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1089ブログ

東京国立博物館の寒山拾得図

本館特別1室では、11月5日まで、特集「東京国立博物館の寒山拾得図―伝説の風狂僧への憧れ―」を開催しています。本展示は、表慶館で開催中の「横尾忠則 寒山百得」展(~12月3日)の関連展示となります。

 
特集「東京国立博物館の寒山拾得図」展示風景
 
 
寒山と拾得は、中国、唐の時代に、天台山国清寺(浙江省)に住みついて、雑事をしていたという、伝説的な2人の人物です。
風変わりないでたちで、普通の人には理解できない言葉や行為を繰り返していたといい、現世や堕落した仏教界を批判するような内容の、寒山作という詩がのこっています。
のちに、常識にとらわれない生きざまや反骨精神が、禅の世界で尊敬されるようになり、中国ほか東洋絵画の主題として人気を博していきます。数百年にわたって、さまざまな画家が、いろいろに趣向を凝らしてこの画題をえがいてきたのです。
 
このブログでは、当館が所蔵する多くの寒山拾得図から、対照的な2つの名品を紹介してみようと思います。
 
 
 
重要文化財 四睡図
平石如砥、華国子文、夢堂曇噩賛 中国 元時代・14世紀 10月9日まで展示
 
 
「四つのねむり」と名付けられた作品です。画面下ほどに、身を寄せ合って眠る3人の人物と1匹の虎が見えるでしょう。
 
 
  
四睡図(部分)
 
 
左奥の僧侶は、寒山拾得と交流のあった、豊干(ぶかん)という唐時代の高僧で、どう猛な虎を手なずけていたという逸話が知られています。本作の豊干も、かわいらしい寝顔を見せる虎のふわふわの毛皮にもたれて眠っているようです。
その手前で体を絡ませあっているのが寒山と拾得。子どものような寝相ですが、顔にはしっかりと人生の年輪が刻まれています。
 
 
 
四睡図(部分)
 
 
人物の目鼻立ちや頭髪、衣は、非常に細く、緊張感のある墨線であらわされます。このように原則として色を用いない、線が主体の画法は、「白描(はくびょう)」と呼ばれます。
白描は、その清らかな趣から、文人士大夫(ぶんじんしたいふ)、そして彼らと趣味を同じくする禅の世界で愛された画法でした。元時代には特に、レース編みのように精緻な描写を誇る、技巧的な白描が流行します。本図もそのような流れのなかで制作された作品でしょう。
 
 
四睡図(部分)
 
 
背景の岩や地面に引き重ねられた細い波線、松の幹を埋める小さな渦、キノコのような霞の形態は、唐や宋時代などの、より古い時代の絵画を連想させるもので、本作に古めかしくみやびな印象を与えています。
 
 
重要文化財 寒山拾得図 
伝顔輝筆 中国 元時代・14世紀 10月11日から11月5日まで展示
 
 
古めかしく清らかでみやびな「四睡図」に対して、元時代の職業画家、顔輝筆という「寒山拾得図」は、どきつく、得体の知れない不気味さを伝える作品です。
2幅1対の右に腕を組む寒山、左に箒を持つ拾得をえがきます。2人はぼさぼさの髪で、目と口を三日月形にし、白い歯をむき出し、赤い舌をのぞかせて大きく笑っています。
 
 
寒山拾得図(部分)
 
 
目元や口元、小鼻などの輪郭には、墨線と色線が丁寧に重ねられ、生々しい肉体の実在感が表現されます。
対照的に、衣の線は太い筆であらあらしく引かれ、2人の高い精神性が抽象的に伝えられます。
 
 
寒山拾得図(部分)
 
 
寒山拾得は視線を鑑賞者に合わせ、やや身をかがめて、2人の世界に迎え入れるように虚空のなかに立っています。私たちが作品を見ているときには、作品もまた私たちを見ているのだということを感じ、どこか居心地悪くなりますが、このように、鑑賞者に内省を促すような表現が本作の最大の魅力と言えるかもしれません。
 
展示会場では、ここにご紹介したもの以外にも、さまざまな寒山と拾得がみなさまをお待ちしております。この機会にお気に入りの寒山拾得図を見つけていただければ幸いです。

カテゴリ:特集・特別公開中国の絵画・書跡絵画

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posted by 植松瑞希(絵画・彫刻室) at 2023年09月25日 (月)

 

常盤山文庫の逸品「茉莉花図」

現在、東洋館8室で開催中の特集「創立80周年記念 常盤山文庫の名宝」では、「茉莉花図」が9月24日(日)まで展示されています。
このブログではこの作品について、少し詳しく説明してみようと思います。


重要文化財 茉莉花図(まつりかず)
伝趙昌筆 南宋時代・12~13世紀 東京・公益財団法人常盤山文庫蔵
[展示中、9月24日まで]



インド、アラビア原産の茉莉花(=ジャスミン)は、中国でも古くから知られていましたが、これを楽しむ風潮が普及したのは北宋・南宋時代(960~1279)といいます。清潔な白い姿と馥郁(ふくいく)たる香が文人士大夫たちに愛されて詩文に詠まれ、庭園での栽培や、髪飾りとしての利用が流行しました。薬効も知られるようになり、茉莉花茶を始め、飲食にも用いられました。
茉莉花が絵画に描かれるようになる背景には、このような宋時代における愛好文化の盛り上がりがあったのでしょう。

「茉莉花図」は、小さな画面に枝先のみを描く、折枝(せっし)と呼ばれるタイプの花卉図(かきず)です。現在の掛軸表装は日本でされたもので、もとは画冊の一頁、あるいは団扇であったと推測されています。
南宋の宮廷では、小画面の折枝図制作が盛んに行われますが、本作もその頃の作と考えられています。

細部をよく観察してみましょう。花や葉、枝はそれぞれ複雑に重なり、奥行が意識されています。花の角度や葉の翻り方にも細かな差異がつけられます。
また、左上の蕾は、中央下ではやや開き、右上で満開になっており、時間の経過に伴う花の姿の変化も考慮されています。


茉莉花図

葉は、墨の輪郭線を目立たせる鉤勒法(こうろくほう)、花は輪郭線を白く塗り込める没骨法(もっこつほう)で表現し、それぞれの質感の違いを見せています。葉脈から周縁にかけての緑のグラデーションや、花びらのふちにかけられたうすい青緑など、彩色も非常に丁寧です。


茉莉花図(部分)

日本の人々は、このような精緻で可憐な南宋の折枝図を大変好んできました。「茉莉花図」の伝来は古く、室町時代、足利将軍家所蔵品目録『御物御画目録』「小二幅」の項に記載される「花 趙昌」のうちの一幅であったと考えられています。


御物御画目録(部分) 伝能阿弥筆 室町時代・15世紀 東京国立博物館蔵
(注)本作品は展示されていません。


また、複数の文献から、山上宗二(やまのうえそうじ、1544~90)ら安土桃山時代の茶人たちの間で、菊屋樵斎(きくやしょうさい)という人物所蔵の逸品として評判であったことがわかっています。現在の表装はそのときのものとほぼ同じです。

さらに、本作には17世紀頃に記されたと想定される「趙昌花之絵由緒書」が付属しています。これには、菊屋樵斎所蔵時に豊臣秀吉(1537~98)の参加した茶会に供されて称賛され、その後菊屋家代々の名物として伝えられたのち、東本願寺の宣如(せんにょ、1604~58)から徳川将軍家に献上されたという由緒が記されています。


趙昌花之絵由緒書(茉莉花図付属)
[展示中、9月24日まで]


卓越した表現と華麗な来歴を誇る「茉莉花図」は、まさに常盤山文庫を代表する逸品です。この機会にぜひ会場でご堪能いただければと思います。

 

カテゴリ:研究員のイチオシ特集・特別公開中国の絵画・書跡

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posted by 植松瑞希(絵画・彫刻室) at 2023年09月14日 (木)

 

「台東区立書道博物館・東京国立博物館 連携企画」毎日書道顕彰特別賞受賞と20年の歩み

令和5年(2023)6月12日、台東区立書道博物館と東京国立博物館は、毎日書道会より第36回毎日書道顕彰特別賞を受賞し、7月23日の表彰式において両館に賞状が授与されました。


表彰式の様子
左から富田淳(東京国立博物館副館長)、藤原誠(東京国立博物館長)、山中翠谷氏(毎日書道会総務、独立書人団常務理事)、丸山昌宏氏(毎日書道会理事長)、服部征夫氏(台東区長)、荒井伸子氏(台東区立書道博物館長)、鍋島稲子氏(台東区立書道博物館主任研究員)、金子大蔵氏(毎日書道展審査会員、創玄書道会評議員

毎日書道顕彰は、昭和63年(1988)に創設され、書道に関する芸術・学術・教育の振興に著しく貢献した個人、およびグループを一般財団法人 毎日書道会が顕彰するもので、平成12年(2000)より「毎日書道顕彰特別賞」も加えられました。

台東区立書道博物館と当館は、徒歩15分で往来できる近距離にあります。両館の収蔵する中国書画は、収集の時期や内容など共通する部分も少なくありません。これらの利便性や共通点を活かして、平成15年(2003)に開催時期や展示内容を連携させる展覧会を始めました。

今でこそ他館との連携による展覧会は各地で行われていますが、20年前はほとんど実施されていませんでした。書道博物館と当館の連携企画は、その先駆けといえるでしょう。単館では不可能な企画も、複数館なら実現できます。この連携企画は両館を軸にしつつ、連携館を増やして開催することもありました。区立と国立、時には私立を加えた異なる組織が一緒に展覧会を行うのは容易ではありませんが、各館が実現可能な範囲の仕事を請け負って続けてきました。

当初は予算が少なく、他館からの作品借用はもちろん、図録の刊行もありませんでした。細々と続けるうちに、次第に他館からの借用や、図録の制作も可能になり、展覧会が少しずつ充実してきました。海外から作品をお借りした例もあり、平成24年(2012)の第10回では、香港中文大学文物館が所蔵する「蘭亭序」の名品7件を展示しています。

連携企画の図録は、第7回より毎回制作しています。図録は(1)図版が美しく、(2)気軽に読むことができ、(3)知的興奮が得られる等の点に留意しながら、読みやすく楽しい内容を目指しています。また書跡のみに偏らず、絵画(注)もふんだんに盛り込み、文化史的なアプローチを心がけています。
(注)1089ブログ「『王羲之と蘭亭序』その2 蘭亭雅集の様子を想像してみよう!」

連携企画は小さな展覧会ですが、その積み重ねが大きな展覧会の構想につながり、平成25年(2013)に特別展「書聖 王羲之」、平成31年(2019)にも特別展「顔真卿 王羲之を超えた名筆」を開催するに至りました。

連携企画が、東京国立博物館での特別展に結実したことは、連携企画に携わってきたスタッフの誇りでもあります。また近年は、連携企画が海外からも注目されるようになってきました。

令和5年(2023)1月31日から4月23日まで開催した、節目となる第20回の創立150年記念特集「王羲之と蘭亭序」では、多数の外国人来館者のほかに、海外からも多くの図録の注文を受けました。


「王羲之と蘭亭序」会場の様子


特集展示の内容は、オンラインギャラリートーク 2月「創立150年記念特集 王羲之と蘭亭序」をご覧ください。
中国と日本の文人たちが憧れた王羲之の書。最高傑作「蘭亭序」や制作背景となった雅集などについて、展示作品からご紹介しています。

当館ではこのたびの受賞を励みとして、さらに充実した連携企画を目指したいと思います。

 

カテゴリ:news書跡中国の絵画・書跡

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posted by 植松瑞希・富田淳・六人部克典(台東区立書道博物館・東京国立博物館 連携企画担当) at 2023年08月07日 (月)

 

特別展「東福寺」その5 やっぱり東福寺は「ラスボス」だった!

特別展「東福寺」も5月7日(日)までと残すところあとわずか。
いよいよ閉幕までのカウントダウンとなりました。本展をご紹介するリレーブログも今回で最終回。
ここでは最後に、展覧会担当者として感じたことや気づいたことなどを総括してみたいと思います。
 
重要文化財 東福寺伽藍図 了庵桂悟賛
室町時代・永正2年(1505) 京都・東福寺蔵
中世の東福寺の景観を描いた唯一の絵画資料。ラスボス感満載の壮大な伽藍が活写されています。


本展を開催して改めて実感したのは、「やっぱり東福寺はラスボスだった!」ということ。
これまでも、私が本展を紹介する際には、ことあるごとに「東福寺はラスボスだ!」と豪語してきました。
その意は、今まで数多くの禅宗寺院展が開催されてきたなかで、東福寺が「最後に残された大物」であることに基づいた発言でした。

東福寺は、知る人ぞ知る、日本最大級の「禅宗美術の宝庫」。
東福寺展を開催することは、かねてより当館の念願でもあり、また禅宗美術を専門とする私にとっても夢のひとつでした。
なにゆえにこれまで展覧会が開催される機会がなかったかというと、東福寺では、所蔵する文化財の修理事業を長年にわたって継続実施してきたからにほかなりません。
本展の開催の契機となったのは、そのなかでも超ド級の大作というべき重要文化財「五百羅漢図(ごひゃくらかんず)」の14年にわたる修理事業が、令和3年度にようやく完成したこと。
そのお披露目をかねた展覧会を開催する運びとなり、所蔵する文化財を一堂に集めた「オールアバウト東福寺」の本展が実現しました。
このように、展覧会の開催というものは、時機を得て初めて実現できるもの。私が本展を担当できたのも、そうした好機に恵まれたからだったといえます。
 
第3章「伝説の絵仏師・明兆」 重要文化財「五百羅漢図」の展示風景

すでに展示をご覧になった方には実感いただけるかと思いますが、東福寺には、破格ともいうべき膨大な数の文化財が伝来しています。
展示会場に足を運ぶと、ずらりと並んだ中世文物の質と量に圧倒されます。その様子はまさに国指定文化財のオンパレード。
重文、重文、また重文、国宝はさんでまた重文。と、思わず歌ってしまいそうなほどリズミカルに指定品が並んでいます。

第1章「東福寺の創建と円爾」展示風景

本展を紹介するにあたり、チラシやポスターでは羅漢たちにさまざまなセリフを語らせていますが、そのなかに「ハンパない展示じゃ」というひと言があります。はたして、展示品の一体どんなところがハンパないのでしょうか。
ここでは、東福寺がラスボスたる所以を兼ねて、単に指定品であることに留まらない、東福寺の文化財の「ハンパないポイント」を3つ挙げてみましょう。

(1)歴史的由緒がハンパない
もともと東福寺は、鎌倉時代前期に創建された京都屈指の古刹(こさつ)ですが、東山の南麓に位置するその立地も幸いして、京都中を焼け野原にした応仁の乱(1467~1477)による大被害を免れました。
この点が、中世文物の多くを火災で失ってしまった、他の京都の禅宗寺院との大きな違いといえます。そしてさらに、それらの由緒がきちんと記録として残されているのも東福寺のハンパないところ。
例えば師古(しこ)賛の重要文化財「無準師範像(ぶじゅんしばんぞう)」は、東福寺の開山である円爾(えんに)の師・無準の姿を半身で表した作ですが、正和5年(1316)に記された重要文化財「円爾遺物具足目録(えんにいぶつぐそくもくろく)」という資料に、「同御影一幅 半身」として記載されています。
ついでに言うと、4月2日(日)まで展示されていた自賛の国宝「無準師範像」も、同目録に「仏鑑禅師頂相 一幅 自賛」と記載されています。
このように東福寺では、南宋時代や鎌倉時代に遡る文物が、きちんと記録され、由緒付けられて伝来しているのです。
 
重要文化財 無準師範像 師古賛
中国 南宋時代・宝祐2年(1254) 京都・東福寺蔵


 
重要文化財 円爾遺物具足目録 奇山円然署判
鎌倉時代・正和5年(1316) 京都・東福寺蔵
上記の2作品は右から2行目に記されています。


(2)文化的影響力がハンパない
さらに、東福寺に集積された文物は、大きな文化的影響力も持っていました。
例えば、無準師範から円爾に贈られたといわれる国宝「禅院額字并牌字(ぜんいんがくじならびにはいじ)」は、禅寺内に掲げられる扁額や牌(告知板)の基となるお手本の書。
建仁寺や円覚寺をはじめ、全国各地の禅宗寺院にこの書体が広まっていったことを考えるだけでも、東福寺が中世文化の一大拠点だったことが理解されます。
さらに南北朝・室町時代には、明兆(みんちょう)が絵仏師として活躍し、彼が描いた仏画様式がそのまま時代様式として定着していきました。東福寺の文化的発信力は、想像以上にズバ抜けていたのです。
 
第5章「巨大伽藍と仏教彫刻」 国宝「禅院額字并牌字」の展示風景

(3)スケール感がハンパない
そして何といっても、東福寺の文化財の最大の特質は、その圧倒的なスケール感にあります。
東福寺の代名詞である「伽藍面(がらんづら)」を象徴するように、とんでもない大きさの巨幅や巨像が伝来しています。残念ながら、明治14年(1881)の火災により、像高7.5メートルを誇る仏殿本尊は焼失してしまいましたが、その左手だけは救出され、本展でもその堂々とした偉容をご覧いただいています。
また、焼失した仏殿本尊の前に置かれたと考えられる前机(前卓)も、とにかくすさまじい大きさ。
その前に人が立つと、まるでガリバーの国に入り込んだかのようです。

第5章「巨大伽藍と仏教彫刻」 「仏手」の展示風景


重要文化財 朱漆塗牡丹唐草文透彫前卓 
南北朝時代・14世紀 京都・東福寺蔵
高さ171㎝、甲板は縦124.7㎝、横315㎝とこちらも特大サイズ。

というわけで、展覧会の総括を兼ねて、改めて東福寺の文化財の「ハンパないポイント」について述べてきました。
これらの文物が放つ、桁違いの迫力や巨大さは、実物の前に立ってこそ実感できるもの。
まだ展示をご覧になっていない方は、ぜひ足をお運びいただくことをお勧めいたします。
禅宗寺院最後の大物、東福寺の圧倒的なパワーとスケールを体感いただけるはずです。

最後にもう一度言いましょう。
やっぱり東福寺はラスボスだった!
 

カテゴリ:彫刻書跡中国の絵画・書跡絵画「東福寺」

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posted by 高橋 真作(特別展室研究員) at 2023年05月04日 (木)

 

特別展「東福寺」その4 素晴らしき書の宝庫

書跡担当研究員の六人部克典です。

特別展「東福寺」は閉幕まであと約1週間(~5月7日(日))、本展をご紹介するリレーブログも予告編含め5本目となりました。
前回までは絵画・彫刻の展示作品を中心に、その魅力や展覧会の舞台裏をお伝えしてきました。
「何か足りない…」と思われた書跡愛好者の皆さま、ご安心ください。
本展では数々の魅力的な書が展示されています。

日中の名だたる禅僧の書(墨跡)をはじめ、東福寺開山・円爾(えんに・1202~80)と門弟たちが中国より将来した稀少な典籍や石碑の拓本など、東福寺とその塔頭はまさに「書の宝庫」と言っても過言ではありません。

なかでも重要文化財「円爾号・円尓号(えんにごう)」や修行大成の証である国宝「円爾宛印可状(えんにあていんかじょう)」、伽藍を飾る扁額(へんがく)・牌(はい)の手本用の書である国宝「禅院額字幷牌字(ぜんいんがくじならびにはいじ)」など、師の無準師範(ぶじゅんしばん・1177~1249)が円爾に授けた一群の墨跡は、東福寺にとっても、禅宗の歴史においてもたいへん重要な書です。
 
重要文化財 円尓号 無準師範筆
中国 南宋時代・13世紀 京都・東福寺蔵

 
国宝 円爾宛印可状 無準師範筆
中国 南宋時代・嘉熙元年(1237) 京都・東福寺蔵

 
国宝 禅院額字幷牌字のうち普門院 無準師範筆
中国 南宋時代・13世紀 京都・東福寺蔵



そして、円爾や孫弟子の東福寺28世・大道一以(だいどういちい・1292~1370)ら師僧が、死を前にして弟子たちに書き遺した「遺偈(ゆいげ)」があります。
「遺偈」は求道に徹した筆者の生涯を物語るとともに、その最期を臨場感たっぷりに伝える、観る者の心に触れる特別な書です。

 
重要文化財 遺偈 円爾筆
鎌倉時代・弘安3年(1280) 京都・東福寺蔵

 
遺偈 大道一以筆
南北朝時代・応安3年(1370) 京都・永明院蔵

これらは東福寺に関する書のなかでも、名の知れた代表格と言えるでしょう。でも、それだけではありません。
本展では今まであまり知られてこなかった、展覧会初出品の「書?」もあります。
「書?」とはどういうこと?と思われた皆さま、ご安心ください。
まずはこちらをご覧ください。

 
虎 一大字 虎関師錬筆
鎌倉~南北朝時代・14世紀 京都・霊源院蔵


皆さまは何に見えますでしょうか?   
もはや書なのか絵なのかわかりません。
墨で写された正体不明の何かがそこにいるようですが、、、
インパクト絶大なこの造形を初めて見たとき、私は「カメレオン!!!」と叫びました(お寺様での事前調査でしたので、もちろん心の中で)。。。

実はこちらのお方、虎なんです。
「虎」の一字が大きく書写されていると考えられています。その名も「虎 一大字」。
掛け軸に仕立てられており、裏面には後世に記された「虎之字 開山真跡 海蔵院」の墨書があります。
このことから、円爾の孫弟子にして東福寺15世の虎関師錬(こかんしれん・1278~1346)が書いた「虎」の字として、虎関が開き晩年に退隠した海蔵院(かいぞういん・東福寺塔頭)にかつて伝わったことがわかります。
現在は、虎関の孫弟子にあたる東福寺62世の在先希譲(ざいせんきじょう・1335~1403)が開いた霊源院(れいげんいん・東福寺塔頭)のご所蔵です。

実際に筆跡をたどってみると、確かに「虎」の字のような、、、
ですが、篆書(てんしょ)など各種の書体に作例を求めても、このような字形は見当たりません。
おそらく虎関は心のままに筆を走らせたのでしょう。
それも自らの号にある「虎」の字を。何やら意味深そうな。。。

細部はどうでしょうか。


ツノかトサカ(!?)のようにも見える部分は、篆書のような芯の通った線。

 
頭から顔のような部分は小刻みに筆を進め、鼻・口・目を緩急自在に一筆で。
アゴは逆筆気味に筆を入れて突き出すように。

 
足はドッシリとした重厚な線で座っているかのように。

 
そして、丸みのある背中から逆立つシッポまでを、速さを変えてカスレを出しつつ一筆で。
やはり書なのか絵なのかわかりません(2回目)。

「虎」の字が虎関の号にあることを思い合わせると、坐禅する虎関自身の肖像にも見えてくるかもしれません。
あたかも虎関が「これは何や?」と問いかけて、「あなたの心、そのものや」と諭しているようにも思われます。
もしそうであるならば、自らの心を知り、悟りを開くという禅の教えを表現しているのかもしれません。

いずれにしましても、こちらのお方が書としても見事であることは確かです。
さらっと書いているようですが、様々な筆使いにより、効果的な線を紙面にバランスよく配し、存在感あふれる「虎」という何かを生み出しています。
しかもためらいなく自然に。筆者の技量の高さが窺えます。
日本仏教の歴史書『元亨釈書(げんこうしゃくしょ)』の編纂など、学問に優れた虎関師錬は書の達人でもあり、一般的には中国・北宋の書家・黄庭堅(こうていけん・1045~1105)を学んだ洗練された端整な書風で知られます。

 
重要文化財 元亨釈書のうち巻第十(部分) 虎関師錬筆
南北朝時代・14世紀 京都・東福寺蔵


そんな虎関の怪作「虎 一大字」は、知られざる名品と言ってよいでしょう。
この機会に、絵画・彫刻・工芸などとともに、東福寺とその塔頭が誇る素晴らしき書の数々をご堪能いただけますと幸いです。

カテゴリ:書跡中国の絵画・書跡「東福寺」

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posted by 六人部 克典(東洋室研究員) at 2023年05月02日 (火)