三国志のなかでも抜群の知名度を誇る曹操。
そのお墓(曹操高陵 (そうそうこうりょう))がみつかったのは今から10年ほど前のことでした。
特別展「三国志」では、2016年に刊行された発掘報告書をもとに、曹操高陵の墓室を実寸で再現しています。
本展会場に実寸で再現した曹操高陵の内部
この墓をご覧になって、立派な墓と感じる方もいれば、意外と簡素だなと思われる方もおられることでしょう。
私たち研究者も、そうした点に強い関心を抱いています。
なぜなら、西晋時代の陳寿が著した正史『三国志』に、曹操は自身の葬儀を簡素にするようにとの遺言が記されているからなのです。
遺令の内容は次の通りです。
天下はいまだ安定していない状況である。
よって、古制にしたがうこともままならない。
葬儀が終われば皆は早々に喪を解くように、
将兵は持ち場を離れてはならない。
役人は職務を遂行せよ。
遺体を飾る必要はない。
金玉珍宝の類いを墓におさめるな。
これによると、墓室の大小は曹操がいう薄葬とは直接的な結びつきはないのかもしれません。
ただこれまで知られている魏の有力者の墓とくらべると、曹操高陵は抜きんでて大きいというわけではなさそうです。
あらためて遺令をみてみましょう。
遺体を飾るなというくだり、そして金玉珍宝を墓に入れるなという最後の一文。
これらは考古学的に検証ができそうです。
遺体を飾るなというのは、原文では「時服」にせよと言っています。
いうなれば「普段の装いのまま葬れ、特別なあつらえは不要である」と言っているのです。
では、特別にあつらえた死装束とはどのような服だったのでしょうか。
漢時代、王などの貴族が葬られる際は、軟玉の板を銀や銅の糸で綴じ合わせた「玉衣」を着せるならわしでした。
亳州市博物館の展示室でみた玉衣(曹氏一族墓出土)
ところが、曹操高陵の中からはその断片すら検出されませんでした。
後漢時代の王クラスの墓の発掘事例をみますと、盗掘に遭っている場合でも少量の玉衣片はみつかるものです。
その痕跡すら確認されなかった以上、曹操は玉衣に覆われることなく葬られたといえそうです。
次に金玉珍宝とはどのようなものをいうのでしょうか、後漢時代の王クラスの墓にはまばゆいばかりの金粒細工による品々が納められました。
特別展「三国志」では、後漢時代の金製獣文帯金具(きんせいじゅうもんおびかなぐ)を展示しておりますが、こうした文物がまさに当時いわれたところの「金玉珍宝」であったと考えられます。
一級文物 金製獣文帯金具
金製、貴石象嵌 後漢時代・2世紀
2009年、安徽省淮南市寿県寿春鎮古墓出土
寿県博物館蔵
曹操の墓からは、若干の金糸などが出土しているものの、「金玉珍宝」と言えるものは見つかっていません。
ここでひとつ留意しておきたいことがあります。曹操高陵は過去に何度も盗掘に遭っているということです。
金目のものはすでに持ち去られている可能性があるのです。
そうした可能性を完全に排除することはできませんが、現在知り得る情報に基づけば、曹操の遺言は実行にうつされたと判断できます。
それでは、曹操の墓からどのようなものが出土したのでしょうか。
詳しくは会場でご覧いただきたいと思うのですが、曹操高陵からは用途不明のものが多数出土しています。
まるで曹操が研究者の力量を試しているかのようです。
なかでも際立っているのが瑪瑙円盤(めのうえんばん)です。
瑪瑙円盤
瑪瑙製 後漢~三国時代(魏)・3世紀
2008~09年、河南省安陽市曹操高陵出土
河南省文物考古研究院蔵
木星を思わせる美しい縞模様。表面は丁寧に磨き上げ、周囲は面取り加工を施しています。
何かにはめ込んだのか、そのまま使ったのか。使ったとしてその用途は何なのか。
いまだ答えにはたどり着けていません。
開閉器(かいへいき)も謎に満ちています。
開閉器
青銅製、鍍銀 後漢~三国時代(魏)・3世紀
2008~09年、河南省安陽市曹操高陵出土
河南省文物考古研究院蔵
下半の砲弾型の部分が左右に開く仕組みになっているのですが、具体的な用途となると皆目見当もつきません。
こうした謎めいたものに出会ったとき、私たち考古学者はどうするのかというと、とにかく実物をよく観察するのです。
答えに近づくヒントは、インターネットの中でも文献の中でもなく、往々にしてそのモノに込められているからです。
また、よく観察しておくことで、何か別の資料を見たときに思わぬ共通点に気づくこともあるのです。
特別展「三国志」は始まったばかり。
これからも実物をじっくり観察し、なんとか謎の解明につなげたいと思っています。
日中文化交流協定締結40周年記念
特別展「三国志」
2019年7月9日(火)~9月16日(月・祝)
平成館 特別展示室
日中文化交流協定締結40周年記念 特別展「三国志」
2019年7月9日(火)~9月16日(月・祝)
平成館 特別展示室
カテゴリ:研究員のイチオシ、考古、2019年度の特別展
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posted by 市元塁(東洋室) at 2019年07月18日 (木)
こんにちは。考古室研究員の山本です。
今回がはじめてのブログ登場です。皆さまどうぞよろしくお願いいたします。
ただいま平成館企画展示室では、特集「松山・徳島の考古学」(~12月25日(火))を開催しています。
この展示は考古相互貸借事業により、当館から作品をお貸出しするかわりに、松山市考古館と徳島市立考古資料館の所蔵する考古資料をお借りして展示しています。
入り口付近からみた西側ケース
この展示では地域の特性に触れることができるのも見どころのひとつ。両館からは、縄文時代から平安時代まで、多岐にわたる作品をお貸出しいただいています。
それでは同じ四国(高知)出身の私から、ふだん考古展示室でお目にかける機会のない魅力的な作品をご紹介しましょう。
まず松山市からは、大渕遺跡の彩文(さいもん)壺形土器です。大渕遺跡は縄文時代晩期の遺跡で、松山平野に水田稲作が定着する過程を知るうえで重要な遺跡です。
彩文壺形土器 愛媛県松山市 大渕遺跡出土 縄文時代(晩期)・前1000~前400年 松山市考古館蔵
夏の縄文展で、いろんな土器をご覧になって縄文土器に強くなった皆さんも、この壺を見ればびっくりするのではないでしょうか?
まん丸なフォルムに、短い口。口の周りの黒い模様は、まるで茄子の“へた”のようですね。個人的には、地元の高知の美味しい秋茄子を思い出してしまいます。この模様は土器を焼くときに、こうなることを意図して炭素を吸着させたものと考えられます。つまり狙ってナスビのように仕上げたのです。
これは似たような土器が朝鮮半島からも見つかっていますが、全く同じものはありません。水田稲作が行われるようになる時期に突然あらわれた、謎の多い土器なのです。
次に、徳島市からは弥生時代に製作された木偶(もくぐう)です。
左:木偶 徳島市 庄遺跡出土 弥生時代(中期)・前2~前1世紀 徳島市立考古資料館蔵
ちょっとこわいリアルな表情の顔に、棒のような胴体部分。胴の部分は別の素材で組み合わせていたとも考えられています。
皆さんは縄文時代の土偶はよくご存知かと思いますが、この木偶は弥生時代のものです。こうした弥生時代の人形表現は、男女が対になるものが多くみられます。夏の縄文展でも、弥生時代の土偶形容器など男女一対になるものがありましたね。この木偶にもパートナーがいたかもしれません。パートナーはどんな姿だったのか、そもそもこの木偶さんは女性なのか男性なのか・・・興味は尽きません。
この他にも見どころたっぷりの展示となっていますので、ぜひ足をお運びいただけますと幸いです。
また、今回の展示で興味を持っていただけましたら、ぜひ松山と徳島へも足を伸ばしてみてはいかがでしょうか。どちらもより多くの魅力ある考古資料、・・・そして美味しいお酒と海の幸が皆さまをお待ちしていることと思います。
出口側から見た東側ケース
毎年おこなってきました東京国立博物館での考古相互貸借事業も、今年度が最後となります。これまで楽しみにしてきてくださった皆さま、どうもありがとうございました。今後とも、当館所蔵資料での特集陳列は続けてまいりますので、ご愛顧のほどよろしくお願いいたします。
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posted by 山本 亮(考古室研究員) at 2018年11月27日 (火)
「遺跡へゴー! ~遺跡で楽しむ縄文~その1」に引き続き、特別展「縄文―1万年の美の鼓動」展示作品が出土した遺跡を、いくつかご紹介します。
井戸尻(いどじり)遺跡群
長野県と山梨県の県境にほど近い富士見町には、縄文時代の遺跡が数多く眠っています。
特に中期の遺跡がたくさんあり、井戸尻遺跡群とも呼ばれる遺跡密集地帯からは、造形的に優れた作品が多く発見されています。
本展覧会でも中期を代表する特色ある作品が出品されています。
No.33 深鉢形土器 長野県富士見町 藤内遺跡出土
No.162 重要文化財 深鉢形土器 長野県富士見町 藤内遺跡出土
No.163 深鉢形土器 長野県富士見町 曽利遺跡出土
いずれも縄文時代(中期)・前3000~前2000年/長野・井戸尻考古館蔵
富士見町内から出土した作品の多くは、井戸尻考古館に収蔵されています。
博物館は井戸尻遺跡に隣接しており、復元された竪穴住居など、史跡が整備されています。
周囲は井戸尻の名の由来となったともいわれるように、豊富な湧水に恵まれ、日当たりがよく見晴らしの良い風景は、縄文人がこの地を好んで利用していたことが頷けます。
さらに、遺跡の目の前に連なる山々の間から、富士山の8合目付近から山頂付近がはっきりと見えます。
はっきり見えるのは空気が澄んだ秋から春にかけてですが、私が行った6月でも、残雪が残る山頂を見ることができました。
一際存在感ある富士山を見つめながら縄文人も暮らしていたのでしょうね。
井戸尻遺跡からみた富士山(2018年6月)
北沢石棒
最後にご紹介するのは長野県佐久市月夜平遺跡出土の石棒です。
この作品は昭和8年に道路改修工事の際に偶然土中から発見されました。
その後近くに鎮座する大宮諏訪神社へ奉納され、以来、ご神宝として通常は社殿に納められています。
何度か神社へうかがいましたが、いずれも氏子代表の皆さんが立ち会ってくださり、神社でご神宝が大切に守られていると感じました。
月夜平遺跡は、昭和初期の文献に写真入りで紹介されるなど、佐久地方では有名な遺跡です。現在もその頃と大きく変わらない景観で、遺跡が眠っています。
今回の展覧会では特別にご許可を得て、作品をケースに入れず、石棒が直立した状態で展示しています。これまでの発掘事例によれば、一般的に石棒は寝かせられた状態や、人為的に破壊された状態で出土することが多いといえます。ただし、住居跡や土坑から頭部の破片が直立した状態で発見されることもあり、本来石棒は立たせて儀礼などに使われたとする考え方もあります。また、月夜平遺跡周辺では石棒がたくさん発見されていますが、月夜平遺跡からそれほど遠くない佐久穂町北沢には、高さ2メートルを超える大きな石棒が現在も田んぼの畔に直立した状態でたたずんでいます。この石棒はもともと地表からわずかに立った状態で現在の場所に置かれていたものが、昭和40年代に掘り起こされ、補強されて現在のように立っているそうです。重厚感がありながらも端正な姿形が周囲の風景にごく自然に溶け込んでいるのがとても印象的です。農作物の収穫を終えた晩秋から春先に訪れてはいかがでしょうか。北沢の石棒は、月夜平遺跡出土の石棒の展示を考えるうえでとても参考になりました。
中央で直立する石棒(作品№146)
社殿の石棒撮影のようす(カメラを構えているのは当館の藤瀬カメラマンです)(2018年4月筆者撮影)
佐久穂町北沢の石棒(2018年4月筆者撮影)
【さあ、遺跡へゴー!】
本展覧会に関する取材を受けるとき、私がよくお話しすることがあります。それは、もし本展覧会で展示されている作品をご覧になったら、今度はぜひ、その作品が発見された場所(遺跡)にお出かけくださいとお話しています。なぜならば、作品が発見された遺跡は、その作品が生み出され(あるいは持ち込まれ)、使われ、役目を終えて長い年月眠っていた場所です。いわば作品の故郷のような場所。その故郷に実際に出かけ、その場に立ってみることをお勧めしたいですね。たとえ景観が少し変わっていたとしても、当時の風景や当時暮らしていた縄文人の気分に近づくことができるんじゃないかな、と考えています。
遺跡で縄文人の気分を味わうことができたら、次に、普段その作品が所蔵・展示されている博物館を見学してみませんか。地域の博物館には、その作品と同じ遺跡から発見された出土品や、近くの遺跡から発見された出土品など、その地域ならではの作品がたくさん展示されています。その中には、美しいもの、かっこいいもの、きれいなもの、かわいいものなど、皆さんの心をつかむ、お気に入りの作品が見つかると思います。もしかしたら未来のスーパースターとなる作品と出会えるかもしれませんね。
私が学生時代、先輩から考古学は「歩けオロジーだ!」とよく言われました。考古学の英訳であるArchaeology(アーケオロジー)をおもしろおかしく語呂を合わせて「歩けオロジー」などといつの頃からか言われるようになったものだと思います。おそらく「考古学は現場(現地)が大切で、足で稼いで(実際に遺跡を訪れたり、出土品の調査に各地の所蔵先を訪ねて)学問をするものだ」という意味合いなのではないかと私は理解しています。
この夏、トーハクで縄文展をご覧になられたら、各地の縄文の美を求めて、皆さんも「歩けオロジー」してみませんか?新しい出会いがきっとあるはずです。ぜひ遺跡や博物館での出会いを楽しみつつ、縄文時代や縄文文化をさらに身近に感じてみてください。
国宝「土偶縄文のビーナス」」が発見された棚畑遺跡にて(2018年7月筆者)
※翌日の国宝土偶縄文のビーナス拝借を前に、遺跡に「ご挨拶」
カテゴリ:研究員のイチオシ、考古、2018年度の特別展
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posted by 井出浩正(特別展室主任研究員) at 2018年08月24日 (金)
特別展「縄文―1万年の美の鼓動」(2018年7月3日(火)~9月2日(日))はもうご覧になられたでしょうか。会期も残すところ僅かとなってきました。どうかお見逃しなくご観覧ください。
本特別展では207件の作品を拝借・展示しています。
今回は、展示作品が出土した遺跡のうち、最近私が実際に訪れた遺跡を、いくつかご紹介したいと思います。
真脇(まわき)遺跡
真脇遺跡は石川県能登半島の内浦と呼ばれる富山湾に面した遺跡です。
縄文時代前期から晩期にかけて集落が営まれました。
真脇遺跡は通常では残りにくい有機物が豊富に残されており、多量のイルカ骨や彫刻木柱など、極めて特徴的な出土品が有名です。
本展覧会では「第5章 祈りの美、祈りの形」に作品が展示されています。
No.144 重要文化財 彫刻木柱 縄文時代(前期)・前4000~前3000年
No.145 重要文化財 彫刻木柱 縄文時代(晩期)・前1000~前400年
No.180 重要文化財 鳥形把手付鉢形土器 縄文時代(中期)・前3000~前2000年
いずれも真脇遺跡出土/石川・能登町教育委員会蔵
このうち、作品№145はクリの丸太を半円状に割って加工した木柱で、発掘調査によって同様の木柱が輪を描くように並んで発見されました。
発見された木柱は根元に近い部分のみでしたが、横方向や縦方向の溝が彫ってあり、縄文人が石器で加工を施した痕跡がよく観察できます。
本例は縄文時代晩期のものと考えられており、特徴的なサークル状の配置は、縄文人の何らかの記念碑的な役割が推定されています。
そして、なんと真脇遺跡ではそのサークルが復元されています。
現在、真脇遺跡は史跡整備が進められており、史跡公園に真脇遺跡縄文館があります。
おだやかな湾を望む微高地にある真脇遺跡には、現在大きな柱がそびえており、遠くからでもその姿を確認することができます。
もしかしたら当時も海から真脇ムラの木柱がよく見えたのかもしれませんし、真脇ムラのランドマークとしても機能していたのかもしれませんね。
復元されたウッドサークルの一部(2018年4月)
鳥浜(とりはま)貝塚
北陸にはユニークな遺跡がまだまだあります。
次にご紹介する鳥浜貝塚もそのひとつです。
鳥浜貝塚は福井県三方郡美浜町から三方上中郡若狭町に広がる三方五湖のうち、三方湖に注ぐ鰣(はす)川と高瀬川合流付近に形成された低湿地遺跡で、縄文時代草創期から前期を中心に貝塚が形成されました。
通常では残りにくい有機物や彩色が施された土器などが多数発見されており、「縄文人のタイムカプセル」とも呼ばれています。
No.3 重要文化財 赤彩鉢形土器
鳥浜貝塚出土 縄文時代(前期)・前4000~前3000年
福井県立若狭歴史博物館蔵
No.3は小ぶりな鉢ですが、丁寧な縄文と磨消縄文(※)、さらに赤彩によって幾何学的な文様が際立っています。
※磨消(すりけし)縄文…縄文時代を代表する、指や工具などで平滑に調整する装飾技法
私にとって鳥浜貝塚は、学生の頃に先輩や後輩たちと発掘調査のため合宿生活していた思い出の地です。
今回、実に十数年ぶりに再訪しましたが、遺跡も遺跡を流れる鰣川も当時のままで、日本海へとつながる三方五湖は穏やかな風景のままでした。
縄文時代の水辺に暮らした人々の暮らしを考えるうえでとても興味深い遺跡や博物館です。
現在の鳥浜貝塚周辺(2018年7月)
鳥浜貝塚は河川改修の際に発掘調査されました
鳥浜貝塚出土品の多くを展示している若狭三方縄文館(2018年7月筆者撮影)
※No.3の所蔵館とは異なります
尖石(とがりいし)遺跡
次は内陸の縄文集落へ行ってみましょう。長野県茅野市にある尖石遺跡です。
長野県茅野市は縄文時代の国宝6件のうち2件の土偶が発見された縄文時代を代表する拠点です。
八ヶ岳をのぞむ標高約800~1000メートルのなだらかな斜面にはたくさんの縄文時代の遺跡が今もなお数多く眠っています。
尖石遺跡は、縄文時代の集落跡研究のレジェンド的な遺跡。
今日の縄文時代集落跡研究を振り返るには欠かせない、学史上大変著名な遺跡です。
尖石遺跡と与助尾根(よすけおね)遺跡が横並びに隣りあっており、二つの大きな環状集落が並んでいたと考えられています。
尖石遺跡と与助尾根遺跡に隣接して茅野市尖石縄文考古館があります。
国宝「土偶 縄文のビーナス」と国宝「土偶 仮面の女神」が保管・展示されている博物館です。
No.80 国宝 土偶 縄文のビーナス
長野県茅野市 棚畑遺跡出土 縄文時代(中期)・前3000~前2000年
No.82 国宝 土偶 仮面の女神
長野県茅野市 中ッ原遺跡出土 縄文時代(後期)・前2000~前1000年
いずれも長野・茅野市蔵(茅野市尖石縄文考古館保管)
本展覧会では、2点の国宝土偶に加えて、尖石遺跡から出土した縄文時代中期の蛇体把手付深鉢形土器が出品されています。
蛇体把手付深鉢形土器
長野県茅野市 尖石遺跡出土 縄文時代(中期)・前3000~前2000年
長野・茅野市尖石縄文考古館蔵
この作品は昭和8年(1933)の発掘調査で出土しました。
土器の口縁部に存在感ある把手がひとつ。
わずかに口を開けた横向きの蛇が跳ね上がらんとしている姿が印象的ではないでしょうか。
縄文時代中期の中部高地周辺では、本例のように蛇を思わせる立体的な装飾が付けられた作品があります。
なぜ蛇をあしらったかはまだよく分かっていませんが、手足がない、成長過程で脱皮をする、毒で時に人に襲い掛かることもある、冬眠をするなど、人とは異なる蛇の特徴的な生態に縄文人が何らかの畏怖や興味の想いを抱いてこうした作品をつくったのかもしれません。
現在尖石遺跡と与助尾根遺跡は遺跡の史跡化が進んでおり、発掘調査時の住居跡や、竪穴住居の復元家屋などが整備されています。
また遺跡内に縄文時代に利用されていた樹木や植物などを植栽し縄文時代の森を育てています。
かつて尖石縄文考古館がリニューアルオープンした2000年に訪れた際は、復元されて間もない新築の復元家屋でしたし、植えられたクリの木も小さな幼木でした。
それから18年がたち、今回訪れてみると、時を刻んでとても味わい深い復元住居に変貌しており、まるで中から縄文人が出てきそうな気配すら感じさせました。
自然の中で暮らしていた山の縄文人の生活風景がここにはあります。
与助尾根遺跡内の竪穴住居の復元家屋(2018年7月)
尖石遺跡の脇には、遺跡の名前の由来となった奇岩「尖石」がひっそりと佇んでいます。
こちらも遺跡を訪れた際はぜひ立ち寄ってみたいですね。
尖石(2018年7月)
中ッ原(なかっぱら)遺跡
つづいて、同じく茅野市内の中ッ原遺跡をご案内します。
国宝「土偶 仮面の女神」の出土遺跡です。
この土偶は、全体の姿形ももちろん素晴らしいのですが、私は後ろの仮面と頭部を固定するのに縛りつけている十字のひも状の表現など、細かなところにまで装飾が行き届いているのがかっこいいなぁと思います。
「土偶 仮面の女神」の後頭部にもご注目ください
本例以外に、この展覧会では山梨県韮崎市後田遺跡(No.106)や長野県辰野町泉水遺跡(No.107)の出土の仮面土偶が展示されています。
似ているようでどこか違う、その姿形や文様を、ぜひこの機会に3作品を見比べてみてはいかがでしょうか。
さて、中ッ原遺跡は縄文時代中期から後期の大きな集落跡です。
弧状に並ぶ住居跡に沿うようにお墓と考えられる穴がたくさん発見されています。
中ッ原遺跡(2017年6月)
「仮面の女神」は墓のひとつにあけられた小さな穴から横倒しの状態で発見されました。
この遺跡では現地で「仮面の女神」が発見された時の状況が復元されています。
土偶が発見された実際の穴は、保存のため、現在埋め戻されていますが、それとほぼ同じ位置に合成樹脂などで復元されています。
地中からまさに「仮面の女神」が発見された状況がよくわかります。
「仮面の女神」の出土状態の復元(2017年6月)
遠くの山々を見渡すことができる見晴らしの良いこの場に立つと、土偶が発見された縄文時代のお墓のあつまり(墓域)がなぜこの場所に作られたのか、なんとなくわかるような気がします。
「遺跡へゴー! ~遺跡で楽しむ縄文~その2」へ続く
カテゴリ:研究員のイチオシ、考古、2018年度の特別展
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posted by 井出浩正(特別展室主任研究員) at 2018年08月22日 (水)
特別展「縄文―1万年の美の鼓動」の会場内には、縄文時代の様子をご想像しやすいように、フィギュアを展示しています。
今回の1089ブログは、これらのフィギュアを製作された長野県北相木村教育委員会・学芸員の藤森英二さんのお話です。
「5章 祈りの美、祈りの形」の円柱内にご注目ください
元々は生き物が好きで、高校生の頃、恐竜や動物の模型を、石粉粘土で作っていました。
大学で考古学を専攻して、縄文時代の勉強を始めました。
その勢いで、縄文時代の人を模型にしようと思い、2007年に縄文時代の少女(「秋の森の恵みをムラへ」)を完成させました。
その後も、先史時代の人々の日常を表現してみようと「大きな槍を携える旅の狩人」、「獲物を待ちぶせる少年と愛犬」、「ヒスイの首飾りが似合うムラのリーダー」を作成しました。
このうち「大きな槍を携える旅の狩人」については、2011年当時トーハクにおられた及川穣さん(島根大学准教授)のお声がけで製作し、特集陳列「石に魅せられた先史時代の人々」に展示した経緯もあります。
左から順に「大きな槍を携える旅の狩人」「獲物を待ちぶせる少年と愛犬」「ヒスイの首飾りが似合うムラのリーダー」
そして今回は、トーハクの井出浩正研究員に声をかけて頂き、新たに2点(「神への祈り。土偶をかざす青年」・「母から子へ伝える土器づくり」)を加え、全部で6点を展示して頂くこととなったわけです。
左から順に「神への祈り。土偶をかざす青年」「母から子へ伝える土器づくり」
まずはイメージ画を描きます
作る時に気をつけているのは、まず人体として嘘のないこと。人の骨格や筋肉を意識して作ります。
この辺りは、他の動物を作る時と同じです。
ただし、人の顔や表情は難しく、見慣れている分、少しバランスを崩すと違和感を感じてしまいます。
大まかにパーツを作って針金でつなぎます
最初のうちはロボットみたいですが…
だんだん人間らしくなっていきます
また、自分が考古学を研究している立場からすると、怖さも伴います。
実は縄文時代については、まだまだ分からないことだらけ。
まず彼らの服装はどうでしょう? 編物はわずかに出土していますし、土偶の表現にそのヒントもありますが、情報は極めて少ない。
他にも、髪形は? 刺青はあった? 靴は? 装飾具をつけたのは、男性、女性? 大人、子ども?
全てを正確に理解することが出来ない以上、想像に頼る部分もたくさん出てきます。
「ここは出土品の復元、ここは想像、ここは井出氏の指示!」と、全部説明出来ればいいのですけどね。
さらに、復元画や展示模型と同じですが、完結したモノを目にすると、そのイメージが固定しがちです。
縄文人のイメージが固定されてしまわないように、想像の余地を残すようにデザインしています。
基本塗装を終えました
服の模様は試行錯誤の連続です
なお、今回はトーハクの品川室長と井出研究員に、途中経過を写真でチェックしてもらいながら製作しました。
それぞれについて、縄文時代のいつ頃でどの地域かを設定し、そこでなるべく矛盾の出ないように考えていきます。
地域時代ごとの耳飾の大きさや、土器作りを行なった季節や場所、その他腕輪や櫛、服の色など、細かな部分もその対象です。
途中議論があらぬ方向に行ったり、こちらの知りたいことはスルーされることもありましたが、大変勉強になりました。
また、最近研究の深化が著しい植物由来の道具については、この分野の第一人者である佐々木由香さん(株式会社パレオ・ラボ)、趣味を活かして当時の編物を研究されている川端典子さん(富山県朝日町教育委員会)に多くのことを教えていただきました。
さらに、実はこれまで旧石器時代の設定だった作品を、今回の展示内容に合わせ縄文時代草創期に再設定していますが、そのポイントとなる石器については、堤隆さん(浅間縄文ミュージアム)にご意見を頂きました。
モデルとなった石器(重要文化財 尖頭器/長野県・神子柴遺跡出土/個人蔵、長野・伊那市創造館寄託)は「1章 暮らしの美」で展示されています
皆様の目にどう映るか、怖さと楽しみが半分ずつです。
その他の作品については、拙ホームページ「A.E.G自然史博物館」もご覧ください。
カテゴリ:考古、2018年度の特別展
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posted by 藤森英二(北相木村教育委員会) at 2018年08月14日 (火)