招提寺の舎利は金亀舎利塔(きんきしゃりとう)に、東寺の舎利は金銅舎利塔(こんどうしゃりとう)に、今も大切に祀られています。

鎌倉時代に入ると、平安時代の末に源平合戦の煽(あお)りで焦土と化した奈良で寺院の復興が本格化し、それとともに仏教の原点である釈迦に回帰しようという考えが盛んになりました。そのため舎利が尊崇され、これを安置する多くの舎利容器が作られ、礼拝(らいはい)されるようになりました。現在多くの作例が残るのは、鎌倉時代以降になります。そして舎利への信仰はその後も続き、江戸時代に至るまで多くの舎利容器が作られています。

そうした中で、舎利を塔に納める作法は、その後小さな塔を作ってそこに納めたり、塔自体を舎利に見立てて礼拝するようになっていったようです。
本館14室で開催中の特集「塔と厨子(ずし)」(1月16日(火)~2月25日(日))にはそうした舎利を祀る塔を展示しています。

薬師寺に伝わる「金銅舎利塔(こんどうしゃりとう)」(図3)は江戸時代の作で、宝塔の中に舎利を納めた火焔宝珠形(かえんほうじゅがた)の容器を納めています。塔と舎利との関係性を伝える一例です。なお、この舎利塔には扉に四天王を描いた厨子が伴っていて、舎利=釈迦を仏教の守護神がしっかりと護るように作られています。


(図3)金銅舎利塔 
江戸時代・17世紀 奈良・薬師寺蔵


塔の中でも、平安時代の後半に密教の教えによって創造された五輪塔(世界を構成する五大要素である地・水・火・風・空を形にしたもの)は多くの遺例があります。五輪塔形舎利容器では、下から2段目の円い水輪に舎利を納めるものが多く作られました。「金銅装水晶五輪塔形舎利容器(こんどうそうすいしょうごりんとうがたしゃりようき)」(図4)では、水晶製の容器の中に舎利が納められているのが見えます。


(図4)金銅装水晶五輪塔形舎利容器 
室町時代・15世紀


また「水晶五輪塔(すいしょうごりんとう)」(図5)は高さ4センチメートルほどの小さな塔ですが、水輪に舎利が納められるようになっています。八角形のこうした小塔は、真言宗の一派である真言律宗を開いた奈良・西大寺の僧・叡尊(えいそん、1201~90)の教えが反映した可能性が指摘されています。


(図5)水晶五輪塔 
静岡県沼津市本出土 鎌倉時代・13世紀


密教の祈祷に用いられる五種鈴(独鈷鈴、三鈷鈴、五鈷鈴、宝珠鈴、宝塔鈴の5点)という組の法具があります。その中でも中心的な役割をなす宝塔鈴には舎利が納められることがありました。「金銅塔鈴(こんどうとうれい)」(図6・7)はそうした一例で、先端の塔の部分が外れるようになっています。ここに舎利を納めて祈祷を行ったと考えられます。

 

(図6)金銅塔鈴 
鎌倉時代・13世紀(E-19885)
(図7)金銅塔鈴(E-19885) 
塔を外した姿

 

少し変わったところでは、密教で用いられた能作生塔(のうさしょうとう)があります。中世日本の密教では、願いを叶える不思議な力を持つ玉である宝珠(ほうじゅ)と舎利とが同じものであると考えられたため、宝珠を通じて舎利が信仰されました。能作生珠という香木などを漆で練って作った魔法の玉を納めた能作生塔の代表的な遺例である奈良・長福寺の国宝「金銅能作生塔(こんどうのうさしょうとう)」(図8)は、インドで舎利容器として用いられたという水瓶(すいびょう)の形をしています。
真ん中の円い部分が上下に開閉できるようになっていて、ここに魔法の玉(これは絶対に見てはならない!)を入れて礼拝したと考えられます。上端には宝珠があしらわれ、一層神秘な趣を掻き立てています。


(図8)国宝 金銅能作生塔 
鎌倉時代・13世紀 奈良・長福寺蔵


能作生塔のような特殊なものがある一方、籾塔(もみとう)といって、木製の小塔に籾を入れて祀った塔もあります。作るのに手間や費用がかからないので、庶民も含めて大量に作られ、お寺の堂内などに安置されました。「穀塔(もみとう)」(図9)はその一例で、底の裏に籾が入れられるようになっています。籾は脱穀する前の殻の付いたお米のこと。お米を舎利ということと、こんなところで結びついているのかもしれません。


(図9)穀塔 
鎌倉時代・13~14世紀 植原銃郎氏寄贈


さて、舎利塔は日本だけでもかなりたくさん作られていますが、舎利はそんなにたくさんあったのでしょうか。
これは難しい問題ですが、例えば東寺の舎利は、数えてみると知らないうちに増えている(減っている)ことが『東宝記』という南北朝時代の東寺の歴史を記した書物に書いてあります。世の中が平和だと舎利は増えるのだとか。
舎利がどんどん増えるような世の中が続けばいいのにと改めて思いました。


本館14室 特集「塔と厨子(ずし)」の展示風景

 

カテゴリ:特集・特別公開工芸

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posted by 清水健(工芸室) at 2024年02月14日 (水)

 

迦陵頻伽と孔雀と宝相華

コロナ禍の真っ最中、身内に不幸があり、やむなく中部地方の郡部にある実家に帰省しました。セレモニーが終わると親類もそそくさと帰途につき、どこか出掛けるような状況でもなく(ちょっと当時を思い出してみて下さい)、ずっと庭を眺めていました。初春のことで梅が咲いており、鳥が飛んでいます。いい年齢になったせいか、花鳥画というのはこういう世界を描こうとしたのだなと思いました。

その花鳥画は、花が咲き鳥が歌う浄土を描こうとしたのではないかと思います。四季の明確な東アジアには、四季折々の花に鳥を合わせた四季花鳥図というものがありますが、浄土は四季が揃っているともいわれており、浄土を表したとする解釈も頷けます。あるいは、仏教的な浄土は、仏教の興ったのはインドですから、熱帯の色鮮やかな花々と極彩色の鳥のイメージが思い浮かびます。いずれにしろ、花と鳥は、風物でもありますが、楽園のイメージを強く喚起するものといえます。
 
その浄土のうち、最も高名な阿弥陀如来の住する西方・極楽浄土を顕したとされるのが、中尊寺金色堂です。金色堂の荘厳(しょうごん)には迦陵頻伽(かりょうびんが)と孔雀(くじゃく)と宝相華(ほうそうげ)が溢れています。それはなぜでしょうか。
 
図1 国宝 金銅迦陵頻伽文華鬘 平安時代・12世紀 岩手・中尊寺金色院蔵
建立900年 特別展「中尊寺金色堂」通期展示(2024年4月14日(日)まで) 
 
図2 国宝 迦陵頻伽文露盤羽目板 平安時代・12世紀 岩手・中尊寺大長寿院蔵
建立900年 特別展「中尊寺金色堂」通期展示(2024年4月14日(日)まで)
 
迦陵頻伽は上半身が人、下半身が鳥という空想上の生き物で、極楽浄土に住み、妙音を発して鳴くといわれています。現存遺っているものでは、金色堂で使われたと伝わる金銅華鬘(こんどうけまん)【図1】に羽を広げて佇(たたず)む優美な姿を見ることができます。また、金色堂の屋根の上にある方形の露盤(ろばん)に使われていたともいわれる羽目板(はめいた)【図2】にも、その姿があります。迦陵頻伽はインドで創出されたと考えられ、中央アジア、中国、朝鮮半島を通じて日本へも奈良時代には伝えられていました。その姿は正倉院宝物や極楽浄土を描いた当麻曼荼羅(たいままんだら)【図3・4・7は江戸時代の模写】にも描かれています。
 
 
図3 当麻曼荼羅図 神田宗庭隆信筆 江戸時代・天保7年(1836)
下野三悦坊伝来 喜多川儀久氏寄贈 東京国立博物館蔵
※本作品は展示しておりません 
 
図4 図3当麻曼荼羅図に描かれた迦陵頻伽
 
迦陵頻伽はさすがに実在しませんが、孔雀は実際にインドや東南アジアに生息する鳥で、尾羽を覆う上尾筒(じょうびとう)を扇形に開いた様が特に美しく印象的です。孔雀も迦陵頻伽と同じく、極楽浄土について述べた『阿弥陀経』という経典に、極楽に住む鳥として記されています。孔雀も妙音を発するとされ、まさに「鳥は歌う」が極楽の要素として重要であったと考えられます。孔雀は金色堂の須弥壇(しゅみだん)の格狭間(こうざま)【図5】にそれぞれ配置されており、また法要の最中に打って鳴らす道具である磬(けい)【図6】や僧侶(そうりょ)の座る礼盤(らいばん)にも表されています。先に述べた露盤の羽目板も、4面のうち正面と思われる1面は迦陵頻伽ですが、残りの3面は孔雀が表されています。孔雀も奈良時代には日本に伝えられており、正倉院宝物の刺繡の幡(ばん)や当麻曼荼羅【図3・7】にも登場します。孔雀は藤原道長(966~1027)が飼っていたという記事が、日記である『御堂関白記(みどうかんぱくき)』にあり、日本美術では象などに比べると遥かにリアルに表されています。
 
図5 金色堂中央壇格狭間の孔雀
 
図6 国宝 磬架・金銅孔雀文磬のうち金銅孔雀文磬 平安時代・12世紀 岩手・中尊寺金色院蔵
建立900年 特別展「中尊寺金色堂」後期展示(展示期間:2024年3月5日(火)~4月14日(日))
 
図7 図3当麻曼荼羅図に描かれた孔雀
 
宝相華は、牡丹などをベースにして想像された空想上の花です。中国で唐代に成立した豪華な花文様である唐花文様(からはなもんよう)を仏教化したもので、主に唐草(からくさ)と組み合わせられて用いられました。金銅華鬘【図1】の地に透かし彫りで表されているのが宝相華唐草です。礼盤の金具や螺鈿平塵案(らでんへいじんあん)の金具【図8、螺鈿の宝相華は残念ながら剥落】、そして須弥壇の格狭間の孔雀の傍(かたわ)らにも珍しい株立ちの宝相華【図5】が表されています。さらに全体を見渡すと、須弥壇の上から下まで、それから四方に立つ柱は、螺鈿や蒔絵(まきえ)の宝相華で隙間もないほどに荘厳されており【図9】、果ては仏像の光背(こうはい)、台座、天蓋(てんがい)に至るまでもが宝相華に覆われており、花が咲き乱れる様子が表現されています。極楽を観想(心に思い浮かべること)する方法を説く『観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)』には、七つの宝石(瑠璃・玻璃・瑪瑙・硨磲(しゃこ)・真珠・珊瑚・琥珀の七宝)から成る花や実をつけた光り輝く巨大な宝樹について述べられており、『阿弥陀経』にもこのような宝樹や、青・赤・黄・白、そしてこれらが混じった色の巨大な蓮華が池に咲く様子が説かれています。「花は咲き」も極楽の構成要素として大変重要であったといえるでしょう。
 
図8 国宝 螺鈿平塵案 平安時代・12世紀 岩手・中尊寺金色院蔵
建立900年 特別展「中尊寺金色堂」後期展示(展示期間:2024年3月5日(火)~4月14日(日)) 
 
図9 中尊寺金色堂中央壇
 
このように、極楽浄土の教主である阿弥陀如来を主尊とする金色堂は、間違いなく花が咲き鳥が歌う極楽浄土を再現したものといえるでしょう。光堂(ひかりどう)とも呼ばれる金色堂の荘厳は、無量光仏(むりょうこうぶつ)(限りない光の仏)とも呼ばれる阿弥陀の光を象徴しているといえるのです。
 
ところで、当麻曼荼羅では、上空に迦陵頻伽が飛び、地上の蓮池の畔(ほとり)に孔雀が描かれていました。金色堂でも迦陵頻伽は長押(なげし)などに懸ける華鬘に、孔雀は須弥壇や礼盤などの下の方に配置されています。孔雀は高くは飛べない鳥です。そうした属性が意匠として使われる際にも考慮されているのかもしれません。 
 
ぜひ、建立900年 特別展「中尊寺金色堂」に足をお運びいただき、金色堂の荘厳にあしらわれた迦陵頻伽や孔雀、宝相華を探してみてください。
 

カテゴリ:工芸「中尊寺金色堂」

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posted by 清水健(工芸室) at 2024年02月09日 (金)

 

和鏡の文様を愉しむ

1089ブログ「和鏡への道のり」では和鏡の成り立ちと特色についてお話しさせていただきました。
今回は、和鏡の文様についてもう少し詳しくご紹介いたします。

特集「羽黒鏡―霊山に奉納された和鏡の美」展示会場の写真
特集「羽黒鏡―霊山に奉納された和鏡の美
平成館企画展示室にて2023年11月19日(日) まで。


中国・唐の時代の鏡と宋の時代の鏡を掛け合わせて発展させ、日本人の好みに合わせた文様(もんよう)を施すことで平安時代・11世紀後半頃に成立したと考えられるのが和鏡(わきょう)です。
和鏡には今日、日本の伝統意匠として知られるような様々な文様が見られます。和鏡の極致とも称される、山形県鶴岡市の羽黒山(はぐろさん)にある出羽三山神社(でわさんざんじんじゃ)の御手洗池(みたらしいけ)から出土したいわゆる「羽黒鏡(はぐろきょう)」のうちにそれらを探し、和の文様を愉(たの)しみたいと思います。

和の文様の代表格ともいえるのが、「松喰鶴(まつくいづる)」の文様です。松の折枝(おりえだ)を銜(くわ)えた鶴が優雅に舞う文様は、鏡の他に箱や櫃(ひつ)などの調度品にも用いられました。元を辿るとペルシアの咋鳥文(さくちょうもん)が中国・唐に伝わって流行し、奈良時代に日本に伝えられた文様が原形です。正倉院宝物にもよく見られ、含綬鳥(がんじゅちょう)や花喰鳥(はなくいどり)として知られています。これが日本でめでたい鳥とされる鶴に置き換わり、同じくめでたい植物である松を銜えるようになったのが松喰鶴で、代表的な吉祥文様の一つです。

松喰鶴鏡(まつくいづるきょう)に見られるように、和鏡の文様としては、中央の鈕(ちゅう 紐を通すための孔(あな)を開けたつまみ)を挟んで鶴が向かい合い、優雅に旋回する文様が定番で、王朝文化の花開いた平安時代らしい優美な趣に満ちています。


松喰鶴鏡
山形県鶴岡市羽黒山御手洗池出土 平安時代・12世紀(E-15441)
(特集「羽黒鏡―霊山に奉納された和鏡の美」にて2023年11月19日まで展示)


構図の源流には、唐で作られた瑞花双鳳八花鏡(ずいかそうほうはちりょうきょう)や、これらを元に日本で構成された瑞花双鳳八稜鏡がありますが、余分な要素を削ぎ落とし、洗練させた文様構成は、高度な発展を遂げた貴族文化の結晶といえます。


国宝 興福寺鎮壇具 瑞花双鳳八花鏡
奈良市興福寺中金堂須弥壇下出土 唐時代・8世紀(E-14255)
(本館1室にて2023年10月31日から12月3日まで展示)

重要文化財 瑞花双鳳八稜鏡
平安時代・11~12世紀(E-19934)
(展示の予定はありません)



続いてご紹介するのは、本館14室で行われている特集「日本の伝統模様『秋草』」でも取り上げられている秋草の文様です。
秋草は「もののあはれ」を催させる存在として、日本文化に重要な位置を占めてきました。源氏物語絵巻に代表される王朝絵巻でも、登場人物の心象を表すモチーフとして重視されています。秋草は鏡の文様としても頻繁に用いられており、萩や薄(すすき)、秋の七草には入っていませんが菊などがよく見られます。

秋草蝶鳥鏡(あきくさちょうとりきょう)を見てみましょう。
ここでは土坡(どは 土の盛られたところ)あるいは水流の一部のようなところから、左に薄が穂を垂れ、右側では円周に沿って三角形の花房を付けた萩と円形の花弁を広げた菊とが勢いよく伸びています。鈕の左には仲睦まじく飛び交う2羽の鳥が配置されています。これは鈕を挟んで整然と向かい合う構図だったものが崩れ、2羽の鳥という要素が残り、番(つがい)の鳥としてめでたいモチーフに昇華されていったものと思われます。
この鏡には縁の内側に界圏(かいけん)が一条めぐらされていますが、本来文様を構成する上で内区と外区を分けるために施されたはずの界圏の上に鳥や植物が乗っかっており、ほとんど意味をなさなくなっています。しかしながら、よく見ると、外区の左に1頭の蝶、上と右に蜻蛉(せいれい)が表されているのがわかります。これらは唐鏡の外区にしばしば表されていたモチーフで、ここでは古い要素が残されているのが確認されます。
蝶の盛りは春、蜻蛉はカゲロウとみれば夏でしょうか、徒花(あだばな)のように外区に残るこれらの虫は、秋を迎えいよいよ終焉を迎えようとする存在であり、一層、儚(はかな)さやものがなしさを催させるモチーフであったと想像されます。


秋草蝶鳥鏡
山形県鶴岡市羽黒山御手洗池出土 平安時代・12世紀(E-15419)
(特集「羽黒鏡―霊山に奉納された和鏡の美」にて2023年11月19日まで展示)



最後にご紹介するのは、先に見た秋草蝶鳥鏡をさらに展開させたような水辺に生える植物を主題とした文様です。身近な野辺(のべ)の風景を、文様的な意匠化された要素を排し、絵画のように表したこうした文様は、同時代のやまと絵山水に通じるものといえます。この時代のやまと絵の遺例は極めて限られることから、それらを補う存在であるともいっても過言ではないものです。

水辺芦双鷺鏡(みずべあしそうろきょう)は、下方に水流を大きく表し、その周囲に草を配置しています。水流の上流に当たるのでしょうか、右の鳥の足下には岩のようなものも確認されます。岩の右から松が伸びているようで、水景と樹木と岩を備えた山水図のような構成になっていることがわかります。呼び合うような大振りの鷺も存在感があります。また、梅花蝶鳥鏡(ばいかちょうとりきょう)は、鈕の下方を水流が横切り、周囲に草が生えています。鈕を通って華奢(きゃしゃ)な梅の木が表されており、大きく枝を広げています。鳥は梅の枝を避けて配置されているようです。梅を主役にした構図は、シンメトリーやバランスを重視してモチーフを配置する文様的な構成ではなく、絵画的な構成を選択した結果であると思われます。


水辺芦双鷺鏡
山形県鶴岡市羽黒山御手洗池出土 平安時代・12世紀(E-15414)
(特集「羽黒鏡―霊山に奉納された和鏡の美」にて2023年11月19日まで展示)

梅花蝶鳥鏡
山形県鶴岡市羽黒山御手洗池出土 平安時代・12世紀(E-15406)
(特集「羽黒鏡―霊山に奉納された和鏡の美」にて2023年11月19日まで展示)



これらは平安時代の末に作られたと考えられる作例ですが、少し時代がくだって鎌倉時代に作られたと考えられる洲浜萩双鳥鏡(すはまはぎそうちょうきょう)を見てみましょう。こちらでは下方に水辺にできる洲浜が広がり、波のようなものも表されています。そこから大樹のように萩が枝を広げており、それを避けるかのように2羽の鳥が鈕の左に表されています。花が咲き鳥が舞う理想郷を想起させるとともに、樹木状の植物が文様の主役になってきていることがわかります。またその中で、洲浜と水の存在は、「場所」を意識させるものとして、非常に重要と思われます。浮遊する文様が居場所を見つけたといってもよいでしょうか。そこにはある種の「風景」が存在しているのです。


洲浜萩双鳥鏡
山形県鶴岡市羽黒山御手洗池出土 鎌倉時代・13世紀(E-15442)
(特集「羽黒鏡―霊山に奉納された和鏡の美」にて2023年11月19日まで展示)



鎌倉時代から、南北朝時代を経て、室町時代に至るいわゆる中世には、蓬莱鏡(ほうらいきょう)と呼ばれる、東海の理想郷・蓬莱山(ほうらいさん)を表したとされる文様を施した鏡が流行しました。鎌倉時代の作である蓬莱鏡はその典型例で、下方に波と洲浜が広がり、右方には岩と松が存在感を示し、鈕の左には2羽の鶴が洲浜の上に羽を広げています。鈕は亀形となり、岩の下方に配置された亀とともに、鶴亀文様を構成しています。左方の洲浜と右方の岩から伸びた竹は、松とともに松竹文様を構成しており、常に緑を保つ常磐木(ときわぎ)と長寿を象徴する鶴亀とで、蓬莱山を表しています。身近な野辺の景色と思われた山水描写は、年月を経て、理想の世界へと昇華していったと考えられるのです。
蓬莱文様は、江戸時代にも婚礼調度などに盛んに用いられました。古い家ではまだ、蓬莱文様の鏡や柄鏡(えかがみ)が眠っているかもしれません。その源流は平安時代の鏡に見られる水辺の文様へと辿ることができるのです。


蓬莱鏡
鎌倉時代・13世紀(E-19965)
(本館3室にて展示中。2023年12月3日まで)



この他にも、山吹や桜、楓(かえで)などの身近な植物を主題にした文様や網を張ったような文様(網代文<あじろもん>)など、いろいろな文様がありますので、心になじむ和の文様を愉しんでいただければと思います。

ところで、羽黒鏡は、羽黒山にある出羽三山神社の御手洗池から、大正初年から昭和初年にかけて4度にわたって行われた池の工事に伴い発見されたもので、ご神体と考えられた池に、祈願や報賽(ほうさい お礼参り)のために宝物を投げ入れる「投供(とうぐ)」の儀礼によって奉納されたと考えられています。洗練された作風から、平安京で作られたと考えられており、いずれも直径10センチメートル前後と小振りなのは、出羽三山修験(しゅげん)の行者などに託し、運搬しやすいように取り計らわれたためかもしれません。
ここでは紹介できなかったような多種多様な美しい文様が見られるのは、都の貴顕(きけん 身分が高い人)が思い思いに、自分の最も好んだ一面に願いを託したためかもしれません。

 

カテゴリ:特集・特別公開工芸

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posted by 清水健(工芸室) at 2023年10月24日 (火)

 

和鏡(わきょう)への道のり

現在、平成館企画展示室では特集「羽黒鏡―霊山に奉納された和鏡の美」(2023年11月19日まで)を開催しております。同じような大きさの円い鏡ばかりが並んでおりますが、そのみどころについて、1089ブログで2回に分けてご紹介したいと思います。


特集「羽黒鏡―霊山に奉納された和鏡の美」展示会場

 「和服」、「和食」、「和室」、「和風」……、「和」は美称として頭に「大」をつけることもあり(「大和」)、「やまと」すなわち日本を指すことばとしてなじみのあるものです。現在当館で開催中の特別展「やまと絵-受け継がれる王朝の美-」のタイトルにある「やまと絵」も、「大和絵」と記されることもあり、中国絵画の主題や様式を反映した「唐絵(からえ)」や「漢画」に対して、日本的な主題や様式を示す絵画に対して用いられてきたものです。
それでは一般の方にはちょっとなじみの薄い「和鏡」とは、一体どういったものでしょうか。

日本において前近代には鏡は銅(青銅)で作られるのが一般的で、顔を写す面とは反対の面(鏡背<きょうはい>)には様々な装飾が施されました。銅鏡は溶かした銅を型(かた)に入れて作る鋳物(いもの)なので、型に表した文様(もんよう)を鋳出(いだ)して装飾することがよく行われました。中国・漢の時代には幾何学的な文様や観念的な神仙世界の文様が好まれましたが、唐の時代になると、鳥や花といったモチーフが大きく生き生きと鏡背に表されるようになりました。和鏡のルーツはこの唐代の鏡(唐鏡<とうきょう>)に求められます。

唐の鏡は飛鳥から奈良時代に、遣唐使によって日本にもたらされました。奈良にある興福寺の中金堂の地下から発見された瑞花双鳳八花鏡(ずいかそうほうはっかきょう)は唐鏡と考えられるもので、中央にある鈕(ちゅう 紐などを通すためのつまみ)を挟んで左右に鳳凰(ほうおう)が向き合って表され、上下には中国風の花文様が配置されています。
他にも瑞雲双鸞八花鏡(ずいうんそうらんはっかきょう)のように、鈕の左右に鸞(らん)という想像上の鳥が向き合って表され、上下に雲、界圏(かいけん)と呼ばれる円い線の外側(外区)に雲や蝶が配置された鏡もあります。こちらは日本で唐鏡を型にとって作られた(これを「踏み返し」といいます)鏡のようで、コピーを繰り返した画像のように文様がぼやけてきているのが特徴です。
こうした唐代の鏡やこれを模倣した鏡(唐式鏡<とうしききょう>)が和鏡の遠いご先祖様に当たるといえます。


国宝 興福寺鎮壇具 瑞花双鳳八花鏡
奈良市興福寺中金堂須弥壇下出土 中国・唐時代・8世紀(E-14255)
(本館1室にて2023年10月31日から12月3日まで展示)

瑞雲双鸞八花鏡
兵庫県宍粟市山崎町金谷出土 奈良時代・8世紀 柴尾清平氏寄贈(E-14306)
(本館1室にて展示中。2023年10月29日まで)



平安時代になると、踏み返しから脱却し、唐鏡をお手本にした鏡が日本で作られるようになります。平安時代に主流となる瑞花双鳳八稜鏡(ずいかそうほうはちりょうきょう)は、鈕の左右に向かい合う鳳凰、上下に中国風の花文様(瑞花)が表され、外区には花唐草(はなからくさ)の文様がめぐっています。これは基本的には先に見た瑞花双鳳八花鏡と瑞雲双鸞八花鏡の構成を踏襲していますが、中国に例がなく、唐鏡を元にしてこれを翻案し、日本で創出されたと考えられます。


重要文化財 瑞花双鳳八稜鏡
平安時代・11~12世紀(E-19934)

(展示の予定はありません)


また、907年に唐が滅んだ後、五代十国の興亡を経て、960年に強大な帝国を築いた宋の時代に作られ、民間の貿易船などによってもたらされた鏡(宋鏡<そうきょう>)も和鏡のご先祖様に当たります。
これら宋鏡の特徴は、鏡胎(きょうたい)が薄く作られていることや内区と外区を分ける界圏がないこと、鈕がとても小さく文様などが表されないところにあります。中国からもたらされた京都・清凉寺(せいりょうじ)の本尊・釈迦如来立像(しゃかにょらいりゅうぞう)の胎内に納められていた鏡や獅子唐草文六花鏡(ししからくさもんろっかきょう)はそうした特徴を備えた作例です。


獅子唐草文六花鏡
宋時代・10~13世紀 中国(TE-81)
(展示の予定はありません)



これら唐鏡には見られない特色も和鏡に反映されており、唐鏡と宋鏡をルーツに、平安時代・11世紀後半頃に、和鏡が成立したと考えられるのです。
つまり、和鏡は、中国の鏡が年月をかけて、日本風にアレンジされたものということができます。そしてその主題も、中国の鏡やこれを模倣した鏡に見られたような瑞花や鳳凰といった空想上の存在から、秋草や松、鶴や雀といった身近に存在する植物や鳥へと移っていったのです。

今回特集して展示している、山形県鶴岡市の羽黒山(はぐろさん)にある出羽三山神社(でわさんざんじんじゃ)の御手洗池(みたらしいけ)から出土したいわゆる「羽黒鏡(はぐろきょう)」は、そうした和鏡の極致を示すものとしてよく知られています。
例えばその中の一つである菊楓蝶鳥鏡(きくかえでちょうとりきょう)では、鈕を挟んで植物文と鳥がそれぞれ向かい合い、界圏で内区と外区が分かれる構図は維持しながらも、植物は菊に、鳥は雀のような小鳥に替わっています。蝶が外区に留まっているのも唐鏡の要素を色濃く残している点で興味深い作例です。
同じ主題で他の作例も見てみましょう。菊枝双鳥鏡(きくえだそうちょうきょう)では、同じく界圏を残す形式ながら、界圏を無視して菊花が勢いよく伸びていき、鳥は向かい合うのではなく、並ぶように飛んでいます。ここでは既に唐鏡の構図が完全に崩れているのがわかります。


菊楓蝶鳥鏡
山形県鶴岡市羽黒山御手洗池出土 平安時代・12世紀(E-15432)
(特集「羽黒鏡―霊山に奉納された和鏡の美」にて2023年11月19日まで展示)

菊枝双鳥鏡
山形県鶴岡市羽黒山御手洗池出土 平安時代・12世紀(E-15420)
(特集「羽黒鏡―霊山に奉納された和鏡の美」にて2023年11月19日まで展示)



また、界圏がなく、鈕の小さい宋鏡の系譜に位置づけられる菊枝双鳥鏡(きくえだそうちょうきょう)では、文様的な構成を脱却し、一幅の絵画のように菊と小鳥が表されています。このような構図の自由さも和鏡の魅力の一つです。こうした絵画的な構図は同時代の他の工芸品にも見られるもので、当時のやまと絵はもちろん、これに影響を与えた中国・宋代の絵画の様式を受け継いでいると考えられます。


菊枝双鳥鏡
山形県鶴岡市羽黒山御手洗池出土 平安時代・12世紀(E-15395)
(特集「羽黒鏡―霊山に奉納された和鏡の美」にて2023年11月19日まで展示)


 「和」というと、純粋に日本で創造されたように思われがちですが、中国の先進的な文化を受容し、それを基礎にして作り上げられたのが和鏡の形状であり、鏡背文様の構図であるといえます。とはいえ、和鏡の文様に感じられる心和むような安堵感や自由な構図には、自然の豊かな東方の島国で育まれてきた日本人の好みが深く刻み込まれているのではないでしょうか。

次回は羽黒鏡にみる和の文様についてご紹介したいと思います。
第2回「和鏡の文様を愉しむ」へ移動する

 

 

カテゴリ:特集・特別公開工芸

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posted by 清水健(工芸室) at 2023年10月17日 (火)

 

博物館で秋草さがし・・・

秋になると、当館の正面玄関前で、紫と白の萩の花がお客様をお迎えします。

正面玄関前に咲く萩(2023年10月5日現在)

この萩は「秋の七草」の1つです。
春の七草ほど知られていないかもしれませんが、じつは万葉歌人である山上憶良が和歌で詠った奈良時代から、日本人は秋草を愛好してきました。
春の七草は食べられますが、秋の七草は食べることはできません。その代わり、その花を楽しんできました。なんとも風流ですね。

ただ、自然に咲く花を愛でたばかりではなく、蒔絵や陶磁の器、鏡などの金工細工、着物に施された刺繡や織物などにも、平安時代の昔から江戸時代にいたる長い歴史の中で、秋草の模様が表されてきました。


秋草蝶鳥鏡(あきくさちょうとりきょう)
東京都八王子市中山 白山神社経塚出土 平安時代・12世紀
平安時代の銅鏡に装飾された模様です。「尾花」と称された薄や萩、菊、藤袴などが咲く秋の野に、蝶と鳥が飛び交っています。



秋草蒔絵見台(あきくさまきえけんだい)
安土桃山~江戸時代・16~17世紀
安土桃山時代に流行した高台寺蒔絵では、菊、萩、桔梗といった秋草模様が特に好まれました。



鼠志野秋草図額皿(ねずみしのあきくさずがくさら)
美濃 安土桃山~江戸時代・16~17世紀
志野焼の特徴である鼠色の地に、白く藤袴らしき秋草が浮かびあがります。


工芸品それぞれの表現を見くらべてみても、さまざまなデザインがあって面白いですね。
本館14室で行われている特集「日本の伝統模様「秋草」」(10月11日(水)~2023年11月19日(日))では、これら日本の工芸品に表された秋草の模様を秋の七草を中心に紹介しています。

日本の模様は、中国から影響をうけたものが多く、中国の模様は基本的に吉祥模様です。生活を彩る模様には、幸せを願い、身を守る役割がありますから、吉祥模様が多いのは当たり前ですね。
ところが、秋草模様にはほとんど、吉祥の意味はありません。それなのに、どうして日本人は秋草模様を愛好し続けたのでしょう?

その秘密を、本特集でご紹介しています。
皆さんもご存じの清少納言や兼好法師がつぶやいていますよ。
本館14室で無料配布しているパンフレット(オールカラーA4・全4ページ)を見ながら、その秘密を探ってみませんか?

また、本館14室での展示のほかにも、当館ではこの秋の時期に、さまざまな展示室で秋草模様の工芸品を展示しています。


小袖 白綾地秋草模様(こそで しろあやじあきくさもよう)
尾形光琳筆 江戸時代・18世紀
本館2階10室「浮世絵と衣装―江戸(衣装)」で展示している尾形光琳直筆の通称〈冬木小袖〉。桔梗・薄・萩・菊などが描かれています。
展示期間:2023年10月3日(火)~2023年12月3日(日)


当館のどこで秋草模様が展示されているかも、本館14室の特集「日本の伝統模様「秋草」」でご案内しています。
私たちの祖先が愛でてきた秋草、庭に咲く花とともに、博物館に咲く工芸品の秋草を探し歩いてみてはいかがでしょうか。


本館14室の展示風景

 

カテゴリ:特集・特別公開工芸

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posted by 小山 弓弦葉(工芸室室長) at 2023年10月12日 (木)