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1089ブログ

清時代の書─碑学派─ 碑学派の祖・鄧石如、そして隆盛期

今回は、先の「清時代の書─碑学派─ 勃興期@トーハク」のバトンを受けて、碑学派の隆盛期についてお話ししようと思います。その前に、碑学派の立役者であり、今年生誕270年を迎えた鄧石如(とうせきじょ、1743~1805)について触れておきましょう。

湯禄名「鄧石如像軸」
鄧石如像軸 湯禄名筆 中国  清時代・同治3年(1864) 個人蔵    
台東区立書道博物館にて展示中)

中国の書の歴史は、官僚たちによって作られてきました。勃興期のブログにも登場した翁方綱(おうほうこう)や阮元(げんげん)、李宗瀚(りそうかん)たちも、超エリート官僚です。しかし鄧石如は、貧しい家の生まれでした。父に書や篆刻の手ほどきを受け、若い頃から各地を放浪し、売字売印の生活を送りながら糊口をしのいでいました。その才能を見抜いた名士たちは、鄧石如のために衣食や紙墨などを提供したり、豊富な収蔵品を自由に見せたりと、鄧石如を全面的に支援します。鄧石如もそれに応えるべく、当時ようやく脚光を浴びつつあった古碑の臨摸を通して切磋琢磨し、篆書や隷書の臨書を何百回と繰り返すことで、熟練した技法を身につけました。そして、王羲之の書とは全く異なる視点から、雄渾で格調高い書風を創出したのです。古典に基づいた新たなスタイルの篆書や隷書は、鄧石如によって打ち立てられたといっても過言ではありません。事実、後の碑学派の書は、鄧石如の書風を基盤として開花していきました。在野の売芸家だった鄧石如が“碑学派の祖”と称えられるゆえんです。

鄧石如「篆書白氏草堂記六屛」と、鄧石如「隷書登黄鶴楼和畢制府韻詩軸」
左:篆書白氏草堂記六屏  鄧石如筆 中国 清時代・嘉慶9年(1804)  個人蔵(平成館企画展示室で展示中)
右:隷書登黄鶴楼和畢制府韻詩軸 鄧石如筆 中国 清時代・乾隆57年(1792)  京都国立博物館蔵(
台東区立書道博物館にて展示中)


鄧石如の偉業は、包世臣(ほうせいしん、1775~1855)を通じて、呉熙載(ごきさい、1799~1870)に受け継がれ、やがて趙之謙(ちょうしけん、1829~1884)、呉昌碩(ごしょうせき、1844~1927)へと継承されて、碑学派は全盛時代を迎えます。

包世臣は、多くの人の書法を研究していましたが、その中で最も影響を受けたのが鄧石如でした。包世臣が鄧石如と会ったのはわずか2回でしたが、晩年の鄧石如の書は最高の境地にあり、包世臣もまた鄧石如の指導を受け入れられるだけの素地が十分にできていました。包世臣は、斬新で個性豊かな鄧石如の書法を吸収し、その教えを呉煕載に伝えます。
呉熙載は10代の後半に包世臣と出会い、弟子入りしました。呉熙載は包世臣を深く尊敬し、師の方法論を順守します。包世臣は持てる知識と技の全てを、鋭敏な頭脳を持つ呉熙載に授けました。草書や行書、楷書については、包世臣自身の書風を伝え、篆書と隷書については、鄧石如の書を学ばせました。


包世臣「臨孝女曹娥碑冊」 呉熙載「楷書淮南子主術訓横披」
左:臨孝女曹娥碑冊 包世臣筆 中国 清時代・18~19世紀 東京国立博物館蔵(高島菊次郎氏寄贈
右:楷書淮南子主術訓横披 呉熙載筆 中国 清時代・19世紀 個人蔵
(いずれも台東区立書道博物館にて展示中)

この2つの楷書作品をみると、包世臣の書風を、呉熙載が忠実に学んでいることがよくわかりますね。

呉煕載も鄧石如と同様、官僚となることなく、民間人として生涯を全うしました。書画篆刻はもとより、書籍の勘校、筆耕、棗刻(そうこく)などに従事し、清貧な一生であったといいます。
呉熙載の篆書や隷書は、鄧石如の書法をベースとした一つの典型をつくり、鄧石如よりも軽妙洒脱な、都会的な雰囲気の書風を築き上げました。

 
篆書崔子玉座右銘四屛 呉熙載筆 中国 清時代・咸豊6年(1856) 個人蔵



隷書文語横披 呉熙載筆 中国 清時代(19世紀) 個人蔵
(いずれも台東区立書道博物館にて展示中)


呉熙載の上品で華やかな篆書や隷書は、碑学派の隆盛をさらに推し進めることとなります。

さて、前述の包世臣ですが、彼は、阮元の著『南北書派論』、『北碑南帖論』という、石碑の拓本に価値を求めた説を継承し、それをさらに発展させた形で石碑の理論的研究を進める必要性を『芸舟双楫(げいしゅうそうしゅう)』で説きました。包世臣は書表現の理想を「気満(きまん)」に求め、それを「逆入平出(ぎゃくにゅうへいしゅつ)」という用筆法をもって具体的に示したのです。この用筆法は、北碑(ほくひ)の表現技法として実に斬新なものでした。阮元、包世臣による石碑重視、とりわけ北碑尊重の唱導が清朝後期の書壇に与えた影響は計り知れず、碑学派においては北碑を重視する傾向が強くなります。
こうした理論が先行した雰囲気の中で、今度は趙之謙のように、北碑派の主張を実践的に展開する者が現れました。趙之謙は、北魏の石刻を基とし、包世臣の気満の理想を実現すべく逆入平出の法を改良し、そこから全く新しい表現形態を樹立しました。


楷書斉民要術八屛 趙之謙筆 中国 清時代・同治8年(1869)頃  個人蔵平成館企画展示室で展示中)
趙之謙のこの独自のスタイルこそが、後に「北魏書」といわれているものです。


清朝碑学派の掉尾を飾る大御所といえば、やはり呉昌碩でしょう。呉昌碩は、金文(きんぶん)や石鼓文(せっこぶん)など、古代文字の要素をとり込んだ書風が顕著です。


臨石鼓文軸 呉昌碩筆 中華民国・民国14年(1925) 東京国立博物館蔵(林宗毅氏寄贈)
(平成館企画展示室で展示中)


この篆書作品はまさにその典型であり、彼は秦時代の小篆(しょうてん)よりも古い、紀元前5~前4世紀頃の石鼓文を自家薬籠中(じかやくろうちゅう)のものとし、一家を成しました。

こうして清時代も末期になると、北碑からさらに時代を遡った殷、周、秦時代にまで書制作の資料が広く求められるようになり、書の表現は多様化しました。また金石(きんせき)の新資料が次々と発見されたこととも相まって、清朝後期の碑学派たちによる研究活動は、広範囲に及ぶのみならず、その内容も充実していきます。芸術性の追求のみを主眼としていた従来の書が深化し、文字学や金石学、考古学といった分野からの知見を基礎とした「清朝書学」が成立したことも大きな要因でしょう。これら碑学の隆盛は、書活動の制作面にも多大な影響を与え、帖学のみではなし得なかった表現も、碑学の導入によって新たな境地を開くことが可能になり、書の潜在的な表現力は飛躍的な高まりをみせていったのです。
 

特集陳列「清時代の書 ―碑学派―」 (2013年10月8日(火)~12月1日(日)、平成館企画展示室)
特別展「清時代の書― 碑学派 ― 鄧石如生誕270年記念」 (2013年10月8日(火)~12月1日(日)、台東区立書道博物館)

カテゴリ:研究員のイチオシ特集・特別公開中国の絵画・書跡

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posted by 鍋島稲子(台東区立書道博物館主任研究員) at 2013年11月16日 (土)

 

清時代の書─碑学派─ 勃興期@トーハク

特集陳列「清時代の書 ―碑学派―」(2013年10月8日(火)~12月1日(日)、平成館企画展示室)は、今回で11回目を迎える台東区との連携企画です。
東京国立博物館、台東区立書道博物館の他、台東区立朝倉彫塑館を加え、台東区内に近接する3館が連携して、碑学派の主な書人の代表作を紹介し、碑学派の流れを概観します。
トーハクでは、碑学派の前期に重きを置き、主として勃興期に焦点をあてます。

清時代に最盛期を現出した乾隆帝が1799年に崩御した頃、中国の書は実に大きな変革期を迎えようとしていました。1400年以上も命脈を保ってきた王羲之を中心とする流麗な書の流れが終焉を迎え、やがて野趣あふれる青銅器や石碑の文字を書の基本とする碑学派が一世を風靡するようになるのです。

乾隆から嘉慶にかけて、知の巨人として学術界に君臨した翁方綱(おうほうこう)は、王羲之の書法を伝える歴代の法帖に執拗なまでの情熱を注ぎ、その考証に腐心していました。現存する名帖の多くには、翁方綱の緻密な識語が書き込まれ、学識の深さを伝えています。

翁方綱は、唐時代の碑を推賞しました(図1)。初唐の能書たちは、宮中に収集された王羲之の原跡を心ゆくまで堪能し、王羲之の書法を体得したうえで碑文を揮毫しているので、唐碑の研究はとりもなおさず王羲之書法の解明につながると考えたのかも知れません(図2)。

模九成宮醴泉銘冊 翁方綱模 中国 清時代・乾隆56年(1791)  高島菊次郎氏寄贈
図1 模九成宮醴泉銘冊 翁方綱模 中国 清時代・乾隆56年(1791)  高島菊次郎氏寄贈 東京国立博物館蔵
これは翁方綱が、唐時代の欧陽詢「九成宮醴泉銘」の得がたい拓本から、気になる文字を写し取った手控えの資料。
文字の輪郭を先に写し、後で中を墨でうめています。



図2 双鉤填墨蘭亭序(部分) 翁方綱  中国 清時代・18世紀(展示未定) 東京国立博物館蔵
これは今回の出品ではありませんが、翁方綱が蘭亭序を写しとった手控え資料。それにしても細かな文字!!!。
86歳の長寿を全うした翁方綱は最晩年まで細かな字を書き、細かな字が書けなくなったと周囲にこぼした年に亡くなりました。

翁方綱より37歳年少の李宗瀚(りそうかん)が豊かな経済力を背景に、歴代の弧本を収集したいわゆる臨川李氏(りんせんりし)の4宝、あるいは10宝と呼ばれるコレクションは(図3)、翁方綱の考えを継承するものです。

晋唐小楷冊 中国 原跡=晋~唐時代・4~8世紀 高島菊次郎氏寄贈
図3 晋唐小楷冊 中国 原跡=晋~唐時代・4~8世紀 高島菊次郎氏寄贈 東京国立博物館蔵(2013年11月4日(月・休)まで展示)
李宗瀚が入手した拓本の名品に収められた、翁方綱の手紙。翁方綱は李宗瀚に手紙を出して、購入の指南をしていました。
が、翁方綱自身はついにこの名品を見ることなく他界してしまいました。

清時代の初期には、康熙帝が好んだ董其昌(とうきしょう)や、乾隆帝が好んだ趙孟頫(ちょうもうふ)の書風が流行し、ややもすると柔弱に過ぎるきらいがありましたが、翁方綱の唐碑推賞によって新風が吹き込まれることとなりました。
 
翁方綱より31歳年少の阮元(げんげん)は、乾隆帝に抜擢されて、宮中に所蔵される歴代の書跡や絵画の整理に従事、勅撰の『石渠宝笈(せっきょほうきゅう)』を刊行し、自らも『石渠随筆』を著しました。阮元はこのとき、王羲之の書を収めた数々の名帖をたっぷりと鑑賞したことでしょう。しかし阮元は、出土資料を論拠として王羲之の蘭亭序は偽物であると確信、48歳の時に『南北書派論』『北碑南帖論』を刊行し、歴代の法帖より、石碑の拓本に高い価値を認めます(図4)。

行書文語軸 阮元筆 中国 清時代・18~19世紀 台東区立書道博物館蔵
図4 行書文語軸 阮元筆 中国 清時代・18~19世紀 台東区立書道博物館蔵
阮元は碑学派の理論を提唱しましたが、自らは王羲之の流れを汲む美しい流麗な書を書いていました。
帖学派から碑学派への過渡期に活躍した人物であることが分かります。



翁方綱によって是正された清初の書の流れは、阮元の著作によって大きくその方向を転換し、碑学派が隆盛を迎えるのです(図5)。

隷書崔子玉座右銘横披 鄧石如筆 中国 清時代・嘉慶7年(1802) 個人蔵
図5 隷書崔子玉座右銘横披 鄧石如筆 中国 清時代・嘉慶7年(1802) 個人蔵
今年、生誕270年を迎えた鄧石如(とうせきじょ)は、碑学派の祖と称される偉大な人物。
生涯を在野に過ごし、独学で書を学び、篆書や隷書を復興させました。



鄧石如の故居(安徽省懐寧県)


関連事業のお知らせ
列品解説「清時代の書-碑学派-」 2013年10月29日(火) 14:00~ 平成館企画展示室


 

カテゴリ:研究員のイチオシ特集・特別公開中国の絵画・書跡

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posted by 富田淳(列品管理課長) at 2013年10月26日 (土)

 

清時代の書に挑戦!

現在平成館企画展示室で開催されている特集陳列「清時代の書 ―碑学派―」はもうご覧になりましたか?
じつは台東区立書道博物館でも、同じ名前の展示を開催しています。
トーハクと書道博物館に展示している作品をお手本に、実際に書いてみよう!というファミリーワークショップ「清時代の書に挑戦!」を開催しました。

臨石鼓文軸
臨石鼓文軸 呉昌碩筆 中華民国・民国14年(1925) 東京国立博物館蔵(12月1日まで展示)
右は「馬」の拡大


トーハクに展示されている作品のなかの字です。
「馬」という字だとはかはわかるけれど、こんなふうに書いた事はなかなかありませんよね。
どんな書き順?
どうしたらもっと近づける?
こどもたちは戸惑いながらも考え、何度も練習し、トーハクと書道博物館の先生に相談します。
先生のアドバイスを受けながら笑顔で書いているかと思えば、書家のようなまなざしで書に向かいます。

練習

練習が順調にすすむと、段々こなれて自信がついてきたよう。試行錯誤の賜物ですね。
ついに色紙、うちわに直接清書です。
書道博物館で展示されている中村不折の作品からとった「知識」を書き続けた女の子は書道を習っているそうで、その集中力は目を見張るものがありました。
不折の雰囲気がでています。
「馬」を書いた男の子、大きく堂々とした書きっぷりです。
じつは午年なんだとか。ぜひ来年のお正月には今日書いた作品を飾ってくださいね。

清書

最後に印を押したら完成!みんなよく頑張りました!

完成

楽しかった、と口をそろえるこどもたちに、お手本にした展示作品についての感想を聞くといろんな答えが返ってきます。
「同じ字でもいろんな書き方があってかたちも違うから字を探すのが楽しそう」
「下手だけど印象に残るものがあって、その印象をあじわいといって、それもいい作品っていうことがわかった」
難しいことはともかく、純粋に作品を見て、書いて楽しんでほしい。そう思って開催したワークショップでした。
感想を聞いて、そして清書した色紙やうちわを大切そうに抱えて持ち帰る姿をみて安心しました。
目標は達成できたかな、と。

書をもっと知りたい方はもちろんですが、「わからないからいいや・・・」と食わず嫌いをしている方もぜひ、トーハクや書道博物館で開催している「清時代の書 ―碑学派―」で、まずは見て楽しんでみることから始めてみてはいかがでしょう?
書いてみたらもっと楽しめます。
書道博物館でもワークショップを企画しています(おとなも参加可)。
食わず嫌いを克服し、こどもたちにも負けないほど、清時代の書を楽しめるかもしれません。

カテゴリ:教育普及特集・特別公開

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posted by 川岸瀬里(教育普及室) at 2013年10月21日 (月)

 

美術解剖学のことば 第8回「レオナルド・ダ・ヴィンチと美術解剖学」

特集陳列「美術解剖学―人のかたちの学び」は、2012年7月3日(火)-29日(日)の会期をもって、無事終了いたしました。

西洋・日本近代美術、美術解剖学・解剖学、美術教育、森鷗外関係など、多くの美術・美術解剖学ファン、研究者の方々から反響をいただきました。

トーハクにはまだまだ、江戸時代の「重訂解体新書」(キュルムス(杉田玄白訳)・大槻玄沢著)や、
モチーフとしての骸骨、しゃれこうべ、木製の骨(木骨)・・・黒田清輝のヌードデッサン、そして重要文化財「智・感・情」 など、
美術解剖学の視点で語ることのできる作品・資料がいっぱいです!
1089ブログ【美術解剖学のことば】では、より現代的な美術解剖学的視点で、所蔵品を中心に、タイムリーな情報を発信していくつもりです。
 
今回は、150万人以上が来場した「モナ・リザ」展(1974年)や、「受胎告知」が話題となった「レオナルド・ダ・ヴィンチ -天才の実像」展(2007年)など、トーハクとも深い関わりがあるレオナルド・ダ・ヴィンチに敬意を表し、彼の手稿について触れたいと思います。

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 レオナルド・ダ・ヴィンチの解剖学手稿は、たいへん幸せな事に、日本でも開催された展覧会で目にする機会に恵まれ、
現在では文庫本で気軽に読むことができます。(やや古い本ではありますが、とても味わい深い内容です。)

 レオナルド・ダ・ヴィンチの手記表紙
「レオナルド・ダ・ヴィンチの手記(下) 〔全2冊〕」(筆者私物)
杉浦民平 訳 岩波書店 1958年・第1刷発行 1989年・第32刷版


彼の解剖学スケッチは、いま描かれたばかりではないか、と思えるほどなのですが、
その記述は、ヨーロッパの「中世的な科学思想、ならびに、用語をもって語っている」ので、
現代人が読む場合のコツとして、西欧・中世的な頭にスイッチする必要がありそうです。
※同書中、訳者による「解説」より

おお、このわれわれ人間機械の探求者よ、
君は他人の死によって知識を得るからといって悲しむな。
われわれの創造者がかかる優秀な道具(ストルメント)に
智慧(インテレット)を据付けて下さったことを悦びたまえ。 〔Qu. An. Ⅱ.5 v.〕


レオナルドが機械論的に身体を捉えている事がわかりますね。
彼の解剖スケッチは、身体のうち単体のパーツではなく、
必ず2つ以上のパーツの構造とそれらの関連を示すように描かれています。
たとえば骨と骨、それをつなぐ腱や筋肉、そしてそれらの構造によって
どんな動き/はたらき=機能が生み出されるのか、を描いているのです。

レオナルドはそれを機械的なしくみとして図示し、
その構造が生む「はたらき」の根源である“魂”の存在にまで言及しようとしますが・・・
どうやら「脳」の機能にまで至る記述は見当たらないようです。

魂は判断の中に座をしめているようだし、
判断はすべての感覚が集る場所にあるようだ。
それでこれは共通感覚と称せられる。
そして〔それは〕数多の人々が信じて来たように、
体じゅう到る処に偏在するのではなく、
いなむしろ一部分にその全体が存在している。(後略)  〔De. An. B 2 r.〕


学生の頃、第2外国語ではイタリア語を選択しましたが、
辞書を片手にしてもレオナルドの鏡文字による記述を解読するのは困難です。
(イタリア語を学べばダンテ「神曲」が読める!とおだてられた記憶が)

話を戻しましょう。

今回の特集陳列では、明治期の美術雑誌『美術評論』を展示しました。
この雑誌に、森鷗外・久米敬一郎が无名氏(森林太郎・久米桂一郎)の名で、
「藝用解剖學」を連載したのですが、その挿図にレオナルドの解剖図を使用しています。

  藝用解剖學
藝用解剖學 (雑誌「美術評論」連載)  无名氏(森林太郎・久米桂一郎)著 明治31~33年(1898~1900) 個人蔵

おそらく当時の日本人にとって、レオナルドの解剖スケッチは、たいへん貴重な情報源であり、
人のかたちの新しい認識方法としては大きな衝撃だったのではないでしょうか。


藝用解剖學 (雑誌「美術評論」連載) 挿図のページより
レオナルドの解剖手稿から、いくつかの挿図をコラージュして誌面を構成しています。



もともとレオナルドは「中世的な科学思想」の考えで、自らの経験そのままを書きとめたと思われますが、
鷗外・久米による「藝用解剖學」では、既に近代の科学(医学的)思想からレオナルドのスケッチを紹介しているのがわかります。

特集陳列では、レオナルド・ダ・ヴィンチ手稿から転載された、
有名な図である「ヴィトルヴィウス的人体図」のページも展示しました。

当ブログ「美術解剖学のことば 第7回<コントラポスト> “人が立つかたち” と “美の基準”」を参照ください。

 
芸術解剖 ― ヒトの外形、静止、運動の記載   ポール・リッシェ著  1890年  個人蔵
Anatomie antistique.  Description des formes exterieures du corps humain au repos et dans les principaux mouvements
Paul Richer(1849-1933)

美術解剖学という「学び」において、レオナルドの解剖手稿は、
現在も最高・最良の図譜と記述を参照することができる、
原点であり、ひとつの到達点である、ということなのだと思います。

カテゴリ:研究員のイチオシ特集・特別公開

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posted by 木下史青(デザイン室長) at 2012年08月22日 (水)

 

美術解剖学のことば 第7回「<コントラポスト> “人が立つかたち” と “美の基準”」

学生の頃、ヌードデッサンの実技授業がありました。
その授業で大切な事は何でしょう?
それは、人間の身体が、立位(立っている)時に「どのように“重さ”を支えているか」でした。

美術解剖学 -人のかたちの学びに展示されている、黒田と久米のデッサンは、
両者とも見事にその“重さ”を描ききっています。
黒田は身体(からだ)全体のバランスを、久米は骨格と筋肉の構造の成り立ちを、
しっかりと「観察」して、それを画面に「表現」しています。

裸体習作 久米桂一郎、黒田清輝筆 明治20年(1887)
(左) 裸体習作  久米桂一郎筆  明治20年(1887)  東京・久米美術館蔵
(右) 裸体習作  黒田清輝筆  明治20年(1887)


さて、この2枚の「棒を持って立つ裸体デッサン」は、何を表しているのでしょう?
西洋美術の歴史を学ぶと、ひとつの「美の基準」となるキーワードがあるのですが、
それが<コントラポスト>という言葉であり、
その言葉は、すなわちギリシャ・ローマ時代の人体の理想像である、
「カノン」を表す「かたち」のことばなのです。

この2枚のデッサンには、以下の解説を付したのですが、説明不足でしたね。

立位姿勢では、自然に立脚(より体重を支える側)と遊脚(そうでない側)が生まれ、立脚側の腰が上がり、肩は下がり、バランスをとることで自然に有機的な構成が生まれる。
モデルのポーズの重心の下りる位置を編み棒などで測りながら、立位のバランスを意識する。

 

黒田・久米がルーブル美術館の彫刻をデッサンした時期に描かれた。古代ギリシャの人体の規範となるカノンを示した「槍を持つ人(ドリュフォロス)」を意識したポーズにみえる。


「カノン」は、音楽においても使われる用語なのですが、
美術においては「人体の理想的比例」を表します。
今回の展示では、その「カノン=人体の理想的比例」を表すレオナルド・ダ・ヴィンチの有名な図が展示されています。


芸術解剖 ― ヒトの外形、静止、運動の記載   ポール・リッシェ著  1890年  個人蔵
Anatomie antistique.  Description des formes exterieures du corps humain au repos et dans les principaux mouvements
Paul Richer(1849-1933)


話を<コントラポスト>と「ドリュフォロス(槍を持つ人)」に戻しましょう。
コントラポストは、主に彫刻作品として、
西洋美術を展示する美術館では、度々出会うポーズです。


ベルリン美術館にて

黒田と久米のヌードデッサン話からはずいぶん飛躍しますが、
ではトーハクで<コントラポスト>を見ることはできるでしょうか?

日本美術の殿堂たるトーハクでは、それはなかなか困難なのですが、
あえておススメ作品としてご覧いただきたいのが、
平成館に展示されている、近代彫刻の巨匠・ロダン作『エヴァ』です。


エヴァ ロダン作 19世紀(2012年9月17日(月・祝)まで平成館 彫刻ギャラリーで展示中)

この立脚と遊脚の立ち方による造形は、なんと見事なことでしょう。
ロダンは「立ち足」と「支える足」の平板的な空間だけでなく、
そこに「ねじれ」を加える、複雑な立ち方をまとめあげています。


ギリシャ・ローマ~イタリアルネサンス~近代彫刻に至ってしまったので、
話をぐっと<美術解剖学>に引き戻します。

人間が2本の足で、「立つ」ことを可能にする筋肉を、
久米桂一郎の講義スケッチから紹介しましょう。


(左) 芸術解剖 ― ヒトの外形、静止、運動の記載   ポール・リッシェ著  1890年  個人蔵 より
(右) 美術解剖学 講義用スケッチ 久米桂一郎筆 大正時代・20世紀 東京・久米美術館蔵

この図はポール・リッシェの図(左)を、久米桂一郎が写し取った、
足の筋肉を図解したスケッチですが、
特にお尻の筋肉「大臀筋」に注目してください。
背中をぐっと立たせて、美しく立つ姿勢を保つには、
このお尻の筋肉が発達していなければいけません。

他の足の筋肉も、「立つ」ためにはもちろん必須の筋肉ですが、
このお尻=臀部の大きなふくらみは、
「人のかたち」の、もっとも「ヒトらしいカタチ」なのです。

<コントラポスト> <カノン> <ドリュフォロス> <大臀筋>
などのキーワードを、頭の隅に少しだけ置いてみてください。

自分の身体の「重さ」を感じて、その「重さ」を2本の足で支え、
さらに何かの動きを加えた「かたち」をイメージしてみましょう。

黒田清輝と久米桂一郎が、1887年のパリの美術学校の一室で、
「裸婦・裸体の素描稽古」に明け暮れた、その成果の一端を見比べる事ができるのは、
残りあと2日間(7月28日・29日)です。

ぜひ夏の暑い日、トーハク本館・特別1室をデッサン室に見立てつつ、
「裸んぼ」デッサンを眺めていると、
ふだんは気づかないような自分の身体についての発見があります。



7月の終わりに、展示室にてお待ちしております。
(ただし博物館の中で「裸んぼ」になるのは厳禁です(笑))


特集陳列 「美術解剖学―人のかたちの学び」
本館 特別1室   2012年7月3日(火) ~ 2012年7月29日(日)

カテゴリ:研究員のイチオシ特集・特別公開

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posted by 木下史青(デザイン室長) at 2012年07月28日 (土)