このページの本文へ移動

1089ブログ

中国元時代の隠れた名品「拾得図」

東洋館8室で開催中の特集「創立80周年記念 常盤山文庫の名宝」(2023年10月22日まで)。今回は、現在展示中の重要文化財「拾得図」について解説したいと思います。


展示風景写真中央
重要文化財 拾得図(じっとくず)
虎巌浄伏賛 元時代・13~14世紀 東京・公益財団法人常盤山文庫蔵
[展示中、10月22日まで]


この「拾得図」は、南宋時代末から元時代初頭に活躍した禅僧・虎巌浄伏(こがんじょうふく/1303年没)の賛を伴う作品です。同じく虎巌の賛を伴う静嘉堂文庫美術館所蔵の「寒山図」と対幅をなしていたことが知られます。
寒山と拾得は、中国唐時代に天台山(てんだいさん)に住んだといわれる伝説的人物で、自由で何ものにも捉われない風狂な姿が禅林(ぜんりん)で好まれ、盛んに絵画化されました。寒山は「寒山詩(かんざんし)」と呼ばれる漢詩を作ったことから経巻を持つ姿で、拾得は寺の掃除を行っていたことから箒(ほうき)を持つ姿で表されるのが通例です。



拾得図 全図

本作では、無背景の画面に、経巻を両手で広げ、やや腰を曲げて裸足で立つ拾得の姿が軽妙な筆致で表されています。
あれ? 経巻を持っているのは寒山じゃなかったっけ?
そう思った方もいるかもしれません。実は、本作と対になる静嘉堂本では「筆」を持つ姿で表されることから、まさに詩を書こうとしている寒山に同定され、となると経巻を持つこちらの人物がやはり拾得だと判断されるのです。いずれにせよ、半円形の目で奇怪な笑みを浮かべるその表情は、拾得の超俗性をよく体現しているといえるでしょう。

画面の上部には画賛(がさん。絵に寄せる言葉)が書かれています。


拾得図 画賛

少し難しい語句も含まれますが、ちょっと読んでみましょう。

【翻刻】
手持一巻出塵経
両眼相看幾度春
要与世人為牓様
莫教虚度此生身
【読み下し】
手に持すは一巻の出塵の経
両眼で相看る幾度かの春
世人のために牓様と為さんと要せば
虚しく此の生身を度せしむること莫れ


これに主語を補って現代語訳すると、次のような意味になるでしょうか。

【句意】
(拾得が)手に持っているのは、汚れた塵を払う一巻の経典(寒山詩か)。(彼が)両眼で見つめるのは(この経典のように清らかな)繰り返す春の情景である。(この賛を読むあなたが)世の人のために模範となろうとするのであれば、(ここに描かれた拾得の)この(幻影の反語としての)生身に対して、無駄に済度(さいど。悟りに導くこと)させるようなことはしないことだ(すでに拾得は脱俗の境地に到達しているのであるから)。


賛者の虎巌浄伏は、杭州の径山(きんざん)に住した高僧で、門下に月江正印(げっこうしょういん)や明極楚俊(みんきそしゅん)といった俊英を輩出したことでも知られています。虎巌の筆跡は他に残されていないことからしても、本作はその貴重な遺墨といえるでしょう。

ちなみに賛の末尾には「浄伏」の署名がありますが、子細に見れば、署名部分の周囲に2.2センチ四方の印章跡が確認できます。斜光撮影した画像をよ~く見てみると、うっすらと四角い跡が見えてくるはずです。摩滅のため印文は不明ですが、おそらくは静嘉堂本と同じ朱文重郭方印であったと思われます。


拾得図 印章跡(斜光撮影)


さて、改めて本作の図様表現を確認すると、衣文を表す描線は起伏に富んだ筆線が用いられ、とりわけ裾や腰帯は右から左へと風になびいてリズミカルに翻っています。対して面部や肉身部は鋭い細線で表されており、略筆でありながらもその像容把握は的確です。


拾得図 全身


また、毛髪は筆をこすりつけるような擦筆が用いられ、拾得の怪異な容貌が強調されています。こうした表現は、伝因陀羅筆「寒山拾得図」(東京国立博物館蔵)などにも見られるものであり、南宋時代末から元時代初期の禅宗人物画の特質をよく示しているといえます。


重要美術品 寒山拾得図(かんざんじっとくず)
伝因陀羅筆、慈覚賛 元時代・14世紀 東京国立博物館蔵
[特集「東京国立博物館の寒山拾得図―伝説の風狂僧への憧れ―」(本館特別1室 10月11日から11月5日まで)にて展示]


さらに注目されるのは、拾得を描く軽やかな描線と、虎巌の賛の流麗な草書体とが見事に照応していることでしょう。とりわけ、小気味良く反転する衣文描写と賛の書体は、明らかに呼応関係にあるといえます。このことは、書画の一致が目指された同時代の作例とも軌を一にしています。
加えて本作では、毛髪を除く図様全体はやや水気を含んだ墨線で描き表すのに対し、瞳部分のみ、黒々とした濃墨を点じていることが見て取れます。こうした表現は、賛にある「両眼相看」の詩句とも対応するだけに興味深いといえるでしょう。


拾得図 面部


本作を描いた画家は不明ですが、このような詩書画の一体性を考慮するならば、賛者虎巌とも親しく接することのできた、禅余画僧(余技として絵を描く禅僧)の手による可能性が考えられるかもしれません。本作は、禅林における道釈人物画の展開をうかがう上でも貴重な作例といえるでしょう。

今回ご紹介した作品と関連して、当館では、表慶館で「横尾忠則 寒山百得」展(12月3日まで)、本館特別1室で特集「東京国立博物館の寒山拾得図―伝説の風狂僧への憧れ―」(11月5日まで)も開催中です。ぜひ、本特集とあわせてご覧ください。

 

カテゴリ:研究員のイチオシ特集・特別公開中国の絵画・書跡

| 記事URL |

posted by 高橋真作(特別展室) at 2023年09月28日 (木)

 

東洋館で楽しむ、「アジアのパーティー」

暑さも少し和らぎ、秋の訪れを感じられるようになってきました。
当館では9月26日(火)より、秋の恒例企画「博物館でアジアの旅」がはじまりました。

「博物館でアジアの旅 アジアのパーティー」キービジュアル
 
会場はアジア各地の美術品や考古遺物などを展示している東洋館です。
 
正門を入って右手にあるのが東洋館です。

東洋館入口もアジアの旅バージョンでお迎えします。

「博物館でアジアの旅」は毎年テーマを決めて、それにちなんだ作品を館内のいたるところに展示します。
今年のテーマは「アジアのパーティー」です。
 展示室を巡りながら、アジア各地のパーティーにまつわるさまざまな作品をご覧いただけます。
 
東洋館内の様子
 
 「アジアのパーティー」関連作品には目印にこの札をつけています。
作品一覧のリストは、当館ウェブサイトよりご覧いただけます。
博物館でアジアの旅 アジアのパーティー 作品リストへ移動する
 
展示の様子を一部ご紹介します。
 
パーティーに欠かせないものといえば、お酒ではないでしょうか。
3室に展示しているのは、リュトンとよばれるお酒を入れる器です。野生動物をかたどった酒器は西アジアでは青銅器時代から定番でした。
山羊頭形リュトンは鼻先に、動物形リュトンは両前足の先端に、それぞれ小さな孔(あな)があり、ワインなどの液体を注ぎ出す機能が備わっています。
 
山羊頭形リュトン(やぎがしらがたりゅとん)
イラン、ギーラーン地方 アケメネス朝時代・前6~前5世紀 東京国立博物館蔵 東洋館3室にて展示
 
動物形リュトン(どうぶつがたりゅとん)
イラン パルティア時代・前3~後3世紀 山内信和氏寄贈 東京国立博物館蔵 東洋館3室にて展示
 
パーティーでは音楽も楽しみたいものです。
5室で展示している、加彩楽人は竪琴や琵琶、太鼓を持って演奏する女性たちを表したやきものの人形です。
唐時代、死後の世界を豊かに過ごすため、人や動物、生活道具などをかたどったやきものが墓に納められました。
墓の主は死後の世界でも、楽団を傍らに宴を楽しんでいることでしょう。
 
加彩楽人(かさいがくじん)
中国 唐時代・7~8世紀 横河民輔氏寄贈 東京国立博物館蔵 東洋館5室にて展示
 
パーティーには、いわゆる「人生の節目」も含まれます。
13室では、結婚などのお祝い事や、悲しみにあふれる葬儀のときに大切な人を想ってつくられた、壮麗で華やかな染織作品をご覧いただけます。
 
(左から1番目)プルカリ(覆い布) 茶木綿地波形幾何文様刺繡(ぷるかり おおいぬの ちゃもめんじなみがたきかもんようししゅう)
インド・パンジャーブ 19~20世紀 岩佐静子氏寄贈
(左から3番目)死者の覆い布 赤カシミヤ地ペイズリー花文様(ししゃのおおいぬの あかかしみやじぺいずりーはなもんよう)
インド・カシミール 20世紀
両作品ともに東京国立博物館蔵、東洋館13室にて展示
 
東洋館インフォメーションでは、「博物館でアジアの旅 アジたびマップ2023」を数量限定で無料配布しています。
主な作品について展示場所を示したマップと解説を掲載しています。アジアの旅のお供にどうぞ。
 
「博物館でアジアの旅 アジたびマップ2023」は当館ウェブサイトよりダウンロードできます。
博物館でアジアの旅  アジたびマップ2023へ移動する
 
さらに作品について詳しく知りたい方は、小冊子を販売しておりますので、
こちらもぜひご覧ください。
 
小冊子は本館、東洋館、正門プラザの各ミュージアムショップで販売しています。
 
その他、「博物館でアジアの旅」をより楽しむ関連イベントとして、アジ旅スペシャルトークや、ボランティアによるガイドツアーも開催します。

博物館でアジアの旅 アジアのパーティーのバナー
 
どうぞ足をお運びください。

 

カテゴリ:博物館でアジアの旅

| 記事URL |

posted by 長谷川悠(広報室) at 2023年09月27日 (水)

 

東京国立博物館の寒山拾得図

本館特別1室では、11月5日まで、特集「東京国立博物館の寒山拾得図―伝説の風狂僧への憧れ―」を開催しています。本展示は、表慶館で開催中の「横尾忠則 寒山百得」展(~12月3日)の関連展示となります。

 
特集「東京国立博物館の寒山拾得図」展示風景
 
 
寒山と拾得は、中国、唐の時代に、天台山国清寺(浙江省)に住みついて、雑事をしていたという、伝説的な2人の人物です。
風変わりないでたちで、普通の人には理解できない言葉や行為を繰り返していたといい、現世や堕落した仏教界を批判するような内容の、寒山作という詩がのこっています。
のちに、常識にとらわれない生きざまや反骨精神が、禅の世界で尊敬されるようになり、中国ほか東洋絵画の主題として人気を博していきます。数百年にわたって、さまざまな画家が、いろいろに趣向を凝らしてこの画題をえがいてきたのです。
 
このブログでは、当館が所蔵する多くの寒山拾得図から、対照的な2つの名品を紹介してみようと思います。
 
 
 
重要文化財 四睡図
平石如砥、華国子文、夢堂曇噩賛 中国 元時代・14世紀 10月9日まで展示
 
 
「四つのねむり」と名付けられた作品です。画面下ほどに、身を寄せ合って眠る3人の人物と1匹の虎が見えるでしょう。
 
 
  
四睡図(部分)
 
 
左奥の僧侶は、寒山拾得と交流のあった、豊干(ぶかん)という唐時代の高僧で、どう猛な虎を手なずけていたという逸話が知られています。本作の豊干も、かわいらしい寝顔を見せる虎のふわふわの毛皮にもたれて眠っているようです。
その手前で体を絡ませあっているのが寒山と拾得。子どものような寝相ですが、顔にはしっかりと人生の年輪が刻まれています。
 
 
 
四睡図(部分)
 
 
人物の目鼻立ちや頭髪、衣は、非常に細く、緊張感のある墨線であらわされます。このように原則として色を用いない、線が主体の画法は、「白描(はくびょう)」と呼ばれます。
白描は、その清らかな趣から、文人士大夫(ぶんじんしたいふ)、そして彼らと趣味を同じくする禅の世界で愛された画法でした。元時代には特に、レース編みのように精緻な描写を誇る、技巧的な白描が流行します。本図もそのような流れのなかで制作された作品でしょう。
 
 
四睡図(部分)
 
 
背景の岩や地面に引き重ねられた細い波線、松の幹を埋める小さな渦、キノコのような霞の形態は、唐や宋時代などの、より古い時代の絵画を連想させるもので、本作に古めかしくみやびな印象を与えています。
 
 
重要文化財 寒山拾得図 
伝顔輝筆 中国 元時代・14世紀 10月11日から11月5日まで展示
 
 
古めかしく清らかでみやびな「四睡図」に対して、元時代の職業画家、顔輝筆という「寒山拾得図」は、どきつく、得体の知れない不気味さを伝える作品です。
2幅1対の右に腕を組む寒山、左に箒を持つ拾得をえがきます。2人はぼさぼさの髪で、目と口を三日月形にし、白い歯をむき出し、赤い舌をのぞかせて大きく笑っています。
 
 
寒山拾得図(部分)
 
 
目元や口元、小鼻などの輪郭には、墨線と色線が丁寧に重ねられ、生々しい肉体の実在感が表現されます。
対照的に、衣の線は太い筆であらあらしく引かれ、2人の高い精神性が抽象的に伝えられます。
 
 
寒山拾得図(部分)
 
 
寒山拾得は視線を鑑賞者に合わせ、やや身をかがめて、2人の世界に迎え入れるように虚空のなかに立っています。私たちが作品を見ているときには、作品もまた私たちを見ているのだということを感じ、どこか居心地悪くなりますが、このように、鑑賞者に内省を促すような表現が本作の最大の魅力と言えるかもしれません。
 
展示会場では、ここにご紹介したもの以外にも、さまざまな寒山と拾得がみなさまをお待ちしております。この機会にお気に入りの寒山拾得図を見つけていただければ幸いです。

カテゴリ:特集・特別公開中国の絵画・書跡絵画

| 記事URL |

posted by 植松瑞希(絵画・彫刻室) at 2023年09月25日 (月)

 

仏画に描かれた自然景

こんにちは、研究員の古川です。
本館3-1・3-2室で特集「仏画のなかのやまと絵山水」(9月20日(水) ~ 12月3日(日))が始まりました!


特集「仏画のなかのやまと絵山水」の展示風景

本特集は、平成館で開催される特別展「やまと絵-受け継がれる王朝の美-」(10月11日(水)~12月3日(日))に合わせ、仏画とやまと絵のかかわりについてご覧いただこうと企画しました。

平安時代に遡る二つの作例をご紹介しましょう。
11世紀に描かれた当館所蔵の国宝「十六羅漢図」は「第七尊者」(10月29日(日)まで展示)(図1)や「第十五尊者」(10月31日(火)から展示)(図2)の背景に自然が描かれています。
羅漢とともに描かれた建物や人物、動物を見ると、中国・唐時代の羅漢図の系譜に連なることが分かりますが、自然表現、とりわけ岩の形や樹木の描写は柔らかく、羅漢の温かみのある彩色と相まって、穏やかな雰囲気のある、情趣あふれる表現となっています。

図1 国宝 十六羅漢像(第七尊者)
平安時代・11世紀
図2 国宝 十六羅漢像(第十五尊者)
平安時代・11世紀


また、同じく11世紀に制作された作例に、藤原頼通が造営した平等院鳳凰堂壁扉画が挙げられます。展示では、江戸時代後期に活躍した田中訥言(たかなとつげん、1767~1823)が描いた模本をご覧いただきます。
本尊の阿弥陀如来像にちなみ、壁扉画には阿弥陀如来の来迎図などが描かれます。図様を見ると来迎する阿弥陀如来一行は、自然景とともに描かれ、山並みは丸みのある穏やかな景色です。仏を描く線は伸びやかで、緑の淡彩が美しい模本です。


平等院鳳凰堂壁画(模本)の展示風景

この他、「春日本地仏曼荼羅図(かすがほんじぶつまんだらず)」(10月29日(日)まで展示)や「諸尊集会図(しょそんしゅうえず)」(10月29日(日)まで展示)のような、仏の姿と自然が融合した、鎌倉時代の作例も展示しています。
展示作品に見られる自然景、すなわち山水は、なだらかな山並みに桜や紅葉、松や杉の樹木が描かれ、日本で見られる景色を描いています。この、日本で見られる身近な景色というのが、やまと絵の山水表現の重要な特色です。

仏画にはさまざまな種類があります。例えば、両界曼荼羅のように仏の姿が規則的に並ぶ作例では、背景は描かれません。一方、平等院鳳凰堂のように阿弥陀如来が現れる様子を描く来迎図や、日本各地の土地に根差した神の姿を仏の姿を借りて描く垂迹画(すいじゃくが)では、自然が背景に表されることが多い仏画です。こうした自然景を描くに際し、仏画の描き手たちはやまと絵の山水表現を大いに学んだことがうかがえます。
仏の姿に注目が集まる仏画ですが、背景に着目すると、同時代のやまと絵との関係が見えてきます。

特別展「やまと絵-受け継がれる王朝の美-」では日本美術史の王道たるやまと絵の名品がたくさん展示されます。
仏画とやまと絵との関わりについて、じっくり考えてみたいと思います!

 

カテゴリ:特集・特別公開絵画

| 記事URL |

posted by 古川攝一(日本絵画) at 2023年09月22日 (金)

 

雲の合間にみえるもの

東洋館8室で開催中の特集展示「創立80周年記念 常盤山文庫の名宝」(2023年10月22日まで)に関して、今回は漆器のご紹介。
常盤山文庫のコレクションからは、薄造りの凛とした器形に、良質の漆を丁寧に塗り重ねた、宋時代のすぐれた漆芸の姿を窺うことができます。


彫漆雲文水注(ちょうしつうんもんすいちゅう )
南宋時代・12~13世紀 公益財団法人常盤山文庫蔵
[展示中、10月22日まで]

なかでも、今回とくに推したいのがこちらの水注です。一見して、どんな感想を持たれるでしょうか?
時計回りにぐるぐると回る渦巻文様がびっしりと彫り込まれる様子は、日本の造形伝統から見ればいかにも異様と映るかもしれません。
よく見ると単純な渦巻ではなく、漫画のフキダシのように弧状の短い線をつなげて作られた雲の形であることがわかります。つまりは「雲文」です。


彫漆雲文水注 雲文の拡大写真

雲文であることがわかるくらいまで近づくと、はじめてこれが赤と黒の漆層からできていることが見えてきます。
彫りが深いところで色漆層の数を数えてみると、赤、黒と交互に12層を重ねています。念のため申し上げておきますと、これは12回しか塗っていないということではなく、各色の1層を作るために何回も塗り重ねる必要があるので、実際に塗った回数はその数倍となります。

この漆層を綿密に、彫り目の色がよく見えるように幅広く彫っています。せっかく12層もの色漆層をつくったのだから、これは見せたいところですね。
複雑な形状の雲文を一つ一つ深く彫り込んでいくのは相当な手間ですが、工人の気持ちになって彫りの流れを目で追っていくと、なんとなく楽しく彫っていたのではないかという気がしてきます。すべての雲文はまったく同じ形はなく、厳格に決まった型通りの意匠というよりアドリブを交えた、のびのびとした仕事です。ざわざわと迫りくるような文様の生命感は、こうした力強く奔放なひと彫りひと彫りが集まって形成されたものと言えるでしょう。

ところで、この作品は宋時代の彫漆としては例のない姿をしています。本作のような金属胎(きんぞくたい)の彫漆自体は珍しいものではありませんが、腹部の膨らんだ長頸瓶(ちょうけいへい)に円座状の高台を持たせ、把手と注口をつけたような形状の彫漆器は他に見られません。この形はどこから来たのか。
この問題に関しては、X線撮影やCT撮影によってかなりのヒントがもたらされています。

たとえば注口の根本に近い部分を見ると、花の蕊(しべ)のような装飾があります。


彫漆雲文水注 注口部の拡大写真

本体の意匠から見るとやや唐突な観のある装飾ですが、今回CT撮影を通して詳しく調べたところ、注口の基部には本来、花形座があったことがわかりました。

彫漆雲文水注注口部のCT画像(撮影:宮田将寛)

下の画像は別作品ですが、イメージとしてはこんな感じでしょうか。


銅布薩形水瓶 鎌倉時代・13世紀 東京国立博物館蔵
(注)この作品は展示されておりません。


どこかの時点で注口部の修理が必要となり、この花形座は覆われることとなったようです。また把手より上の部分はすべて後補であること、高台部分は金属胎が折り畳まれたような、通常ではありえない状態であることなども明らかとなっており、これらを考慮すると、本作は伝世の過程で複数回の大規模な補修・改変が行われていることが推察されます。

それでは製作当初はどんな姿をしていたのでしょうか。
補修・改変の過程や理由を含め、全体像はまだまだ雲の中にあり、明確に判明したとは言えません。多くの謎と可能性を秘めている点もまた、本作の大きな魅力の一つなのです。

特集「創立80周年記念 常盤山文庫の名宝」会場に展示される彫漆雲文水注
展示会場の様子

 

カテゴリ:研究員のイチオシ特集・特別公開工芸

| 記事URL |

posted by 福島修(特別展室) at 2023年09月21日 (木)