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1089ブログ

考古展示「飛鳥時代の古墳」コーナー新設・記念講演会

以前の1089ブログでもご紹介した考古展示室(平成館1階)の「飛鳥時代の古墳:古墳時代Ⅴ」コーナー(2011年12月13日(火)~)の新設にちなみ、記念講演会が開催されることになりました。

日時・場所は2月18日(土)の13時30分~15時(平成館1階大講堂)で、講師は奈良県明日香村教育委員会の主任技師 西光慎治さんです。
発掘調査を担当された奈良県牽牛子塚(けんごしづか)古墳・越塚御門(こしつかごもん)古墳の最新の成果をご紹介頂きます。また、大阪府塚廻(つかまり)古墳の意義についてもお話し頂く予定です。

「飛鳥時代の古墳」コーナーの主役・塚廻古墳は、大阪府南河内地方の平石谷にあり、7世紀代の横口式石槨をもつ大型方墳3~4基が集中する平石古墳群で、最後に築かれたと考えられている古墳です。
一方、巨大な横口式石槨をもつ牽牛子塚古墳は、2010年の発掘調査で7世紀後半の天皇陵にだけ許されたと考えられる八角形墳であることが確認され、被葬者は斉明天皇と間人皇女(はしひとのひめみこ)との合葬説が有力です。
さらに、隣接する横口式石槨をもつ越塚御門古墳の存在が明らかにされ、被葬者は『日本書紀』の記述から斉明天皇の孫大田皇女説が有力視されています。


越塚御門古墳発掘現場(後方は牽牛子塚古墳)
明日香村教育委員会文化財課許可済


この越塚御門古墳の“発見”には、ひとつのエピソードがあります(産経新聞2010年12月9日付)。
牽牛子塚古墳周辺の発掘終了後、現場を埋め戻していた時のことです。西光さんと補助調査員の学生さんが東南方向約20メートルに埋まっていた約1mの大石に、人為的な痕跡があることに気づきました。
そこで周辺を拡張して発掘したところ、(ナント)新たにまったく知られていなかった古墳が発見されたのです。

地下に眠る過去の痕跡を探り当てる、まさに考古学者の“動物的カン”です。
日頃から担当範囲に隈なく注意を向ける、そのような姿勢が『日本書紀』の記述を裏付けるような重要遺跡を発見した訳です。
昨年、西光さんは若手考古学者の代表格として朝日新聞の第3回朝日21関西スクエア賞を授賞されました。
当日は臨場感のある興味深いお話を聴くことが出来ると思いますので、大変楽しみです。


さて、講演会の前に、「飛鳥時代の古墳:古墳時代Ⅴ」コーナーの説明を若干補足しておきたいと思います。
これらの古墳がある奈良県飛鳥地方と大阪府南河内地方は、飛鳥(遠つ飛鳥)・近つ飛鳥と呼ばれ、「二つの飛鳥」として7世紀のヤマト王権にとって最重要地域として知られています。


畿内地方主要終末期古墳分布図(大阪府付近つ飛鳥・奈良県飛鳥)

奈良県飛鳥地方は、宮都伝承地・古代寺院跡とともに、野口王墓(天武・持統合葬陵)古墳をはじめ、多くの天皇陵古墳が営まれた飛鳥時代の中枢地域です。
一方、大阪府南河内地方は、河内飛鳥(近つ飛鳥)とも呼ばれ、やはり6~7世紀の推古天皇陵・用明天皇陵などを含む有力古墳が築造されたことで有名です。
この「二つの飛鳥」には、考古学的にさまざまな共通点があり、展示品の中では前回のブログでご紹介した副葬品の他に、横口式石槨に使われた石材にその特徴がよく表れています。


大阪府塚廻古墳復元図(奈良文化財研究所 原図)

前室床面に敷き詰められた敷石は、奈良県三輪山東方の宇陀郡榛原地方に分布する火成岩で、板状に剥離する特徴があり、榛原(はいばら)石または室生(むろお)石などとも呼ばれます。将棋の駒に似た用途不明の“謎”の台石も榛原石製です。

 
(左)敷石 (右)扉石残片(手前)・台石(奥)
(左右ともに)大阪府南河内郡河南町平石 塚廻古墳出土 古墳(飛鳥)時代・7世紀 大阪・平石塚廻古墳調査会寄贈


この榛原石は両地域の終末期古墳でしばしば使用されますが、奈良県飛鳥寺の西金堂基壇をはじめ、6世紀末以降の飛鳥地方の宮殿や寺院建築に多用されていることが重要です。
墳丘の版築工法や石槨の漆喰の使用に加えて、当時の最先端であった寺院建築の技術をいち早く古墳の築造に応用したものと考えられます。
なお、扉石は前室と奥室の間を仕切る壁ですが、二上山西方産の通称寺山の青石と呼ばれる石英安山製で、平石古墳群で多用される石材でできています。

一方、多量に出土した漆塗籠棺・夾紵棺片は、横口式石槨墳に特有の可搬性のある漆塗棺が使用されたことを物語ります。

夾紵棺残片(奥)・漆塗籠棺残片(手前)
大阪府南河内郡河南町平石 塚廻古墳出土 古墳(飛鳥)時代・7世紀 大阪・平石塚廻古墳調査会寄贈


弥生時代以来、日本列島の有力者の墓には、長大で大型の木棺・石棺・陶棺などが納められました。
いずれも、とても簡単に“運ぶにはゆかない”代物です。
しかし、7世紀の畿内地方ではこのような軽量の漆塗棺を使用し、持ち運ぶために各種の豪華な把手なども取り付けられます。


金銅製環・座金具(上段)、銀装鉄鋲(下段)
奈良県高取町大字松山字呑谷 松山古墳出土 古墳(飛鳥)時代・7世紀


このような変化は、それまでの墳墓を舞台にした葬送儀礼の伝統が途切れ、終末期古墳は各種の儀礼の後に被葬者が運ばれて永い眠りにつく、最期の安住の場に変わったことを意味します。
その背景には、弥生時代以来の倭人社会の世界観が大きく転換しつつあったことが垣間見え、古代国家成立前夜に相応しい「改革」であった可能性が高いのです。

ところが展示パネルにもあるように、そのほかの地方では、畿内地方のような横口式石槨をもつ終末期古墳はきわめて稀です。本コーナーのテーマのもう一つの柱は、リアルタイムの地方の状況です。
実はここに、いわゆる飛鳥時代を古墳時代の一部と区分している考古学の立場があります。

同じ頃、地方の終末期古墳には、陶棺に付属させた小型鴟尾や寺院の瓦当文様や屋根形を採り入れた陶棺など、伝統的な棺形式に寺院建築のデザインを採り入れた例がしばしばみられます。

 
(左)陶棺鴟尾
岡山県勝田郡勝央町平 五反逧所在古墳出土 古墳(飛鳥)時代・7世紀 国政小市氏寄贈
(右)展示パネルより「終末期古墳(横口式石槨墳)分布図」


今回、久し振りに展示にお目見えした岡山県平福出土の陶棺は、屋根形の蓋とともに棺身の妻側側面に人物と馬・蓮華の蕾(つぼみ)とみられる表現があり、明治時代から注目されてきました。
あの和辻哲郎も絶賛した、愛らしい稀有な造形です。

『日本古代文化』岩波書店、和辻哲郎1920年
「(前略)上代造形美術を顧みないでいた自分の心に、かつて強い驚嘆の情を呼び起こした。(中略) 女も馬も植物も一つの柔らかさに融け入り、そこに平和な、静かな、調和に充ちた気分を造り出しているのである。」
 

 
上段:陶棺(上段右は側面部分) 岡山県美作市平福出土 古墳(飛鳥)時代・6~7世紀
下段:上段の陶棺の簡略図(左:黒川・若林1897、右:若林1898『考古学会雑誌』)


しかし、仏教文化の影響は窺えても、既存の伝統的な葬送儀礼が転換した様子はほとんど見られないですね。
いわば小規模な“改造”にすぎず、本質的な転換ではありません。
このように各地方では、独自に伝統的な葬送儀礼に仏教的要素を融合させるさまざまな「工夫」が行われますが、飛鳥時代の畿内と地方には急速に“格差”が拡大していた様子が窺えます。

このような事実は、日本列島の古代国家成立前夜の実態を示しているといえます。
なぜ、奈良盆地を中心に都宮・古代寺院の建設が続き、694年に藤原京、710年には平城京という壮大な都が築かれたのか。
それを考える上で、これらの遺跡は双方を比較するために欠くことが出来ない重要な存在です。

今回の講演と展示を通して、激動の日本古代国家の成立前夜に想いを馳せて頂くと、より一層この国のはじまりのかたちが見えてくるのではないでしょうか。
 

カテゴリ:研究員のイチオシ考古

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posted by 古谷毅(列品管理課主任研究員) at 2012年02月05日 (日)