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1089ブログ

江戸城大奥へようこそ 其の四 正室・姫君の祈りと小さきものの美

特別展『江戸☆大奥』、展示期間も後半となってまいりました。

すでにご来場いただいたみなさまは、大奥にまつわる、豪華絢爛、最高級の武家の婚礼調度や衣装の数々をご覧いただいたことでしょう。
しかし、作品保護のためやや暗い展示室。もしも見逃していたらもったいない!ということで、本展リレーブログ第4弾では、将軍の正室や姫君の信仰、そして人となりがうかがえる、やや小振りな品々に注目してご紹介します。
 
本展の第3章「ゆかりの品は語る」では、将軍の正室・側室・姫君にゆかりのある品を通し、大奥で暮らしたそれぞれの女性の生涯をご紹介しています。この章では、近年行われた大奥ゆかりの寺院での調査の成果も反映しています。
2015年、目黒区の祐天寺(ゆうてんじ)境内・阿弥陀堂の改修にともない、その床下から浄岸院(竹姫)ゆかりの三つ葉葵紋を鋳出(いだ)した懐中鏡と、短く削ぎ落とした毛髪が発見されました。
本展では阿弥陀堂の御本尊・阿弥陀如来像とともに、これらの埋納品も出陳していただいています。
 
左:阿弥陀如来像 小堀浄運作 浄岸院(竹姫)奉納 江戸時代 享保8年(1723) 東京・祐天寺(目黒区)蔵 通期展示
埋納品は蓮華座の前に安置しています。足元にお気をつけて、やや遠くからご覧ください。
右:懐中鏡 浄岸院(竹姫)奉納 東京・祐天寺(目黒区)蔵 通期展示
 
祐天寺は、江戸時代中期の浄土宗の高僧、祐天上人(1637~1718)を開山とします。祐天上人の名声は江戸城まで届き、五代将軍綱吉生母である桂昌院(お玉の方)をはじめ、六代将軍家宣正室・天英院(近衞凞子〈このえひろこ〉)、七代将軍家継生母・月光院(お喜世の方)、綱吉養女の光現院(松姫)ほか、多くの大奥の女性たちが帰依しました。
なかでも綱吉養女の竹姫(1705~72)は、若くして二人の婚約者に先立たれ、さらには養父母の逝去、という出来事に相次いで見舞われた薄幸の人でした。そのため、姫君を幼いうちに縁付かせる当時の慣例としては遅く、年頃に至っても輿入れせずに江戸城大奥に留まっていました。その生い立ちから仏心もことのほか篤かったのでしょう。竹姫が19歳の頃、享保8年(1723)に阿弥陀如来像を発願、祐天寺に奉納しました。
やわらかな面差しを持つ像の袈裟には、竹姫養母・信子の生家である鷹司家(たかつかさけ)の抱き牡丹紋と、徳川家の三つ葉葵紋を散らした美麗な装飾を施しています。願掛けのため、鏡とともに阿弥陀堂に奉納された毛髪は、まさしく竹姫のもの。竹姫の造立に懸ける思いが伝わってくるようです。その思いが通じたのか、また天英院と八代将軍吉宗の後押しもあり、享保14年(1729)、ついに竹姫は島津家に輿入れを果たしました。その後、その立場を活かし、竹姫は徳川家と島津家の姻戚関係を深め、十一代将軍家斉正室・広大院(近衞寔子〈このえただこ〉)や十三代将軍家定正室・天璋院(篤姫)(てんしょういん〈あつひめ〉)といった島津家出身の女性が、将軍正室となるきっかけにもなりました。
ぜひ会場で、武家、そして大奥の一大事である婚姻政策の渦中に生きた、一人の姫君の祈りに思いを巡らせてみてください。
 
さらに、当館にゆかりの深い上野の寛永寺(かんえいじ)境内・徳川将軍家御裏方霊廟(おうらかたれいびょう)でも、2007年より発掘調査が行われました。本展ではその際に発見された、将軍正室・側室墓の出土品も出陳していただいています。そのなかから、とくにご紹介したいのは十二代将軍家慶正室・浄観院(楽宮喬子〈さざのみやたかこ〉、1795~1840)の仏舎利(ぶっしゃり)容器と念持仏厨子(ねんじぶつずし)です。
 
左:舎利容器 浄観院(楽宮喬子)所用 江戸時代・19世紀 個人蔵 通期展示
中央・右:念持仏厨子・念持仏 浄観院(楽宮喬子)所用 江戸時代・19世紀 個人蔵 通期展示(中央:開扉、右:閉扉した状態)
 
写真でみるとなんだか大きく見えますが、仏舎利容器は高さ2.8cm、厨子は高さ8.5cm、内部の像の高さは3.2cmのとても小さな品々です。
仏舎利容器は水晶製で、種々の色の石粒を舎利として納めています。紡錘形(ぼうすいけい)の水晶に透けた光はやわらかく周囲を照らし、思わず見入ってしまう美しさです。
念持仏は、江戸時代をかなり遡る制作とみられています。厨子の両扉に、三つ葉葵紋と菊花紋が蒔絵で表わされています(会場では厨子の扉は開いた状態です)。楽宮の生家に古くから伝えられた小像を、婚礼の際に新調した厨子に入れて京都から携え、常に傍に置いていたのでしょう。いずれの品も、楽宮の御遺骨と重なるように墓の中央から見つかりました。楽宮は正座の状態で葬られたため、もしかすると懐に入れるか、手に持たせていたのかもしれません。
数え10歳で故郷の京都を離れ、江戸にやってきた楽宮。その生涯のほとんどを、この念持仏とともに過ごしてきたともいえるでしょうか。
 
また第4章「大奥のくらし」では、大奥の婚礼や生活にかかわる品々をご紹介しています。
まずは天璋院(篤姫)所用と伝わる雛道具(ひなどうぐ)。ガラスに複雑なカットを施した薩摩切子(さつまきりこ)の一式で、恐らく篤姫の婚礼のために薩摩藩で用意されたものです。大奥の終焉まで大御台所(おおみだいどころ)として徳川家に尽くし、薩摩に終生帰らなかった篤姫にとって、故郷をしのぶ貴重な品々でもあったことでしょう。
本展では、同じく篤姫が大奥で用いていたと伝わる蒔絵の雛道具と合わせ、段飾り風に並べています。ご自宅で雛飾りを並べたことのある方にはご実感いただけると思いますが、綺麗に並べるには大変な労力と時間がかかります。私も今回、ご所蔵者様と協力して慎重に並べたのですが、当時の追体験をするようで楽しい時間でもありました。大奥の上巳(じょうし)の節句では、女性たちで協力して交流しながら雛人形や雛道具を並べる、その時間も含めて春の行事として楽しんでいたのかも、と想像が膨らみます。 
 
左:薩摩切子雛道具 天璋院(篤姫)所用 江戸時代・19世紀 東京・公益財団法人 德川記念財団 通期展示
右:松唐草牡丹紋散蒔絵雛道具 天璋院(篤姫)所用 江戸時代・18~19世紀 東京・公益財団法人 德川記念財団 通期展示
 
最後に、十四代将軍家茂正室・静寛院宮(和宮)(せいかんいんのみや〈かずのみや〉)が愛玩した小物類がこちら。 
 
和宮手廻り小物 静寛院宮(和宮)所用 江戸時代・19世紀 東京・公益財団法人 德川記念財団 通期展示
 
京都の賀茂人形、知恵の輪、綺麗な紅白が映える月日貝(ツキヒガイ)に、タツノオトシゴ、玉虫、ホトトギスの羽根、節分の豆、はたまた独楽(こま)の中から小さな独楽たちがでてきたり……まさに乙女の宝箱。皇女和宮のかわいらしい趣味が感じられるコレクションです。
同い年の夫・家茂も玩具を好み、ミニチュアの遠眼鏡などがのこされています。公武合体政策のもと、二人は婚礼を挙げました。その翌年にあたる文久3年(1863)、家茂は最初の上洛前に、大奥にいる和宮を訪ね、この種の玩具を通して語らったと伝わります。家茂を見送った和宮は、無事の帰還を祈ってお百度参りをしたそう。しかしその3年後、三度目の上洛後に大坂の地で家茂は命を落とします。
将軍とその正室としての生活は決して長くはありませんでした。大奥で二人が過ごしたこの束の間の穏やかなひとときを、つい想像してしまいます。
 
ご来場の際には、こうした小さな細工物の美しさにも、ぜひご注目ください。
大奥の真実は、そこで生きた一人ひとりの女性の生涯そのものでもあります。これらの品々を愛でた彼女たちの生きざまを、あわせてご想像いただければ幸いです。

カテゴリ:研究員のイチオシ「江戸☆大奥」

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posted by 廣谷妃夏(東洋室研究員) at 2025年09月05日 (金)

 

特別展「江戸☆大奥」10万人達成!

現在、平成館特別展示室で開催中の特別展「江戸☆大奥」(9月21日(日)まで)は、この度来場者10万人を達成しました。
これを記念し、東京都からお越しの橋本さん、松橋さんに当館館長藤原誠より記念品と図録を贈呈いたしました。


記念品贈呈の様子。左から松橋さん、橋本さん、グッズ「倭物やカヤ リバーシブル羽織」を着用した藤原館長
(注)「倭物やカヤ リバーシブル羽織」は販売を終了しております

日常的にお着物をお召しになられるというお二人。本日は、あの「大奥の世界」を見られる機会ということで、本展覧会に足をお運びいただきました。
メインビジュアルにも使用されている『千代田の大奥』に描かれた場面は、お二人にとっても思い出深い場所で、ご縁を感じられたとのこと。
大奥の華やかな調度品や染織作品の数々を堪能され、展覧会をお楽しみ頂けたとのご感想を頂戴しました。

知られざる大奥の真実を、遺された歴史資料やゆかりの品々を通して紹介する本展。19日からは後期展示もはじまりました。
美しい和刺繍で草花や風景を表わした掻取(かいどり)や小袖の数々に、大奥で演じられた歌舞伎の衣装なども展示しています。
この貴重な機会をどうぞお見逃しなく!

カテゴリ:news「江戸☆大奥」

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posted by 田中 未来(広報室) at 2025年08月28日 (木)

 

江戸城大奥へようこそ 其の三 誓詞―女中が出した誓約書

特別展「江戸☆大奥」リレーブログ第3弾は、歴史の分野からお送りします。

今回ご紹介するのは、大奥の女中が提出した「誓詞(せいし)」です。誓詞とは、その文字が示すとおり「誓いのことば」。大奥に奉公に上がったばかりの女性、またはすでに大奥で勤めていた女性が将軍代替わりの際、幕府に提出していたものです。
 
本展の第1章から第2章に移る途中の壁に、この誓詞が刻まれています。
 
展示風景
 
誓詞前書の拡大画像
誓詞前書の拡大画像
 
黒い壁に白文字ですこし怖い雰囲気です。本展では、第1章「あこがれの大奥」をお楽しみいただいたあと、第2章以降で大奥の「真実」にせまるのですが、この黒壁はその「真実」へとむかう緊張感を演出しています。
 
女中たちが誓った内容は次のとおりです。全7か条ありました。
 
一、 御奉公の儀、実儀を第一に仕(つかまつ)り、少しも御うしろくらき儀いたすまじく候。よろづ御法度之趣、かたく相守り申すべき事

一、御為(おんため)に対したてまつり、悪心を以って申し合せいたすまじき事

一、 奥方之儀、何事によらず外様(そとさま)へもらし申すまじき事

一、女中方の外、おもてむき願がましき儀、一切(いっさい)取り持ち致すまじき事
       附、御威光をかり、私のおごりいたすまじき事

一、 諸傍輩中の陰事(かげごと)を申し、あるいは人の仲を掻(か)き候ようなる儀、つかまつるまじき事

一、 好色がましき儀は申すにおよばず、宿さがりの時分も、物見遊所へまいるまじき事

一、 面々、心のおよび候ほどは行跡(ぎょうせき)をたしなみ申すべき事
   附、部屋部屋、火の元、念入申しつくべき事
 
この誓詞は享保6年(1721)、8代将軍吉宗の時代のものです。誓っているのは、大奥で働き、暮らしていく際の心構えやマナーを守ることです。
たとえば1か条目にある「御奉公の儀、実儀を第一に仕り、少しも御うしろくらき儀いたすまじく候。よろづ御法度之趣、かたく相守り申すべき事」は、大奥での奉公勤めを全うし、やましいことをしてはならない、決まり事はすべてしっかり守らなければならない、という意味です。冒頭にまず大奥勤めの大原則が書かれています。
そして3か条目には「奥方之儀、何事によらず外様へもらし申すまじき事」とあり、大奥内の出来事は、どのようなことであっても外部へ漏らさないようと書かれています。さらに5か条目には「諸傍輩中の陰事を申し、あるいは人の仲を掻き候ようなる儀、つかまつるまじき事」と、同輩の隠しごとを言いふらすことを禁じています。今でいう守秘義務を課している箇条があることは大変興味深いです。
 
誓詞は前書きと罰文(ばつぶん)とにわかれていました。前書きには誓う内容、そしてその後の罰文には「もしこれらを守らなかったら、神仏から罰をうけてもかまいません」という、誓約者が誠意・覚悟を表明する文言が書かれていました。そして、誓詞に書かれた自分の名前の上には血判(けっぱん)を捺(お)していました。血判とは、自分の血を塗(ぬ)り捺すことをいいます。大奥の女中は、右手の薬指を小刀で切り、判を捺していたといわれています。
江戸時代、誓詞を提出することは武家や村落など一般的にあったもので、大奥に限ったことではありませんでした。しかしながら、誓詞を提出したときの女中たちはどのような思いだったでしょうか。江戸城の外側からみていた「あこがれの大奥」の夢が覚めた瞬間だったのではないかと想像が膨らみます。
 
江戸城本丸大奥総地図 江戸時代 19世紀 東京国立博物館蔵 通期展示
 
本展にお越しの際には、第1章から第2章へ向かう際、壁面に書かれた誓詞にご注目いただきながら、大奥の「真実」の世界へとお入りください。
 
特別展「江戸☆大奥」会場内のバナー
 
(注)本ブログの「誓詞」文中の表記は、送り仮名の追加、句読点の加筆等、適宜改めています。
(注)展示会場に掲載している「誓詞前書」は、『徳川禁令考』前集第3(司法省大臣官房庶務課編、1959年、58ページ)からの引用です。本展に「誓詞」の展示はありません。
 
・参考文献
 福田千鶴『女と男の大奥 大奥法度を読み解く』(吉川弘文館.2021年)
 松尾美恵子「誓詞」(竹内誠、深井雅海、松尾美恵子編『徳川「大奥」事典』(東京堂出版.2015年))

カテゴリ:「江戸☆大奥」

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posted by 長倉絵梨子(書跡・歴史担当研究員) at 2025年08月22日 (金)

 

江戸城大奥へようこそ 其の二 『千代田の大奥』について

東京国立博物館 平成館で開催中の、特別展「江戸☆大奥」(9月21日(日)まで)。

大奥展リレーブログ第2弾として、今回は楊洲周延(ようしゅうちかのぶ)筆、『千代田の大奥』について、お話いたします!
 
将軍の御台所(みだいどころ)や側室、またお付きの女中たちが生活していた大奥。その様子は公に語られることはありませんでした。というのも、大奥の女中はお勤めにあたって、大奥のことを外部に漏らさないよう約束させられていたのです。あわせて、江戸時代には大奥の事柄に関する出版統制が敷かれていました。そのため、大奥の内情は長らく隠されていたといえます。
秘密といわれると、あれこれ想像してしまうのが人間でしょう。本展覧会の第1章では、江戸・明治時代、そして現代にかけて、人びとが思い描いてきた「あこがれの大奥」を、作品を通して紹介しています。
 
本章でぜひご注目いただきたいのが、明治時代の人びとが抱いた大奥へのイメージがよく表された錦絵『千代田の大奥』です。東京国立博物館と文化学園服飾博物館所蔵作品をあわせて展示し、全期間、全40場面をご覧いただくことが可能となっています。
  
第1章「あこがれの大奥」より、『千代田の大奥』展示風景 楊洲周延筆 明治27~29年(1894~96) 東京国立博物館蔵
 
明治時代を迎えると、それまでの出版統制は解除されるとともに、江戸幕府下の時代を懐古的に振り替える風潮が高まりました。加えて、明治25年(1892)刊行の永島今四郎、太田贇雄(よしお)編『千代田城大奥』など、大奥の実態を聞き書きした文献も出版されるようになります。『千代田の大奥』の項目や描写が一部重なることから、このような文献を参考にして『千代田の大奥』は描かれたと考えられます。
 
ただ、『千代田の大奥』は、必ずしも大奥の真実の姿をうつしていたわけではなさそうです。昭和5年(1930)に出版された、三田村鳶魚(えんぎょ)による『御殿女中』は、十三代将軍徳川家定の御台所である篤姫(1836~83)付きの御中臈(おちゅうろう)であった大岡(村山)ませ子からの聞き書きをもとにした文献です。大奥の行事や暮らしが丁寧に記されるなか、『千代田城大奥』の内容や、『千代田の大奥』の描写を否定している記述も認められます。会場では、作品の各場面に短文の解説をつけていますが、実際には異なっていたと考えられる点をあわせて紹介しています。
 
  
『千代田の大奥』より「千代田の大奥 鏡餅曳」 楊洲周延筆 明治28年(1895) 東京国立博物館蔵
 
たとえば、1月7日に行われたという鏡餅曳(かがみもちひき)。これは、御三家や御三卿から献上された餅を、下男が賑やかしながら曳き歩くという行事でした。画中には、その様子を楽しげに見学する、華やかな衣装をまとった大奥の女中の様子が描かれています。ですが、『御殿女中』は
「お鏡曳きを大奥の大変な年中行事のように言い囃したのは、甚だしい間違いなのである。高級女中でない御次や、お三の間や、呉服の間でも、見物には出ない。」(朝倉治彦編、三田村鳶魚『御殿女中』鳶魚江戸文庫17 中央公論社 1998年 359頁)
と強く否定しています。お三の間とは、将軍や御台所に謁見できない「御目見以下(おめみえいか)」で、御台所の居室の掃除や、御中臈などほかの女中の雑用を担当していた役職でした。そのような階級の低い女中ですら、鏡餅曳をみることはなかったのです。
一方で、女中の私的な召使である「部屋方(へやがた)」は、曳き歩く様子を騒ぎ立てていたといいます。そのような様子からいつしか事実がゆがめられ、「千代田の大奥 鏡餅曳」が描かれたのでしょう。
 
また、こちらは髪を結いあげている様子を描いた「お櫛あげ」。青色の振袖をまとった女性の髪を、お付きの女中が櫛ですいています。
  
『千代田の大奥』より「千代田の大奥 お櫛あげ」 楊洲周延筆 明治27年(1894) 東京国立博物館蔵
 
御台所に関していえば、
「御台所がお目ざめになりますと、中臈がお嗽(すす)ぎを上げます。お櫛も上げます。お櫛と一処に御配膳をいたすのです。御配膳は御年寄の役、お鉢は中年寄、その扱いは中臈、品々を御次までは御次が持って来ます。(御台所は髪を結わせながら、食事をされるのである)」(同書、137頁)
と記述され、髪を結ってもらいながら食事をとっていたことがわかります。なお、お櫛あげは御台所付きの御中臈の仕事でした。仲間の御中臈の髪を結って練習をして上達してから、御台所の櫛あげに臨んだそうです。大奥の女中も同僚と練習していたことを思うと、なんだか親しみ深く感じますね。
 
人物や風景の美しい描写だけでもじっと見入ってしまう『千代田の大奥』ですが、大奥の実際のエピソードと照らし合わせてみても、非常に興味深い作品です。明治時代の人びとが、どのような大奥を思い描いていたのかが如実に伝わってきます。現代の私たちが、ドラマや漫画で大奥を想像するのと変わらないかもしれません。
 
連日猛暑日が続きますが、会場は作品保護のため、しっかり空調がきいております!一枚羽織るものをお持ちなってもよいかもしれません。
また、素敵な大奥展オリジナルグッズの数々も、皆様をお待ちしています。見て、感じて、ショッピングして、大奥展をご堪能いただければ幸いです。

↓以下、広報室編集担当より
 
『千代田の大奥』をモチーフにした展覧会オリジナルグッズ
左上:アクリルパネル(2,200円)、右上:大判はがき40枚セット(6,600円)、中央:三面クリアファイル(990円)(注)すべて税込み
他にも本作品をデザインしたグッズが盛りだくさん。ぜひ、会場でお手に取ってご覧くださいませ。

カテゴリ:「江戸☆大奥」

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posted by 沼沢 ゆかり(文化財活用センター研究員) at 2025年08月15日 (金)

 

金工動物園に潜むあやしいやつを捜せ!

東京国立博物館では、この夏、期間限定で、特集「金工動物園」(本館14室、8月24日(日)まで)を開催しています(図1)。


(図1)特集「金工動物園」(本館14室)の展示風景

暑い夏に、クーラーの効いた展示室(クーラーの温度設定は文化財に合わせています)で、冷たい肌触りの金属でできた動物たちをご観覧いただき、涼んでいただければという企画で、全国の動物園で夏バテ気味の白熊くんもここでは元気にしています(図2)。


(図2)白熊置物(しろくまおきもの)
津田信夫作 昭和19年(1944) 第二復員局寄贈


今日も夏休みの家族連れや海外からのお客様で賑わうこの動物園には、「瑞獣(ずいじゅう)・霊獣」というコーナーがあって、犀(さい、図3)や麒麟(きりん)、獅子(しし)、龍などの想像上の動物が展示されています。


(図3)犀形鎮子(さいがたちんし)
江戸時代・19世紀


「自在置物」のコーナーにもいる龍を除けば、ほとんどが実在の動物ですが、その中に実在の動物をかたどりながらも霊獣的な要素をまとう、ちょっと「あやしい」動物がいます。今回はそんな動物を捜してみましょう。

まず思いっきりあやしいのは、「鯉水滴(魚跳龍門)(こいすいてき ぎょちょうりゅうもん)」(図4)です。


(図4)鯉水滴(魚跳龍門)
江戸時代・18~19世紀


鯉とかいいながら魚の顔でありません。平成のはじめに鶴岡市のお寺で目撃された人面魚の仲間でしょうか。
その正体は龍になろうとしている鯉です。鯉が瀧を登ると龍になるという故事が中国にあり、それを踏まえて作られたものです。今でもよく耳にする「登龍門(とうりゅうもん)」として知られるこの故事は、立身出世を象徴する話で、東アジアで好まれました。水滴は硯(すずり)で墨を擦(す)る際に使う水を入れる容器ですから、この水滴を使っていた人は、何か受験勉強のようなものに励んでいたのかもしれません。

次にあやしいのは同じケースの「蝦蟇水滴(がますいてき)」(図5)です。


(図5)蝦蟇水滴
江戸時代・18~19世紀 渡邊豊太郎氏・渡邊誠之氏寄贈



蝦蟇とはいいながら、体が真ん丸で不敵な目つきをしています。よく見ると後ろ足は1本だけ。いよいよあやしげです。似た蝦蟇を捜すと……

(図6)蝦蟇鉄拐図屛風(がまてっかいずびょうぶ)(左隻)
曽我蕭白筆 江戸時代・18世紀
(注)現在は展示していません。
(図7)蝦蟇鉄拐図屛風(部分)
1本足で立っている蝦蟇

 

ここにいました。曾我蕭白(そがしょうはく)筆「蝦蟇鉄拐図屛風」(図6)の中に1本足で立っている蝦蟇(図7)がいます。この蝦蟇は妖術を使う蝦蟇仙人の使いの蝦蟇です。ただならぬ気配は、妖気によるものだったのですね。

この栗のようなものを背負った牛(図8)もよく見ると変です。栗のようなものはさておいても、前後の足の付け根に炎のようなものが見えます(図9)。何でしょうか。

(図8)金銅臥牛香炉(こんどうがぎゅうこうろ)
江戸時代・17世紀
(図9)金銅臥牛香炉
足の付け根の炎のようなもの

 

背中の栗にようなものは宝珠(ほうじゅ)といい、仏教で信仰された、何でも願いを叶えてくれる力を持った不思議な玉です。この牛は体の中が空洞で、宝珠が蓋になっていて、お香が焚(た)けるようになっています。宝珠に孔(あな)が開いていて、ここから煙が出ます。牛は仏教と結びつきが深く、大威徳明王(だいいとくみょうおう)や焔摩天(えんまてん)の乗り物として登場します。角が長いのは仏教の生まれたインドにいる水牛を意識したものでしょう。炎のようなものは霊気の表現で、この牛が霊獣だということを示しています。黄色い電気のモンスターが「ピカッ」と光る稲妻のような尻尾をつけているのと似てますかね。

「宝字文南天柳瑞獣柄鏡(ほうじもんなんてんやなぎずいじゅうえかがみ)」(図10)にもちょっと不思議な動物(図11)がいます。鼻が長いのが特徴で、先程の「金銅臥牛香炉」(図8)の牛と同じく、前後の足の付け根から霊気を発しているので、霊獣とわかります。何者でしょうか。

 

(図10)宝字文南天柳瑞獣柄鏡
銘「藤原光長」 江戸時代・19世紀 徳川頼貞氏寄贈
(図11)宝字文南天柳瑞獣柄鏡にいる不思議な動物

 

正解は悪夢を食べてくれるという獏(ばく)です。体は熊、鼻は象、目は犀、足は虎、尾は牛に似るとされた中国生まれの合成獣で、龍や鳳凰(ほうおう)ほどではありませんが、日本にも伝わって造形化されました。この鏡では「難を転じる」という南天と組み合わせられて、逆鏡を救う願いが込められています。獏は東南アジアやアメリカ大陸にいるバクと似ているというので同じ名前になっていますが、元々は空想の動物なのですね。

他にもよく見ていくと、あやしげな動物が隠れています。動物と人間の距離が近く、人間がいかに動物にいろいろな思いを託してきたことか。夏の日の思い出に、普通の動物園にはいない、ちょっとミステリアスな動物を捜しに、展示室に来てみてください。

 

カテゴリ:特集・特別公開工芸

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posted by 清水健(工芸室) at 2025年08月07日 (木)

 

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