土偶(どぐう)とは縄文時代を代表する祈りの道具。粘土で作られた人形(ひとがた)で、縄文時代を代表する造形物としても人気があります。
当館で土偶といえば、教科書でもおなじみの青森県つがる市木造亀ヶ岡出土の遮光器土偶(以後、亀ヶ岡土偶と呼ぶ)が有名ですが、当館にはこれに匹敵する遮光器土偶の名品が所蔵されています。
それが、本館1室で展示中の宮城県大崎市恵比須田出土の遮光器土偶(以後、恵比須田土偶と呼ぶ)です。
重要文化財 遮光器土偶(亀ヶ岡土偶)
青森県つがる市木造亀ヶ岡出土
縄文時代(晩期)・前1000~前400年
遮光器土偶だけではなく、日本の土偶代表ともいえる土偶です。
1887(明治20)年に学界に報告され、広く知られるようになりました
※現在は九州に出張中のため展示されていません(九州国立博物館で開催の特別展で展示予定)。
重要文化財 遮光器土偶(恵比須田土偶)
宮城県大崎市田尻蕪栗字恵比須田出土
縄文時代(晩期)・前1000~前400年
本館1室 ~11月23日(月・祝)
亀ヶ岡土偶(晩期中葉)に年代的に先行する恵比須田土偶(晩期前葉)。
遮光器土偶は年代が新しくなるとともに、首が長く、胴が短く、腰が幅広に体の表現は変化していきます
恵比須田土偶は足先を欠くものの、ほぼ完全な形が残る希少なもの。
しかも、遮光器土偶としては大形のものです。
実はこの土偶、1943(昭和18)年に畑の耕作中に石囲いの中から偶然発見されました。
近来、いわゆる優品と呼ばれる大形で造形的にも優れた土偶が、遺構(住居や墓など過去の人びとが残した痕跡)から出土し、土偶の謎を解明するうえで注目されています。
「中空土偶」や「合掌土偶」、そして「縄文のビーナス」や「仮面の女神」といった愛称をもつ国宝土偶もその一例です。
多くの土偶が破片として出土するなかで、特別な扱いをされたこれらの土偶は、縄文時代の人びとの祈りの形を強く表わしたものといえます。
そもそも、遮光器土偶とは、縄文時代晩期(前1000年~前400年)の東北地方を中心に盛行した土偶です。
大きな特徴的な目の表現が遮光器(スノーゴーグル)に似ていたことから遮光器土偶と呼ばれるようになりました。
遮光器土偶の見どころは、極端にデフォルメされた体の表現とともに、全身に施された文様です。
縄文を施した部分と無地の部分と描き分けることで装飾効果を高めた磨消縄文手法を用い、多彩な文様が全身を覆うように表現されています。
恵比須田土偶の胴部(左:オモテ/右:ウラ)
一見複雑なこの文様、無地の部分に注目すると線対称と点対称とをうまく組み合わせて、三叉文や弧線文などの文様を配置していることがわかります。
そのルールがあるために、多彩な文様は煩雑に見えず、調和した印象を与えるのです。
ユーモラスな顔にデフォルメされた体、そして緻密な文様と何度も楽しめる、この遮光器土偶。
縄文人の祈りや想いとともに、そのデザインの妙も合せてお楽しみいただければと思います。
10月14日には平成館考古展示室がリニューアルオープンします。
展示室ではハート形土偶やみみずく土偶などさまざまな土偶たちが皆様をお出迎えいたします。
考古展示室のリニューアルにも、ぜひご期待ください。
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posted by 品川欣也(特別展室主任研究員) at 2015年09月21日 (月)
「クレオパトラとエジプトの王妃展」は、9月23日(水・祝)までと、会期残りわずか!
そこで、今回は本展監修の近藤二郎教授に、見逃し厳禁のおすすめ作品をご紹介いただきます。
早稲田大学の近藤二郎先生
エジプト学が専門で、主にアメンヘテプ3世時代の高官や王墓の研究をされています
私のおすすめは、新王国・第18王朝時代、アメンヘテプ3世(前1388〜前1350年頃)の記念スカラベです。
スカラベとは動物の糞を球形に丸めて巣まで運ぶ俗称「フンコロガシ」と呼ばれるタマオシコガネ属の甲虫。
天空で太陽を運ぶ太陽神ケプリと同一視され、古代エジプトでは印章や装身具などのモチーフとして広く使用されました。
アメンヘテプ3世は、自分の治世に起こった重要なできごとを大型のスカラベに刻みました。これを「記念スカラベ」と呼んでいます。
これらのスカラベは、北はシリアから南はスーダンに至る非常に広い範囲の幾つかの遺跡から発見されています。
現在までに200を超える数のスカラベが知られており、世界各地の博物館や美術館に収蔵されています。
スカラベは、片麻岩や凍石に釉をかけたものなどで作られており、長さが7㎝~10㎝ほどのものが大多数を占めています。
記念スカラベには、(1)「結婚スカラベ」、(2)「野牛狩スカラベ」、(3)「ライオン狩スカラベ」、(4)「ギルケパ・スカラベ」、(5)「湖造営スカラベ」の5種類のものがあります。
今回の特別展で出品されているのは、(1)と(5)の2種類のスカラベです。
ヒエログリフを読むのにも、手ごろな教材として使うこともできます。
アメンヘテプ3世の記念スカラベ(王妃ティイとの結婚)
新王国・第18王朝時代 アメンヘテプ3世治世(前1388~前1350年頃)
片麻岩 長さ:8.7㎝×幅:6㎝×高さ:3.4㎝
ウィーン美術史博物館
Kunsthistorisches Museum Vienna
結婚スカラベは、結婚のことを具体的に記したものではなく、アメンヘテプ3世の王名と王妃ティイの名前、ティイの両親の名前、そしてアメンヘテプ3世の支配している領域を示したものです。
特別展で展示されているスカラベは片麻岩製のもので、底面には以下のような10行のヒエログリフ(聖刻文字)が、右から左に向かって刻まれています。
1行目から4行目までは、王の5つの王名が記されています。古代エジプトの王は、(1)ホルス名、(2)二女神名(ネブティ名)、(3)黄金のホルス名、(4)即位名(上下エジプト王名)、(5)誕生名(太陽神の息子名)の名前をもっており、(4)と(5)はカルトゥーシュと呼ばれる楕円形の枠で囲まれました。
右:即位名(上下エジプト王名)のカルトゥーシュ
左:誕生名(太陽神の息子名)のカルトゥーシュ
4行目のアメンヘテプ3世の誕生名に続き、「偉大なる王の妻(ヘメト・ネスウト ウレト)」という称号が記されていますが、これは王の正妃(第一夫人)がもつ称号です。
そして5行目の先頭に王妃ティイの名前がカルトゥーシュに囲まれてあります。
王妃ティイのカルトゥーシュ
その後ろに、彼女の父の名前がイウイアであると記されています。
6行目の先頭には、5行目から続くイウイアの限定符(決定詞)である「座った貴人の姿」があり、続いて彼女の母の名前がチュウイアであると記されています。
最後の部分は、王妃ティイの夫であるアメンヘテプ3世の支配領域は、南はスーダンのカロイまで、北はシリア北部に位置していたミタンニ(ミッタニ)王国を表すナハリナまでと記されています。
この結婚スカラベで重要な点は、アメンヘテプ3世の正妃であるティイが、王族の出身ではなく中部エジプトのアクミームで強い勢力をもっていたイウイアと彼の妻チュウイアの娘であった事実を強調している点です。
一般に王妃ティイは、王族出身の女性ではなく庶民の出身であると強調されることがありますが、これは必ずしも正しくはなく、王族の女性よりもむしろ結婚することで王自身が有力な後ろ盾を得る可能性がある人物の娘であったと見なすことが出来ます。
また、ティイの父親の名前の「イウイア」とは、明らかにエジプト固有の名前ではなく、彼が外国に出自をもつ家系の出身者であると見られることも、興味深いことです。
アメンヘテプ3世の記念スカラベ(湖の造営)
新王国・第18王朝時代 アメンヘテプ3世治世(前1388~前1350年頃)
滑石 長さ:10.17㎝×幅:6.6㎝×高さ:4.45㎝
大英博物館蔵
(C)The Trustees of the British Museum, all rights reserved
結婚スカラベとともに、特別展に出品されているのが湖造営スカラベです。
この大型スカラベの銘文は、横書き12行のもので、結婚スカラベと同じく、ヒエログリフ(聖刻文字)が、右から左に向かって刻まれています。
結婚スカラベと異なるのは、1行目に王の治世年と月日が刻まれている点です。
「アメンヘテプ3世の治世11年のアケト季3月1日」と記されています。
古代エジプトの数字で10は、逆さにしたU字、1は縦線で記されます。
古代エジプトの暦(民衆暦)は、1年をアケト(増水)季、ペレト(播種)季、シェムウ(収穫)季という3つの季節に分け、それぞれに30日からなる月が4つずつ配されています。
つまり1年が12ヵ月で360日になります。それに、年と年との間に5日間の祭礼の日が置かれて365日としたのでした。
2行目から5行目の前半までは、結婚スカラベと同様にアメンヘテプ3世のホルス名、二女神名、黄金のホルス名、即位名、誕生名の順で、5つの王名が記されています。
5行目の後半部分には、偉大な王の妻(正妃)ティイの名前が記されています。
6行目3文字目からが、この銘文の主文になります。「(3月1日に)、陛下は王妃ティイのために、湖を造ることを命じました。」そして、その湖の説明が続いています。
まず、場所です。ジャルカの町と記されています。
次に湖の大きさとして長さが3700キュービット、幅が700キュービットと刻まれています。
キュービット(古代エジプト語でメフ)は、古代エジプトの長さの単位で、伸ばした腕の指先から肘までの長さを指し、「腕尺」とも呼ばれています。
1キュービットは約52.5cmで、長さ3700キュービットは1.9425km、幅700キュービットは0.3675kmにもなります。
古代エジプトの数字で、1000は蓮、100は渦巻きで表現されています。
左:1000(蓮)、写真は3000を表す/右:100(渦巻き)、写真は700を表す
そして、この湖の完成を祝う式典がアケト季の3月16日と書かれており、湖の造営を命じた3月1日から、わずか15日後のことです。
約2週間で長さが2km、幅が0.4kmの巨大な人造湖を造営したことにも驚かされます。
この人造湖は、かつては王都テーベ(現在のルクソール)の西岸にあるアメンヘテプ3世のマルカタ王宮(古代名は「喜びの家」)に造られた人造湖のビルカト・ハブとされていました。
しかしながら、大きさがビルカト・ハブは長さが3km、幅が0.9kmと違っているのと、マルカタ王宮の造営がアメンヘテプ3世の治世29~30年頃であることなどから、別のものであり、現在ではジャルカも王妃ティイの出身地のアクミーム付近の地名とされています。
また、銘文の最後にある記述にも驚かされます。
湖のオープニングの式典でアメンヘテプ3世が乗った船が「輝くアテン」という名前をもつことです。
言うまでもなく、アメンヘテプ3世の息子で後継者であるアメンヘテプ4世(アクエンアテン)が、唯一神として崇拝した太陽神アテンの名前が、アメンヘテプ4世(アクエンアテン王)の治世が開始される20年以上も前に父王の船の名前として登場することはとても興味深いことです。
アテンを表すヒエログリフ
わずか12行ほどの短い銘文ですが、これを読み解くことで今から2360年も前の歴史的事実を知ることができるなんて、すごいことだと思いませんか?
今回、近藤先生にご紹介いただいた2件のスカラベは、会場では、銘文の読み方とともに展示しています。
王妃ティイとアメンヘテプ3世の事蹟を、ぜひご自身で読んでみてはいかがでしょう。
皆様のご来館をお待ちしております。
カテゴリ:2015年度の特別展
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posted by 近藤二郎(早稲田大学教授) at 2015年09月18日 (金)
トーハクは、多くの能面、能装束を収蔵しており、現在、本館14室では特集「能面 女面の表情」(10月4日(日)まで)を、本館9室では「能「紅葉狩」にみる面・装束」(11月3日(火・祝)まで)という展示を行っています。
600年以上、大切にその歴史を紡ぎ、伝えられてきた日本の文化であり、総合芸術と評される能。
でも能って、知っているようで知らない。よくわからない。
残念ながらそんな存在かもしれません。
能面や能装束に至っては、どれも同じにみえる、という声をよく耳にします。
もちろん、本当はいろいろな種類があって、それぞれの造形には個性が感じられます。
その魅力をお伝えし、トーハクの能面や能装束をもっと楽しんでもらいたいと思い、企画されたのが、その名もずばり、ワークショップ「能の裏側体験!」です。
能舞台のないトーハクでは本格的な能をご覧いただくことはできません。
でも能で使われる能面や能装束を間近で見られる博物館であることを活かし、客席からではわからない能の裏側の体験をし、楽しみ親しむ時間となりました。
ワークショップを開催した9月12日。東京は久しぶりの晴天でした。
講師は観世流シテ方能楽師 浅見慈一氏。
「能って何?」という質問に、わかりやすく答えてくださいました。
「600年前から続く、日本のミュージカル」
「能面をつけるのもおおきな特徴です」
「山や海などの背景はお客さんが想像しないといけない。みんなの想像力が必要な演劇ですね」
展示室で室町時代や江戸時代につくられた能面を見ます。
「よく見てごらん。何歳くらい?どんな性格?話せるとしたら何と言いそう?下から見たり、上から見たりしてごらん。」
こんなふうに声をかけるといろんな声が上がります。
「意地悪そう」「悲しそう」「お母さんと同じくらいの年!」「下から見ると顔変わった!」
見方によって表情が変わったように見えたり、性格を細やかに表現していたりします。
立体の彫刻である能面をじっくり見る楽しみを感じてもらえたかな。
さあ、それでは能面をかける体験、能の基本動作「ハコビ」の体験です。
能楽師の浅見慈一さんと小早川泰輝さんが楽しく教えてくれ、真剣にお稽古スタートです。
好きな能面をかけて、立ち上がり、歩いてみます。
能面をかけると視野は通常の10パーセントになるといいます。だからこそ足を摺って足裏の感覚をたよりに歩くんだという浅見さんの言葉にみんな納得。
小早川さんのわかりやすく楽しいお話を聞きながら扇を持って「ハコビ」のお稽古。
小早川さんの動きは軽やかに見えますが、私たちがやってみるとうまくはいきません。
その動きが実は大変な運動だと気づきました。能の舞台に立つって大変・・・
舞台ではさらに能面をかけるんですよね。あ、舞台では当然、重い衣裳も着けるんですよね。
どんなふうに着るのか、浅見さんがモデルとなって見せてくれました。
着付も大変そう・・・
みんなでお手伝いしました。
衣裳や鬘に触れるなんて、貴重な経験です。
そして最後に、能「巴」の一場面を見せてくれることに。
博物館には能舞台がありませんのでワークショップ特別バージョン。
浅見さんがひとりで巴を演じ、小早川さんがひとりで謡をしながら後見までしてくれました。
印象的なストーリーと舞を見て、参加者はみんな引き込まれていきます。
能面は能に使う道具です。
これをかけると、自分ではない「役」に変身することが出来ます。
いろいろな便利な道具が出来ても変わらずに、いまもひとつひとつ木でつくられています。
無表情の代名詞に使われることがありますが、じつは能楽師の演技によって表情豊かに見せることができます。
それをねらっての造形ともいえるでしょう。
しかも能楽師にとって命よりも大切なものとして代々伝えられるそうです。
ひとつひとつの造形美を楽しむことも大切ですが、やはり能楽師にどう使われ、どう伝えられてきたかを知ることで、よりその造形を理解できるような気がします。
参加者のみなさんは、どう思われましたか?
浅見慈一さん、小早川泰輝さん、ありがとうございました。
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posted by 川岸瀬里(教育普及室) at 2015年09月17日 (木)
「クレオパトラとエジプトの王妃展」研究員のおすすめ作品(4)
「クレオパトラとエジプトの王妃展」の第2章「華やかな王宮の日々」では、白い壁紙の展示室で王とその家族を支えた人々の姿と華やかな装飾品を鑑賞した後、赤い壁紙で統一された部屋へと入っていきます。
ここは「グラーブのハーレム」コーナー。
グラーブとは、マディーナト・グラーブと呼ばれている遺跡のことで、新王国時代には王宮を伴う町がありました。
発掘された王宮に属する建物の大部分は、王家の女性たちが暮らした「ハーレム(後宮)」であったとされています。
このグラーブが最初に発掘されたのは、今から100年以上も前、1889年のことでした。
発掘したのは有名な考古学者、フリンダース・ペトリーです。
当時の考古学は「お宝探し」の側面が強かったのですが、ペトリーは、土器のかけらなど、美術品としての価値がほとんどない出土物であっても、記録を残し、資料として出版しました。
それらを分類して分析するなど、学問としての考古学の基礎を作った人物です。
日本で最初の考古学講座は1916年に京都大学に設置されますが、その初代教官は、ロンドンでペトリーに師事した浜田耕作でした。
ペトリーは日本における考古学の誕生と、その後の発展にも大きな影響を与えたのです。
「グラーブのハーレム」コーナーに戻りましょう。
ここではペトリーが発掘したたくさんの出土物が展示されています!
エジプト考古学の黎明期を示す展示作品をいくつか、ペトリーの出版した報告書とともにご紹介しましょう。
左:双耳長頸壺/右:青色彩文土器
グラーブ出土
新王国・第18~19王朝時代(前1550~前1186年頃)
マンチェスター博物館蔵
(C)Manchester Museum, The University of Manchester
ペトリーは、グラーブの墓から出土したこれらの土器の実測図を作成して出版しています。
印をつけたものが上の2件の作品の実測図ですが、おわかりでしょうか?
W. M. F. Petrie, Kahun, Gurob, and Hawara, London, 1890, Pl. XXI.
次は「ハーレム」で暮らした高貴な女性たちも使ったであろう品々です。
ファンアンス容器
グラーブ出土
新王国・第20王朝時代(前1186~前1069年頃)
マンチェスター博物館蔵
(C)Manchester Museum, The University of Manchester
ロータスに水鳥というエジプトらしい絵柄が描かれたこの美しい壺は、香油の容器だったと考えられます。
「鐙壺(あぶみつぼ)」と呼ばれるミケーネ土器を模倣した容器です。
当時、高級オイルや香油はエーゲ海地域で生産され、「鐙壺」に入れられて、エジプトにも輸出されていました。
ちなみに、本場の「鐙壺」はこちら。
ミケーネ考古学博物館蔵
アーチ状の把手が、馬具の鐙のように見えるので、「鐙壺」と呼ばれます。
この把手とは別に、注ぎ口が取りつけられている点が特徴です。
人差し指と中指で把手を持ち、親指でその真ん中を抑え、中身の液体を注ぎ出しました。
特別展で展示されている作品は、エジプトで製作されたもの。
当時、「鐙壺」はおしゃれな容器として定着していました。
そこで、エジプトのファイアンス職人は、「鐙壺っぽい」ファイアンス容器を作ったのです。
「鐙壺っぽい」と書きましたが、実はこのファイアンス容器、独立した注ぎ口がなく、把手の中央部が注ぎ口になっている「似て非なるもの」。
鐙壺の機能よりも雰囲気が大事だったのでしょうか。
ペトリーの報告書ではこのように描かれています(左上の図)。
W. M. F. Petrie, Illahun, Kahun, and Gurob, London, 1891, Pl. XX.
手描きならではの味がありますね。
ちなみに左下も展示作品で、「女性スフィンクスが描かれたファイアンス容器」(No.88)です。
左:ガラス容器/右:ペトリーの報告書の図(Petrie 1991, pl.XVIII:19 )
グラーブ出土
新王国・第18~19王朝時代(前1550~前1886年頃)
マンチェスター博物館蔵
(C)Manchester Museum, The University of Manchester
このガラス容器も香油などを入れるためのおしゃれな容器でした。
粘土などでつくった芯に、ガラス棒を巻きつけて作られた容器です。
表面の文様も、溶けた色ガラスの棒を巻き付け、固まる前に引っ掻いて作り出されたもの。
素材となったガラス棒はこのようなものです。
色ガラス断片
エジプト出土
新王国~初期イスラム時代・前16世紀~後8世紀頃
百瀬治氏・富美子氏寄贈
東京国立博物館蔵(現在は展示されていません)
古代エジプトでは、色ガラスは宝石と同様でした。
例えばツタンカーメン王の黄金のマスクも、青色ガラスで彩られています。
このガラス容器のかたちもまた、エーゲ海やシリア・パレスチナ地域で生産され、輸出されていた壺の形を模したものです。本来は把手が2つついていたと思われます。
「グラーブのハーレム」コーナーの注目作品をもう1つご紹介します。No.78「王妃ティイの供物台」です。
王妃ティイの供物台
グラーブ出土
新王国・第18王朝時代 アメンヘテプ3世治世(前1388~前1350年頃)
マンチェスター博物館蔵
(C)Manchester Museum, The University of Manchester
本展覧会が注目する王妃の一人であるティイが、夫アメンヘテプ3世のために用意した供物台で、刻まれた碑文からは、強い絆で結ばれていた夫への愛情を感じ取れます。
ペトリーもこの供物台の資料的価値を評価し、供物の絵柄とヒエログリフがはっきりわかるスケッチを出版しています。
Petrie 1891, Pl. XXIV
クラーブは湖と豊かな自然を満喫できるファイユーム・オアシスへの入口に位置します。
ここに王宮を建設したのはトトメス3世(治世:前1479~前1425年頃)。
グラーブの王宮は、王にとってはリラックスして過ごせる離宮でした。
王がグラーブに滞在したのは1年のうちのわずかな期間だったと推測されます。
そうすると、王が不在の間、ハーレム(後宮)の女性たちは何をしていたのでしょうか。
実は彼女たちは、機織りなどの仕事を持っていたことが知られています。
つまり、ハーレム(後宮)には王室の工房としての側面がありました。
生産されていた、薄くて白い亜麻布は、当時は貴重で高価なものでした。
出土した碑文から、「機織りの長」という称号を持つ女性がいたことがうかがえます。
クラーブでも紡錘車や糸玉など、亜麻布生産に関連する出土物が多数出土しています。
左:紡錘車/右:糸玉
グラーブ出土
新王国・第18王朝時代(前1550~前1186年頃)
マンチェスター博物館蔵
「クレオパトラとエジプトの王妃展」で展示中のグラーブ出土品の大部分は、マンチェスター博物館からお借りしています。
実はこれらの品々、マンチェスター大学が資料として保管しているもので、同大学博物館で展示されている作品ではないのです。
ということは・・・本展覧会は、「グラーブのハーレム」で発掘された出土物をまとまって鑑賞できる大変貴重な機会!
会期終了まであと1週間とちょっと。まだご覧になられていない方は、ぜひ展覧会へお急ぎください。
カテゴリ:研究員のイチオシ、2015年度の特別展
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posted by 小野塚拓造(特別展室) at 2015年09月14日 (月)
いま、本館の特別1室では、「春日権現験記絵模本Ⅱ―神々の姿―」と題する特集を行なっています(10月12日(月・祝)まで)。
この特集は、奈良市に鎮座する春日大社に祀られる神々の利益と霊験を描く春日権現験記絵模本の魅力とともに、春日信仰の諸相を様々な角度からご紹介する2回目の試みです。昨年は「美しき春日野の風景」をテーマに、描かれた聖地・春日野の風景や、美しい朱塗りの社殿などから、春日の神々への多様な信仰をご紹介しました。今回は「神々の姿」をテーマとしていますが、展示場面を見ていく前に、この絵巻模本についてご紹介しておきましょう。
今回展示している春日権現験記絵模本の原本=春日権現験記絵は、三の丸尚蔵館が所蔵する全20巻の絵巻です。鎌倉時代の後期、時の左大臣西園寺公衡の発願により、高階隆兼という宮廷絵所絵師によって描かれました。通常紙に描かれることの多い絵巻としては異例の絹に描かれおり、数ある絵巻作品の中でも最高峰の一つに数えられています。
江戸時代の半ば頃になると、こうした貴重な絵巻の模本を作ろうという動きが活発化してきます。今回展示しているのは、紀州(和歌山)藩主徳川治宝の発案により、林康足、原在明、浮田一蕙、冷泉為恭、岩瀬広隆といった復古やまと絵師たちによって写されました。模写にあたっては大変な苦労があったことが、附属の目録に記されています。
春日権現験記絵(模本) 目録 長澤伴雄筆 江戸時代・弘化2年(1845)
模写プロジェクトを任された長澤伴雄が、模写の経緯を記しています。様々な苦労を経て完成した際の興奮がほとばしります。
さて、話を今回のテーマ「神々の姿」に戻しましょう。
この絵巻では、春日の神々は様々な姿で人の前に姿を現わしています。とりわけ多いのが人の姿。春日社の主な祭神は、本殿に祀られる武甕槌命(たけみかづちのみこと)、経津主命(ふつぬしのみこと)、天児屋根命(あめのこやねのみこと)、比売神(ひめがみ)とともに、若宮(わかみや)をあわせた五柱の神です。武甕槌命、経津主命、天児屋根命は男神であるため束帯姿で、比売神は女神であるため女性の姿で、また若宮は御子神とされるため童子の姿で人びとの前に顕現しています。
春日権現験記絵(模本)巻第十
樹上で舞を舞う束帯姿の春日明神。
春日権現験記絵(模本)巻第十
雲に乗る女性姿の春日明神。
春日権現験記絵(模本)巻第十四
老僧の膝の上に乗る童形の春日明神。
こうした人の姿とともに、仏の姿でも顕現する場面もあります。日本の神とは、仏が仮の姿で現われたとする「本地垂迹説」という考え方がその背景にあります。
春日権現験記絵(模本)巻第十一
春日三宮が地蔵菩薩の姿で現われたところ。
さて、こうした様々な姿で人びとの前に現われる春日の神々ですが、場面を追っていくといくつか特徴的な点が見えてきます。その一つが、いくつかの例外を除き神の顔を描いていない点です。後ろ向きに描かれる場合はもとより、時に霞や樹木、建物を不自然なまでに配し、神の顔を描かないことに配慮しています。ここには、神の姿を顕わに描くことに対するはばかりがあったと考えられています。
春日権現験記絵(模本)巻第七
画面には春日の二柱の神が描かれていますが、見つけられますか?樹木によってそのお顔が隠されています。
もう一つの特徴が、人が神に出会うタイミングが夢の中だということです。昼日中に堂々と、神が人の前にその姿を現わすことはほとんどありません。漆黒の夜の闇の中にこそ、人が神と出会う舞台が用意されていると言うことができます。
春日権現験記絵(模本)巻第十五
伊勢の斎宮の前に現われた春日明神。みなぐっすりと眠っています。
こうした夢以外の、神と出会う重要な場面は人が死に直面した時です。この絵巻では臨終の場面で神に出会う話や、いったん地獄に堕ちた人間が春日明神のおはからいによって救済された話なども描かれています。
春日権現験記絵(模本)巻第六
春日明神のおかげで地獄行きを逃れた男。春日明神の案内でこれから地獄ツアーに向かいます。
そして、神々に出会うために何よりも重要なのは、春日の神々への深い崇敬の念です。この絵巻を見た人びとも、神との縁を結ぶため、敬神の思いを新たにしたことでしょう。
今回の展示では、春日の神々の描かれた場面を特に選んで展示するとともに、神と仏が一体化した信仰形態を示す画像も展示しています。
春日本地仏曼荼羅 鎌倉時代・13世紀(2015年9月23日(水・祝)まで展示)
春日野の景観とともに、春日の神々の本来の姿であるとされる仏(本地仏)の姿を描きます。
神々の姿は本来目に見えないものとされます。ですが、どうしても「見たい」という人びとの強い思いによって「神々の姿」は画像として表わされました。
幕末やまと絵師たちの画技とあわせ、多様な「神々の姿」をご覧になりに、是非とも展示室にお運び下さい。
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posted by 土屋貴裕(平常展調整室主任研究員) at 2015年09月11日 (金)