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1089ブログ

江戸時代のお人形

江戸時代の技巧を凝らした人形と、3月3日の桃の節供にちなみ、毎年恒例となった    雛飾りを展示する特集陳列「おひなさまと日本の人形」(~2012年3月4日(日))のご紹介です。
以降掲載の画像はすべて(~2012年3月4日(日)展示)です。

女の子が人間や調度を小さく象ったおもちゃで雛(ひな)遊びをすることは、平安時代の昔からありましたが、人形が広く人々の生活の中で親しまれるようになったのは、江戸時代になってからのこと。
室町時代末期から江戸時代初期にかけて描かれた風俗屏風には、人形使いである傀儡子(くぐつし)や人形浄瑠璃を演じる小屋などが見られ、人形を用いた芸能が人々の娯楽として定着しつつあった様子がうかがえます。
玩具や芸能だけではなく、鑑賞用に人形が作られるようになったのは、江戸時代になってからのことです。ひなまつりに飾る内裏雛はその典型といえますが、ひとひねりした細工にはいかにも日本らしい人形の特徴が見られます。

「嵯峨人形」は京の嵯峨に住む仏師が寛永~寛文期頃より手遊びに作るようになったと言われています。木彫に胡粉を厚く盛り、衣服の部分に彩色や金箔を施した華やかな作りが特徴で、その模様はなるほど、仏像の衣に表された模様のようにも見え、また、寛文期に流行したキモノや元禄期頃の鍋島の色絵磁器や友禅染の割付模様と共通するデザインが見られます。
 
嵯峨人形 首振り嵯峨(部分) 江戸時代・19世紀 個人蔵

猿廻しや人形使い、遊女など当時の風俗を表したものや桃太郎や七福神といった御伽噺に出てくる親しみやすい造形が特徴です。町方で愛好されたものでしょう。
この「首振り嵯峨」は、子どもが小脇に子犬を抱えた姿で表されます。


犬は子沢山ですから、子宝に恵まれるように、という思いが人形に込められていると言われています。後頭部をつつくと首が動き・・・
うなずく拍子に子どもの口からぴろっと、舌が出るようになっています!


嵯峨人形は次第に進化し、縮緬や錦でできた衣裳を着せ替えできる「裸嵯峨」と呼ばれる5歳児くらいの大きさの人形が生まれます。裸嵯峨から発展した人形が、お公家さんがお土産物として遣った「御所人形」と言われています。
「御所人形」はあどけない幼子の姿を写したものが多く、桐塑に胡粉を塗り重ね、磨き上げたつややかな白肌は「白菊」に喩えられます。特に「つくね」と呼ばれる小さい御所人形の愛らしさは、手にとってみてはじめて感じられるものかもしれません。
見てください、このふっくらとしたお手々!6ヶ月くらいの赤ちゃんの手を思い出します。

御所人形 唐冠をかぶり唐団扇を持つ童子 江戸時代・19世紀

座ったおしりもかわいいでしょう!


日本の雛人形や雛飾りの見所といえば、驚くほどに繊細な細工にあります。
江戸時代後期に流行した「牙首雛」は顔と手が象牙細工でできた雛人形です。

牙首雛(1対のうち) 江戸時代・19世紀 三谷てい氏寄贈

高さ5cmほどの小さな人形ですが、着重ねた衣裳の丁寧な木目込みや、繊細な手や耳の彫りをご覧ください。
 

もう一点、トーハク自慢の一品は、紫檀に蒔絵を施し、調度金具を象牙細工で表した、この箪笥です。
 
紫檀象牙細工蒔絵雛道具 紫檀製重箪笥 江戸時代・19世紀 三谷てい氏寄贈

高さ13㎝ほどのミニチュア箪笥にちゃんと扉が開閉できる精巧な象牙細工!このこだわりこそ日本の工芸の真髄と言うにふさわしいものです。
 




今年は東京国立博物館で雛飾りを始めて10周年記念ということで特に名品の数々を展示いたしました。今回ご紹介したものの他にも、からくり人形や船鉾人形など、見どころ満載です。本館14室で江戸時代の人形たちが皆様をお待ちしております。

カテゴリ:研究員のイチオシ

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posted by 小山弓弦葉(工芸室) at 2012年02月14日 (火)

 

「古墳時代の神マツリ」のミカタ(見方・味方…) 3

特集陳列「古墳時代の神マツリ」(~2012年3月11日(日))の展示についてご紹介する「「古墳時代の神マツリ」のミカタ(見方・味方…) 」は今回で3回目となります。
2月14日(火)には、本展示についての列品解説を行います。

さて、前回のブログでご紹介した三輪山神(大物主神)は酒神としての性格のほかに、祟り神としても知られていたことに触れました。
三輪山神のもう一つの“正体”は、実はその直前の記事に語られています。

『日本書紀』崇神天皇五年条
     「国内に疾疫(エノヤマヒ)多くして、民(オオミタカラ)死亡(マカ)れる者有りて、且大半(ナカバニス)ぎなむとす。」

三輪山神は疫病の流行をもたらした畏(オソ)ろしい祟り神として登場し、過半の人々が病に倒れるという大変な惨禍がです。このような自然の猛威は、人間の歴史の中で幾度となく訪れたことでしょう。
あの大田田根子(オオタタネコ)は、この苦境を神マツリの力で打開した“救世主”であった訳です。
 
土製模造品(左: 臼・杵、右: 坩・柄杓(ヒシャク)と案(ツクエ)) 奈良県桜井市三輪馬場  山ノ神遺跡出土 古墳時代・5~6世紀 東京国立博物館蔵・通年展示

それにしても、三輪山神の“豹変”ぶりは、穏やかな雰囲気(?)のお酒の神さまのイメージとはだいぶかけ離れていて、戸惑いを覚えます。
もしかして・・・、神さまの二重人格(イヤ“神格”)?。
ところが8世紀の文献には、古代以前における祟り神の猛威ぶりが頻繁に登場します。

『筑後国風土記』逸文 筑後國號の条
     「[前略]昔、この堺の上に麁猛(アラブル)神あり、往來(ユキキ)の人、半ば生き、半ば死にき。[中略]因りて命盡(ツクシ)神と曰ひき。時に筑紫君肥君占へて、筑紫君等が 祖甕依姫(ミカヨリヒメ)を祝(ハフリ)と為して祭らしめき。それより路行く人、神に害(ソコナ)はれず。[後略]」

福岡(筑紫国)県の熊本県境の峠にすむ命盡神という荒ぶる神が人々を苦しめていたので、占い(神意)によって筑紫君が先祖甕依比女という人物に祀らせたところ、鎮めることに成功したという内容です。
手荒で暴力的な峠の荒ぶる神に、路行く人々が畏(オソ)れ慄(オノノ)いていた様子が目に浮かぶようです。

しかし・・・「半ば生き、半ば死にき。」、どこかで聴いたような表現ですね。
そう、三輪山神が人々を苦しめたときの表現と大変よく似ていて、話の筋立ても大田田根子の話とそっくりです。

前期の祭祀遺物(上段: 石釧残欠・石製紡錘車他、下段: 土製模造品・土錘他)
長野市石川条里遺跡出土 古墳時代・4世紀 長野県歴史博物館蔵

(特集陳列「古墳時代の神マツリ」(~2012年3月11日(日))にて展示)

ほかに、こんな説話もあります。
『肥前国風土記』佐嘉郡条
     「[前略]この川上に荒ぶる神ありて、往來(ユキキ)の人、半ば生かし、半ば殺しき。ここに縣主等の祖大荒田占問ひき。時に、土蜘蛛、大山田女・狭山田女といふものあり、[中略]下田の土を取りて人形・馬形を作りて、この神を祭祀らば必ず應和(ヤワラ)ぎなむ、といひき。[中略]神、この祭を(受)けて、遂に應和(ヤワラ)ぎき。[後略]」

佐賀(肥前国)県の有力者・大荒田の先祖が地元女性(首長?)のアドバイスで、土で人・馬形を作って荒ぶる神を鎮めたという内容です。このとき、川上の荒ぶる神に相応しい(望む?と考えた)土製祭具、つまり土製模造品を使った神マツリが行われていて注目されます。

これらの説話には、語りの表現や登場人物の性格に大変共通点が目立ちます。
つまり、同じ話型をもつ説話といえ、同じような背景があったと考えることができるようです。

平安時代の『土佐日記』にも、紀貫之が京へ帰還する船旅の途中、荒天時に海神に旅の安全を祈った記事があります。
このときは、海中に鏡を投入して平穏を取り戻しましたが、これも類似した話型をもつ説話といえます。

中期の祭祀遺物(前列左から :子持勾玉・滑石製斧・滑石製鎌・滑石製勾玉他)大阪府カトンボ山古墳出土 古墳時代・5世紀 他
(特集陳列「古墳時代の神マツリ」(~2012年3月11日(日))にて展示)

これらは日本の古代祭祀では、和魂・荒魂という二つの側面で呼ばれるカミは、人間にとってプラスとマイナスの性格を併せもつという観念があったのとよく似ています。
マツリの力によって、神さまの性格をマイナスからプラスに「転換」して(機嫌を直して?)頂く。そのような“手続き”(儀礼)が神マツリであったという訳です。
日本古代における祭祀の本質をうかがう上で、大変興味深い伝承といえます。


ところが『風土記』には、人間と神の関係の移り変わりを如実に示す、次のような有名な説話があります。
『常陸国風土記』行方(ナメカタ)郡 提賀(テガ)里条
     A「[前略]箭括(ヤハズ)の氏の麻多智(マタチ)、郡より西の谷の葦原を截(キリハラ)ひ、墾闢(ヒラ)きて新たに田を治(ハ)りき。この時、夜刀(ヤト)の神、相群れ引率て、ことごとに到来(キ)たり。[中略]吾、神の祝(ハフリ)と爲りて、永代に敬ひ祭らむ。冀(ネガワ)くは、な祟りそ、な恨みそといひて、社を設けて初めて祭りき、といへり。」
     B「[前略]壬生連麿、初めて其の谷を占めて、池の堤を築かしめき。[中略]麿、声を擧げて大言(オタケ)びけらく、[中略]役(エダチ)の民に令(オホ)せていひけらく、目に見る雑の物、魚虫の類は、憚(ハバカ)り懼(オソ)るるところなく、ことごとに打殺せ。言ひ了(オハ)はる應時(ソノトキ)、神(アヤ)しき蛇避け隠りき。」

Aは、継体朝(6世紀)に水田開発に際して、蛇身の夜刀神と対峙した箭括氏麻多智が神と人間の棲分けの代償として、祝(ハフリ=祭主)となって夜刀神を祀るという内容です。
続くBは、孝徳朝(7世紀)になると、壬生連麿が池造成の谷開発で、(ナント!)神を追い払ったというものです。


これまでの逃げ惑うような姿に比べると、一転してずいぶんと“強気”な姿勢に少々びっくりです。
人間の方がまるで二重人格のよう・・・ですね。

後期の祭祀遺物(須恵器 壺 ・土製模造品・土製勾玉他)千葉県館山市出野尾猿田遺跡他出土 古墳時代・6世紀  千葉・館山市立博物館蔵 他
(特集陳列「古墳時代の神マツリ」(~2012年3月11日(日))にて展示)

これらはいずれも、神マツリを介して自然に立ち向かう人間と神の間のさまざまな葛藤を物語る伝承とみられます。
あの三輪山神の大田田根子伝承も、一般に5世紀頃に伝来した須恵器の起源を語る説話と考えられています。
少なくとも8世紀頃の人々は、過去の時代には人間と神の関係にはかなりの「変化」があった、と捉えていたフシがあります。

これらの諸伝承から、時代を経るにしたがって、神マツリの背景にある人間の自然に対する姿勢が次第に“進化”していった様子が窺えそうです。
Ⅰ:荒ぶる神を避けるだけの一方的な段階  → Ⅱ:特別な能力の人物を祝として鎮めさせる段階
                                                        → Ⅲ:自ら祝として鎮める段階  → Ⅳ:荒ぶる神を駆逐(!?)する段階

もちろん、地域や社会階層が違えば、微妙にズレや差があったということは想像に難くありません。
しかし8世紀の伝承に、このような人間側の世界観(気分?)の変遷がうかがえることが重要です。
古墳時代における神マツリのあり方は、ずいぶんと“進化”を遂げていたに違いありません。

やはり、それぞれの時期の祭祀遺物に映し出された神々の「性格」を、もう一度確かめてみる必要がありそうです。
 

カテゴリ:研究員のイチオシ考古

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posted by 古谷毅(列品管理課主任研究員) at 2012年02月11日 (土)

 

書を楽しむ 第8回「九条家本『延喜式』の紙背文書の料紙について」

紙のリサイクルはいつごろからはじまったのでしょうか。実は、日本で紙が本格的に使われるようになった奈良時代には、すでに一度使われた紙の余白や裏を利用して文字を書くことが行われていました。当時、紙はとても貴重だったので、文字を書く余白がなくなるまで、大切に使われていたのです。

日本では、江戸時代に活字本が普及するまでは、読みたい本がある場合、人から本を借りて、自分で書き写したものを読むのがごく普通のことでした。

本館3室の宮廷の美術で2012年3月18日(日)まで展示されている、九条家本『延喜式』は、平安時代の後期に、政治・文化の中心にいた摂関家が、関係する機関に命じて、使用済みの紙を集め、摂関家の周辺にいる文字の上手な人々に書き写させた本であると考えられています。

『延喜式』が書かれた紙の裏側には、10世紀から11世紀のころの役所の文書や、手紙などさまざまな内容のものがたくさん残っています。このように、紙の裏側に書かれている文書などを紙背文書とよんでいます。
以降掲載の画像は左右組で下記のとおり
(左)国宝 延喜式 紙背文書(部分) 平安時代・10~11世紀 28巻のうち(透過光による撮影)
(右)左画像の作品の×100の顕微鏡写真(1目盛りが0.01mm)
(~2012年3月18日(日)展示。画像の部分は展示されていません。)



 

左の画像は紙の裏からライトの光をあてた様子です。虫喰いのあとの様子もよくわかります。墨が混じっているので、漉き返した紙のようです。
紙背文書のなかには、書くのを途中でやめてしまった手紙なども含まれているため、内容がわかりにくいのです。
ほとんどの文書は、紙が虫に食べられてしまい、全体に裏打ちがされています。これも紙背文書の解読を困難にしています。
そのようなときは、裏からライトの光を当てると透けて読めることもあります。でも、後に書かれた文字も一緒にみえるため、今度は裏と表と交互にみながら、どの部分が解読しようとする文字であるかを判断しなければなりません。


 

犯罪者を捕まえたりする検非違使(けびいし)庁の役人の文書です。薄手ですが、上質の紙が支給されていたようです。
同じ時期のいろいろな内容の文書などがまとまっていることは、奇跡といってもよいでしょう。
しかも、紙を調べてみると、当時の人々が、書く手紙の内容によって、紙の種類を使い分けていたことなどもわかります。


 

こちらの文書は、法律に関する質問状のようです。紙は、楮(こうぞ)を原料とした紙です。
繊維の間に白いつぶつぶがみえるのは、紙を白くするためにお米の粉を混ぜています。
白米を一晩水に浸けておき、柔らかくなったものを、石臼(いしうす)で細かく摺りつぶしたものを混ぜて漉いた紙と思われます。

昔も、目上の人や役所に出す手紙には気をつかったことがわかります。
 

カテゴリ:研究員のイチオシ書跡

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posted by 高橋裕次(博物館情報課長) at 2012年02月09日 (木)

 

北京故宮博物院200選 研究員おすすめのみどころ(龍袍)

特別展「北京故宮博物院200選」(~2012年2月19日(日))をより深くお楽しみいただくための「研究員のおすすめ」シリーズのブログをお届けします。

 
孔雀翎地真珠珊瑚雲龍文刺繍袍 清時代・乾隆年間(1736-1795)頃 中国・故宮博物院蔵
(本ブログの画像は全て本作品です。)
(右)作品正面の拡大部分。正面を向いた五爪の龍が刺繍で表わされている。


「孔雀翎地真珠珊瑚雲龍文刺繍袍(くじゃくはねじしんじゅさんごうんりゅうもんししゅうほう)」・・・染織の名称は長くなりがちですが、名称を見れば、大体、その技法や形態がわかるようになっています。つまり、孔雀の羽を下地にし、真珠や珊瑚で飾り、雲龍や吉祥文を主体とした模様を刺繍で表した袍(上着)ということになります。この袍は、清朝の皇帝がお祝い事の行事の際に着用した吉服で、正面を向いた五爪の龍(正龍)が胸の部分に大きくついていることから「龍袍(ろんぱお)」とも呼ばれています。異国の珍しく美しい孔雀の羽や、真珠や珊瑚などで彩られたインペリアル・ローブとは、ラグジュアリーの極みといえるものです。
 
珊瑚で赤い花を彩っている部分。 (右)左画像の拡大部分。

 
真珠をあしらって作られた龍の顔の部分。 (右)左画像の拡大部分。

皇帝と皇后のみが着用を許された龍袍は緙絲(綴織)、雲錦(緯錦)、刺繍など、さまざまな技法を用いたものが残されていますが、この龍袍をみれば「孔雀の羽!って一体どうやって作ったのだろう?」と思われるのではないでしょうか。清時代でも二例しか遺されていない珍しい袍で、ちょっと見ただけでは、その疑問は解けません。
じつはこの袍には、とてつもない繍技が使われているのです。

袍の地の部分を写した拡大写真をご覧ください。


遠目に見ると緑色に輝いて見える地が、実際には紺色(中国では「石青色」と言います)の繻子(サテン。中国では「七絲緞」と言います)を土台とし、その上を別の糸が隙間なく敷き詰められ、糸で留められています(この糸を留めていく刺繍技法を中国では「釘線針」といい、日本では「駒繍」といいます)。

さらに敷き詰められた糸を拡大してみると、なんと、撚りのかかった淡い緑色の絹糸に、孔雀の細い虹色の羽毛が一本一本コイル状に巻き付けられているのです。


この孔雀の羽が遠目に見ると、地色が緑色に輝いているように見えるのです。まさに、刺繡の技術が最高に達した乾隆帝時代における名品の1つといえるでしょう。

でもなぜ、清朝の皇帝はこのように手間をかけた珍奇ともいえる孔雀羽の衣を身に纏いたかったのでしょう?
中国には古くから美しい鳥の羽を身に纏いたいという願望があったようです。中国の『南斉書』という書物には、南北朝時代、斉武帝の子息が職工に孔雀の羽で織った衣を作らせ、その姿はとても華麗で貴高かったと記されています。また『異物彙苑』という本にも唐の安楽公がさまざまな鳥の羽を集めて裙(裳。通常、襞のある巻スカート状の下衣)を作らせたが、一目ですべての鳥の羽の色がみられるように彩り豊かであった、と記されています。また、明の第14代皇帝万暦帝の定陵からも孔雀羽を織り込んだ龍袍が発掘されたとか。美しい孔雀の羽を身に纏うことは、皇帝たちの至高の望みでもあり、権力の象徴だったに違いありません。

カテゴリ:研究員のイチオシ2011年度の特別展

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posted by 小山弓弦葉(工芸室) at 2012年02月06日 (月)

 

考古展示「飛鳥時代の古墳」コーナー新設・記念講演会

以前の1089ブログでもご紹介した考古展示室(平成館1階)の「飛鳥時代の古墳:古墳時代Ⅴ」コーナー(2011年12月13日(火)~)の新設にちなみ、記念講演会が開催されることになりました。

日時・場所は2月18日(土)の13時30分~15時(平成館1階大講堂)で、講師は奈良県明日香村教育委員会の主任技師 西光慎治さんです。
発掘調査を担当された奈良県牽牛子塚(けんごしづか)古墳・越塚御門(こしつかごもん)古墳の最新の成果をご紹介頂きます。また、大阪府塚廻(つかまり)古墳の意義についてもお話し頂く予定です。

「飛鳥時代の古墳」コーナーの主役・塚廻古墳は、大阪府南河内地方の平石谷にあり、7世紀代の横口式石槨をもつ大型方墳3~4基が集中する平石古墳群で、最後に築かれたと考えられている古墳です。
一方、巨大な横口式石槨をもつ牽牛子塚古墳は、2010年の発掘調査で7世紀後半の天皇陵にだけ許されたと考えられる八角形墳であることが確認され、被葬者は斉明天皇と間人皇女(はしひとのひめみこ)との合葬説が有力です。
さらに、隣接する横口式石槨をもつ越塚御門古墳の存在が明らかにされ、被葬者は『日本書紀』の記述から斉明天皇の孫大田皇女説が有力視されています。


越塚御門古墳発掘現場(後方は牽牛子塚古墳)
明日香村教育委員会文化財課許可済


この越塚御門古墳の“発見”には、ひとつのエピソードがあります(産経新聞2010年12月9日付)。
牽牛子塚古墳周辺の発掘終了後、現場を埋め戻していた時のことです。西光さんと補助調査員の学生さんが東南方向約20メートルに埋まっていた約1mの大石に、人為的な痕跡があることに気づきました。
そこで周辺を拡張して発掘したところ、(ナント)新たにまったく知られていなかった古墳が発見されたのです。

地下に眠る過去の痕跡を探り当てる、まさに考古学者の“動物的カン”です。
日頃から担当範囲に隈なく注意を向ける、そのような姿勢が『日本書紀』の記述を裏付けるような重要遺跡を発見した訳です。
昨年、西光さんは若手考古学者の代表格として朝日新聞の第3回朝日21関西スクエア賞を授賞されました。
当日は臨場感のある興味深いお話を聴くことが出来ると思いますので、大変楽しみです。


さて、講演会の前に、「飛鳥時代の古墳:古墳時代Ⅴ」コーナーの説明を若干補足しておきたいと思います。
これらの古墳がある奈良県飛鳥地方と大阪府南河内地方は、飛鳥(遠つ飛鳥)・近つ飛鳥と呼ばれ、「二つの飛鳥」として7世紀のヤマト王権にとって最重要地域として知られています。


畿内地方主要終末期古墳分布図(大阪府付近つ飛鳥・奈良県飛鳥)

奈良県飛鳥地方は、宮都伝承地・古代寺院跡とともに、野口王墓(天武・持統合葬陵)古墳をはじめ、多くの天皇陵古墳が営まれた飛鳥時代の中枢地域です。
一方、大阪府南河内地方は、河内飛鳥(近つ飛鳥)とも呼ばれ、やはり6~7世紀の推古天皇陵・用明天皇陵などを含む有力古墳が築造されたことで有名です。
この「二つの飛鳥」には、考古学的にさまざまな共通点があり、展示品の中では前回のブログでご紹介した副葬品の他に、横口式石槨に使われた石材にその特徴がよく表れています。


大阪府塚廻古墳復元図(奈良文化財研究所 原図)

前室床面に敷き詰められた敷石は、奈良県三輪山東方の宇陀郡榛原地方に分布する火成岩で、板状に剥離する特徴があり、榛原(はいばら)石または室生(むろお)石などとも呼ばれます。将棋の駒に似た用途不明の“謎”の台石も榛原石製です。

 
(左)敷石 (右)扉石残片(手前)・台石(奥)
(左右ともに)大阪府南河内郡河南町平石 塚廻古墳出土 古墳(飛鳥)時代・7世紀 大阪・平石塚廻古墳調査会寄贈


この榛原石は両地域の終末期古墳でしばしば使用されますが、奈良県飛鳥寺の西金堂基壇をはじめ、6世紀末以降の飛鳥地方の宮殿や寺院建築に多用されていることが重要です。
墳丘の版築工法や石槨の漆喰の使用に加えて、当時の最先端であった寺院建築の技術をいち早く古墳の築造に応用したものと考えられます。
なお、扉石は前室と奥室の間を仕切る壁ですが、二上山西方産の通称寺山の青石と呼ばれる石英安山製で、平石古墳群で多用される石材でできています。

一方、多量に出土した漆塗籠棺・夾紵棺片は、横口式石槨墳に特有の可搬性のある漆塗棺が使用されたことを物語ります。

夾紵棺残片(奥)・漆塗籠棺残片(手前)
大阪府南河内郡河南町平石 塚廻古墳出土 古墳(飛鳥)時代・7世紀 大阪・平石塚廻古墳調査会寄贈


弥生時代以来、日本列島の有力者の墓には、長大で大型の木棺・石棺・陶棺などが納められました。
いずれも、とても簡単に“運ぶにはゆかない”代物です。
しかし、7世紀の畿内地方ではこのような軽量の漆塗棺を使用し、持ち運ぶために各種の豪華な把手なども取り付けられます。


金銅製環・座金具(上段)、銀装鉄鋲(下段)
奈良県高取町大字松山字呑谷 松山古墳出土 古墳(飛鳥)時代・7世紀


このような変化は、それまでの墳墓を舞台にした葬送儀礼の伝統が途切れ、終末期古墳は各種の儀礼の後に被葬者が運ばれて永い眠りにつく、最期の安住の場に変わったことを意味します。
その背景には、弥生時代以来の倭人社会の世界観が大きく転換しつつあったことが垣間見え、古代国家成立前夜に相応しい「改革」であった可能性が高いのです。

ところが展示パネルにもあるように、そのほかの地方では、畿内地方のような横口式石槨をもつ終末期古墳はきわめて稀です。本コーナーのテーマのもう一つの柱は、リアルタイムの地方の状況です。
実はここに、いわゆる飛鳥時代を古墳時代の一部と区分している考古学の立場があります。

同じ頃、地方の終末期古墳には、陶棺に付属させた小型鴟尾や寺院の瓦当文様や屋根形を採り入れた陶棺など、伝統的な棺形式に寺院建築のデザインを採り入れた例がしばしばみられます。

 
(左)陶棺鴟尾
岡山県勝田郡勝央町平 五反逧所在古墳出土 古墳(飛鳥)時代・7世紀 国政小市氏寄贈
(右)展示パネルより「終末期古墳(横口式石槨墳)分布図」


今回、久し振りに展示にお目見えした岡山県平福出土の陶棺は、屋根形の蓋とともに棺身の妻側側面に人物と馬・蓮華の蕾(つぼみ)とみられる表現があり、明治時代から注目されてきました。
あの和辻哲郎も絶賛した、愛らしい稀有な造形です。

『日本古代文化』岩波書店、和辻哲郎1920年
「(前略)上代造形美術を顧みないでいた自分の心に、かつて強い驚嘆の情を呼び起こした。(中略) 女も馬も植物も一つの柔らかさに融け入り、そこに平和な、静かな、調和に充ちた気分を造り出しているのである。」
 

 
上段:陶棺(上段右は側面部分) 岡山県美作市平福出土 古墳(飛鳥)時代・6~7世紀
下段:上段の陶棺の簡略図(左:黒川・若林1897、右:若林1898『考古学会雑誌』)


しかし、仏教文化の影響は窺えても、既存の伝統的な葬送儀礼が転換した様子はほとんど見られないですね。
いわば小規模な“改造”にすぎず、本質的な転換ではありません。
このように各地方では、独自に伝統的な葬送儀礼に仏教的要素を融合させるさまざまな「工夫」が行われますが、飛鳥時代の畿内と地方には急速に“格差”が拡大していた様子が窺えます。

このような事実は、日本列島の古代国家成立前夜の実態を示しているといえます。
なぜ、奈良盆地を中心に都宮・古代寺院の建設が続き、694年に藤原京、710年には平城京という壮大な都が築かれたのか。
それを考える上で、これらの遺跡は双方を比較するために欠くことが出来ない重要な存在です。

今回の講演と展示を通して、激動の日本古代国家の成立前夜に想いを馳せて頂くと、より一層この国のはじまりのかたちが見えてくるのではないでしょうか。
 

カテゴリ:研究員のイチオシ考古

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posted by 古谷毅(列品管理課主任研究員) at 2012年02月05日 (日)