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1089ブログ

六道珍皇寺の小野篁像

六道珍皇寺は建仁寺の南東、歩いて5分とかからない位置にある建仁寺の塔頭です。
創建は奈良時代、弘法大師が中興したと伝えますが、詳細はわかりません。しかし南北朝時代までは真言宗に属し、珎光寺(ちんこうじ)と称していました。
永正6年(1509)建仁寺塔頭の大昌院が東寺から珎光寺の権利を買いました。明治7年には大昌院に吸収合併され寺の名前が消えましたが、明治26年珍皇寺の名前を復活しました。

六道珍皇寺の小野篁像
小野篁像  院達作  江戸時代・17世紀  京都・六道珍皇寺蔵
 
「六道」は珍皇寺のある場所が、「六道の辻」と呼ばれることによります。寺の東は傾斜地で、東大路を渡るとやがて丘になります。このあたり一帯は鳥辺野と言う古くからの葬送の地でした。亡くなった人を鳥辺野に埋葬する前に最後のお別れをしたのが珍皇寺だったのです。

この世と冥界の境、ということで二つの世界を往来したとされる小野篁の伝説と結び付けられたのでしょう。境内には篁が閻魔大王のもとへ行くときに通ったと言う井戸があります。

小野篁が死後ではなく、貴族として宮廷に出入りしていた時から閻魔大王の裁判の補佐をしていたという伝説は『今昔物語』にすでに載っています。しかし珍皇寺と結び付けられたのがいつかはわかりません。

今回「栄西と建仁寺」で展示している小野篁像は、展覧会の事前調査で首を抜いたところ、像内に墨で願文が書かれており、経巻3巻、制作の経緯を書いた木の札が納められていることがわかりました。

像内願文 像内納入物
小野篁像内の願文(左)と木札(右)

そこから小野篁像は元禄2年(1689)、当時の六道珍皇寺住職、大昌院塔主(たっす 塔頭の主)で建仁寺首座( しゅそ 修行僧の筆頭)である石梯龍艮(せきていりょうこん)が仏師院達に注文して造らせたものであることがわかりました。篁・冥官・獄卒の3躯ともなかなか優れた出来栄えで、一見鎌倉時代の作のようにも見えます。院達は江戸時代屈指の巧匠と言えます。


 
(左)獄卒像、(右)冥官像 院達作  江戸時代・17世紀  京都・六道珍皇寺蔵

像は高さ180㎝を超えますが、篁が亡くなった時に記された伝記に背丈が6尺2寸(1尺は30.3cm)とあるので、等身大ということになります。当時にあっては怪物のような体格が閻魔大王の補佐という伝説を生んだ一因だったのでしょう。
 
小野篁は禅宗とも栄西とも関係ありませんが、この像は建仁寺の僧が造らせたのです。六道珍皇寺に参拝者を集める目的もあったのではないかと思います。
 


 

カテゴリ:研究員のイチオシ彫刻2014年度の特別展

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posted by 浅見龍介(京都国立博物館学芸部列品管理室長) at 2014年05月02日 (金)

 

「運慶・快慶周辺とその後の彫刻」─智拳印

大日如来というのは、密教の最高位の仏で、曼荼羅の中心にいます。曼荼羅には胎蔵界と金剛界の2種類あり、大日如来にも2種あります。胎蔵界の大日如来像は、腹の前で両掌を上に向けて重ねる禅定印(ぜんじょういん)を結び、金剛界大日如来は智拳印(ちけんいん)と呼ばれる印を結びます。今回、特集陳列「運慶・快慶周辺とその後の彫刻」(本館14室、11月17日(日)まで)で展示しているのはいずれも金剛界の大日如来像です。さて、展示中の3体の印を比べてみましょう。

展示中の大日如来の智拳印
左:重要文化財 大日如来坐像 平安~鎌倉時代・12世紀 東京・真如苑蔵
中:重要文化財 大日如来坐像 平安~鎌倉時代・12世紀 栃木・光得寺蔵
右:大日如来坐像 快慶作 鎌倉時代・12~13世紀 東京藝術大学蔵

(以下の写真も同)
  
快慶の像は、左肘から先が後世補われたものなので、左手先の形は快慶が造った形と異なるかもしれません。しかし、右手を握ってできた穴の角度から、左手人差し指が斜めに伸びること、両腕の位置関係から左手人差し指の大半を握るのは当初からと見て良いでしょう。運慶作と推定される2体とは微妙に違います。
  
 
展示中の大日如来の智拳印

右手は親指を拳の中に入れて、その上を人差し指が押さえる形ですが、光得寺像の左手親指は関節が隠れています。真如苑像は見えています。快慶の像では人差し指が親指を通り越しています。親指の関節のところに隙間があるのも他の2体と異なります。

快慶の大日如来の智拳印拡大
快慶作の大日如来像の智拳印(拡大)


展示中の大日如来の智拳印

真如苑像は右手親指も拳の中に入れています。快慶の像は右手親指を外に出していますが、後世のものなので、快慶も同じように作っていたかわかりません。光得寺像は両手の間が狭くてよくわかりません。
 
光得寺蔵の大日如来の智拳印(拡大)
光得寺像の智拳印(拡大)

智拳印は本来、金剛拳という印が基本です。現在、本館13室金工のコーナーで展示中の作品です。左が金剛拳、右は金剛喜印です。

金銅三昧耶形のうち
金銅三昧耶形のうち  和歌山県東牟婁郡那智勝浦町那智山出土 平安時代・12世紀 東京国立博物館蔵 (北又留四郎氏他2名寄贈)
(2013年11月24日(日)まで本館13室にて展示)

金銅三昧耶形のうち


金剛拳は親指を拳の中に入れています。
大日如来の智拳印について書いた『図像抄』『別尊雑記』という平安から鎌倉時代の図像集にも「親指を掌に入れて握る」と書かれています。
けれども左手の親指を外に出す像は、平安時代からあります。朝鮮半島、統一新羅時代・8世紀から高麗時代の像にも見られます。
智拳印を結ぶ朝鮮半島の像は東洋館10室に1体あります。しかし、大日如来ではなく毘盧舎那仏、螺髪の如来です。

毘盧舎那仏立像  朝鮮  統一新羅~高麗時代・9~10世紀  小倉コレクション保存会寄贈
毘盧舎那仏立像  朝鮮  統一新羅~高麗時代・9~10世紀  東京国立博物館蔵(小倉コレクション保存会寄贈)
(2014年6月22日(日)まで東洋館10室にて展示)
 
右手の人差指を立てていません。こうした印は朝鮮では一般的ですが、日本ではほとんどありません。

さて、左手の親指を外に出すのは、何か根拠があるのか。経典には触れないけれど、中国、朝鮮から親指を出した像がもたらされ、それにならったのか。きちんと調べなければなりません。
ところが難しい点がひとつ。智拳印を細かく観察するにはかなり近付いて、光を当てて様々な角度から観察する必要があります。そしてなるべく多くの像について調査しなければなりません。しばらく時間をいただいて、何かわかった時は報告します。

ちなみに智拳印の像は、本館1階11室に平安時代の、東洋館地下12室にインドネシアの金銅仏を展示していますのであわせてご覧ください。

重要文化財  大日如来坐像 平安時代・11世紀 東京国立博物館蔵
重要文化財  大日如来坐像 平安時代・11世紀 東京国立博物館蔵
(2014年3月2日(日)まで本館11室にて展示)

 
大日如来坐像 インドネシア 10世紀頃 東京国立博物館蔵
大日如来坐像 インドネシア 10世紀頃 東京国立博物館蔵
(東洋館12室にて通年展示)


 

カテゴリ:研究員のイチオシ彫刻

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posted by 浅見龍介(東洋室長) at 2013年10月31日 (木)

 

「運慶・快慶周辺とその後の彫刻」─仏像の髪型

11月17日(日)まで本館1階14室で開催中の特集陳列「運慶・快慶周辺とその後の彫刻」のみどころを紹介します。
恒例の運慶作と推定される大日如来坐像2躯の展示に加え、今回は東京芸術大学から快慶作大日如来坐像、肥後別当定慶作毘沙門天立像をお借りしました。
数は少ないですが、慶派に受け継がれた作風とそれぞれの仏師の個性をご覧いただけると思います。

まず運慶と快慶の大日如来像を比べてみてください。
胸の前で智拳印(忍者がするような手の形)を結ぶ姿は同じですが、顔や姿勢、衣のひだなど比較して見ると、似ているところ、違うところがみつかるでしょう。

たとえば、髪の表現に注目してみましょう。

重要文化財 大日如来坐像 平安~鎌倉時代・12世紀 東京・真如苑蔵
重要文化財 大日如来坐像 平安~鎌倉時代・12世紀 東京・真如苑蔵

重要文化財 大日如来坐像 快慶作  鎌倉時代・12~13世紀   東京藝術大学蔵
重要文化財 大日如来坐像 快慶作  鎌倉時代・12~13世紀   東京藝術大学蔵

頭上の髻は真如苑の大日如来像より芸大像の方が細く、一番上の房のように結った部分は芸大像の方が装飾的という違いはありますが、基本的な結い方、背面に4つ渦をつくる点は同じです。




生え際を見てください。中央に分け目がありますが、それ以外に束はなく、髪の毛筋は斜めになりながらも、すべて生え際から上に向かっています。まとめて一度に結い上げられた形です。これは両者共通です。

 


では快慶工房が1201年に造った兵庫・浄土寺の菩薩面はどうでしょう。

重要文化財 行道面 菩薩 快慶作 鎌倉時代・建仁元年(1201) 兵庫・浄土寺蔵重要文化財 行道面 菩薩 快慶作 鎌倉時代・建仁元年(1201) 兵庫・浄土寺蔵
重要文化財 行道面 菩薩 快慶作 鎌倉時代・建仁元年(1201) 兵庫・浄土寺蔵



髪束を作って結い、束ごとに毛筋の方向が変わります。いずれも隣の束の下に潜るように横向きに刻まれています。左右とも4回に分けて束を作って結い上げているのですが、よほど中央の髪の量が多くないとできないでしょう。
しかし、すべての仮面が同じではありません。
 
重要文化財 行道面 菩薩 快慶作 鎌倉時代・建仁元年(1201) 兵庫・浄土寺蔵重要文化財 行道面 菩薩 快慶作 鎌倉時代・建仁元年(1201) 兵庫・浄土寺蔵



この仮面では髪束を表わし、耳の後ろの毛筋は前方の束に潜りますが、正面に見える毛筋は生え際から立ち上がっています。
髪束を表わす点を別にすれば真如苑と芸大の大日如来像の髪型に近いと言えます。顔は目が小さく、また顎の奥行きが深く、頬の肉付きがたっぷりしていて、運慶に近い顔です。
快慶工房の中に運慶風の顔を作る仏師がいたことになります。

浄土寺の菩薩面の髪型は大別してこの2種類の表現があります。快慶工房が作ったのだから快慶に似た彫り方があるのは当然です。
ではもう一つはどこから来たのでしょう。
 
重要文化財 大日如来坐像 平安時代・11世紀 東京国立博物館蔵 (2013年9月10日(火)~12月1日(日)、本館11室にて展示) 
重要文化財 大日如来坐像 平安時代・11世紀 東京国立博物館蔵 (2013年9月10日(火)~12月1日(日)、本館11室にて展示)

これは平安時代後期、11世紀の大日如来坐像です。このように髪束を作って束ごとに横向きの毛筋を刻む表現は平安時代後期にあったものなのです。
1162年頃、運慶の先輩にあたる仏師が造ったと考えられる毘沙門天立像の髪も同様です。

  重要文化財 毘沙門天立像 旧中川寺十輪院持仏堂所在    平安時代・応保2年(1162)頃 東京国立博物館蔵 (川端龍子氏寄贈)重要文化財 毘沙門天立像 旧中川寺十輪院持仏堂所在 平安時代・応保2年(1162)頃 東京国立博物館蔵 (川端龍子氏寄贈)
重要文化財 毘沙門天立像 旧中川寺十輪院持仏堂所在    平安時代・応保2年(1162)頃
東京国立博物館蔵 (川端龍子氏寄贈)
(2013年9月10日(火)~12月1日(日)、本館11室にて展示)


つまり、このような表現は平安時代後期から鎌倉時代初頭には一般的で、運慶・快慶の髪型の方が異色なのです。浄土寺の菩薩面でも快慶とまったく同じ形(髪束も作らない)のものは25面のうち4面しかありません。
では運慶・快慶の髪型はどのように生まれたのでしょうか。
 
重要文化財 日光菩薩坐像 京都・金輪寺、高山寺旧蔵 奈良時代・8世紀  東京国立博物館蔵 
重要文化財 日光菩薩坐像 京都・金輪寺、高山寺旧蔵 奈良時代・8世紀  東京国立博物館蔵
(2014年3月25日(火) ~ 2014年5月6日(火・祝)、本館11室にて展示予定)


当館所蔵の日光菩薩坐像、奈良時代の作です。運慶・快慶を輩出した慶派は、奈良に拠点を置いていたので東大寺、興福寺などにあった奈良時代の仏像に触れる機会が多かったのです。運慶・快慶はこちらの方が写実的だと考えたのでしょう。この髪型を採用した制作年代の明確な、もっとも早い作例は奈良・円成寺の運慶作大日如来坐像(1176年)です。快慶が運慶の影響を受けたのか、あるいは二人の師である康慶がすでに採用していたのかはわかりません。

浄土寺の菩薩面は、快慶統率のもとで造られたのですが、必ずしも快慶の作風で統一されていなかったことがわかります。慶派の中にも平安時代後期の髪型を踏襲する仏師がいたのです。
しかし、その仏師を保守的と即断することはできません。髪型だけでなく、顔の肉付きや、他の細部表現をあわせて考える必要があります。
 
 

カテゴリ:研究員のイチオシ彫刻

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posted by 浅見龍介(東洋室長) at 2013年09月07日 (土)

 

円空仏 千光寺へ

1月12日に開幕しました、特別展「飛騨の円空-千光寺とその周辺の足跡-」は4月7日(日)無事に閉幕しました。
最終日は、千光寺の大下大圓ご住職をはじめ、当館副館長島谷弘幸、本展覧会の担当研究員、東洋室長浅見龍介、主催の読売新聞社、NHK、NHKプロモーションの担当者ほか展覧会に関わったスタッフ皆で最後のお客様を見送らせていただきました。
多くの方にお越しいただき関係者一同大変感謝しております。誠にありがとうございました。

この円空仏にずっと浸っていたいところですが、ご出品いただいた作品は終わりしだい高山にご返却しなければなりません。

返却日の朝は、トーハクを午前7時に出発し高速を乗り継ぎ約9時間、まずは千光寺以外のご所蔵者からお借りした円空仏を高山市の収蔵庫に収め、そこから30分ほどかけて千光寺に向かいました。
そして、円空仏を千光寺の「円空仏寺宝館」に搬入し翌日の準備をしたところでこの日は終わりとなりました。

翌日、明方降った雪が少し積もっていました。東京の暖かさが恋しくなるような冷え込みの中、作業開始です。


千光寺 岐阜県高山市(真言宗寺院)

円空仏寺宝館の外では男性陣が集まり作業をしています。この方たちは?


皆さん手際がよくあっという間に作業が進んでいきます。

千光寺の檀家の皆様で、朝早くから来てくださったとのこと。
円空展で使用した様々な造作物を円空仏寺宝館で再利用するために作業されています。
元々円空仏寺宝館の中は白い壁だったのですが、円空展の会場のような黒を基調とした色にしたいというご住職の思いから、トーハクでの展覧会開催中に色を塗り替えたとのことです。展示照明も一新され、ご住職の熱い想いを感じます。
さて、檀家の皆様が作っているものはどのようになるでしょうか。

円空仏寺宝館の中では、展覧会でも大変人気のあった「金剛力士(仁王)立像 吽形」から開梱開始です。
仁王像は226cmもありますので寝かせて運んできました。周りは木枠で囲ってあるので、まずは木枠ごと立たせるところからです。


仁王像を立たせるために大きな滑車を使います

日通の作業員さんが息を合わせてロープを少しずつ引きはじめるとだんだん仁王像が起き上がってきました。
木枠を入れた総重量は約150kg!慎重に動かしていきます。

 

無事起き上がり、やわらかい和紙で綿を包んだ梱包用の布団を取ると、仁王像のお顔がでてきました。


ん?ニヤっと笑っているように見えます。

作業を開始した頃より冷えてきました。外に出てみると、なんと大粒の雪が舞っていました。
頭の上にどんどん雪が積もってきます。
外の気温は2~3度、4月とは思えない冬の寒さです。
しかし、雪が降る中、円空仏寺宝館から見る飛騨の山々は大変美しいです。 しばし雪景色に心奪われ、円空仏寺宝館に戻ろうと入口の横を見ると!!

 
左:短い時間でしたが激しく雪が降りました。
右:白い壁にバナーがとても目立っています


円空展にお越しになった方は、特別5室に入る手前の上にバナーが下がっていたのを覚えていらっしゃますでしょうか?
そのバナーがこのように円空仏寺宝館に入る方をお出迎えします。
こちらは、先ほど外で檀家の皆様が作っていたものです。
まさか、ここでまたこのバナーと再会できるとは!とても嬉しくなります。

円空仏寺宝館では、仁王像の展示が無事終わりました。
展覧会前は、吽形は円空仏寺宝館入った正面でお客様をお出迎えしていましたが、
阿形(展覧会には保存状態からお出ましできませんでした)の隣に展示されました。
これで阿吽そろっての展示となりました。

 
金剛力士(仁王)立像 左:吽形 右:阿形 江戸時代・17世紀 千光寺蔵
「吽形おかえりなさい」、お留守番をしていた阿形が思っているかもしれません。

その他の円空仏も展示していきます。
ご住職の息子さんである副住職も一緒に行っています。
一つ一つ表情が皆違う三十三観音立像はこのように展示されました。


三十三観音立像 江戸時代・17世紀 千光寺蔵
向き合っているものもいます。かわらず可愛らしい表情です。
三十一体はぜひ円空仏寺宝館で!

展覧会のメイン作品でもありました「両面宿儺坐像」。これを見て「あっ!」と気づく方。そうです。
なんと、特別5室の造作物をそのまま使用しています。
木をイメージしたデザイン、展覧会をご覧いただいた方は印象に残っているのではないでしょうか。
こちらも檀家の皆様が展示ケースに入るよう切って入れました。


両面宿儺坐像 江戸時代・17世紀 千光寺蔵
ケースに入れるときは一苦労ありましたがぴったりです。さすがです。

さらにこちらも注目!

特別5室入ってすぐ右手に展示されていた「護法神立像」です。


護法神立像 江戸時代・17世紀 千光寺蔵

展覧会前まではケースに入れて展示していた「護法神立像」ですが、少し窮屈でした。
今回展覧会で使用していた森のイメージのスクリーンをはり、壁の前に立たせることにしました。
展覧会では、少し高めの台の上に展示していましたが、今回はより近くでお像を見ることができます。

この他にも見どころ満載です。
トーハクでの展覧会のデザインを取り入れ、そして、檀家の皆様との協力でできあがった円空仏寺宝館。
リニューアルといってもいいほどかわりました。

様々な特別展を開催する中で、お客様の心に何か残ることもあるかと思いますが、一方で会期終了後は、形としてはほとんど何も残りません。
展覧会が終わると、会場から様々なものがなくなり何も残らないことはしかたないことではありますが、展覧会担当者としては寂しい気持ちにもなります。

しかし今回は、円空仏寺宝館がトーハクでの円空展の記憶をよみがえさせるような雰囲気になり、大変嬉しく思いました。

その後、各所蔵先にも無事返却が終了しました。
円空展では普段なかなか見ることができないお像の背面や特別展ならではの照明で表情や造形のすばらしさを見ることができたかと思います。
しかし、お寺や神社などその土地の風土を感じながら見る円空仏には、また違った魅力を感じていただけるかと思います。

ぜひ、高山にお出かけしていただき、今度は円空をより近くに感じながらご覧いただければと思います。

現在、岐阜県高山市一之宮町にある天然記念物の臥龍桜は満開を迎えています。
円空展をご覧いただいた方も、ご覧いただけなかった方も、美しい自然を感じながら円空にかかわる寺社をめぐってみてはいかがでしょうか。

円空展ブログはこれにて終了です。
どうもありがとうございました。

カテゴリ:彫刻2013年度の特別展

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posted by 江原 香(広報室) at 2013年04月20日 (土)

 

私の“イチホシ”!円空仏 「男神坐像」

私のイチオシは迷うことなく両面宿儺坐像です。ポスター、チラシ、看板に掲げ、そしてさまざまな雑誌やテレビに取り上げていただいて、多くの方々の目に触れたと思います。その造像をめぐる自分なりの考えは図録に書きましたし、造形のすばらしさについては実際にご覧いただけば私の推薦文など不要でしょう。そこで、「自分の手元に置きたい、一番ほしい像」と勝手にテーマを変えさせてもらいます。

円空展チラシ
円空展ポスター・チラシデザイン
両面宿儺坐像 円空作 江戸時代・17世紀 岐阜・千光寺蔵


どれかひとつならNo21 男神坐像です。千光寺近くの白山神社に伝来した像です。10㎝ほどの木端に顔と上半身を少し削っただけのものです。像の姿からは何を彫ったのかわかりませんが、神社にあったのだから神像なのでしょう。このプロポーションで立っているとは考えられないので坐像としましたが、手足がどうなっているかはわかりません。
この像をほしい理由を述べることは、自分の内面をお話しするようで少しためらわれますが、円空仏と人との付き合い方の一例になると思うので続けます。

男神坐像
男神坐像 円空作 江戸時代・17世紀 岐阜・千光寺蔵

家にずっと置くなら、立派な像より穏やかな像がいいです。置きっ放しではなく時々手に取りたい。「なかなか思うようにはならないね」などとつい呟いてしまうでしょう。日々の生活の中でたまった澱を少しずつ引き取ってくれるような気がします。仏像とか神像としてではなく、もっと身近で支えてくれる。鑿の痕を指でなぞれば、円空の温かさを感じることができる。未完成だから円空の気持ちが離れないで残っているような気もします。この像には300年以上の年月、その間対面した人々、造った円空が包含されているわけですから小さいけれど頼りがいはあるのです。そんなの独りよがりだとか迷信だとか言われても私とこの像の間のことですから勝手にそう思い続けます。
 

カテゴリ:研究員のイチオシ彫刻2013年度の特別展

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posted by 浅見龍介(東洋室長) at 2013年03月29日 (金)