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「呉昌碩の世界」その2 呉昌碩の十八番、印に注目!

 台東区立書道博物館(以下、書博)の春田賢次朗です。

このたび21回目となる東京国立博物館(以下、東博)と書博の連携企画では、呉昌碩(ごしょうせき)生誕180年事業として、台東区立朝倉彫塑館(以下、朝倉)、兵庫県立美術館と時期を合わせて「生誕180年記念 呉昌碩の世界(東博、書博は3月17日まで)を開催しています。また、ふくやま書道美術館においても、呉昌碩をテーマとした展示を行います。

トップバッターの六人部克典さんによる「呉昌碩の世界」その1 に続き、わたしからは東博展示、朝倉展示、書博展示の呉昌碩作品に捺(お)されている5顆(か)の印についてお話しをしたいと思います。呉昌碩は、生前自らを「篆刻が第一、書法が第二、花卉が第三、山水は素人」と評するように、篆刻(てんこく)を十八番としました。
 

①「道在瓦甓」朱文方印
この印は、「篆書般若心経十二屛」、「墨梅図軸」に見られます。



篆書般若心経十二屛(てんしょはんにゃしんぎょうじゅうにへい) 【右】第一幅 【左】第十二幅
呉昌碩筆 中華民国6年(1917) 高島菊次郎氏寄贈 東京国立博物館蔵 
【東博にて2月12日(月・休)まで展示

 
 

墨梅図軸(ぼくばいずじく)
呉昌碩筆 清時代・光緒11年(1885) 兵庫県立美術館蔵(梅舒適コレクション)
【書博にて2月12日(月・休)まで展示】


側款(印材の側面に刻まれた款記)に「旧蔵漢晋甎甚多、性所好也。爰取『荘子』語摸印。丙子二月。倉碩記。」とあることから、丙子(1876年)の2月、呉昌碩が33歳の時に漢・晋時代の甎(せん)を好み、その書風で刻した印であることが分かります。甎は、現在のレンガに相当します。
「道在瓦甓」は、『荘子』に見える語です。
東郭子(とうかくし)が荘子に「道と言われるものはどこにあるのかな。」と尋ねると、荘子は「どこにだってあるよ。」と答えます。東郭子はさらに「はっきり決めてくれるといいんだけれど。」と言うと、荘子は「螻(オケラ)や蟻の中にもあるよ。稊(いぬびえ)や稗(ひえ)の中にもある。瓦や甓(しきがわら)にだってあるよ。大便や小便にもあるよ。」と答え、東郭子はいよいよ黙ってしまいます。荘子はさらに「正獲の官にあるものが市場の監督人に豚を踏んでその太り具合を調べることを尋ねたとき、胴よりも股(もも)、股よりも足のつけねのように、太りにくい部分へと下がれば下がるほど正確に分かると言うことだった。道はここにあると限定してはいけない。道は全ての物にいきわたっているものだからね。」と言いました。
呉昌碩は、荘子が万物に等しく存在する「道」を説くように、「篆書般若心経十二屛」の一幅一幅にもそれぞれ共通の「道」が存在していることを伝えたかったのでしょうか(十二幅もありますからね)。この印は呉昌碩の他の連幅作品にも見られますが、「墨梅図軸」は一幅のみの作品です。必ずしも連幅専用の印という訳ではないようです。


②「俊卿之印」朱文方印・「倉碩」白文方印(両面印)
この印は、非常に多くの呉昌碩作品に捺されており、呉昌碩の名の「俊卿(しゅんけい)」、字(あざな)の「倉碩(そうせき)」が刻されています。側款に「丁丑九月刻面印。以便行篋携帯。」、「此擬穿帯印。」とあることから、丁丑(1877年)の9月、呉昌碩34歳の時に穿帯印(せんたいいん)を参考にして、携帯用に刻した印であることが分かります。穿帯印は、扁平な両面印で、携帯するのにうってつけでした。
使用頻度が特に高い印なので、印面は徐々に摩耗し、四隅は擦り減っていきます。そこで呉昌碩は光緒23年(1897)、54歳の春に、34歳の時に刻した両面印とそっくりな印を再び刻しています。
呉昌碩が82歳の時、事件は起こります。約50年もの間愛用し続けたこの印が何者かによって盗まれてしまうのです。この時呉昌碩は、弟子の王个簃(おうかい)に54歳の時に刻した印の印影をもとに摸刻させたので、この印は呉昌碩が34歳の時に刻したもの、呉昌碩が54歳の時に刻したもの、王个簃が摸刻したものの、計3顆が存在しているのです。呉昌碩にとってこの印は、特別お気に入りであったことがよく分かります。


③「一狐之白」朱文方印
この印は、「臨石鼓文四屛」に見られ、四幅全てに捺されています。



臨石鼓文四屛(りんせっこぶんしへい)
呉昌碩筆 中華民国7年(1918) 兵庫県立美術館蔵(梅舒適コレクション)
【書博通期展示】


側款に「己卯春日。倉石道人作于苕上。」とあることから、己卯(1879年)の春、呉昌碩が36歳の時に苕上(ちょうじょう)(呉興)で刻した印であることが分かります。
司馬遷の『史記』には、これに類似する「一狐之腋」(一匹のキツネの脇毛)という語があります。この語は、「千金の価値がある皮衣(かわごろも)は一匹のキツネの脇毛からはできない。」という一文で用いられており、国家を治めるためには優れた人材を多く集めるべきであることを説いています。
キツネの脇の下の白毛皮で作られた皮衣は、狐裘(こきゅう)とも言い、昔から珍重されていました。呉昌碩は、一匹のキツネから採取できるほんの少しの上質な皮衣を一幅の聯に見立てて、これを四幅全てに捺すことで、自らの作品を千金の価値がある皮衣と同等であることを暗に示しているのでしょう。つまり、この印は連幅作品に捺されていることではじめて意味を為すのであり、「臨石鼓文四屛」は、呉昌碩自身が認める自信作であったのです。


④「帰仁里民」白文方印
この印は、「篆書八言聯」、「荷花図軸」に見られます。



篆書八言聯(てんしょはちごんれん)
呉昌碩筆 中華民国6年(1917) 林宗毅氏寄贈 東京国立博物館蔵 
【東博通期展示】



荷花図軸(かかずじく) 
呉昌碩筆 中華民国5年(1916) 兵庫県立美術館蔵(梅舒適コレクション)
【書博にて2月14日(水)から3月17日(日)まで展示】



側款に「帰仁吾鄣呉村里名、亦里仁為美之意。壬午冬。昌石記。」(帰仁は我が地元の鄣呉村の里名で、里仁は美の意味である。壬午の冬。昌石が記す。)とあることから、壬午(1882年)の冬、呉昌碩が39歳の時に刻したことが分かります。印面の「帰仁里民」は「鄣呉村の人」という意味で、鄣呉村は呉昌碩の生まれ故郷である浙江省安吉県鄣呉村(せっこうしょうあんきつけんしょうごそん)を指します。
「里仁」は『論語』に見える語です。
「子曰。里仁為美。択不処仁、焉得知。」(孔子が言った。「仁に居る(里(お)る)ことは立派(美(よ)し)なことである。あれこれと選んで仁を離れたならば、どうして智者と言えるだろうか。」)
印面の「帰仁里民」の「仁里」をわざわざひっくり返して『論語』に見られる「里仁」にあてがっています(ちょっと無理があるような…?)。「里仁」は「立派」という意味であり、呉昌碩が故郷に誇りを持っていたことを示す、地元愛溢れる印です。


⑤「半日村」朱文方印
この印は、「藤花爛漫図軸」、「篆書八言聯」、「竹図軸」に見られます。



藤花爛漫図軸(とうからんまんずじく)
呉昌碩筆 中華民国5年(1916) 個人蔵
【東博にて2月14日(水)から3月17日(日)まで展示】

 


篆書八言聯(てんしょはちごんれん)
呉昌碩筆 中華民国13年(1924) 兵庫県立美術館蔵(梅舒適コレクション) 
【書博にて2月14日(水)から3月17日(日)まで展示】




竹図軸(ちくずじく)
呉昌碩筆 中華民国10年(1921) 台東区立朝倉彫塑館蔵 
【朝倉にて2月9日(金)から3月6日(水)まで展示】


側款に「孝豊鄣呉村、一名半日村。甲寅秋。老缶。」とあることから、甲寅(1914年)の秋、呉昌碩が71歳の時に刻した印であることが分かります。
呉昌碩が生まれた鄣呉村は、山々に囲まれ、竹や古樹が空高くそびえているので、木々が日の光を遮り、半日しか日が当たらないことから半日村とも言います。呉昌碩の詩集には、故郷の風土に関する詩が多く見られ、「帰仁里民」印からも分かるように、やはり地元大好き人間だったのです。


呉昌碩の作品には、これまでご紹介した印のように、落款印以外の印が捺されているものが少なくありません。今回ご紹介した5顆の印が紙面のどこに捺してあるかは、あえて内緒にしましたので、ぜひ東京国立博物館、台東区立朝倉彫塑館、台東区立書道博物館に足を運んでいただき、作品のどこにこれらの印があるのかを探してみてください。

 

図録『生誕180年記念 呉昌碩の世界』
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週刊瓦版
台東区立書道博物館では、本展のトピックスを「週刊瓦版」として、毎週話題を変え、無料で配布しています。各館の担当者が順番に書いています。呉昌碩の世界を楽しむための一助として、ぜひご活用ください。

 

カテゴリ:中国の絵画・書跡「生誕180年記念 呉昌碩の世界—金石の交わり—」

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posted by 春田賢次朗(台東区立書道博物館専門員) at 2024年02月07日 (水)

 

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