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1089ブログ

印章から三国志の時代を見てみよう!

特別展「三国志」では6件の印章を展示しています。


一級文物「関内侯印」金印(かんだいこういんきんいん)
金製 後漢~三国時代(魏)・2~3世紀 
1976年、山東省新泰市東石萊出土 山東博物館蔵


金印が3件、銅印が3件ですが、銅印のうちの1件は2個一組ですので、細かく数えれば計7個ということになります。
このように多くの印章を展示しているのは、この時代には印章の役割が重要であったからです。
現代日本でも印章(ハンコ)は大事ですが、使い方はいささか異なっていました。
まずは普通に朱をつけて紙に押すと、文字が白抜きになることにご注目ください。
つまり文字は印面に溝状に彫られているのです。


「関内侯印」金印の印面と陰影

古代中国で印章が普及し始めるのは、戦国時代(前5~前3世紀)のことです。
ところで紙が本格的に普及し始めるのは、2世紀から3世紀、つまり後漢時代後半から三国時代にかけてで、まさに「三国志の時代」のことです。
印章は紙が普及するずっと前から広まっていたのです。
では紙がなかった時代に、印章は何に押したのでしょうか?

答えは「粘土」です。
古代中国では、器物を輸送あるいは保管するとき、内容物がみだりに改変されないよう封をしました。
器物を紐で縛り、紐の一部を粘土で包み、その粘土に責任者の印を押しました。
開封するには、紐を切るか、紐を包んだ粘土を破壊して紐をほどくかしなければなりません。
人に気づかれないようこっそり開封することはできないのです。
この封印に用いた粘土(泥)を封泥(ふうでい)といいます。

古代中国の封泥は、東京国立博物館の東洋館でも見ることができます。


「涿郡大守章」封泥(「たくぐんたいしゅしょう」ふうでい)
中国 前漢時代・前1世紀 阿部房次郎氏寄贈 

東洋館4室にて10月6日(日)までご覧いただけます

本作品は前1世紀ころの封泥で、「涿郡大守章(涿郡の長官の印章)」の印が押されています。
涿郡は2世紀に劉備が生まれたところです。
およそ二千年前のものですが、押された文字は鮮明に残っています。
普通の粘土がこのように残るはずがないので、封泥の粘土にはセメントのような物質を混ぜたものと考えられます。
封泥の文字が突出していることにご注目ください。
古代中国の印に文字が溝状に彫り込まれているのは、封泥の文字がくっきりと浮き上がるようにするためだったのです。

紙が普及する前は、文書は竹や木の札に書かれました。
三国時代には紙がかなり普及していたと思われますが、竹や木の札も盛んに使われていたことが今回の展示作品からもわかります。


竹簡(ちくかん)
竹製、墨書 三国時代(呉)・3世紀 
1996年、湖南省長沙市走馬楼出土 長沙簡牘博物館蔵


竹や木の札の場合は、書き間違えてもナイフで表面を削り取れば簡単に書き直すことができます。
便利なのですが、悪意をもって内容を書き換えることも容易でした。
そのため重要な文書や手紙は、みだりに改変されないように厳重に封印する必要がありました。
そのために封泥には封印した人の官職や姓名をあらわした印章を押したのです。

このように封印は重要でしたから、古代中国では公職にある者は、上は皇帝から下は下級の役人にいたるまで役職名を刻んだ公印を授けられ、役を退くときは印を返納しました。
このため、印章は現代日本の辞令や身分証明書の役割ももっていました。
公印の大きさは一辺一寸(三国志の時代では2.3~2.4㎝)が原則です。
材質も皇帝・皇后の印は玉、首相クラスの重臣は金、大臣・知事クラスが銀、それ以下の役人は銅と決まっていました。

今回の展示作品には、公印のほかに宗教団体の印もあり、魏の将軍として活躍した曹休(そうきゅう)の私印もあり、さまざまな場面で印が用いられていたことがわかります。
いずれも封泥に押すことが主な用途であったと考えられます。


「曹休」印 (「そうきゅう」いん)
青銅製 三国時代(魏)・3世紀 
2009年、河南省洛陽市孟津県曹休墓出土 洛陽市文物考古研究院蔵


「曹休」印 印面と陰影

印章の文字は、南北朝時代末(6世紀ころ)に溝状から隆起線状へと変わります。
おそらくこのころに、印章は粘土ではなく今日のように紙に押すようになったものと考えられます。

西暦239年に倭の女王卑弥呼(ひみこ)は魏に使いを送り、魏から「親魏倭王(しんぎわおう)」の金印を授かりました。
この年は、蜀の諸葛亮(しょかつりょう)が魏と戦いのさなか五丈原(ごじょうげん)で病没してからわずか5年後のことです。
卑弥呼の金印は、魏が卑弥呼を倭王と認めた辞令・身分証明書であるとともに、この印で封印した手紙を送れば、魏は誠実に対応するという意味が込められていたのです。
三国の覇権争いのなかで、魏は倭国を同盟国にしたかったということが、よくわかります。

三国志の時代の貴重な印章をご覧いただける、特別展「三国志」は9月16日(月・祝)まで開催です。
ぜひ、足をお運びください。
 

特別展「三国志」チラシ

 

日中文化交流協定締結40周年記念
特別展「三国志」

2019年7月9日(火)~9月16日(月・祝)
平成館 特別展示室

 

特別展「三国志」チラシ

日中文化交流協定締結40周年記念 特別展「三国志」
2019年7月9日(火)~9月16日(月・祝)
平成館 特別展示室
 

 

カテゴリ:研究員のイチオシ2019年度の特別展

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posted by 谷 豊信(特任研究員) at 2019年08月29日 (木)

 

メタモルフォーゼする謎の「板光背」

こんにちは。1089ミステリーハンターの高橋です。
今回は、特別企画「奈良大和四寺のみほとけ」(~9月23日(月・祝))の会場でふしぎハッケン!

連日多くの仏像ファンたちでにぎわう特別企画の会場。
一番奥のスペースには、室生寺の十一面観音菩薩像・地蔵菩薩像・十二神将像が居並びます。

さてさっそくですが、ここでクエスチョンです。
下の展示風景のなかで、ちょっと不自然なところがあります。それはいったい何でしょう?
(ちなみに会場の造作やキャプションは関係ありません ←不備があるわけではありません)


手前: 重要文化財 十二神将立像(酉神・巳神)鎌倉時代・13世紀 室生寺
奥左: 重要文化財 地蔵菩薩立像 平安時代・10世紀 室生寺
奥右: 国宝 十一面観音菩薩立像 平安時代・9~10世紀 室生寺


ヒントとして、もう少しお像に近づいてみましょう。とくに地蔵菩薩像の頭の周辺に注目です。



おわかりになったでしょうか?(自信のある方はぜひ「スーパー〇とし君」をどうぞ 笑)

というわけで正解は、「地蔵菩薩像と後ろの光背(こうはい)の大きさが合っていない」でした。


写真を見ると、地蔵の頭から発せられる頭光(ずこう)の位置が、頭より上になっていることがわかります。
つまり、現在付けられている光背は、元々はこのお像のものではなかったのです。

じつはこの光背、元来は室生寺の近隣・三本松に安置されている地蔵菩薩像に付けられていたものでした。
三本松の像は、光背とともに室生寺金堂に安置されていましたが、いつしか本体のみが三本松に移されました。

現在の地蔵菩薩像(現在展示中のお像)は、いつの頃か他のお堂から金堂へと移されたと考えられています。
仏像は時として、このように当初の安置場所から移動している例が少なからずあるのです。


さて、ここでさらに注目したいのが、この光背に描かれる様々な絵画表現です。



そもそも光背とは、仏の体から発せられる光をかたちにしたもの。
一般的には光背の周りの部分に文様を彫り出したり、小さな仏を取り付けたりします。

一方でこの「板光背(いたこうはい)」は、平らな木の板で作られた光背に、絵具や墨などで尊像や文様を描き表しています。
板光背は、平安時代前期(9~10世紀)に作られたものが多く、特に奈良県の寺院に集中して伝わっています。


室生寺金堂の真ん中に安置されている薬師如来像(今回の企画では展示されません)の板光背も、地蔵菩薩像の光背と同じ作風を示しており、同時期に制作されたと考えられます。


国宝 薬師如来立像(伝釈迦如来立像)平安時代・9~10世紀 室生寺

(この像は、現在お寺では釈迦如来として信仰されていますが、光背に7体の薬師如来が描かれていることや、薬師如来に付き従う存在の十二神将像があることから、もともとは薬師如来であったと考えられています。)

 


ほかにも、奈良の當麻寺には、(本体は無いのに)板光背ばかりが何と60数点(!)も見つかっています。
一体なぜ、この時期の奈良に限って、このような板光背が流行したのか。その理由はよくわかっていません。


謎に満ちた板光背ですが、細部を見てみると、とても華麗な色彩表現がなされていることがわかります。
とくに外縁部に描かれた9体の地蔵菩薩は、簡略な表現でありながら、その優美さに思わず目を奪われます。

面貌や肉身部分を朱線で描き起こすのも、平安時代前期の造形的な特徴を示しています。
この板光背の図様は、絵画として地蔵を表した例としては、おそらく現存最古といえるでしょう。




そしてさらに見逃せないのは、地蔵の周囲を彩る、躍動感あふれる唐草文様です。
本来は植物文であるにもかかわらず、その勢いはまるで渦巻く水流のよう。
かと思えば、その先端は、赤く燃え上がる火焔にメタモルフォーゼ!



この板光背を見ていると、あたかも古代の人々のイマジネーションの一端にふれるような気分になります。

あるいはこうした文様表現を、後世に家紋として流行する「巴文(ともえもん)」や、彫漆などに表される「屈輪文(ぐりもん)」の源流と捉えるのも面白いかもしれませんね。




ちなみに会場内では、地蔵菩薩像の目の前まで行って拝観すると、ちょうど頭光とぴったりになります。
どうぞお好みの位置や角度で、何度でも心ゆくまでご覧ください!

特別企画「奈良大和四寺のみほとけ」

本館 11室
2019年6月18日(火)~ 2019年9月23日(月)

カテゴリ:研究員のイチオシ彫刻特別企画

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posted by 高橋真作(絵画・彫刻室) at 2019年08月16日 (金)

 

三国志がはじまる背景に、農具あり!


展示されている三国志の時代の農具 左:犂(からすき)右:鋤(すき)

私は横山光輝(よこやまみつてる)さんの漫画『三国志』を読んで育った世代で、実家には全60巻ありました。
もちろんコーエーテクモゲームスの「三國志シリーズ」も、楽しませていただきました。
そのため今回の特別展「三国志」に少しでも関われたのを光栄に思っています。
今、縁あって日本列島の古墳時代を当館では担当していますが、その古墳時代のはじめに併行する時代が、中国大陸の三国志の時代です。

私が学生の頃より専門に研究を続けてきたのが、古墳時代の鉄で作られた農具です。
そのこともあり、本展の図録で執筆を担当したのが、鉄製の農具でした。
一見すると農具は鉄の塊にしかみえない、他の作品と見比べてみると見栄えもしない面白みのない遺物です。
しかし、私が農具の研究を続けてきたのは、古墳時代の日本列島において重要な遺物であると思っていたからです。
今回執筆することになり調べてみると、三国志の時代の農具についても日本列島と同様に、当時の社会を考えるうえで重要な遺物だと知りました。

なぜならば鉄製の農具は、これまでの石製や青銅製の農具と比べて、各段に使い勝手がよく、鋤(すき)なら良く掘ることができるからです。
また、鎌であればよく切れるので効率よく収穫することができます。
当時の権力者は、この便利な道具をいかに管理して生産に活かすか、ひいては社会や政治にどのような影響力を及ぼしうるかを考えていました。
現在ホームセンターで買えるような鋤や鎌とは、全く社会的な位置づけが異なっていたのです。



鉄製 後漢時代・1~3世紀 2004年、河北省涿州市家園工地出土 涿州市博物館蔵
鋤は長い木柄をソケットに装着して、主に雑草を除去し、田の畔切り(あぜきり)などに使われました


実際、中国大陸では前漢の時代まで鉄製の農具は、民間の大きな製鉄業者や、鉄の専売制で中央集権化を図る国家によって管理されていました。
それが後漢の時代にはいると、その厳密な管理体制が崩れ、一般村落レベルでも鉄製の農具が自給できるようになります。
その結果、国家の社会に対する支配は大きく後退することになり、在地の有力者が台頭するきっかけをつくったのです。
三国志の時代のように混沌とする時代が生まれたひとつの背景には、鉄製農具など鉄の管理体制の変化があったと考えられます。



鉄製 後漢時代・1~3世紀 2001年、河北省涿州市燕趙工地出土 涿州市博物館蔵
後漢末になると牛の力を利用して土を耕しました。その土に接するところに、犂をはめました


三国志の時代で群雄割拠する武将達のうち、農業を大切に考えていた武将が曹操(そうそう)でした。
曹操が大きな力を得た背景のひとつに、当時としては画期的な屯田制(とんでんせい)の導入が挙げられます。
農民に荒れた土地を与え開墾させ、税収を得て経済的な基盤を整えることに、曹操は成功しました。
その屯田制にも使われたであろう犁(からすき)も、今回の特別展「三国志」では展示していますので、どうぞご覧ください。


犂の利用方法。牛2頭の力で耕します。赤丸が犂です ※パネル展示のみ
出典:中国画像石全集編集委員会編『中国画像石全集5 陜西、山西漢画像石』(2000年、山東美術出版社)

特別展「三国志」チラシ

 

日中文化交流協定締結40周年記念
特別展「三国志」

2019年7月9日(火)~9月16日(月・祝)
平成館 特別展示室

 

特別展「三国志」チラシ

日中文化交流協定締結40周年記念 特別展「三国志」
2019年7月9日(火)~9月16日(月・祝)
平成館 特別展示室
 

 

カテゴリ:研究員のイチオシ2019年度の特別展

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posted by 河野正訓 (考古室) at 2019年08月15日 (木)

 

なんだろう?難陀龍王って

今回は長谷寺の難陀龍王(なんだりゅうおう)についてお話します。


重要文化財 難陀龍王立像 舜慶作 鎌倉時代・正和5年 奈良・長谷寺蔵

「難陀(なんだ)」はインドの古語であるサンスクリット語、nandahの音を漢字で書いたもので、幸せ、喜びという意味です。幸せをもたらす龍王ということになります。インドのナーガ(Naga)は龍王と翻訳されますが、コブラのような蛇です。当館の東洋館地下11室に「ナーガ上のブッダ坐像」があります。

 
ナーガ上のブッダ坐像 カンボジア、アンコール・トム東南部のテラスNO.61 フランス極東学院交換品 アンコール時代・12世紀

七つの頭を持つナーガが、瞑想中のブッダを急に降り出した雨に濡れないように守る姿です。ナーガも龍も雨を降らせる力を持つと信じられました。

長谷寺の難陀龍王像に見られる我々のよく知る龍の姿は中国生まれです。
難陀龍王像は少ないのですが、千手観音の眷属(けんぞく)の二十八部衆に見ることができます。
有名なのは、京都の蓮華王院三十三間堂の二十八部衆の一体ですが、写真がありませんので当館の仏画をご覧ください。


千手観音二十八部衆像(部分) 鎌倉~南北朝時代・14世紀
10月1日(火)~10月27日(日)まで(法隆寺宝物館第6室にて展示予定)

よろいを着けた武将の姿、両手を龍の体に添えています。三十三間堂の像もこれと似ており、彫像では武将の姿が主流です。
長谷寺の像は、これとは異なり、中国の役人の姿です。冠は閻魔王のものと同じで「王」と書いてあります。



この長谷寺の難陀龍王像は、おそらく鎌倉時代に中国からもたらされた画像をもとに造られたのだと思います。鎌倉時代以降の仏涅槃図には長谷寺の像に似た姿の龍王が見られます。

これと似た姿の龍王を仏涅槃図の中に見つけました。


仏涅槃図 鎌倉時代・14世紀

緑色と橙色の服の二人、龍を乗せた人が龍王です。

緑色の服の龍王の持つ物を拡大してみましょう。



金色の岩のような物を持ち、その一部が龍の頭になっています。

 

長谷寺の龍王が持つのは、お盆で、その上に岩があり、角のある動物の頭が五つ現れています。牛のようにも見えますが、龍の頭でしょう。

ナーガ上のブッダはナーガ(蛇)の頭が七つ、それに対してこれは五つです。龍王の肩の龍を入れて六つ。もうすぐもう一つ頭が出現する、という表現なのかな?と思っていたところ、
特別展「三国志」の出品作品に「五龍硯(ごりゅうけん)」があるのを見ました。

 

1級文物 五龍硯 後漢~三国時代(魏)・2~3世紀 山東省沂南県北寨2号墓出土 沂南県博物館蔵
~9月16日(月・祝)まで(特別展「三国志」:平成館にて展示中)

五龍は、中国の五行説にもとづくとか、仏教で言う五種の龍とかいろいろありますが、長谷寺の像にふさわしいのは、中国の道教、日本の陰陽道で雨乞いの時にまつるという説です。

道教の神様と同じ姿の長谷寺・難陀龍王にふさわしい持ち物と言えます。

もともと難陀龍王自体、雨乞いの本尊です。そして龍王とともに長谷寺本尊十一面観音菩薩立像の脇侍である赤精童子、別名雨宝童子も雨乞いの本尊になります。
なぜこれほど雨乞いの像があるのでしょうか?


重要文化財 赤精童子(雨宝童子)立像 運宗作 室町時代・天文7年 奈良・長谷寺蔵

奈良県の北部、中部は降水量の少ない地域で、干ばつが起こりやすいという風土です。
干ばつは飢饉に結びつきますから、昔の人々にとっては大問題です。
とは言え長谷寺本尊の脇侍が二つとも雨乞いに関わるのは、ちょっと不思議ですね。

長谷寺の下方を流れる初瀬川は大和川になって大阪湾に注ぐのですが、昔から洪水を繰り返して来たそうです。氾濫の記録は平安時代からあり、しばしば人々を苦しめたようです。長谷寺で仏像の梱包に立ち会いながら本堂に掲げてある絵馬を見ると、大阪各地から奉納されたものが多いことに気づきました。
もちろん昔からたくさんの人が住んでいる大都市大阪の人々が、霊験あらたかな長谷観音を信仰したのでしょう。しかし、それだけではなく、もしかすると大和川氾濫で大損害を受けた人々なのかもしれません。
雨乞いの本尊は雨を止めることもできますから、氾濫しないように大雨は止めてほしい、と祈ったのでしょう。

見にいらした際はブログを思い出して、難陀龍王のお盆など細かい部分にもぜひご注目ください。

 

特別企画「奈良大和四寺のみほとけ」

本館 11室
2019年6月18日(火)~ 2019年9月23日(月)

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posted by 浅見龍介(企画課長) at 2019年08月09日 (金)

 

特別展「三国志」おすすめ作品 ―羊尊―

特別展「三国志」の出品作品のなかで、私のおすすめの一つは「羊尊(ようそん)」です。


一級文物 羊尊
青磁 三国時代(呉)・甘露元年(265) 1958年、江蘇省南京市草場門外墓出土 南京市博物総館蔵

この作品は、紀年の明らかな呉の青磁の代表作として知られてきた知る人ぞ知る名品。
呉は、積極的な海上交易と肥沃な土地を礎に、長江下流域から南は現在のベトナム北部のほうまで広く勢力を拡大しました。この呉で量産されたのが、青磁です。
武器だけじゃない、呉の人々の暮らしがこの展覧会を通してリアルに見えてきます。

呉の青磁、いったいどこがすごいのか?といえば、とにかくこの羊の「胸」と「おしり」を見ればわかります。

この羊、胸と臀部(でんぶ)を別々につくり、お腹の部分と前後で接合しています。
頭と脚はその後でくっつけたものでしょう。
臀部を見ると、焼成時に置いた痕跡が残っており、窯のなかで頭を上に、臀部を下にして焼いた様子がわかります。


羊尊の「おしり」に残る目跡

秀逸なのは、豊満なその胸とおしりのかたち。
いまから2000年近くも昔に無名の陶工がつくったものですが、これだけのびやかでたくましい造形力をそなえた作例はさすが中国とはいえ、唯一無二です。
圧倒的な存在感を放っています。

しかし、この作品を初めてご覧になった方は「え?これも青磁?」と不思議に思われたのではないでしょうか?

やきものの表面を覆っているはずのガラスの釉はとても薄く、草緑色をしています。
もっと薄いところは、灰茶色の胎土の色とほとんど変わらないように見えます。素朴な印象で、「青磁」とは程遠く感じられるのではないでしょうか。

三国時代の青磁はいわば、初期的な姿です。
羊尊もよく見ると、頭に孔が開いていて、お腹には羽のようなものが刻まれています。
何のためにつくられたものなのか、実際のところよくわかっていません。
ほかにも、壺の上に楼閣が立ち、犬や鳥、亀などの動物が配された不思議な「神亭壺(しんていこ)」と呼ばれるものもあります。


一級文物 神亭壺
青磁 三国時代(呉)・鳳凰元年(272) 1993年、江西省南京市江寧区上坊墓出土 南京市博物総館蔵


こうしたうつわは、みな墓に納められた「明器」と考えられています。
身近な家畜や、龍や鳳凰、さらに羽の生えた羊など空想上の動物がモチーフになったのは、当時の呉の人々の死生観や宗教観に基づくためでしょう。

そもそも、やきものは高価な金銀やガラス、玉などの器の代用品として主に墓に埋納されるためのものでした。
今日のように、清潔で軽くて丈夫な磁器が日用の飲食の器として広く人々の手に届くようになるのは、唐時代以降、ずっと後のことです。

それでも呉の青磁、じーっと見ているとなかなかしっとりと味わい深いもの。

日本では、ちょっと紛らわしいですが「越(えつ)」という地名にちなみ、唐・宋時代の越窯青磁と区別して「古越磁」、「古越州」と呼び、中国陶磁が世界的に注目を集めた20世紀初頭以来、こうした古様の青磁にも親しんできました。
トーハクの中国陶磁コレクションにも「古越磁」の一級品が揃っています。


青磁槅(せいじかく)
三国時代(呉)~西晋時代・3世紀 
横河民輔氏寄贈 東京国立博物館蔵  
こちらはトーハク所蔵の槅。特別展「三国志」の出品作品(作品No.115「槅」)のように、重ねて使用することもあったようです 
※展示予定はございません



青磁虎子(せいじこし)
西晋~東晋時代・3~4世紀 東京国立博物館蔵 

こちらは晋の頃に焼かれたと考えられる作品。具体的な用途はわかりませんが、やはり動物をかたどった不思議なかたちが目をひきます 
※展示予定はございません

私は、いまから10年ほど前、呉の青磁の産地である浙江省紹興市上虞の窯跡を訪ねたことがあります。
小さな湖や小川が多く、田んぼには水牛が歩いていました。
いまは亡き祖父母が暮らしていた日本の田舎を思い出すような、親しみのある景色でした。
秋深い時期でしたが湿潤で、日が暮れる頃や朝早く街を深く覆う靄(もや)を肌で感じた時、「ああ、この空気があの古越磁を生み出したのか」と胸にストンと落ちた気がしました。


上虞にて(筆者撮影)

8月に入り猛暑が続きますが、特別展「三国志」の「羊」をご覧になって、緑深い「呉」の空気を感じてみませんか。

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特別展「三国志」

2019年7月9日(火)~9月16日(月・祝)
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posted by 三笠景子(特別展室) at 2019年08月09日 (金)