東洋絵画を担当する植松です。
現在、東洋館8室では、トーハクと台東区立書道博物館の連携企画「清朝書画コレクションの諸相―高島槐安収集品を中心に―」の後期展示(2月2日(火)~2月28日(日))が始まっています。
この展示は、高島槐安のコレクションをメインにした企画ではありますが、同時に、高島に至るさまざまな中国絵画コレクターの足跡を紹介したいということで、中国清朝宮廷コレクションのコーナーを設けています。
今回のブログでは、この中から、陳書(ちんしょ)筆「倣陳淳水仙図巻(ほうちんじゅんすいせんずかん)」をご紹介したいと思います。
倣陳淳水仙図巻(部分) 陳書筆 清時代・雍正12年(1734) 東京国立博物館蔵(東博後期展示)
陳書(1660~1736)は、秀水(現在の浙江省嘉興市)の女流画家です。
晩年は南楼老人という号を用いました。
この作品の末尾にも、「南楼老人陳書時年七十又五」の落款があり、陳書が75歳のときの作とわかります。
「倣陳淳水仙図巻」款書
明時代の文人画家、陳淳(ちんじゅん/1482~1544)に倣って、咲き乱れる水仙の群れを描いたという、清雅な作品です。
この「倣陳淳水仙図巻」には、清の乾隆帝(けんりゅうてい/位1736~1795)、嘉慶帝(かけいてい/位1796~1820)、宣統帝(せんとうてい/位1909~1911)の鑑蔵印が多数捺されていて、かつて清朝の宮廷にあったことがわかります。
清の宮廷のコレクション目録『石渠宝笈(せっきょほうきゅう) 続編』にも記録されています。
また、宮廷であつらえられたであろう、箱と包裂、爪がともに伝わっている点でも貴重です。
順番にご紹介したいと思います。
まず、箱ですが、蓋と側面に「女史陳書倣陳淳水仙」と彫られた端正なつくりです。
「倣陳淳水仙図巻」箱
作品は光沢のある裂にくるまれて、この箱の中に収められています。
包裂の裏側には「女史陳書倣陳淳水仙真蹟、上等」の文字があります。
「倣陳淳水仙図巻」包裂(表)
「倣陳淳水仙図巻」包裂(裏)
表紙や巻緒が清朝宮廷であつらえられたままであるかどうかの決め手はないのですが、現在は別に保存されている玉製の爪は宮廷で作られたものと考えられます。
玉の表面には装飾がほどこされ、裏面には、箱や包裂と同様、「乾隆御賞。女史陳書倣陳淳水仙」の文字が彫られています。
「倣陳淳水仙図巻」表紙、巻緒
「倣陳淳水仙図巻」爪(左:表面、右:裏面)
当館所蔵の中国絵画には、かつて清朝の宮廷にあったとわかる作品がいくつかありますが、「倣陳淳水仙図巻」のように、箱・包裂・爪の三つの付属品がそろってともに伝わっているものは、蕭雲従(しょううんじゅう)筆「秋山行旅図巻(しゅうざんこうりょずかん )」くらいです。
重要文化財 秋山行旅図巻(部分) 蕭雲従筆 清時代・17世紀 東京国立博物館蔵 ※本展示には出陳しません。
「秋山行旅図巻」付属品
本展示では、中国清朝宮廷コレクションのコーナーで、この「倣陳淳水仙図巻」の箱や包裂、爪も一緒に展示いたします。
作品と一緒に、宮廷の雅びな表装文化もお楽しみいただければ幸いです。
※新型コロナウイルス感染症拡大防止のため、現在、トーハクはオンラインによる事前予約(日時指定券)制で開館、台東区立書道博物館は緊急事態宣言終了まで臨時休館(再開はウェブサイトにてお知らせ)しております。
お客様にはご不便をおかけしますが、ご理解とご協力をお願いいたします。
清朝書画コレクションの諸相―中村不折・高島槐安収集品を中心に― 編集:台東区立書道博物館 編集協力:東京国立博物館 九州国立博物館 発行:公益財団法人 台東区芸術文化財団 定価:1,200円(税込) ミュージアムショップのウェブサイトに移動する |
![]() |
| 記事URL |
posted by 植松瑞希(出版企画室) at 2021年02月05日 (金)
東洋書跡を担当する六人部と申します。
トーハク(会場:東洋館8室)と台東区立書道博物館(書博)で毎年開催している恒例の連携企画は、現在の「清朝書画コレクションの諸相」(前期:~1月31日(日)、後期:2月2日(火)~2月28日(日))で18回目となりました。
今年は、中国書画の清時代におけるコレクションがテーマです。トーハクは「高島槐安収集品を中心に」、書博は「中村不折収集品を中心に」と副題を冠し、中村不折(なかむらふせつ)と高島槐安(たかしまかいあん)、主に両氏の収集品を通して、清時代の宮廷と民間の書画コレクションを概観するという趣旨の展示です。
新型コロナウイルス感染症拡大防止のため、現在、トーハクはオンラインによる事前予約(日時指定券)制で開館、書博は緊急事態宣言終了まで臨時休館(再開は書博ホームページにてお知らせ)しております。
お客様にはご不便をおかけしますが、ご理解とご協力をお願いいたします。
トーハクは今週末で前期展が終了し、2月2日から後期展が始まります。今回は、企画の前提となる中村不折と高島槐安についてお話したうえで、清時代のコレクションに触れながら、トーハクで展示するオススメの書跡をご紹介します。
特集「清朝書画コレクションの諸相―高島槐安収集品を中心に―」(東京国立博物館東洋館8室)の展示風景
中村不折(1866~1943)は幕末に生まれ、明治から昭和に活躍した画家、書家、収蔵家です。
本業の洋画は、歴史画を中心に発表して太平洋画会の代表的な作家となり、帝国美術院会員を務めました。画業は幅広く、新聞挿絵、文学作品の装幀・挿絵、美術批評など多岐にわたります。
画家として不動の地位を築いた一方、余技とした書でも、その言葉に余りあるほどの功績を残しました。北魏の書を基調とした作風を発表して当時の書壇に一石を投じ、書に関する考古品や中国歴代の書の名品を収集して膨大なコレクションを築き、一般に公開するために自ら書道博物館を創設、開館(1936年)しました。
没後も中村家によって書道博物館は維持運営され、その後、台東区への寄贈(1995年)を経て、台東区立書道博物館(2000年~)として再開館するに至ります。中村不折コレクションの代表的な作品には、顔真卿(がんしんけい)筆「自書告身帖(じしょこくしんじょう)」が挙げられます。
中村不折肖像
自書告身帖(部分) 顔真卿筆 唐時代・建中元年(780) 台東区立書道博物館蔵(書博展示予定)
人事を掌る吏部尚書から皇太子の教育係である太子少師への自身の転任について、唐の顔真卿が自ら書いたと伝わる辞令書です。宋時代に宮廷から民間に流出し、清時代には梁清標(りょうせいひょう)らの手を経て、乾隆帝(けんりゅうてい)の治世に再び宮廷コレクションとなり、乾隆帝自ら題詞を記して最上級の装幀を施しました。清朝宮廷所蔵の書画著録『石渠宝笈(せっきょほうきゅう)』続編(淳化軒)に収録されます。
不折より9歳年少の高島槐安(1875~1969)は、名を菊次郎といい、明治から昭和にかけて活躍した実業家、収蔵家です。長らく製紙業界に身を置いて王子製紙社長などの要職を歴任し、斯界の発展に寄与しました。中国の思想や美術に精しく、余暇には漢籍や書を研究し、自ら宋元明清を中心とする書画の収集に努めました。槐安は晩年91歳時(1965年)に、わが子同然に愛蔵していた書画をトーハクに寄贈し、没後もその遺志を継がれたご遺族によって三度(1969、84、98年)、遺愛の品が寄贈されました。
トーハクの高島槐安コレクションは総数345件(書跡221件、硯5件、絵画119件)になります。このうち書跡は、西周~北宋時代の石碑を主とする金石銘文の拓本、法帖、北宋~中華民国時代にわたる肉筆の文人法書が揃い、古代から近代の中国書法史を概観できる作品群として貴重です。代表的な作品として、「定武蘭亭序(呉炳本)(ていぶらんていじょ(ごへいぼん))」が挙げられます。
高島槐安肖像
定武蘭亭序(呉炳本)(部分) 原跡=王羲之筆 原跡=東晋時代・永和9年(353) 高島菊次郎氏寄贈 東京国立博物館蔵(東博通期展示)
「定武蘭亭序」は、唐の欧陽詢(おうようじゅん)が臨書した王羲之(おうぎし)の「蘭亭序」を、唐の太宗(たいそう)が石に刻させたと伝承される拓本です。この「呉炳本」は、北宋時代に原石が破損される前にとられた「五字未損本」として伝わる稀少な旧拓本で、元の呉炳が所蔵したことからこの名があります。元の倪瓚(げいさん)、明の沈周(しんしゅう)、清の王文治(おうぶんち)など、民国期までの歴代の名家が題跋を付し、民間で逓伝してきたことがわかります。
不折と槐安が収集活動を展開した明治40年代~昭和10年代は、清朝が崩壊し、宮廷や民間に所蔵されていた書画の名品が流出して、日本にも流入してきた時期にあたります。
中国の文化に造詣の深い当時の貴族や財界人、学者、芸術家たちは、この好機を逃すまいと収集に努め、不折と槐安もまた、収蔵家や書肆・美術商、学者・芸術家など様々な人脈を介してコレクションを築いていったのです。
それでは清朝が崩壊するまではどうだったのでしょうか。清時代のコレクションの変遷に目を移してみましょう。
中国では明時代(1368~1644)の中期以降、経済発展が著しかった江南地方を中心に、書画の収蔵が盛んに行われました。16世紀には、項元汴(こうげんべん/1525~90)という収蔵家を筆頭に、江南では宮廷を凌ぐほど民間のコレクションが充実しました。
清時代(1616~1912)に入ると、17世紀には明・清両朝に仕えた孫承沢(そんしょうたく/1593~1676)や梁清標(1620~91)をはじめ、華北地方の収蔵家が江南から多くの書画を獲得して、良質のコレクションを築きました。
しかし、18世紀になると、彼ら民間の収蔵品は、次々に宮廷に吸収されることとなります。清朝の皇帝たちが書画の収集に意を注ぎ、特に乾隆帝(位1735~96)の治世には、最も壮大な宮廷コレクションが形成されました。清朝宮廷の書画コレクションの内容は、『秘殿珠林(ひでんじゅりん)』『石渠宝笈』の初編・続編・三編によって窺うことができます。
群玉堂米帖(ぐんぎょくどうべいじょう) 韓侂冑(かんたくちゅう)編 編纂=南宋時代・12~13世紀 高島菊次郎氏寄贈 東京国立博物館蔵(東博前期展示)
南宋の韓侂冑が家蔵の書を選び、向若水(しょうじゃくすい)に刻させた『閲古堂帖(えつこどうじょう)』は、後に『群玉堂帖』と改称されました。これは全10巻中、北宋の米芾(べいふつ)の書を収める巻8の後半部にあたる零本で、完本が現存しない『群玉堂帖』の稀少な作例です。清時代に孫承沢らが旧蔵し、翁方綱(おうほうこう)、李宗瀚(りそうかん)らが題跋を付します。翁方綱は、本紙冒頭の脇に付された題簽を孫承沢の書であると指摘しています。
草玄閣次韻詩冊(そうげんかくじいんしさつ) 張経(ちょうけい)他筆 元時代・至正23年(1363) 高島菊次郎氏寄贈 東京国立博物館蔵(東博前期展示)
元の官僚、詩人の楊維楨(よういてい)は、松江(上海市)の自邸に築いた草玄閣の落成記念に詩を詠みました。本作は、その七言律詩に対して楊の門生ら元人19家が唱和して記した書を合装した一冊です。清時代には、梁清標の手を経て宮廷コレクションとなりました。『石渠宝笈』初編(御書房)に収録されます。
一方、民間における書画の収蔵や鑑賞も依然、活況を呈しました。18~19世紀には、碑帖に執心した翁方綱(1733~1818)や李宗瀚(1769~1831)らのコレクションが知られ、貿易で栄えた広東地方では、呉栄光(ごえいこう/1773~1843)や潘正煒(はんせいい/1791~1850)らの収蔵家が輩出しました。
激動の清末から中華民国期には、宮廷コレクションが存続の危機を迎える一方で、民間では楊守敬(ようしゅけい/1839~1915)、端方(たんぽう/1861~1911)、羅振玉(らしんぎょく/1866~1940)など、日本とも関係の深い収蔵家たちが、世情に左右されながらも旺盛な活動を展開しました。そして、辛亥革命(1911~12)を契機として、宮廷や民間の書画は海外にも流出し、日本でも質の高いコレクションが形成されることとなったのです。
楷書前後出師表巻(かいしょぜんごすいしひょうかん)(部分) 祝允明(しゅくいんめい)筆 明時代・正徳9年(1514) 高島菊次郎氏寄贈 東京国立博物館蔵(東博後期展示)
明時代中期の代表的な文人である祝允明が、無錫(江蘇省)の収蔵家の華夏(かか)から依頼されて、諸葛亮「前後出師表」を書写した一巻です。三国時代・魏の鍾繇(しょうよう)を彷彿させる、ふっくらとした字姿の小楷は、古雅な趣をたたえます。翁方綱らの跋文があり、広東の収蔵家である潘正煒、伍元蕙(ごげんけい)らが旧蔵しました。
行書文語巻(ぎょうしょぶんごかん)(部分) 張栻(ちょうしょく)筆 南宋時代・12世紀 高島菊次郎氏寄贈 東京国立博物館蔵(東博後期展示)
張栻は南宋の官僚で、朱熹(しゅき)、呂祖謙(りょそけん)とともに東南三賢と称された大学者です。これは北宋末の諫官、某氏の行状と国家を論じた一巻で、伝存する張栻の書の作例として貴重です。清末の盛昱(せいいく)や羅振玉、山本二峯(悌二郎)らが旧蔵し、羅振玉の跋文と山本所蔵時に記された長尾雨山(甲)の跋文があります。
中国伝統の文化を受け継いだ中村不折と高島槐安のコレクションは、本人やご家族らの尽力で戦火をくぐり抜け、文字通り懸命に護持され、今に伝えられてきました。
本展を通して、書画を愛してやまなかった両氏をはじめ、日中の収蔵家たちに、思いを馳せていただけますと幸いです。
清朝書画コレクションの諸相―中村不折・高島槐安収集品を中心に― 編集:台東区立書道博物館 編集協力:東京国立博物館 九州国立博物館 発行:公益財団法人 台東区芸術文化財団 定価:1,200円(税込) ミュージアムショップのウェブサイトに移動する |
![]() |
| 記事URL |
posted by 六人部克典(登録室) at 2021年01月29日 (金)
ほほーい、ぼくトーハクくん! 今日のぼくは、ひと味ちがうんだほ。ユリノキちゃん見て見て!
本当だ、トーハクくん、今日はおめかししてるのね。
インドの細密画にたくさん描かれているヒンドゥー教の神様、クリシュナ風のコスプレだほ! そう言うユリノキちゃんも、いつもと服が違うほ?
私のはクリシュナのパートナー、ラーダーの衣装がモチーフなのよ。ところでトーハクくん、私たちがお着替えした理由、覚えてる?
も、もちろんだほ?!
もう、しっかりして! 今週開幕した「博物館でアジアの旅」[9月8日(火)~10月11日(日)] を皆様にご案内するためじゃない。
(そうだったほ!)大丈夫だほ、秋のトーハクといえば「アジアの旅」ほ! 今年で7回目になる恒例企画だほ。
そうそう、東洋の美術・工芸・考古遺物を展示している「東洋館」を舞台に、毎年違うテーマでアジア各地の名品をご紹介しているのよね。今年のテーマは「アジアのレジェンド」なの。
埴輪界のレジェンドを目指すぼくとしても、見逃せないテーマだほー。
ただ、去年までと違って、今年はご来館前に日時指定券の事前予約をお願いしているの。それに「博物館でアジアの旅」と言えば研究員が添乗員に扮して展示室をご案内する「スペシャルツアー」が定番だったけれど、新型コロナウイルス感染拡大予防のため、残念ながら今年は見合わせることになったんですって。
がーん!!! ぼく一人じゃ、あの大きな東洋館をどう回ったらいいかわからないほ……。
安心してトーハクくん、館内で無料配布中の「博物館でアジアの旅 2020 PASSPORT」があるわ! ここには「アジアのレジェンド」の主な関連作品を見つけるためのヒントが載っているのよ。パスポートの答えは、同じく館内で配布しているオリジナル・シールを見ればわかるんだって。展示室を回った後にシールを受け取って、答え合わせしてみてね。
パスポートおよびオリジナル・シールは、10月11日(日)までの間、東洋館インフォメーションでお配りしています。※数に限りがございます。
それに、ガイドブックに見立てた図録では、主な関連作品について詳しく解説されているの。これを読めば「アジアのレジェンド」への理解が深まること間違いなしよ!
ガイドブックは、本館・東洋館のミュージアムショップで販売中です。
さすがユリノキちゃん! 安心したほー。それじゃあ早速この2冊をお供に、「レジェンドを探す旅」へ出発だほー!
「博物館でアジアの旅」は関連作品が館内のあちらこちらに散りばめられているから、テーマにちなんだ作品を探しつつ、各展示室をぶらぶら散策するのが楽しいよね。
うんうん。これまで気づかなかった面白い作品を発見できることもあるから、わくわくするほ!
ところでトーハクくん、「レジェンド」ってどういう意味か知ってる?
改まって聞かれると困るほ……なんかすごい人のことだほ!
ちょっと惜しいかも。「レジェンド」はもともと「伝説」を意味する言葉なの。そこから今トーハクくんが言ったような「偉人」などといった意味が派生したんですって。最近は「殿堂入り」を果たしたスポーツ選手や芸能人もレジェンドと呼ばれたりするわよね。
ほほー、なるほどー。一言で「レジェンド」と言ってもいろいろだほ。
まさにそうなの。だから今回は、そうした意味の広がりを踏まえながら、レジェンドにまつわるいろいろな作品をご紹介しているのよ。「博物館でアジアの旅」の関連作品は、そばにオレンジ色の札が付いているから、それを目印に探しましょう。
この札があるものは「博物館でアジアの旅 アジアのレジェンド」関連作品です。
あ、クリシュナがいたほ!
ゴーヴァルダナ山を持ち上げるクリシュナ(部分) ビーカーネール派 インド 18世紀後半 東京国立博物館蔵 東洋館13室にて通期展示
トーハクくんの衣装のモデルになった絵ね。クリシュナはインド神話の英雄で、指一本で山を持ち上げて、牛飼いたちを雨から守ったんですって。
すごい力だほー!ぼくもそんなパワーがほしいほ。
粉彩牡丹文大瓶 中国・景徳鎮窯「大清雍正年製」銘 清時代・雍正年間(1723~35) 横河民輔氏寄贈 東京国立博物館蔵 東洋館5室にて通期展示
こっちは大きな瓶だほー。お花の絵がとってもきれいだほ。でも、これはどこが「レジェンド」なんだほ?
この作品は、東洋陶磁収集のレジェンドとされる、建築家の横河民輔氏が集めたコレクションのひとつなの。今回は「レジェンドが集めたもの」として、横河コレクションの優品がたくさん展示してあるのよ。
顔氏家廟碑 顔真卿筆 中国 唐時代・建中元年(780) 東京国立博物館蔵 9月22日(火・祝)まで東洋館8室にて展示
こっちも大きい作品だほ! 迫力満点だほー。
こちらは書の世界のレジェンド的存在、顔真卿(がんしんけい)の代表作と評される作品よ。こんなふうに「レジェンドが作ったもの」もご紹介しているの。でも、こちらの作品をはじめ、一部の作品は「博物館でアジアの旅」の期間途中で展示が終了するので、お目当ての作品がある方はご来館前に作品リストで展示期間をお確かめくださいね。
わ、レジェンドな作品がいっぱいあるほ! ぼくの旅はまだまだこれからだほー!
「博物館でアジアの旅 アジアのレジェンド」は10月11日(日)までです。ぜひ皆様も異国情緒たっぷりの東洋館で、「レジェンドを探す旅」をお楽しみください。
カテゴリ:考古、中国の絵画・書跡、博物館でアジアの旅、絵画、工芸
| 記事URL |
posted by トーハクくん&ユリノキちゃん at 2020年09月10日 (木)
台東区立書道博物館との連携企画第17弾、「生誕550年記念 文徴明とその時代」は後期展示に入り、3月1日(日)の閉幕まであとわずかとなりました。鍋島主任研究員、六人部研究員に続く、しんがりブログをお届けします!
南宋の皇族であった趙孟頫(ちょうもうふ、1254~1322)は、26歳の時に祖国滅亡の憂き目に遭いましたが、その豊かな才能が元の初代皇帝フビライに認められ、元王朝に仕えることになりました。漢民族である南宋の皇族でありながら、故国を滅ぼした異民族の王朝に仕える忸怩(じくじ)たる思いを、趙孟頫は知人への書簡の中で切々と訴えています。
趙孟頫は高級官僚を務めながら、生涯をかけて壮大な書画のしかけに挑みました。彼は復古主義を提唱し、数々の素晴らしい書画を作ることで、伝統的な漢民族の優位性を天下に知らしめたのです。伝存する王羲之(おうぎし)の書が日ごとに減少するなか、多くの人々は趙孟頫の書を学ぶことで王羲之の書に近づこうとしたほど、趙孟頫の書は王羲之のそれに肉薄していました。楷行草は王羲之・王献之(おうけんし)を学び、精到な書風を誇りました ※図1参照。
図1:楷書漢汲黯伝冊 趙孟頫筆 元時代・延祐7年(1320) 永青文庫蔵
図1:楷書漢汲黯伝冊 文徴明補筆 明時代・嘉靖20年(1541) 永青文庫蔵
図1:楷書漢汲黯伝冊跋 文徴明筆 明時代・嘉靖20年(1541) 永青文庫蔵
趙孟頫67歳の書。書道博物館では、72歳の文徴明が帖末に記した跋文を展示しています。
趙孟頫が後世に与えた影響はとてつもなく大きく、明時代の初期にも多くの追随者がいました。しかし明時代の中期、趙孟頫の没後150年も過ぎた頃になると、さすがに趙孟頫流の書は形骸化してしまい、趙孟頫の書そのものを貶(おとし)める者が出てきました。文徴明(ぶんちょうめい、1470~1559)の先輩にして友人であった祝允明(しゅくいんめい、1460~1526)もその一人 ※図2参照。祝允明は趙孟頫の書を俗書と貶め、趙孟頫の書を学ぶことなく、直接、王羲之の書の拓本を学ぶことで、王羲之の真髄に近づこうとしたのです。祝允明のこのような立ち位置は、いわば新しい考えに基づく伝統派であったと言えます。
しかし、文徴明は終生にわたって趙孟頫を尊敬し、趙孟頫が歩んだ道を彼自身も歩もうとしました。趙孟頫が理想とした王羲之の書を、おそらく文徴明は趙孟頫の書を通して学び、趙孟頫が幾度となく書いた千字文を、文徴明もまた数え切れないほど揮毫しています ※図3参照。祝允明が新しい考えに基づく伝統派であるとするのなら、文徴明は古い考えを墨守した伝統派であったと言えるでしょう。
図3:草書千字文冊 文徴明筆 明時代・嘉靖14年(1535) 台東区立書道博物館蔵
文徴明は生涯におびただしい数の千字文を書き残しました。これは66歳の書。書道博展示。「福縁善慶」をあしらったトートバックは、書道博だけで販売しています。
図3:草書千字文巻 文徴明筆 明時代・嘉靖24年(1546) 東京国立博物館蔵 (青山杉雨氏寄贈)
文徴明76歳の書。東博展示。
高級官僚であった文徴明の父文林(ぶんりん)は、趙孟頫の書を学びました。文徴明が幼いころ、画を学んだ沈周や ※図4参照、書を学んだ李応禎や ※図5参照、文を学んだ呉寛 ※図6参照 たちはみな文林の同僚で、それぞれ文徴明より43歳、39歳、35歳も年上でした。悪友の祝允明や唐寅(とういん、1470~1523)が文徴明を騙して色街に連れ出し、あらかじめ示し合わせた妓女が文徴明に科(しな)を作ると、血相を変えて帰宅した堅物の文徴明は、一世代や二世代も古い流れを汲む道学先生の傾向がすこぶる強い人物であったようです。
図5:詔求直言表(停雲館帖より) 李応禎筆 明時代・15世紀 東京国立博物館蔵 (高島菊次郎氏寄贈)
李応禎は強い意志を持ち、気概に富んだ人物でした。22歳の文徴明が師事したとき、李応禎は61歳。東博展示。
図6:謝賜御書詩表巻跋 呉寛筆 明時代・15~16世紀 台東区立書道博物館蔵
文林は呉寛より10歳年下でしたが、同じ年に進士に及第し、昵懇の間柄でした。書道博展示。
歴史の波に翻弄され、一族だけでなく王朝の恨みまでをも晴らすかのように、壮大な挑戦を試みた趙孟頫と、実に恵まれた環境の中で摂生につとめ、90歳の最晩年まで郷里に閑居して努力に努力を重ねた文徴明は、両者ともその時代や境遇を象徴するかのような、えもいわれぬ書画の世界を築き上げ、後世に大きな影響を与えたのでした。
文徴明とほぼ同時代、文徴明より2つ年下で57歳の生涯を駆け抜けた王守仁は、王陽明と言った方が、通りが良いかも知れません。中国思想史上、朱子学を批判的に継承し、哲学の突破を実現した王守仁(王陽明)の書も、出陳されています ※図7参照。
図7:草書何陋軒記巻 王守仁筆 明時代・16世紀 東京国立博物館蔵 (高島菊次郎氏寄贈)
王陽明の哲学は、董其昌にも隠然たる影響を及ぼしました。東博展示。
文徴明が90歳の長寿を全うしたとき、上海に5歳の董其昌(とうきしょう、1555~1636)がいました。王陽明の哲学が右派と左派に分かれながら広く浸透し、文化が爛熟し情欲が解放された明時代の後半、董其昌は文徴明や趙孟頫を意識しながら、芸苑に新たな息吹を吹き込みます ※図8参照。
図8:謝賜御書詩表巻跋 董其昌筆 明時代・16~17世紀 台東区立書道博物館蔵
董其昌は文徴明や趙孟頫を乗り越えようとして、数々の名品に真摯に対峙しました。書道博展示。
図8:書画合壁冊 董其昌筆 明時代・崇禎2年(1629) 東京国立博物館蔵 (高島菊次郎氏寄贈)
董其昌は書画に対する考えが文徴明と異なりますが、文徴明がいたからこそ董其昌が活躍したと言えるでしょう。東博展示。
閉幕まであとわずか。文徴明とその時代の書画を通して、文徴明の来し方と行く末に思いを馳せていただければ幸いです。まだ見てない人も、前半の展示しか見てない人も、伝統と革新が入り交じり、文化の流れが大きく変貌しようとする明時代の中期に焦点を当てたこの企画を、お見逃しなく!
東京国立博物館・台東区立書道博物館 連携企画
「生誕550年記念 文徴明とその時代」
2020年1月2日(木)~3月1日(日)
東京国立博物館 東洋館8室
2020年1月4日(土)~3月1日(日)
台東区立書道博物館
※ 前期:2月2日(日)まで、後期:2月4日(火)から
カテゴリ:研究員のイチオシ、特集・特別公開、中国の絵画・書跡
| 記事URL |
posted by 富田淳(学芸企画部長) at 2020年02月14日 (金)
生誕550年記念 文徴明(ぶんちょうめい)とその時代 その2
トーハク(@東洋館8室)と台東区立書道博物館(書博)で毎年開催している恒例の連携企画は、現在の「生誕550年記念 文徴明とその時代」(前期:~2月2日(日)、後期:2月4日(火)~3月1日(日))で17回目となりました。年明けに開幕した本展も、一部展示替えを経て、2月4日からは後期展が始まります。展覧会は開幕したらあっという間、気付けば閉幕間近ということがよくあります。ぜひ、お見逃しなく。
さて、先日のブログでは、書博の鍋島稲子主任研究員が両館の展示の見どころをご紹介されました。今回は本展の主役の文徴明についてお話ししながら、オススメの展示作品をご紹介しようと思います。
文徴明(1470~1559)が生まれたのは今から550年前の蘇州です。当時の蘇州は商品流通の要地で、絹織物などの紡績業によって中国第一の商工業都市に発展を遂げていました。その経済力と長江下流域の豊かな土壌は文化の繁栄をもたらし、書画の商品化が促され、高まる需要は文人たちの活動を支えました。
現在の蘇州の街並み
商品の流通を支えたのが運河。現在も水路が張り巡らされ、白壁に統一された建造物が並ぶ蘇州の街並みは風情たっぷりです。
現在の曹家巷
文徴明の生家は、蘇州府長洲県(現在の蘇州市)の徳慶橋西北に位置する曹家巷というところにありました。巷は街の横丁という意味です。残念ながら徳慶橋は残っていないようですが、曹家巷には今も民家が軒を連ね、外壁には「曹家巷」の標識が掲げられます。文徴明が生まれたのち、父の文林は自邸に停雲館を建てたと言われます。
幼少期の文徴明は言葉が遅く、書は青年期まで下手だったようです。しかし、19歳のときに受けた試験で、書が拙いために順位を落とされたことをきっかけに一念発起、人一倍、書の研鑽に努めました。
文徴明の並々ならぬ努力については、例えば、1000文字からなる長篇の詩「千字文」を日に10回書くことを日課としたなどと、常人離れした逸話が残されます。その真偽は措くとして、実際に文徴明が書いた「千字文」は比較的多く現存し、晩年に至るまで勤勉真摯に書と向き合っていたことが想像されます。
草書千字文巻(部分) 文徴明筆 明時代・嘉靖24年(1545) 東京国立博物館蔵(青山杉雨氏寄贈)
東博通期展示
これは文徴明が76歳の時に、蘇州の自宅の玉磬山房で書いた「千字文」です。東晋時代の王羲之を手本とした書には、流暢で趣深い線が見られ、洗練された美しさが目を奪います。
文徴明は父と同じ官僚になるべく、26歳~53歳まで合計9度にわたり科挙の地方試験に挑み続けましたが、遂に及第できませんでした。その後、推薦されて54歳から3年間、北京の朝廷に出仕したものの、官界に馴染めず自ら退官を願い出て帰郷します。玉磬山房は、文徴明が蘇州に戻って間もなく自宅の東に築いた一室で、以降そこで自適に詩を詠み書画に耽る翰墨生活を送りました。
帰郷した頃には、すでに先輩や同世代の有能な文人がこの世を去っており、文徴明は以後、蘇州の文人サークルのリーダー的存在となって、その芸術活動を牽引し続けたのです。
文徴明の行草書には、王羲之の書やそれを継承したと伝えられる隋時代の智永の書を基礎とした、端正で雅やかな様式の作が残されます。また、北宋時代の黄庭堅の書法を忠実に修得した、才気あふれる大字の行書も見られます。
行書陶淵明飲酒二十首巻(部分) 文徴明筆 明時代・嘉靖33年(1554) 京都国立博物館蔵
書博後期(2/4(火)から)展示
陶淵明の有名な詩を、文徴明が最晩年の85歳の時に書きました。絹本の風合が、趣ある字姿を引き立てています。
草書七言律詩扇面 文徴明筆 明時代・16世紀 東京国立博物館蔵(高島菊次郎氏寄贈)
東博前期(2/2(日)まで)展示
文徴明が蘇州城の西北に位置する虎丘に登った際に詠んだ詩を、煌びやかな金箋の扇面に書きました。大胆かつ軽快に書き進められ、筆画の太細や疎密は変化に富みます。
文徴明が40歳の時に蘇州の天池山に遊んだ際に詠んだ詩を69歳の時に書きました。黄庭堅風の代表作の一つです。鋭さと重厚さを兼ね備えた線が躍動します。文徴明の師の沈周もまた、黄庭堅風の書にすぐれました。
文徴明の書で、行草書とならび最も高く評価されているのが超絶技巧の小さな楷書です。王羲之の「黄庭経」や「楽毅論」などをよく学び、それらを消化して清らかで気品に満ちた様式を築きました。晩年になるにつれて技量や精神力は凄みを増し、80代になっても衰えることなく小楷を書き続けました。
楷書尺牘冊 文徴明筆 明時代・16世紀 台東区立書道博物館蔵 書博通期展示
文徴明は23歳のときに昆山(現在の蘇州市昆山市)の呉愈の三女と結婚し、のちに文彭、文嘉ら子宝にも恵まれました。岳父の呉愈に宛てたこの手紙は、早年の頃の書と言われます。晩年の小楷と比べると、文字の形のとり方などに初々しさが垣間見られ、文徴明の早期の作例として貴重です。
楷書離騒九歌巻(部分) 文徴明筆 明時代・嘉靖31年(1552) 東京国立博物館蔵(高島菊次郎氏寄贈)
東博通期展示
自宅の停雲館で、83歳の時に『楚辞』の「離騒」と「九歌」を書いた一巻です。縦横1センチにも満たない文字は、1行21字詰めのマス目に合計216行にわたって整然と記され、清らかで澄みきった細身の線は乱れることなく、首尾一貫しています。卓絶した技法と高い精神力に支えられたこの書は、文徴明の代表作の一つに数えられます。
嘉靖39年(1559)2月20日、文徴明は御史の厳傑の亡き母のために墓誌銘を執筆していた際、筆を置き正座したまま逝去し、90の天寿を全うしました。温厚篤実な人柄と清雅な作風に魅せられた門弟や子孫ら、多くの後輩文人によって、文徴明は後世まで多大な影響を及ぼすこととなります。本展の作品から、文徴明とその時代に思いを馳せていただけますと幸いです。
現在の文徴明墓
文徴明のお墓は、蘇州市相城区にある孫武紀念園の敷地内に今も残されています。
*曹家巷と文徴明墓の調査では、潘文協氏(蘇州博物館)にご協力いただきました。
東京国立博物館・台東区立書道博物館 連携企画
「生誕550年記念 文徴明とその時代」
2020年1月2日(木)~3月1日(日)
東京国立博物館 東洋館8室
2020年1月4日(土)~3月1日(日)
台東区立書道博物館
※ 前期:2月2日(日)まで、後期:2月4日(火)から
カテゴリ:研究員のイチオシ、特集・特別公開、中国の絵画・書跡
| 記事URL |
posted by 六人部克典(登録室研究員) at 2020年01月31日 (金)