特別展「古代メキシコ ―マヤ、アステカ、テオティワカン」30万人達成!
まもなく閉幕を迎える特別展「古代メキシコ ―マヤ、アステカ、テオティワカン」(9月3日(日)まで)は、8月31日(木)午前、来場者30万人を突破しました。
これを記念し、東京都大田区からお越しの髙堂さんご一家に、当館館長藤原誠より記念品を贈呈いたしました。
カテゴリ:「古代メキシコ」
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posted by 天野史郎(広報室) at 2023年08月31日 (木)
皇居のお濠から30分ほどぶらぶらと西へ歩くと、緑豊かな赤坂御用地が見えてきます。江戸時代、紀州徳川家の中屋敷はこの地にありました。
天明7年(1787)11月27日、この江戸城から紀州邸にいたる道のりを一人の姫君が辿りました。紀州徳川家第10代藩主・徳川治宝(はるとみ、1771~1853)に嫁いだ種姫(たねひめ、1765~94)です。
もちろんぶらぶら歩いたわけではなく、白地に蓬萊模様(ほうらいもよう)の御輿に揺られ、盛大な行列を引き連れての道行でした(注)。すなわち婚礼に伴う「御輿入れ」の行列です。
(注)1089ブログ「大名婚礼調度の役割」
江戸時代の言葉の用法では、「姫君」とは将軍家の娘に限って使用された敬称でした。種姫は田安徳川家の生まれですが、11歳の時に10代将軍家治(いえはる)の養子となっているため、これをもって「姫君」と呼ばれる身分になっています。つまり種姫の婚礼は、紀州家としては将軍家の姫君を迎え入れる、きわめて重大な行事だったわけです。
紀州家側では、姫君の住まいとして「御守殿(ごしゅでん)」と呼ばれる御殿を用意しました。たいへんな大工事だったらしく、このときは御守殿ほか造営のため七千畳の畳を手配したとのこと(『南紀徳川史』巻168)。
その門が御守殿門で、これは丹塗りとする決まりがありました。いわゆる「赤門」です。東博には「黒門」(鳥取藩池田家江戸上屋敷の表門)がありますが、残念ながら赤門はありません。現存する御守殿門としては、東大の赤門がよく知られています。東博の正面から歩いても30分くらいですね。
御守殿門(赤門)
徳川種姫婚礼行列図(上巻)巻頭部分 山本養和筆 江戸時代・18~19世紀
(この場面は展示されておりません)
種姫以後、婚礼の儀礼は次第に縮小の方向へと進んでいきます。大規模な婚礼行列を引き連れた盛大なパフォーマンスは、財政難に苦しむ大名たちの実情から離れたものとなっていました。
さて、治宝には種姫のほかに側室があり、於さゑ(おさえ、栄恭院(えいきょういん))との間には二人の仲良し姉妹が生まれます。鍇姫(かたひめ、信恭院(しんきょういん)、1795~1827)と豊姫(とよひめ、鶴樹院(かくじゅいん)、1800~1845)です。鍇姫は文化11年(1814年)に仙台藩主伊達斉宗(なりむね、1796~1819)に嫁ぎました。一方、豊姫は文化13年(1816)に清水徳川家から婿を迎え、紀州徳川家第11代斉順(なりゆき、1801~46)の正室となりました。
現在、特集「姫君婚礼につき―蒔絵師総出の晴れ舞台」で展示中の「竹菱葵紋散蒔絵調度」一式は、妹の豊姫の婚礼調度と伝わっています。展示室のケースにずらりと並ぶ分量が残っていますが、当初の品目が完全に伝わっているわけではありません。
たとえば、婚礼調度として重要な位置を占める貝桶や三棚(黒棚、厨子棚、書棚)がありません。それどころか、本来は100件を越す多彩な道具があったことが記録から窺えるので、現在われわれが目にすることができるのは全体のほんの一部だということになります。
豊姫婚礼調度
竹菱葵紋散蒔絵調度 江戸時代・文化13年(1816)
面白いことに、まったく同じ意匠・技法の竹菱葵紋蒔絵調度が林原美術館(岡山)に所蔵されています。豊姫の調度にはない三棚を含むため、これらは東博の竹菱葵紋蒔絵調度と一具ではないか? と考えたくなりますが、歯黒箱(はぐろばこ)や眉作箱(まゆづくりばこ)など重複する器種もあったりします。
そこで想起されるのが、お姉さんの鍇姫です。林原美術館の調度は、伊達家伝来であることから、伊達家に嫁いだ鍇姫の調度ではないかとする説が有力です。婚礼調度は使い回されることも普通でしたが、結婚の時期も近いので姉妹同じ規格で作られたのかもしれません。
豊姫は婿養子を迎えた形ですので、婚礼調度はそのまま紀州家に残ったようです。そして半世紀近く経過した文久2年12月21日、最後の藩主、第14代茂承(もちつぐ、1844~1906)と倫宮(みちのみや、徳川則子(のりこ)、1850~1874)の婚礼の際には再利用された可能性が指摘されています。本特集の最初に展示されている白無垢の打掛は、この倫宮所用のものです。この打掛を着て婚礼にのぞむ倫宮の晴れの舞台を、豊姫の調度は再度かざることとなったのでしょうか。
打掛 白地浮織幸菱模様 徳川則子所用 江戸時代・19世紀
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posted by 福島 修(特別展室) at 2023年08月25日 (金)
こんにちは。東京国立博物館の猪熊です。
このたび平成館の企画展示室にて、特集「姫君婚礼につき―蒔絵師総出の晴れ舞台」(2023年9月18日まで)を開催して、江戸時代の大名の婚礼調度をご覧いただいております。
特集「姫君婚礼につき―蒔絵師総出の晴れ舞台」展示風景
私は、工芸品の歴史を研究しているのですが、博物館の展示をご覧になると分かりますように、工芸品にはおもに形状・技法・意匠といった見どころがあります。なので、その研究には、まずは美術史的な観点があります。
ところで、現在はケースのなかできれいに展示されている工芸品も、かつては鑑賞のためばかりでなく、実際に使用するために作られたものであったことは申すまでもありません。したがって、工芸品の研究については、生活史的な観点からも考えなければなりません。
工芸品の使用については、衣食住などでの実用的な機能ばかりでなく、時代や社会ごとの制度や常識といった枠組みのなかでの社会的な機能もあります。前近代のような階層社会では、身分ごとに使用できる服飾や調度が定まっており、逆に言えば、服飾や調度には使用者の地位を示す役割もありました。現代でもドレス・コードという取り決めがありますが、その他にも、たとえば指輪というアクセサリーはファッション・アイテムですが、これを左手の薬指に付けると、装身具としての機能に加えて、既婚であるという使用者の社会的状況を示す場合があります。そのことは特に法律などで定めているわけではなく、その常識を共有する人々だけが読み取れるコードです。日本では、婚姻は婚姻届によって法的に承認されるのですが、新郎新婦のまわりにいる人々は、結婚式や披露宴に参加して新郎新婦が紋付袴や花嫁衣裳あるいはタキシードやウェディング・ドレスを着ている姿を目撃して祝福することで、社会的に承認する心理もありうるでしょう(近年は多様な仕方があるので、いささかステレオタイプなたとえですが)。
結婚は、人類にとって最古のルールのひとつとされています。聖書のアダムとイブの物語や、中国神話の伏羲(ふくぎ)と女媧(じょか)の伝説のように、日本神話では世界のはじまりに続いて、イザナギ男神とイザナミ女神の結婚の物語があり、そこでは男から女に求婚する作法が説かれています。
古代日本の結婚は「妻問い(つまどい)」といって男が女の家に通う方法で行われ、その求婚は夜中に忍んで通うことではじまり、男のほうでは、まわりに気付かれないように頭にかぶった烏帽子(えぼし)を御簾(みす)にひっかけないとか、扉や襖を開けるときには軽く持ち上げて音を立てたりしないような配慮をするのがマナーでした。
やがて武家が台頭するにつれて、男の家に女を迎える嫁取婚(よめとりこん)という方法が行なわれるようになります。さらに大名の家どうしの政略結婚が行なわれるようになると、姫が輿(こし)に乗って嫁いでゆくようになり、輿入れ(こしいれ)という婚礼の作法が発達しました。
将軍家の姫の輿入れ
徳川種姫婚礼行列図(とくがわたねひめこんれいぎょうれつず)(部分)
山本養和筆 江戸時代・18~19世紀
徳川将軍家の種姫が紀州徳川家に嫁いだ際の、江戸城から赤坂にあった紀州藩邸までの輿入れの行列を描いた図。
そして輿入れが華やかに演出されるよう、化粧具・文房具・遊戯具などから構成される豪華絢爛な婚礼調度が製作されました。なかでも名高いのは、徳川将軍家の千代姫(ちよひめ)が、尾張徳川家に嫁いだ際に製作された「初音蒔絵婚礼調度」(徳川美術館所蔵)でしょう。これは『源氏物語』「初音(はつね)」巻を題材とする意匠が高度な蒔絵技法で表された調度群です。細やかな情景意匠に目を奪われて、つい見落としてしまうのは三つ葉葵(みつばあおい)の家紋です。当時の婚姻は、現行憲法が定める「両性の合意のみに基づいて成立」するような個人を重んじるものではなく、家と家との結びつきであれば、家紋こそが婚礼調度の果たす役割を象徴していたのです。
このたびの特集では、紀州徳川家の豊姫(とよひめ)が11代将軍・徳川家斉(いえなり)の七男・斉順(なりゆき)と結婚した際の婚礼調度を展示しています。この婚礼調度は『源氏物語』などの文学意匠ではなく、梨子地(なしじ)に竹菱文(たけびしもん)が均一的に表されて、三つ葉葵紋が散らされています。
「なんだ、同じ文様ばかりか」と物足りなく思われるかもしれませんが、繁殖力が強い竹には子孫繁栄の意味が込められており、当時の婚礼の真意を示す意匠といえます。
豊姫の婚礼調度を見ていると、単調な竹菱文と家紋ばかりのためか、大名の婚礼調度が単なる生活用具などではなく、また鑑賞品でもなく、家と家との結び付きと繁栄という究極の目的が良く理解されるように思われます。
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posted by 猪熊兼樹(保存修復室長) at 2023年08月23日 (水)
カテゴリ:「古代メキシコ」
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posted by 山本亮(考古室研究員) at 2023年08月22日 (火)
カテゴリ:「古代メキシコ」
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posted by 河野一隆(学芸研究部長) at 2023年08月17日 (木)