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黒田清輝-作品に見る「憩い」の情景2

本ブログは、特集陳列「黒田清輝-作品に見る「憩い」の情景」(~ 2012年4月1日(日))で展示される作品をご紹介する全3回のブログのうちの、第2回です。

黒田は1893年夏にフランスから帰国します。同年秋、生まれて初めて京都を訪れ、「始めて日本と云ふ一風変つた世界の外に在る様な珍しい国に来た様な心持」がしたといいます。特に舞妓に興味を抱き、「天下無類」「実に奇麗なものだと思ひました」と語っています。≪舞妓≫(1893年)はそうした折の作品です。モデルとなったのは小野亭の小ゑんという舞妓で、画面の右に後姿で描かれているのが仲居候補のまめどんです。近づいてきたまめどんに話しかけられて応えようとする瞬間の表情がとらえられています。お座敷に出ているときとは異なるくつろいだ自然な表情です。


重要文化財 舞妓 黒田清輝筆 明治26年(1893)
(~2012年4月1日まで展示)



日本に帰ってからの黒田は、フランス留学で学んだことを踏まえて日本の油彩画を制作しようとしていきます。フランスのサロンに出品されていたような絵画を日本の主題、モチーフで描くことを意識して、帰国後最初に取り組んだのが≪昔語り≫の制作でした。


昔語り下絵(構図Ⅱ) 黒田清輝筆 明治29年(1896)
(~2012年4月1日まで展示)

≪舞妓≫を描いた1893年秋の京都滞在の折、黒田は清水寺周辺を散策し、清閑寺という寺で平家物語にまつわる寺の由来を居合わせた老僧から聞きます。清閑寺は高倉天皇の寵愛を受けたために平清盛に恨まれた小督の局が出家させられて住んだ所です。その話を聞き、まるでその時代に居るような心持になった黒田は、いつか人が話をする情景を絵にしようと思ったと語っています。老僧を若い男女が囲んで話を聞く構図は、フランス留学中に黒田が作品への助言を受けに訪ねたピュヴィス・ド・シャヴァンヌの≪休息≫という壁画を参考にしているという指摘があります。シャヴァンヌは19世紀後半に壁画の大家として活躍し、フランスの公共建築内部に多くの作品を残しています。≪休息≫は≪労働≫と対を成す作品で、ひろやかな自然景観の中に古代風の人物を配して、自然に働きかけて日々の糧を得、休息時には長老の話を聞いて知識を得る生活を表しています。黒田はこの作品に深い共感を抱いていたようです。
 

カテゴリ:研究員のイチオシ

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posted by 山梨絵美子(東京文化財研究所 企画情報部近・現代視覚芸術研究室長) at 2012年03月12日 (月)

 

書を楽しむ 第10回「屋外の書」

東京国立博物館の展示室で書をごらんになった皆さん、「博物館の書は展示室で見るもの」と思っておられませんか。実は建物の外にも書はあるのです。
まず、正門。門標の「東京国立博物館」(画像1)は見過ごしてしまいますが、これも書です。筆者は明記されていませんが、おそらく館名が「国立博物館」から「東京国立博物館」に変更された昭和27年(1952)当時の館長であった浅野長武(1895-1969)の筆になるものではないかと考えられます。浅野は広島藩主の家に生まれ、大戦前から美術史家として著名で、逝去まで18年にわたって館長を務めました。

正門の門標(画像1)

表慶館の階段右側の植え込みには中世の板碑が立っています(画像2)。建武元年(1334)の年号があります。大ぶりでそれほど上手とは言えませんが、約670年前に書かれた無名の筆者の文字です。

表慶館の階段右側の植え込みにある中世の板碑(画像2)

平成館の玄関前には「平成館(舘)」という標石があります(画像3)。これまた「あるのは当然」みたいに思ってしまいますが、実はこれもただの文字ではありません。裏側へ回ってみてください。由来が書いてあります。当館所蔵の国宝「元暦校本万葉集 巻十八」の中から「平」「成」「舘」の文字を抜き出してきたものです。このような作業を「集字」と呼び、書籍の表紙に題名を付けるときなどにも行われます。最近はコンピュータによる検索で便利になりましたが、昔の集字は、長大なテキストから目当ての文字を探すめんどうな仕事でした。

平成館の玄関前の標石「平成館(舘)」(画像3)

2012年3月10日(土)~4月15日(日)まで「春の庭園開放」で、本館裏手の庭園を散策いただけます。道すがら、石碑が2基、目につくでしょう。一つは回遊路沿いにやや小ぶりなものが立っており、もう一つは茶室「春草蘆」の前に高くそびえています。「第二回内国勧業博覧会碑」(画像4、5)と「町田石谷君碑」(画像6、7)です。
「内国勧業博覧会碑」は博物館が上野に移転してきた明治14年(1881)に開催された産業振興のための博覧会を記念し、その経緯を述べたものです。「撰文」つまり文章を考えたのは「正七位内藤恥叟」、「書」すなわちその文章を揮毫したのが「成瀬温」と、文末に記されています。内藤恥叟は水戸の人で名を正直と言い、漢学者として知られ、帝国大学教授も務めました。成瀬温は号を大域、賜硯堂と称し、書家として明治前期に活躍した人です。その時代、当時の清(中国)から、六朝時代の碑文の拓本が多くもたらされ、書の潮流が大きく変わり始めていました。大域はそのような流れに抗して、唐の顔真卿の書風を守ろうとしました。「博覧会碑」はいわば政府による公式の記念碑ですから、奇をてらうことなく、初唐風の鋭く謹厳な書体で一貫しています。
 
第二回内国勧業博覧会碑 (右)左画像の拡大部分(画像4、5)

「町田石谷君碑」は、当館の初代館長に当たる博物局長を務めた町田久成(1838~97)をしのんで明治43年(1911)に建てられました。町田は薩摩藩の高級武士の家に生まれ、幕末に藩の留学生として英国に渡りました。維新後は博物館の創設を主導し、英国で見た「ミュージアム」を日本に作ることに半生を捧げました。碑の建設は時期から見て十三回忌にちなんだものでしょう。上部の篆書の題は井上馨、碑文は撰が重野安繹、書は杉孫七郎という顔ぶれです。井上馨は長州藩士として幕末に活躍し、維新後は外務卿などを歴任した政治家として著名です。重野は町田と同じ薩摩藩出身の学者で近代日本の歴史学の基礎を築いた人物です。杉孫七郎は長州出身で長く官僚を務めた人ですが書家としても知られ、長三州、野村素軒とともに「長州の三筆」と称されました。井上も杉も欧州留学の経験があり、それぞれ町田とは縁があったのでしょう。
 
町田石谷君碑 (右)左画像の拡大部分(画像6、7)

最後に、もし子ども図書館や寛永寺、谷中方面に足を延ばされる機会があれば、観覧のお客様が通られることの少ない「東京国立博物館西門」の門額(画像8)に目をとめてください。現副館長の島谷弘幸が揮毫したものです。

「東京国立博物館西門」(画像8)

当然のことですが、書があるのは博物館の敷地の中だけではありません。街中を歩けばあちこちに書を見つけることができます。実は、書はそれくらい、私たちのくらしの中に溶け込んでいます。その昔、寺山修司は「書を捨てよ、町へ出よう」と宣言しましたが、「書をさがしに、町へ出る」のもまた楽しいものです。機会があればそちらもご紹介したいと思います。
 

カテゴリ:研究員のイチオシ書跡

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posted by 田良島哲(書籍・歴史室長、調査研究課長) at 2012年03月11日 (日)

 

人と文化財について改めて考えてみる「保存と修理見学ツアー」

3月1日(木)、2日(金)に建学ツアー「保存と修理の現場へ行こう」が行われました。その様子を教育講座室、神辺がレポートいたします。

このツアーは、平成館企画展示室にて、現在行われている特集陳列「東京国立博物館コレクションの保存と修理」(~2012年4月1日(日))の共催企画で、一般の方に、当館で行っている修理の現場を保存修復課研究員の解説付きで見学していただき、文化財の保存について知ってもらうことがねらいです。

今年で12回目となるこのツアーは事前申し込み制ですが、大人気の企画で毎年多くの応募があります。今年も約2倍の倍率を潜り抜け、各日40名が当選されました。

4班に分かれて、いよいよツアーに出発です。


まず、特集陳列「東京国立博物館コレクションの保存と修理」で今年度の修理を終えた作品を見学します。当館の修理は、文化財本来の姿を損なわないミニマムトリートメントが基本。修理材料は文化財を傷めないよう安全第一で、後世文化財のオリジナル部分から修理材料を文化財に負担を与えることなく除去できるようなやり方で行います。

次は本館17室「文化財を守る‐保存と修理‐」でレクチャー。文化財を長く後世に伝えるためには、文化財を修理しなくても良い状態に保つことが理想です。そのため当館では修理技術の向上ばかり目指すのではなく、文化財を取り巻く環境を整えること、いわゆる「予防保存」に重点を置いています。

そして地下の長い長い廊下を歩き、次はX線写場。文化財の破損を未然に防ぐため、見た目では分からないところをX線で撮影し、文化財の診断、調査を行います。現在撮影画像がフィルムからデジタルデータとなり、より正確な分割撮影や分析が可能となりました。仏像の内部、ミイラの骨格、屏風の下絵などを詳細に知ることができ学術研究の幅も広がります。

余談ですが、昨年の見学ツアーは3月11日に行われ、ツアーの最中にあの大地震が起こりました。揺れ続ける真っ暗な廊下を走りぬけゴーという地響きの中、このX線写場から建物の外へツアー参加者を必死に誘導しました。その時の情景が思い出されます。

さて、次は本館の地下廊下のつきあたりにある実験室へ向かいます。室内の温度を一定に保つための二重扉の向こうに、静かで清潔な部屋があります。文化財の救急医療室である実験室では、処置に使用する接着剤の成分にも心を砕き、文化財に与える負担を最小限に抑えようと研究を重ねています。文化財の保存環境を整えるための保存箱製作も重要な仕事です。

最後は刀剣修理室です。刀剣は研ぐと確実に減ります。そのため、当館では研がなくても良い状態に保つ環境づくりに心血を注いでいます。それでもどうしても刀剣にさびができやすい状態になってしまう場合があります。そのような状態を素早く見つけ、さびが進行するのを未然に防ぐため最低限の研ぎをします。

約1時間半のツアー終了後には、参加者からの質問コーナーがありました。当館の修理理念から具体的な修理方法まで様々な質問が出ました。

印象的だったのは、放射能が文化財に及ぼす危険について質問が出た際の神庭保存修復課長の言葉。「文化財にとって放射能は確かに危険だが、放射能のせいで人が文化財に近づけず、文化財の状態を判断できる人が文化財のそばにいないことの方が危険なこと。」さらに「博物館での文化財保存は、保存と公開は両輪であり、どちらが欠けても次世代に文化財は伝えられない。」とも。

人が生み出した文化財を守るのも人で、人に伝えるのも人。この当たり前の流れについて再認識できるツアー。

あなたも来年参加してみてはいかがでしょう。

カテゴリ:教育普及

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posted by 神辺知加 at 2012年03月08日 (木)

 

歴史資料「化粧」

本館16室で歴史資料「化粧」(~2012年3月25日(日))の展示を行っています。



江戸時代に、歌舞伎や浮世絵、版本などを主な媒体として流行した化粧に関する資料をとおして、当時の人々が心がけていた化粧のあり方などをご紹介します。

文化10年(1813)に出版された『都風俗化粧伝』は、100年以上にわたって女性に愛読されたロングセラーです。顔や手足・髪の手入れ、顔だちによる化粧の仕方から、なで肩にみせる方法まで、身だしなみのすべてが「化粧」に込められていました。


都風俗化粧伝 佐山半七丸著、速水春暁斎画 江戸時代・文化10年(1813)
(~2012年3月25日(日)展示)



たとえば、洗顔において「糠袋(ぬかぶくろ)」を使用するとき、糠は絹でふるい、糸の細い木綿の袋を用いる。顔のきめを損なわないように静かにまわして使うと、糠汁がよく出て、顔につやを出す。使った後の袋は、残りかすのないように洗い落とすことで、次に使う際の肌荒れを防ぐ、などと記されています。 
また、目の上に紅をさすことで、顔を「うっきり」(ウキウキと華やかなさま)とみせる方法では、一方で、紅の付けすぎによる皮膚の黒ずみに注意をうながしています。

喜多川月麿の『姫君図』は、下地に墨を塗りその上から紅を塗る「笹紅」をした肉筆美人画の代表作です。紅を玉虫色に濃く塗るのが流行したとき、「天保の改革」で、高価な紅をたくさん塗ることが許されなくなったために考案されました。

 
姫君図 喜多川月麿筆 江戸時代・19世紀 (右)は左画像の拡大部分
(~2012年3月25日(日)展示)


日本では古くから、男女ともに眉をそり落とし、墨をさしたりする「作り眉」の習俗がありました。平安時代には、眉を抜き、額の上の方に描くことが宮廷で行われ、江戸時代になると、こうした礼儀作法が一般にまで及び、そり落とした眉を既婚女性のしるしとする習慣がはじまりました。

江戸時代、髪型などは身分や年令をあらわすもので、自分の好きな髪型を選ぶことはできませんでした。明治4年(1871)断髪廃刀令が出されると、女性の中に髪を切る人があらわれたため、同5年に東京府は、女性の断髪禁止令を出します。女性は日本髪を結わねばならないというのです。やがて西洋化が進むなかで、束髪が普及しましたが、日清戦争がはじまると、日本髪が復活します。いろいろなかたちで自由は奪われていたのです。第2次世界大戦中にマニキュアやパーマをして憲兵に連れていかれたという歌手淡谷のり子さんを思い出しました。ちょっと古かったですね。
 

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posted by 高橋裕次(博物館情報課長) at 2012年03月07日 (水)

 

「古墳時代の神マツリ」のミカタ(見方・味方…) 4

特集陳列「古墳時代の神マツリ」(~2012年3月11日(日))も、あと残すところ半月足らずとなりました。

これまで、祭祀遺跡の移り変わりから「当時の人々の神々に対する観念が次第に豊かになっていった過程」がうかがえることをお話しました。
なかでも、三輪山西麓の山ノ神祭祀遺跡(4~5世紀)出土の土製模造品を採り上げ、有名な奈良県三輪山神の性格が酒造りと深く関係しているとみられることをご紹介しました。
また前回は、自然に対する当時の人々の姿勢(意識)を映し出していると考えられる奈良時代の“証言”(伝承)から、その背景に意識の変化が垣間見えることもご紹介しました。

一方、祭祀遺物と古墳の副葬品の間に、著しい共通性が認められることは大きな“謎”でした。
この問題のヒントを探るには、やはり出土した当時の人々が使用した祭祀遺物そのものを見つめるほかはなさそうです。


最初に、ほかにも本特集陳列にかかわりが深い常設展示品をご紹介します(第2図C・D)。
 
考古展示室配置図(第2図) (右)左画像の赤枠で囲った部分の拡大部分

一つ目は、岡山県楯築遺跡(2~3世紀)にあった旧楯築神社の御神体・旋帯文石(模造品:D)です。単独で配置され、ひときわ存在感を放つオリジナルの低いケースに展示されています。
 
模造 旋帯文石(左:左側面、右:正面) 原品=岡山県倉敷市 楯築神社 伝世、弥生時代(後期)・2~3世紀 (通年展示) 

楯築遺跡は全長80mを越える弥生時代終末頃の最大の墳丘墓で、同じ頃、九州から関東地方の各地でも、大規模な墳丘をもったさまざまな形の墳丘墓が発達します。これらは古墳時代の前方後円墳の源流と考えられています。
楯築遺跡の発掘調査によって、大変よく似た文様を施した小形旋帯文石が出土したことから、この旋帯文石も楯築遺跡にあったと考えられています。

扁平な略直方体の一方にぼんやりと顔のような表現があり、その他は規則的で立体的な複雑な帯状の文様で埋め尽くされ、ずいぶんと窮屈な印象を与えています。
あたかも内側の存在を封じ込めるような造形で、内に秘めた大変なパワーを感じさせます。人間からみた超自然的な存在を表現したものとも考えられていて、“得体の知れない”存在を縛りつけているかのようです。
あの奈良時代の伝承に語られていたような、人々が逃げ惑い畏怖の対象としていた「荒ぶる神」の姿を想い起させますが、如何でしょうか?。


二つ目は、「宝器と玉生産の展開」(テーマ展示C)の群馬県上細井稲荷山古墳(5世紀)から出土した滑石製機織具です。

滑石製機織具 前橋市上細井町字南新田1146-1 群馬県上細井稲荷山古墳出土 古墳時代・5世紀 (通年展示)

機織技術は弥生時代に大陸から伝来し、この滑石製機織具は織り手と一体となった地機を写した造形とみられます。
実は、本特集陳列の解説パネルでご紹介している福岡県沖ノ島祭祀遺跡群(4~7世紀)でも、多くの模造の機織具が出土していて注目されています。                       


沖ノ島は記紀にも登場し、宗像大社の沖津宮(オキツミヤ)として、大島の中津宮(ナカツミヤ)と辺津宮(ヘツミヤ)の宗像大社と併せて、市杵嶋姫(イチキシマヒメ)神・田心姫(タゴリヒメ)神・湍津姫(タギツヒメ)神の三女神を祀っています。
出土した祭祀遺物は、これらの女神の性格を表していると考えられています。
    『日本書紀』神代上第6段一書二
    「すでにして天照大神、[中略]吹き出つる気噴(イブ)きの中に化生(ナ)る神を、市杵嶋姫神と号(ナ)づく。
      是(コ)は遠宮(沖津宮)に居します神なり。
      [中略]田心姫神と号(ナ)づく。是(コ)は中宮(中津宮)に居します神なり。
      [中略]湍津姫神と号(ナ)づく。是(コ)は海濱(辺津宮)に居します神なり。」

また、誰もがご存知の三重県伊勢神宮も女神の天照(アマテラス)大神を祀っており、記紀神話で語られる(暴れん坊の)弟神のスサノオとのトラブルが高天原の斎服(イミハタ=忌機)殿で起こった事件であることは有名です。
平安時代の記録では、伊勢神宮の御神宝には鏡・武具・楽器などと並んで、多くの機織具が用いられています。

沖ノ島祭祀遺跡や伊勢神宮の機織具の祭祀具が姫神である女神の性格を反映しているという見解は、多くの研究者が指摘するところです。
三輪山の山ノ神祭祀遺跡では酒造具、沖ノ島祭祀遺跡では機織具と、祀られる神さまの性格によって、5世紀頃からはやはり(神さまの性格に合わせて・・・)神マツリの道具の“使い分け”が始まっていたようです。


最後に注目して頂きたいのは、今回の特集陳列の中央部分と、「宝器と玉生産の展開」(テーマ展示C)で展示している古墳時代中期(5世紀)の履物形の滑石製模造品です。


滑石製下駄 京都市西京区大原野 鏡山古墳出土 古墳時代・5世紀 (通年展示)
鼻緒の孔も開けられ、ちゃんと左右共に専用に造られた精巧なつくりです。東京都野毛大塚古墳と京都府鏡山古墳出土品は、共に下駄形模造品を含む滑石製模造品の代表的なものです。

いずれも下面に下駄の歯の突起が付けられていて、近年、古墳時代に遡る木製下駄の発掘が相次いでいます。
出土遺跡は水を濾過する沈殿槽のような装置と祭祀遺物を伴い、何らかの儀礼の場で使用されたとみられる例が多いことが特徴です。まだ解釈には諸説(せっかく得られた清水を汚さない為?など)がありますが、水を使った儀礼の場で使用された履物である可能性が高いようです。

(あくまでも憶測の一つですが・・・)木製下駄は水を用いた儀礼の場において中心的な人物が使用した道具と考えられますので、機織具や酒造具も儀礼を行った人間の道具であった可能性が高いと言えそうです。
こう考えれば、これらの石製模造品は使用者側の道具を写したものということになり、古墳の副葬品が生前の被葬者の性格を表しているという通説とも整合的ですね。

そういえば、伊勢神宮の天照大神も、元の名前(本名・・・)は大日靈貴(オオヒルメノムチ)と呼ばれていて、太陽神を祀った巫女(日女:ヒルメ)が神格化されていった過程が反映しているという説が有力です。
    『日本書紀』神代上第4段一書十
    「[前略]是(ココ)に、日の神を生みまつります。大日靈貴と号(マウ)す。一書に云はく、天照大神といふ。」

ギリシャ神話のディオニッソス(ローマ神話ではバッカス)もそうですが、やはり神さまは酒造りを司る(のと召し上がる?)のが“専門”ですので、自分で造って自分で賞味し(飲んだくれ?)ているのは、人間だけかもしれません・・・。


これまで見てきましたように、古墳時代の祭祀遺物には、我々祖先の神に対する畏怖の気持ちや自然に立ち向かっていった汗と努力の痕が遺されているように思えます。
その道筋には、4~5世紀頃に大陸伝来の“ハイテク”技術を身に付けて「先史文化」を急速に “近代化”させていった古代国家成立前夜に、次第に神マツリを変貌させていった我々の祖先の姿が浮かび上がります。

展示全景(左から:古墳時代前期・中期・後期の祭祀遺物)

しかし、前回ご紹介した奈良時代の伝承の中で、(あろうことか…)ついには神さまを追い払うという“暴挙”に出た壬生連(ムラジ)麿の「言挙(コトアゲ)」は、少々行き過ぎであったようです。
それは、1300年以上後の現代に暮らす我々自身が、決して自然を克服できていないことからも明らかです。
第2次世界大戦後の日本の高度経済成長期にも、どこか通ずるものを感じますが如何でしょうか。

今回の展示を通して、遠い過去に生きた我々の祖先が大自然の中に神の姿を見つめた視線に想いを馳せて頂くと、(現在のエコを考える上でも・・・)一味違った「見方」でもう一度自然を見つめ直すことができるのではないでしょうか。
 

カテゴリ:研究員のイチオシ考古

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posted by 古谷毅(列品管理課主任研究員) at 2012年03月02日 (金)