このページの本文へ移動

1089ブログ

呉昌碩の書・画・印 その4 「50代の呉昌碩」

台東区立書道博物館の連携企画「呉昌碩の書・画・印」(~2011年11月6日(日))をより深くお楽しみいただくための連載企画をお届けします。
今日は第4回目です。

50代を迎えた呉昌碩は、蘇州と44歳時に活動の拠点を設けた上海とを往来する日々を送っていました。光緒20年(1894)51歳時に起こった日清戦争に際しては、呉大澂の幕僚として従軍、この時に見た山川風物は後の呉昌碩の技芸に裨益するところがあったと言われています。また、同25年(1899)56歳には、同郷の丁葆元(蘭蓀)の推挙により、江蘇省安東県令の職を得ます。ただ、職務の内容や環境は呉昌碩には合わなかったようで、着任後1ヶ月ほどで辞職、その後は基本的に、売芸によって生計を立てることに専念しました。

この時期の書画は模索段階、あるいは徐々に自身の作風を築き始める過渡的段階にあったことがわかります。篆書の書跡においては、なお模索の様子が色濃く、49歳時の「篆書毛詩四屏」(東京国立博物館にて2011年10月10日(月・祝)まで展示)は、筆遣いや字形のまとめ方など、「清純」とも評される楊沂孫(1812?~1881)の書風に倣う様子が見て取れます。また、54歳時の「集石鼓字聯」(東京国立博物館にて2011年11月6日(日)まで展示)、57歳時の「臨石鼓文扇面」(台東区立書道博物館にて2011年11月6日(日)まで展示)は「石鼓文」原本からの変形がさほどなく、比較的忠実に書写されています。これら3作品には、古典または先人の書をもとにした、模索段階における謹厳さが窺えます。篆書は50代後半以降、徐々に自身の書風を築き始めます。


臨石鼓文扇面(部分) 呉昌碩筆 清時代・光緒26年(1900) 57歳 高島菊次郎氏寄贈 東京国立博物館
(台東区立書道博物館にて2011年11月6日(日)まで展示)


52歳時、楊峴の室(遅鴻軒)で書写された、「牡丹図」(東京国立博物館にて2011年11月6日(日)まで展示)の行草書による賛は、明末清初期に活躍した王鐸(1592~1652)の書風に通じるところがある一方、後年の書に顕著な、左右に振幅させる筆遣いや粘り強い線質が見られるようにもなります。この時期、行草書においては、徐々に独自の書風を築き始める過渡的段階にあったことが推察されます。


(左)牡丹図 呉昌碩筆 清時代・光緒21年(1895) 52歳 青山杉雨氏寄贈 東京国立博物館、(右)賛の拡大図
(東京国立博物館にて2011年11月6日(日)まで展示)


また、同時期の絵画を見ると、楊峴の賛(清時代・光緒22年(1896)、呉昌碩53歳時)を持つ「墨竹図」(東京国立博物館にて2011年10月10日(月・祝)まで展示)においては未だ呉昌碩独自の様式が明らかではないものの、57歳時の「擬大梅山民梅花図巻」(台東区立書道博物館にて2011年10月10日(月・祝)まで展示)、59歳時の「墨葡萄図」(東京国立博物館にて2011年10月10日(月・祝)まで展示)では墨線や構図を自在にし、金石味を生かした独自の作風が形成し始められたことがわかります。


(左)墨竹図 呉昌碩筆 清時代・19世紀 東京国立博物館
(東京国立博物館にて2011年10月10日(月・祝)まで展示)


(右)墨葡萄図 呉昌碩筆 清時代・光緒28年(1902) 59歳 高島菊次郎氏寄贈 東京国立博物館
(東京国立博物館にて2011年10月10日(月・祝)まで展示)



ところで、50代の呉昌碩を交遊の面から見ると、師友との死別という大きな出来事があったことがわかります。53歳のとき、師と仰ぎ詩文や書法を学んだ楊峴(1819~1896)、そして書画を介して知己の間柄であった任伯年(1840~1896)が、更に59歳のとき、金石資料の閲覧などにおいて知遇を得た呉大澂(1835~1902)が相次いでこの世を去ります。三者の存在は呉昌碩にとって、技芸のみならず精神や人格の形成にまで深くかかわったものと思われます。この時期に見られる書画の作風変化は、彼らとの別れで揺れ動く呉昌碩の心情も少なからず影響しているのかもしれません。

なお、往時の三者との交遊を窺うことができる作品として以下のものを展示しています。

【 楊峴 】
呉昌碩「牡丹図」(東京国立博物館にて2011年11月6日(日)まで展示)
呉昌碩「墨竹図」(東京国立博物館にて2011年10月10日(月・祝)まで展示。今後の展示予定は未定)
任伯年「酸寒尉像」(東京国立博物館および台東区立書道博物館ともに2011年11月6日(日)までパネル展示)
呉大澂「古柏図」(東京国立博物館本館特別1室にて2011年10月16日(日)まで展示)
【任伯年】
任伯年「酸寒尉像」(東京国立博物館および台東区立書道博物館ともに2011年11月6日(日)までパネル展示)
任伯年「蕉蔭納涼図」(東京国立博物館および台東区立書道博物館ともに2011年11月6日(日)までパネル展示)
【呉大澂】
呉大澂「古柏図」(東京国立博物館本館特別1室にて2011年10月16日(日)まで展示)

カテゴリ:特集・特別公開中国の絵画・書跡

| 記事URL |

posted by 六人部克典(台東区立書道博物館) at 2011年10月13日 (木)

 

呉昌碩の書・画・印 その3 「40代の呉昌碩 ―模索と葛藤― 」

台東区立書道博物館の連携企画「呉昌碩の書・画・印」(~2011年11月6日(日))をより深くお楽しみいただくための連載企画をお届けします。
今日は第3回目です。


光緒13年(1887)、呉昌碩は44歳のとき、それまで活動の中心としていた蘇州・杭州から、上海へと移り住みます。この時期は上海県丞(しゃんはいけんじょう)の官職を買い、生活の糧にしていたようです。一方、篆刻に励み、『削觚廬印存』(光緒9年(1883)~)には、この40代頃から50代までの篆刻作品が収められています。
40代の呉昌碩の書画作品を見ると、いまだ呉昌碩らしさは見られず、その作風を模索していることがわかります。これらの独自の画風を確立する以前の作品は、いわゆる若描と呼ばれ、贋作が作られやすい時期でもありました。しかし、「桂花図」(光緒14年(1888)、45歳)、「墨梅図」(光緒14年(1888)、45歳)や「籠菊図」(光緒15年(1889)、46歳)を見てみると、いずれも50代以降の作品にはみられないみずみずしい個性と、共通する模索の跡を見ることができます。

おそらくこの時期、呉昌碩が絵画創作の規範としていたのは、清末以来の伝統的な花卉画であったのでしょう。張熊「花卉図」は、輪郭を使わない没骨で描いた花弁の表現や構図など全体の画趣がよく似ています。張熊(1803~1886)は、呉昌碩の生地・安吉にも近い秀水(浙江省嘉興)の人で、青年時代から上海で活躍していました。


(左)呉昌碩「籠菊図」(光緒15年(1889)、46歳、青山慶示氏寄贈 東京国立博物館)
(2011年10月12日(水)~11月6日(日)まで平成館企画展示室にて展示)


(右)張熊「花卉図」(咸豊2年(1852)、東京国立博物館)
(展示予定は未定)


清末にはこのような、清雅な色彩を使った花卉画が流行していました。陳鴻寿「花卉図」(嘉慶17年(1812)、東京国立博物館)はその代表作で、すっきりとした画面構成と清楚な色遣いも、「桂花図」(光緒14年(1888)、45歳)と類似するものです。この時期の落款の位置も規則に沿ってきっちりと入っています。


(左)陳鴻寿「花卉図」(嘉慶17年(1812)、東京国立博物館)
(展示予定は未定)


(右)呉昌碩「桂花図」(光緒14年(1888)、45歳、東京国立博物館)
(~2011年10月10日(月)まで本館 特別1室にて展示)



しかしおそらく呉昌碩自身、このような伝統花卉画に不満を感じていたに違いありません。ここで終っていたら、呉昌碩の絵画には現在のような名声は与えられなかったでしょう。呉昌碩は「50歳にして初めて画を学んだ」と言っています。中国では書画一致という考えがあり、書法の筆線を用いて絵画を描くことが尊ばれていました。光緒20年(1894)、俊卿と名を改めた呉昌碩は50代を迎え、自らの書の線を使う新しい絵画世界を、いよいよ生み出していくことになります。40代は同時代までに流行していた花卉画をしっかりと咀嚼した時期と言えるでしょう。


その一方で、その後の人生に大きな影響を与えることとなる友人たちと知り合ったのも40代でした。「古柏図」は、40代で知り合った金石学者呉大澂の古柏図に、呉昌碩が師として接した楊峴(ようけん)、兪樾(ゆえつ)らの跋を伴った作品です。詩塘には呉昌碩が題を施し、光緒16年(1890)、47歳にあたります。


呉大澂「古柏図」(呉昌碩題、光緒16年(1890)、47歳、東京国立博物館)
(~2011年10月16日(日)まで本館 特別1室にて展示)



本館の特別1室「中国書画」では、10月16日(日)まで、本図をはじめ、呉昌碩芸術に至る金石の流れを築いた包世臣、呉熙載、鄧石如の作品や、大先輩にあたる趙之謙、同時代の上海の画家である銭慧安、蒲華、弟子の王一亭の作品などを展示しています。あわせてご高覧いただければ幸いです。

カテゴリ:特集・特別公開中国の絵画・書跡

| 記事URL |

posted by 塚本麿充(東洋室) at 2011年10月05日 (水)

 

呉昌碩の書・画・印 その2 「呉昌碩が刻した不折の印 ~その1~ 」

台東区立書道博物館の連携企画「呉昌碩の書・画・印」(~2011年11月6日(日))をより深くお楽しみいただくための連載企画をお届けします。
今日は第2回目です。


明治~昭和初期にかけて活躍した画家であり、書家であった中村不折(なかむらふせつ、1866~1943)は、日本および中国の書の歴史を考える上で重要な資料を独力で収集し、書道博物館(現・台東区立書道博物館)を創設した収蔵家でもありました。その資金を捻出するため、不折は実に多くの書画作品を制作しましたが、書画作品には、姓名や字号、成語などを刻した印が必要になります。不折は作品の大小、あるいは書風に応じて数ある自用印の中から最適な印を使い分けていました。そしてその中には呉昌碩(ごしょうせき、1844~1927)が刻した「豪猪先生(ごうちょせんせい)」白文方印(はくぶんほういん)(以下、「豪猪先生」)と「邨鈼(むらさく)」朱文(しゅぶん)方印(以下、「邨鈼」)が含まれています。

豪猪先生とは不折の別号です。

豪猪先生
(全期間台東区立書道博物館にて展示)


邨鈼とは、不折の本名である中村鈼太郎(さくたろう)(昭和3年に不折に改名)、の村(村は篆書では邨につくる)と鈼を取って印文としたものです。

邨鈼
(全期間台東区立書道博物館にて展示)


どちらも、縦横3.3センチ。高さ5.5センチ、茶褐色の石材で、
「豪猪先生」には「老缶(ろうふ)」、

老缶
(全期間台東区立書道博物館にて展示)


「邨鈼」には「缶(ふ)」と、


(全期間台東区立書道博物館にて展示)


呉昌碩の号がそれぞれ印材上面に側款(そっかん)として刻されています。

呉昌碩は日下部鳴鶴(くさかべめいかく、1838~1922)をはじめとして、日本人の印を精力的に刻しています。特に70歳前後には犬養毅(いぬかいつよし、1855~1932)、富岡鉄斎(とみおかてっさい、1836~1924)、内藤湖南(ないとうこなん、1866~1934)、長尾雨山(ながおうざん、1864~1942)などの依頼を受けています。呉昌碩が日本人の書家たちと交流する機会が増え、印の依頼が増えたのは、呉昌碩の芸術が1890年代から日本に紹介されはじめたこと、そして西泠印社が創設されたことが大きな要因であったと思われます。
西泠印社が創設された頃、不折はすでに画家として活躍していました。『龍眠帖(りゅうみんじょう)』を明治41年(1908)年に発表して以降、前田黙鳳(まえだもくほう、1853~1918)らと健筆会(けんぴつかい)を結成するなど書家としても活動し、また多くの書家と交流しています。その中には呉昌碩と面識のある日下部鳴鶴や河井荃廬(かわいせんろ、1871~1945)らがいました。不折が呉昌碩の印を手に入れることができたのは、周囲から書家として認められる40代後半以降、つまり呉昌碩70歳以降の時期と考えられます。

不折と呉昌碩との直接の接点を見出すことはできませんが、不折コレクションには印の他に呉昌碩の書画も含まれています。不折は、渡華を終えて帰国した書家や友人たちから呉昌碩の存在を聞きおよび、これから渡華する者に印を依頼したのでしょう。中国の漢字資料や書作品を熱心に収集し、学んだ不折にとって、呉昌碩の書、画、印は大いに注目するところであったと思われます。

(この記事は台東区立書道博物館にて配布の週刊瓦版に掲載されたものです。)

カテゴリ:特集・特別公開中国の絵画・書跡

| 記事URL |

posted by 中村信宏(台東区立書道博物館) at 2011年10月02日 (日)

 

呉昌碩の書・画・印 その1 「30代の呉昌碩」

台東区立書道博物館の連携企画「呉昌碩の書・画・印」(~2011年11月6日(日))をより深くお楽しみいただくための連載企画をお届けします。
今日はその第1回目、若き日の呉昌碩について。

呉昌碩は、書、画、篆刻に優れた業績を残し、清時代末を飾る大家として知られています。そのうち自身の芸術の第一として最も誇るところであったのが篆刻でした。10代のはじめ頃から篆刻を学び始めますが、家が貧しく、一つの石を刻しては磨き、平らにしてまた刻し、薄くなって手に握れなくなるまでそれを繰り返したといいます。

17歳の時、故郷が太平天国の乱の戦火に巻き込まれ、呉昌碩は5年にわたって苦難を極めた避難生活を強いられますが、乱の収束後は一層芸術に励むこととなります。篆刻では、27歳時に『樸巣印存(ぼくそういんそん)』、そして30代前半の印を集めて『蒼石斎篆印(そうせきさいてんいん)』を編集しており、その研鑽の過程を窺うことができます。浙派(せっぱ)の作風をよく捉えた印のほか、古印の模刻、呉譲之(1799~1870)や徐三庚(1826~1890)、そして趙之謙(1829~1884)らの作風を学んでその技術を高めていきました。


斉雲館印譜(表紙)  呉昌碩作 清時代・光緒2年(1876) 小林斗盦氏寄贈
(注)東京国立博物館にて展示。画像で表示の部分は今回の展示ではご覧いただけません。

『斉雲館印譜』(東京国立博物館にて展示)は33歳頃のものです。呉譲之や趙之謙に倣った完成度の高い印が見られるほか、塼(せん)などの趣を印に採り入れています。そして、浙派の作風をもとにした、重厚かつ古色を持たせた刀法もこの頃にすでに確立されていました。しかし線の表情をわずかに変化させる繊細な表現も見逃せません。


斉雲館 (『斉雲館印譜』 呉昌碩作 清時代・光緒2年(1876) 小林斗盦氏寄贈 より)
(注)東京国立博物館にて展示。画像で表示の部分は今回の展示ではご覧いただけません。


30代後半の呉昌碩は、兪樾(ゆえつ、1821~1906)や、楊峴(ようけん、1819~1896)のもとで学びます。そして37歳時には呉雲(ごうん、1811~1883)、40歳時には潘祖蔭(はんそいん、1830~1890)など、有力な収蔵家のもとで豊富な書跡、拓本、古印、金石資料を鑑賞、研究する機会を得ました。呉昌碩は30代後半から『削觚廬印存(さくころいんそん)』を編集しますが、そこに収録された印は、『斉雲館印譜』のそれに比べて、字や縁をバランスよく組み合わせ、さらに古色をつける技術が飛躍的に上達しています。本展では比較的早い時期、つまり『斉雲館印譜』の後に次ぐ、30代後半から40代前半の印を収めた『削觚廬印存』も東京国立博物館にて展示されており、両者を見比べることでその上達の過程を窺うことができます。


安吉呉俊長寿日利印 (『斉雲館印譜』 呉昌碩作 清時代・光緒2年(1876) 小林斗盦氏寄贈 より)
(注)東京国立博物館にて展示。画像で表示の部分は今回の展示ではご覧いただけません。


呉昌碩の30代は、自身の努力に加えて知遇にも恵まれた時期と言えるでしょう。この時期の研鑽の成果は、早くも40代の篆刻において表れることとなります。
また、呉昌碩はのちに「石鼓文」に学んだ篆書の書法を確立することとなりますが、作品をバランスよくまとめ上げる技術は、若年の頃から親しんだ篆刻によって培われたものと思われます。

(この記事は台東区立書道博物館にて配布の週刊瓦版に掲載されたものです)

カテゴリ:特集・特別公開中国の絵画・書跡

| 記事URL |

posted by 中村信宏(台東区立書道博物館) at 2011年09月22日 (木)

 

特集陳列「呉昌碩(ごしょうせき)の書・画・印」はじまりました

9月12日(月)、トーハクのある上野は晴れて中秋の名月がきれいに見えました。
皆様はお月見を楽しまれましたか?

さて、平成館企画展示室では、その翌日9月13日(火)から
台東区立書道博物館との連携企画第9弾として、
特集陳列「呉昌碩(ごしょうせき)の書・画・印」の展示がスタートいたしました。



呉昌碩は、清時代末期から近代にかけて活躍した書・画・印の巨匠です。
84歳で生涯を閉じるまで旺盛な創作活動を展開、在世中から多くの人々を魅了してきました。


(手前右)墨梅自寿図  呉昌碩筆 中華民国・民国14年(1925) 青山杉雨氏寄贈 (~2011年10月10日)

呉昌碩は、石鼓文(せっこぶん)の臨書が名高く、
日本に現存する作品が多いことでも知られています。
石鼓文とは戦国時代、前5~前4世紀の石碑の古代文字で、
石が太鼓に似ているので石鼓と呼ばれています。
本展では若書きの40歳代の作品から、最晩年の傑作までをご覧いただけます。


(左)篆書般若心経十二屏 呉昌碩筆 中華民国・民国6年(1917) 
(右)臨石鼓文軸  呉昌碩筆 清時代・宣統2年(1910) 林宗毅氏寄贈


臨石鼓文軸(部分)

年を重ねるごとに変化してゆく石鼓文のとらえ方は大きなみどころですが、
さらに今回は、作品だけでなく手紙などの遺品を通じて、
呉昌碩の人となりを垣間見られる点も、楽しみのひとつです。

たとえば、上海で知り合った日本人の漢学者で書・画・篆刻の創作もした長尾雨山への手紙です。


長尾雨山宛書簡 呉昌碩筆 中華民国・20世紀 京都国立博物館蔵(~2011年10月10日)

自ら作成した印を「あまりできはよくないけれどもらってください」と送る呉昌碩。
雨山が謝礼を送ったため「そんな(お金をとる)つもりで送ったのではない」と現金を送り返しています。
美しい字で綴られた手紙はみているだけでうっとりしますが、
プライベートの書簡の内容は呉昌碩やその作品をより身近にしてくれるように感じます。

本展を連携で企画している台東区立書道博物館での展示には、当館の収蔵品などの作品のほかに
現在、休館中の朝倉彫塑館が所蔵する呉昌碩胸像石膏原型なども展示されており
呉昌碩の姿をより具体的にイメージすることもできます(呉昌碩の「福耳」にもご注目!)。
お散歩をかねて両館をごらんいただけると呉昌碩の世界がより大きく広がるのではないでしょうか。

朝夕に少しずつ秋の気配を帯びてきた上野で、
ぜひ、呉昌碩の書・画・印の数々をご堪能ください。

特集陳列「呉昌碩(ごしょうせき)の書・画・印」は
平成館 企画展示室にて11月6日(日)まで開催しております。

最後に、本展にご協力いただいた皆様に感謝して。結


月例講演会「呉昌碩の書・画・印」

列品解説「呉昌碩について」

カテゴリ:news特集・特別公開中国の絵画・書跡

| 記事URL |

posted by 林素子(広報室) at 2011年09月14日 (水)