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1089ブログ

特別展「法隆寺金堂壁画と百済観音」報道発表!

2020年3月13日(金)~5月10日(日)、本館特別4室・特別5室にて、特別展「法隆寺金堂壁画と百済観音」を開催します。
9月24日(火)に本展の報道発表会を行いました。




まずは当館副館長の井上洋一と、法隆寺の古谷正覚(ふるやしょうかく)執事長よりご挨拶をいたしました。


 
左:当館副館長 井上洋一 右:法隆寺 古谷正覚執事長


飛鳥時代に描かれた法隆寺金堂壁画。東洋仏教絵画の白眉と言われた貴重なこの壁画は、1949年の火災により大半が焼損してしまいました。しかし、焼損前に描かれた模写などが残されているおかげで、今でもその威容をうかがい知ることができます。
本展では、法隆寺金堂壁画の模写や、焼損後に再現された現在の壁画、そして日本古代彫刻の最高傑作のひとつである国宝・百済観音など金堂ゆかりの諸仏を展示します。

本展の見どころについて、担当研究員の瀬谷愛より解説いたしました。




【みどころ1】
模写と再現壁画で、かつての荘厳な姿に迫る

かつて法隆寺の金堂内には、釈迦浄土図や阿弥陀浄土図などが描かれた大壁(高さ約3.1m、幅約2.6m)4面と、菩薩たちが描かれた小壁(高さ同、幅約1.5m)8面の、計12面から成る壁画群がありました。
金堂は、修学旅行などで行かれた方も多いかと思います。堂内をよく見てみると、現在は再現壁画があり、当時の空間をイメージできたり、空気感を感じ取ることができます。が、内部が少し暗めなことと、壁画まで少し距離があることで、細部までは見ることは難しいかもしれません。

明治17年(1884年)頃に桜井香雲(さくらいこううん)が、大正11年(1922年)に鈴木空如(すずきくうにょ)が原寸大で描いた模写など、全12面のうち、本展では9面を展示し(※会期中展示替えがあり、9面が入れ替わりで展示されます)、じっくりと対峙していただけるような空間をつくります。
(※焼損した本物の壁画は出品されません。)


 
法隆寺金堂壁画(摸本)
【左】第10号壁 薬師浄土図 
鈴木空如摸 大正11年(1922) 秋田県大仙市蔵 前期展示(3月13日(金)~4月12日(日))
【右】第6号壁 阿弥陀浄土図 
桜井香雲摸 明治17年(1884)頃 東京国立博物館蔵 後期展示(4月14日(火)~5月10日(日))



【みどころ2】
国宝・百済観音、23年ぶりに東京へ!

仏像好きの皆様、お待たせいたしました。百済観音がついに東京へやってきます!

飛鳥彫刻を代表する国宝 観音菩薩立像(百済観音)は、昭和のはじめまでは金堂内に安置されていました。現在は法隆寺の大宝蔵院内に安置されています。
このお像は、江戸時代には「虚空蔵菩薩」とされていましたが、明治になって透かし彫りの宝冠が見つかり、その正面に観音菩薩の象徴である阿弥陀如来の姿が表わされていたため、「百済観音」と呼ばれるようになりました。

初心者の筆者は、やわらかな微笑みを湛えたこのお像に会えるのが楽しみで仕方ないのですが、「23年前にも見たし、法隆寺でも見ているわ」というマニアの皆様にもご納得いただけるような、美しい展示にする予定です。


国宝 観音菩薩立像(百済観音)
飛鳥時代・7世紀 法隆寺蔵
(撮影:佐々木香輔 、提供:奈良国立博物館)


法隆寺の古谷執事長は、ご挨拶のなかで、
「天変地異など大変なことが起こっている昨今、少しでも皆様のお力に繋がるようにという思いで、百済観音にお出ましいただくことになりました」とお話しくださいました。

当館蔵でも今までほとんど展示する機会がなかった壁画模写と、百済観音をご覧いただける貴重な機会です。
特別展「法隆寺金堂壁画と百済観音」、どうぞお楽しみに!


そして、法隆寺公認「百済観音フィギュア」の製作が決定しました!製作はもちろん、海洋堂さんです。
価格などの詳細は、決まり次第本展公式サイトにてお知らせします。

カテゴリ:彫刻2020年度の特別展

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posted by 小島佳(広報室) at 2019年10月13日 (日)

 

トーハクにいる3羽の共命鳥

現在、東洋館で開催している「博物館でアジアの旅 LOVE♡アジア(ラブラブアジア)」(10月14日(月・祝)まで)。愛をテーマにしたさまざまな作品を展示している本企画から、今回は共命鳥についてご紹介します。



共命鳥(ぐみょうちょう)は人の頭をふたつもった想像上の鳥です。

『阿弥陀経(あみだきょう)』には、共命鳥がクジャクやオウムなどとともに極楽浄土に棲み、妙なる声でさえずると記されています。

また『雑宝蔵経(ぞうほうぞうきょう)』では、ふたつある頭のうちの一方がおいしい果実を食べて満腹になったことに、もう一方が嫉妬し、その腹いせに毒の入った果実を食べてしまいます。ついにはともに死んでしまうのです。
この物語は、身体がひとつなのに、頭がふたつあるゆえに生じる感覚や思いの食い違いがさまざまな葛藤や愛憎を惹(ひ)き起こし、やがてわが身を滅ぼすという悲しい結末へと至ります。
そして物語の最後では、おいしい果実を食べた頭が仏陀、毒の入った果実を食べた頭が仏陀と敵対する弟となったと結び、仏教における因果(いんが)がめぐったことを説いています。

このように共命鳥は不思議な姿をし、そして愛憎劇ともいえる不思議なエピソードをもつ鳥として、人々に理解されてきました。
実は、『西遊記』の三蔵法師として知られる玄奘(げんじょう)も『大唐西域記』の中でネパールのヒマラヤ山脈に共命鳥がいたと記しています。玄奘はインドへ仏教経典を取りに行く途中、共命鳥を目撃したのでしょうか。

そんな共命鳥が、トーハクには3羽もいます。


重要文化財 如来三尊仏龕(にょらいさんぞんぶつがん) 中国陝西省西安宝慶寺 唐時代・8世紀

まず1羽は如来三尊仏龕の上部に彫り出された浮彫で、東洋館1階1室の「宝慶寺石仏群」のコーナーにいます。


如来三尊仏龕の上部中央に表わされた共命鳥

これは現在、片方の頭が欠損しているものの、一般的な共命鳥の姿です。ふたつの顔には男女の区別がありません。共命鳥が天空を飛ぶ姿を浮彫に表現したと考えられます。共命鳥を仏龕の上部に表わした例はこの作品のほかになく、たいへん貴重です。

そして残りの2羽は大谷探検隊が将来したテラコッタ製の共命鳥像で、いずれも東洋館2階3室の「西域の美術」のコーナーにいます。

そのうちの1羽は男の顔をもつ鳥と女の顔をもつ鳥が互いに肩を組み、合掌(がっしょう)していたと考えられます。本来の共命鳥像のように身体がひとつでもありません。ただ頭に光背(こうはい)を表わしているので、仏教の尊像であったと考えられます。


共命鳥像 中国、ヨートカン 5世紀 大谷探検隊将来品

もう1羽は人面をもつ鳥ひと組がくっついた姿をしているようです。


共命鳥像 中国、ヨートカン 1~4世紀 大谷探検隊将来品


東洋館3室にある、「テラコッタ小像及破片」を展示したこちらのケース右下にご注目ください。

これらは如来三尊仏龕に表現された共命鳥と、まったく異なるものです。
どうやら西域には男の顔を持つ鳥、女の顔を持つ鳥がそれぞれ仲睦まじい姿に表現されることがあったようです。ただこの種の共命鳥は当館が所蔵する2点しか現存していません。その点できわめて貴重な作品であるといえます。

東洋館では「博物館でアジアの旅」を開催している間、3羽の共命鳥がそろっています。これを機会にぜひ3羽の共命鳥を探してみてください。

カテゴリ:研究員のイチオシ彫刻博物館でアジアの旅

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posted by 勝木言一郎(東洋室長) at 2019年09月24日 (火)

 

特別企画「奈良大和四寺のみほとけ」彫刻研究員座談会

奈良の古刹よりきわめて魅力に富んだ仏像や文書を展示している特別企画「奈良大和四寺のみほとけ」(~9月23日(月・祝))。 今回は、本展に関わった彫刻研究員による展覧会開催までの経緯、仏像について語る、いつもと違ったスペシャルな1089ブログをお届けします。


左:学芸企画部 企画課長 浅見 龍介 中央:学芸研究部 調査研究課 絵画・彫刻室 増田 政史 右:学芸研究部 列品管理課 平常展調整室長 皿井 舞
左:学芸企画部 企画課長 浅見 龍介 中央:学芸研究部 調査研究課 絵画・彫刻室 増田 政史 右:学芸研究部 列品管理課 平常展調整室長 皿井 舞

 

奈良の古刹よりきわめて魅力に富んだ仏像や文書を展示している特別企画「奈良大和四寺のみほとけ」(~9月23日(月・祝))。 今回は、本展に関わった彫刻研究員による展覧会開催までの経緯、仏像について語る、いつもと違ったスペシャルな1089ブログをお届けします。

 
なぜ総合文化展でこの展覧会をすることになったのでしょうか。

当館は彫刻の収蔵品が少なくて、浅⾒さんはいつも「展⽰案を作っていても張り合いがないんだよ」っておっしゃっていますね。 また、総合⽂化展にたくさんの⼈が来てくださるように何かしたいとお考えでしたよね。

その⼀つが寄託品を増やすことでした。寄託品は3年間というスパンでお預かりしているのですが、3年だと少し⻑いというお寺さんがいらっしゃるもしれないから、もう少し短いスパンでお借りできるような、柔軟な仕組みがあればいいなともおっしゃっていましたね。それが、総合⽂化展の活性化にもつながるわけです。

そんな中、室⽣寺さんの話はとてもありがたいお話でしたね。

ええ。室⽣寺さんが収蔵庫(宝物殿)を造ることになり、完成後の枯らしの期間(コンクリート、建材などから出る有機ガスの濃度が薄くなるまで作品を入れずに換気する)、国宝 ⼗⼀⾯観⾳菩薩⽴像と釈迦如来坐像、重要⽂化財 地蔵菩薩⽴像、⼗⼆神将立像12体のうち2体を預かってもらいたいということで当館にお話がありました。

「ぜひ総合⽂化展の中で展示したい︕」と喜んでいたら、室⽣寺の執事⻑さんから、今、岡寺、⻑⾕寺、安倍文殊院、室⽣寺で協⼒して奈良⼤和四寺巡礼と称して、参拝客を誘致している。 それに併せて四寺の展示にしてはどうかというお話をいただいたので、それが実現すれば、部屋全体で特別な展示ができる、とわくわくして、それぞれのお寺に相談して、「奈良大和四寺のみほとけ」という展覧会になりました。

 
規模が大きくなっても、特別展ではなくあえて総合文化展にこだわったのはなぜ?

実は11室ではなく、特別5室(本館中央階段奥の天井の高い部屋)でやったらどうかという話がでたこともありました。特別5室は仏像を置く台もケースもないので多額の設営費がかかります。 そうなると特別展料⾦でやることになりますね。そもそも仏像は輸送費がかかるので、その予算を確保するというのもなかなか⼤変なのです。また広報費も大変です。

それより、さっき⽫井さんが⾔った総合⽂化展を活性化して多くのお客様に総合⽂化展を見ていただく⽅がいいな、という気持ちの⽅が強くて11室での開催、そして総合⽂化展料⾦でご覧いただくことにしました。

平成館4000平⽶の特別展を⾒て、さらに本館となると、お客様も疲れてしまいますよね。 この特別企画を⽬当てにいらした方がせっかくだからと本館の他の展⽰もご覧になって「こんなにいろいろな作品が展⽰されていたんだ」っておっしゃっておられました。当館の総合⽂化展全体を⾒てもらうのに、本特別企画がいいきっかけになっているなという印象は受けています。

 
⻑⾕寺、岡寺、安倍文殊院の出品作品はどうやって決まったのでしょうか︖

⻑⾕寺さんは⼀度、私が伺って、こちらから希望を出したとおりにご快諾いただきました。 岡寺さんは、希望通りいずれも展示してかまわないと仰っていただきました。当館寄託の釈迦涅槃像に加え、京都国立博物館に寄託されている菩薩半跏像と天人文甎は京博の了解を得てすぐに決まりましたが、奈良国⽴博物館寄託の国宝、義淵僧正坐像は輸送が難しいと思い、最初は考えていませんでした。 でも、やっぱりこの展⽰をより充実したいと欲が出て奈良博の彫刻担当者に相談しました。

義淵僧正坐像は⽊⼼乾漆造で、脆弱です。乾漆というのは漆に⽊の粉などを混ぜてペースト状にしたものです。表⾯を⾒ていただいたら、かなりひびが⼊っているのがわかります。輸送が心配なので、あきらめた方がよいかと奈良博にたずねたところ、乾漆が剥がれる心配はないと回答を得てお借りすることができました。

当館は、法隆寺宝物館は別とすれば、奈良時代のお像は少ないんですね。 所蔵品では⽇光菩薩踏下像と、⻄⼤寺さんからの寄託品である釈迦如来坐像ぐらいです。ですから、義淵僧正像を当館で展示できるのはとてもうれしかった。

本当は、 ⻑⾕寺さんの国宝 銅板法華説相図もお借りしたかったのですが、展⽰ケースにうまく納まらないため、断念しました。

そうですね。既存の台や展示ケースを利用するので、制約はあるわけです。

安倍文殊院さんにもお願いに⾏ってきました。快慶作の大変立派なお像があるのでお借りできればと思ったのですが、安倍文殊院さんは檀家のいないご祈祷寺なんですね。だからお像を出すことはできないが、その代わり、文殊菩薩の像内納入品の経巻を出しますとおっしゃってくださったんです。

展覧会は100パーセントこちらの望みがかなうなんていうことはないので、できる範囲でご協力をいただいて、それで最善のものにする。観覧される方々、ご所蔵者、主催者など関わった人がみんな「よかった」と笑顔になるようにしたいと思っています 笑。

 
本展で展示している仏像はバラエティーにとんでいますよね。技法や特徴について解説していただけますでしょうか?

銅造もあれば、甎もあるし、⽊⼼乾漆造もあります。また⽊彫像は、⼀⽊造もあれば寄⽊造もあり、ほぼ⽇本の造像技法を網羅しています。

例えば、⻑⾕寺の木造⼗⼀⾯観⾳菩薩⽴像。ブログにも書きましたけど、通常 平安時代11世紀後半から12世紀のお像は、内刳り(内部を空洞にすること)を⼊念に施すので、⽊の部分が薄くなるんですよ。だから軽いです。でも、このお像は内刳りしていないから重い。

 

 


十一面観音菩薩立像 平安時代・12世紀 奈良・長谷寺蔵

木目を見るとクスノキですね。クスノキは平安時代半ば以降、主に使われたヒノキより重いです。針葉樹のカヤは奈良時代後期から平安時代前期によく使われた⽊材ですけど、ヒノキに⽐べて重いです。

同じヒノキでも⽬が詰んでいるか、⽬が粗いかで全然違います。⽬が詰んでいれば重い。このお像は、軽いはずの顔をしていて重いので驚いたんです。

平安時代後期でクスノキが使われるっていうのは、すごく珍しいですよ。 ⻑⾕寺のご本尊の⼗⼀⾯観⾳立像はもともと霊⽊のクスノキで造られたという伝承がありますから、このお像もご本尊を意識して造っただろうという推測が成り⽴つんですよね。

このお像は⻑⾕寺の住職の住坊にあるので、あんまり今まで出ることはなかったんですね。
正確にはCTを撮って公表しますが、左⼿はどうも⼿⾸まで、右⼿は肘まで胴体と同じ⽊から造っているようなんですよ。両腕の内側は、鑿で胴との間を削って削って貫通させて、体との隙間をつくっているんですね。下半身にU字にかかる天衣も両足の間は体から浮くように隙間を作っています。

⼀⽊から透かし彫りになるような空間をつくるやり⽅って⼤変じゃないですか。
⼀般的に別の⽊で造って矧ぎ付けたほうが効率的ですが、わざわざ⼿の部分、肘まで、ぎりぎり1本の⽊材から取ろうとしてい るのは、使っている⽊からすべて彫り出したいという意識があったようで、 何か特別な⽊を使っているんじゃないかと思いたくなります。

確かにそうですね。

岡寺の菩薩半跏像は銅造ですね。これは溶けた銅を流して、それが隅々まで行き渡るようにしなくてはいけないですね。

 


重要文化財 菩薩半跏像(ぼさつはんかぞう) 奈良時代・8世紀 岡寺蔵

奈良時代の銅は純度が高く、少し流れにくいですね。

流しやすくするために、スズ、ヒ素や鉛を⼊れたりするんですよね。

⻘銅は銅とスズの合⾦で、中世のものは鉛の含有量が多いですね。

朝鮮半島製の⾦銅仏と⽇本製の⾦銅仏だと成分⽐が違ったりします。最近は蛍光X線分析という科学的な調査なんかも盛んに行なわれていますね。

⻑⾕寺の重要⽂化財 難陀⿓王⽴像は⽊造ですが、こちらは像内の銘⽂から12日間という短期間で完成されたことがわかりますよね。

 


重要文化財 難陀龍王立像 舜慶作 鎌倉時代・正和5年 奈良・長谷寺蔵

⻑⾕寺の本尊の⼗⼀⾯観⾳菩薩⽴像は⽕災により焼失と復興を繰り返しているのですが、復興するとき仏像を造るために競合した仏師に⼊札させて、担当仏師を決めているんですよ。恐らく、難陀龍王像の担当仏師は、短期間で出来るとアピールしたんじゃないでしょうか。

いつから難陀⿓王が出てくるのかが謎ではあるんですけど、少なくとも中世的な信仰ですね。

春⽇神と同体と⾔っているけど、春⽇神と難陀⿓王がどうして結びつくのかよく分からないですね。ただ難陀⿓王も⾚精童⼦も⾬乞いの本尊になるのですが、雨を降らせるだけじゃなくて、大雨を止めることもできる。初瀬川の下流の⼤和川ってよく氾濫していたらしいのですよね。だから止める方の祈祷もあったと思います。

 

この難陀⿓王ですが、両肩、⿓は別に造って接合したものです。制作した仏師は8⼈ですよね。

多分、分業していますよね。分担して何日で出来るかって、⼊札の前にひな形造っていますよ、きっと。ただ彩⾊は短期間では絶対、終わらないですね。

この難陀龍王像、実は背中に小さな焦げ跡がありますよね。

⽕災のときにできたんでしょうね。

火事だああ!って急いで助け出して運んだんですよね。これ重いし、今のように高いところに安置していたなら、⼤変だったと思います。

 
安倍文殊院の「国宝 文殊菩薩像像内納入品 仏頂尊勝陀羅尼・文殊真言等(もんじゅぼさつぞうぞうないのうにゅうひん ぶっちょうそんしょうだらに・もんじゅしんごんとう)」とはどういうものなのでしょうか。
 


国宝 文殊菩薩像像内納入品 仏頂尊勝陀羅尼・文殊真言等 鎌倉時代・承久2年(1220)奈良・安倍文殊院蔵

「仏頂尊勝陀羅尼(ぶっちょうそんしょうだらに)」は、「仏頂尊勝陀羅尼経」というお経のなかにある呪文です。鎌倉時代の仏像の納入品によく書かれています。

お経というのは別名「法舎利(ほっしゃり)」ともいいます。舎利というのはお釈迦様の遺骨です。そして、法というのはお釈迦様が説いた教えです。お経というのは、それを書き記したもので、「お経=お釈迦様」つまりお釈迦様そのものという考え方があるんですね。

それを仏像のなかに入れることによって、魂を入れる、というような考え方もあるそうです。

⽂殊菩薩がこの世の中国の五台⼭に⽣きて存在しているという信仰があって、それを聞いたインドのお坊さんが中国までわざわざ会いに⾏くんですね。

そして、会いに⾏く途中で⽼⼈に出会うんです。
その⽼⼈は「仏頂尊勝陀羅尼経というお経をもってきたか︖」とインドのお坊さんに問いかけます。お坊さんは持ってきていなくて、⽼⼈が「持ってきたら、⽂殊菩薩に会えるぞ」と⾔ったので、お坊さんは⼀旦「仏頂尊勝陀羅尼経」を取りにインドに戻るんです。

⼀往復して、「仏頂尊勝陀羅尼経」を持ってインドから中国にまた来るんですね。 そして「仏頂尊勝陀羅尼経」を持っていったら、五台⼭の文殊菩薩に会うことができたという物語があります。

元々その老人が文殊菩薩の化身なんだよね。

そうですね。姿を変えてお坊さんを試していた、ということです。

途中で⼼が折れたら会えないんですね 笑。また、この納入品にはたくさん同じ⽂字が書かれています。 文殊菩薩を表わす梵字で「マン」と読むのですが、⼀個書くことが仏をつくることの象徴で功徳を積んでることになるんですよ。

 

 
会期終了(9月23日(火・祝))まで残すところわずかとなりましたが、何か一言お願いします。

まだ御覧になっていない方はぜひご来館ください。お寺で拝観するより間近で、照明も当たり、側面、背面まで観ることができる貴重な機会です。
御覧になったみなさま、今度はぜひお寺にお参りください。境内の景色、古いお堂の中で、拝観すれば博物館とは違った発見と感動があると思います。

なお室生寺さんの新宝物館の枯らしの期間を延長されるため、室生寺のご尊像のみ、来年2月24日(日)まで展示を延長いたします。また違った展示台でご覧いただけますので、引き続きお楽しみいただければと思います。

 


本展を担当した 左から 広報室 江原 香、増田 政史、浅見 龍介、皿井 舞、ポスター・チラシ・会場をデザインした、デザイン室 荻堂 正博

特別企画「奈良大和四寺のみほとけ」も閉幕まで残りわずか、9月23日(月・祝)までの開催です。ぜひ会場に足をお運びいただきお楽しみください。

特別企画「奈良大和四寺のみほとけ」

本館 11室
2019年6月18日(火)~ 2019年9月23日(月)

 

カテゴリ:研究員のイチオシ彫刻特別企画

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posted by 広報室 at 2019年09月20日 (金)

 

半跏思惟像の仲間たち

こんにちは。彫刻担当の西木です。
奈良を代表する四寺の仏さまをご覧いただいている、特別企画「奈良大和四寺のみほとけ」(~9月23日(月・祝))。

今回ご紹介するのは、岡寺所蔵の菩薩半跏像(以下、岡寺像といいます)です。じつは、トーハクでは半跏像の仲間がたくさん見られるので、このブログでは、トーハクの半跏像と比べながらご紹介しましょう。


重要文化財 菩薩半跏像(ぼさつはんかぞう) 奈良時代・8世紀 岡寺蔵

「半跏(はんか)」というのは、片脚を組んで坐る姿勢のことです。一般的な仏像は、立っていれば「立像」、坐っていれば「坐像」、椅子などに坐って両脚を降ろしていれば「倚像(いぞう)」といいます。

岡寺像は、裙(くん)と呼ばれる、下半身にまとうスカートのような衣が台座にかかっており分かりにくいですが、背もたれのないスツールのような椅子に坐っています。横から見ていただくと、スカートとは別の布を被せて紐でくくっているのが分かります。

本展をはじめ、今は「半跏像」と呼ぶことが多いですが、こうした坐り方の菩薩像のうち、右手で頬杖を突いて考えごとをするようなポーズの像が多いため、「半跏思惟像(はんかしゆいぞう)」と呼ぶこともあります。教科書に出てくるのは「半跏思惟像」ですね。


岡寺像は、人差し指と中指が頬にくっついています。

さて、ここまで読んできて疑問に思われたかと思いますが、なぜ「菩薩半跏像」もしくは「半跏思惟像」というのでしょうか。結論からいいますと、こうした姿の菩薩像は、地域によってさまざまな名前で信仰されており、なかなか特定できないからなのです。

たとえば、インドでは出家される前に思い悩む姿として半跏思惟像が現われます。つまり、それがお釈迦様ですね。本名がゴータマ・シッダールタなので、中国では悉達太子(しっだたいし)と呼ばれました。また、手に蓮華を持つものがあり、これは観音菩薩と捉えられていたようです。

日本では、未来に現われる救世主である弥勒菩薩として信仰されることもありました。飛鳥時代の日本とつながりの深かった朝鮮半島にも半跏思惟像は多いので、同じく弥勒菩薩と考える説もあります。日本では、台座の下方に山岳を描くものがあり、兜率天(とそつてん)と呼ばれる天上で瞑想にふける弥勒菩薩の特徴とも指摘されています。


菩薩半跏像 朝鮮 三国時代・7世紀 小倉コレクション保存会寄贈(東洋館10室にて展示中)

 

 

【上】重要文化財 菩薩半跏像 飛鳥時代・7世紀(法隆寺宝物館第2室にて展示中)

【下】重要文化財 菩薩半跏像(台座)

【左】重要文化財 菩薩半跏像 飛鳥時代・7世紀(法隆寺宝物館第2室にて展示中)

【右】重要文化財 菩薩半跏像(台座)

中国で盛んに造られた、樹の下に表わされる半跏思惟像は、やはりお釈迦様が思い悩む姿と思われます。「龍(華)樹」と彫られた像があるため、弥勒菩薩が教えを説く前の姿とも言われています。

菩薩五尊像 中国 北斉時代・6世紀
東洋館1室にて展示中)

 

 

菩薩五尊像(背面)

岡寺像は、お寺では本尊の如意輪観音菩薩坐像の像内から発見されたと伝えられるため、如意輪観音として信仰されてきましたが、こうした事情により本展では他にならって「菩薩半跏像」としています。半跏思惟像の名前を決めるのは、案外難しいのです。

つぎに、岡寺像はいつ頃造られたのでしょうか。

法隆寺宝物館には、常に10体もの半跏像をご覧いただけます。法隆寺宝物館に行ってみましょう。

どれも飛鳥時代(7世紀)に造られたものと考えられていますが、たとえば【1】の菩薩半跏像は、衣のひだが規則的に整えられており、裾には折り畳まれて「品」という漢字に近い形が表わされています。やや厳しい表情も特徴です。法隆寺金堂の釈迦三尊像を造った止利仏師(とりぶっし)のスタイルに近いですね。半跏像以外では、如来坐像や、如来立像も典型的な止利風を示します。

【1】重要文化財 菩薩半跏像 飛鳥時代・7世紀(法隆寺宝物館第2室にて展示中)

 

 

【2】重要文化財 如来坐像 飛鳥時代・7世紀(法隆寺宝物館第2室にて展示中)

法隆寺宝物館で多いのは、もっと頭が大きくて、衣が賑やかに表わされたものです。台座に山岳文が表わされている【3】菩薩半跏像もそのひとつで、衣には品字形のひだがありますが、縁にタガネと呼ばれる道具で細かく文様が彫られており、華やかさを感じます。顔はまんまるとして、子どものようであることから、「童子形(どうじぎょう)」と呼ばれています。【4】は童子形でありながら、顔は眉毛がつながる濃い顔立ち、体は肉づきよく、外国から新しい表現が入ってきたことを思わせます。衣のひだも、だいぶ乱れていて、賑やかになりました。

【3】重要文化財 菩薩半跏像 飛鳥時代・7世紀(法隆寺宝物館第2室にて展示中)

 

 

【4】重要文化財 菩薩半跏像 飛鳥時代・7世紀(法隆寺宝物館第2室にて展示中)

一方で、岡寺像を見てみましょう。

表情は少しはっきりしませんが(とくに目は墨で描いていたのでしょう)、目鼻は整っており、やや大人びた顔立ちのようです。体は細身ですが、ふっくらとした肉づきを感じさせます。衣のひだは少なく、シンプルですが、組んだ右脚の輪郭がはっきりとでており、足首で引っ張れたひだは、とても自然に表わされています。品字形に近いひだもありますが、だいぶ崩れているようです。

 

 

いずれも、近い表現を法隆寺宝物館で見ることはできません。飛鳥時代より写実的な表現が進んでいる点から、奈良時代(8世紀)に入って製作されたことが推測できます。

ところが、頭の飾りには、古い要素が確認できます。たとえば、頂点に上向きの三日月と太陽の組み合わせがあり、中央に房飾りを垂らしています。これは辛亥年(651)に造られたことがわかる【5】観音菩薩立像や、同じ頃に製作されたとみられる【6】観音菩薩立像に典型的に見られるものです。しかし、いずれも衣のひだが左右対称に整えられる点など、その表現は岡寺像とまったく異なります。

 

【5】重要文化財 観音菩薩立像(頭部) 飛鳥時代・白雉2年(651)(法隆寺宝物館第2室にて展示中)

 

 

重要文化財 観音菩薩立像(正面)

 

【6】重要文化財 観音菩薩立像(頭部) 飛鳥時代・7世紀(法隆寺宝物館第2室にて展示中)

 

 

重要文化財 観音菩薩立像(正面)

想像になりますが、飛鳥時代(7世紀)、あるいは同じ頃かそれより古い時代の中国や朝鮮半島由来の古い仏像が伝えられており、これを模倣して奈良時代(8世紀)に新しく造られたのが、岡寺像ではないでしょうか。とても重要な像であったからこそ、本尊のなかに納められていたとも考えられます。もちろん、小さな金銅仏は持ち運びも簡単なので、本来どこにあったものなのかすら確かではありませんが、東アジアにおける仏像の歩みを物語る、貴重な証人であることはまちがいありません。

今回紹介した「半跏像」の仲間は、現在 東洋館法隆寺宝物館で展示中です。
特別企画「奈良大和四寺のみほとけ」とあわせてご覧いただけますので、ぜひチェックしてみてください。

 

特別企画「奈良大和四寺のみほとけ」

本館 11室
2019年6月18日(火)~ 2019年9月23日(月)

 

カテゴリ:研究員のイチオシ彫刻特別企画

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posted by 西木政統 at 2019年09月11日 (水)

 

メタモルフォーゼする謎の「板光背」

こんにちは。1089ミステリーハンターの高橋です。
今回は、特別企画「奈良大和四寺のみほとけ」(~9月23日(月・祝))の会場でふしぎハッケン!

連日多くの仏像ファンたちでにぎわう特別企画の会場。
一番奥のスペースには、室生寺の十一面観音菩薩像・地蔵菩薩像・十二神将像が居並びます。

さてさっそくですが、ここでクエスチョンです。
下の展示風景のなかで、ちょっと不自然なところがあります。それはいったい何でしょう?
(ちなみに会場の造作やキャプションは関係ありません ←不備があるわけではありません)


手前: 重要文化財 十二神将立像(酉神・巳神)鎌倉時代・13世紀 室生寺
奥左: 重要文化財 地蔵菩薩立像 平安時代・10世紀 室生寺
奥右: 国宝 十一面観音菩薩立像 平安時代・9~10世紀 室生寺


ヒントとして、もう少しお像に近づいてみましょう。とくに地蔵菩薩像の頭の周辺に注目です。



おわかりになったでしょうか?(自信のある方はぜひ「スーパー〇とし君」をどうぞ 笑)

というわけで正解は、「地蔵菩薩像と後ろの光背(こうはい)の大きさが合っていない」でした。


写真を見ると、地蔵の頭から発せられる頭光(ずこう)の位置が、頭より上になっていることがわかります。
つまり、現在付けられている光背は、元々はこのお像のものではなかったのです。

じつはこの光背、元来は室生寺の近隣・三本松に安置されている地蔵菩薩像に付けられていたものでした。
三本松の像は、光背とともに室生寺金堂に安置されていましたが、いつしか本体のみが三本松に移されました。

現在の地蔵菩薩像(現在展示中のお像)は、いつの頃か他のお堂から金堂へと移されたと考えられています。
仏像は時として、このように当初の安置場所から移動している例が少なからずあるのです。


さて、ここでさらに注目したいのが、この光背に描かれる様々な絵画表現です。



そもそも光背とは、仏の体から発せられる光をかたちにしたもの。
一般的には光背の周りの部分に文様を彫り出したり、小さな仏を取り付けたりします。

一方でこの「板光背(いたこうはい)」は、平らな木の板で作られた光背に、絵具や墨などで尊像や文様を描き表しています。
板光背は、平安時代前期(9~10世紀)に作られたものが多く、特に奈良県の寺院に集中して伝わっています。


室生寺金堂の真ん中に安置されている薬師如来像(今回の企画では展示されません)の板光背も、地蔵菩薩像の光背と同じ作風を示しており、同時期に制作されたと考えられます。


国宝 薬師如来立像(伝釈迦如来立像)平安時代・9~10世紀 室生寺

(この像は、現在お寺では釈迦如来として信仰されていますが、光背に7体の薬師如来が描かれていることや、薬師如来に付き従う存在の十二神将像があることから、もともとは薬師如来であったと考えられています。)

 


ほかにも、奈良の當麻寺には、(本体は無いのに)板光背ばかりが何と60数点(!)も見つかっています。
一体なぜ、この時期の奈良に限って、このような板光背が流行したのか。その理由はよくわかっていません。


謎に満ちた板光背ですが、細部を見てみると、とても華麗な色彩表現がなされていることがわかります。
とくに外縁部に描かれた9体の地蔵菩薩は、簡略な表現でありながら、その優美さに思わず目を奪われます。

面貌や肉身部分を朱線で描き起こすのも、平安時代前期の造形的な特徴を示しています。
この板光背の図様は、絵画として地蔵を表した例としては、おそらく現存最古といえるでしょう。




そしてさらに見逃せないのは、地蔵の周囲を彩る、躍動感あふれる唐草文様です。
本来は植物文であるにもかかわらず、その勢いはまるで渦巻く水流のよう。
かと思えば、その先端は、赤く燃え上がる火焔にメタモルフォーゼ!



この板光背を見ていると、あたかも古代の人々のイマジネーションの一端にふれるような気分になります。

あるいはこうした文様表現を、後世に家紋として流行する「巴文(ともえもん)」や、彫漆などに表される「屈輪文(ぐりもん)」の源流と捉えるのも面白いかもしれませんね。




ちなみに会場内では、地蔵菩薩像の目の前まで行って拝観すると、ちょうど頭光とぴったりになります。
どうぞお好みの位置や角度で、何度でも心ゆくまでご覧ください!

特別企画「奈良大和四寺のみほとけ」

本館 11室
2019年6月18日(火)~ 2019年9月23日(月)

カテゴリ:研究員のイチオシ彫刻特別企画

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posted by 高橋真作(絵画・彫刻室) at 2019年08月16日 (金)