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【上海博物館展コラム】点描項元汴~史上最大の収蔵家は、渋ちんだった?~

巻物であれ、掛軸であれ、作品によっては画面いっぱいに様々な印が押してある場合があります。
これは所蔵者や鑑賞者だけに許された特権。今の我々にとっては、これらの印を整理することで、作品のおおまかな伝来をたどることができます。
作品に最も多い印を押したのは、おそらく乾隆皇帝でしょう。
画面はもとより、表具の上にまで実に堂々とした印を押し、画面に彩りを添えています(図1)。


参考図版1
(図1) 一級文物 浮玉山居図巻(部分)
銭選(せんせん)筆 元時代・13世紀 上海博物館蔵
展示期間:10月27日(日)まで

印も題識も乾隆皇帝。



では、民間人で最も多い印を押したのは誰でしょう?
答えは、明時代の項元汴(こうげんべん 1525~1590)。
特別展「上海博物館 中国絵画の至宝」前期の作品であればNo.10の浮玉山居図巻(ふぎょくさんきょずかん)に、後期ならNo.17の青卞隠居図軸(せいべんいんきょずじく)に、乾隆皇帝と項元汴がその数を競うように印を押しています。

青べん隠居図軸
一級文物 青卞隠居図軸
王蒙筆 元時代・1366年 上海博物館蔵
展示期間:10月29日(火)~11月24日(日)



浮玉山居図巻
一級文物 浮玉山居図巻(部分)


項元汴は、中国の歴史上、民間人としては最も偉大な収蔵家だったと言えます。
現在伝えられる名品のほとんどに、項元汴の印が押されていると言っても過言ではありません。
項元汴は日本の「いろは歌」に相当する、「千字文」の字を整理記号として作品に書き込み(図2)、余白にはおびただしい数の印を押しました(図3)。


参考図版2
図2 
一級文物 浮玉山居図巻(右下部分)
千字文の「其の祗植を勉む(そのししょくをつとむ)」の「祗」字を書きつけています

参考図版3
図3
一級文物 浮玉山居図巻(部分)
たとえば画面の左上、二行にわたって数々の印を押しています。


自ら入手の経緯を記し、時には購入価格までをも明記する場合があります(浮玉山居図巻は30金!でした)。
そのため、項元汴の印があるだけで、作品の出来ばえが保証されたようなものですが、一方では美しい作品を汚したと非難されることもあります。

さて、この項元汴とは、どんな人物だったのでしょうか?
項元汴の父・項詮(こうせん)は官途につくことなく、嘉興(かこう  浙江省)で豊かな財産を築きました。
項詮には、3人の息子がいました。項詮の没後、家業を継いで巨万の財産としたのが、末っ子の項元汴だったのです。
項家はどうやら質屋を経営していたようで、項元汴はいながらにして天下の珍宝の多くを入手することができました。
また自らも書画に眼が利いたので、普段の生活は徹底して節約し、収蔵品を増やしていきました。
ただ、蓄財に専心するあまり、本来の価値より高く購入してしまうと、悔しさを顔ににじませ、食事も喉を通らなかったそうです。

そんな弟の性格を熟知していたのが、兄の項篤寿(こうとくじゅ)でした。
項篤寿は嘉靖41年(1562)に進士に及第し、温和な性格の持ち主でした。
項篤寿はあらかじめ小僧を偵察に出し、項元汴が書画を高く買って鬱々と日々を過ごしていることを知ると、項元汴の家を訪ね、最近入手した書画を見せてもらいます。
そして高く買った作品が出ると、項篤寿はその書画を絶賛しまくり、項元汴が買った値段で引き取って帰るのでした(朱彝尊『曝書亭集』巻53)。

もっとも、項元汴の名誉のために一言。
徹底した吝嗇家であった項元汴ですが、万暦16年(1588)、干ばつに見舞われた江南が大飢饉となった時、項元汴は私財をなげうって多くの郷土の人々を助けたこともあります(図4)。


墓誌銘
(図4)
行書項墨林墓誌銘巻(ぎょうしょこうぼくりんぼしめいかん)
董其昌筆  明時代・崇禎8年(1635)  高島菊次郎氏寄贈  東京国立博物館蔵
項元汴と親交した董其昌が書いた、項元汴の墓誌銘です。



項元汴の集めた数々の名品は、兄の項篤寿が亡くなり、政界へのつてもなくなってしまうと、貪欲な官僚たちの餌食となり、さらに明末の動乱によって散逸してしまったのでした。
項元汴の偉大な収蔵品は、厚徳の兄・項篤寿に支えられていたと言えるかも知れません。

追記:
嘉興(浙江省)の出身であった朱彝尊は、項家と姻戚関係にありました。
項元汴の没後39年目に生まれた朱彝尊は、幼い頃に項元汴の築いた天籟閣(てんらいかく)に登ったことがあったそうです。
項元汴の所蔵していた青卞隠居図軸は、その後、北京の旧家が入手するところとなりました。
朱彝尊は初め清朝に仕えず、各地を遍歴して学問を積んでいましたが、康煕18年(1679)、51歳の時に博学鴻詞科(はくがくこうしか)に挙げられ、北京で『明史』の編修に従事するようになります。

これは朱彝尊が北京にいた頃のお話。
北京の旧家では、後に青卞隠居図軸をお針子に持たせて、この名画を市に売りに出しました。
たまさかこれを見かけた朱彝尊は、銭30緡(びん)の手付金を支払い、書斎に掛けること10日間、ためつすがめつ天下の傑作を堪能します。
ちなみに当時の青卞隠居図軸には、玉のように堅い薄緑色の官窯の軸がついていたそうです。
しかし朱彝尊は手元不如意、どうしても残金が支払えません。その頃、にわかに戸部尚書(こぶしょうしょ)の高い地位にあった梁清標(りょうせいひょう)が名乗り出て、白金5鎰(いつ)で購得しました。

晩年に宰相を務めた梁清標は、やがて郷里に帰り、その没後、愛蔵の書画は散逸してしまったそうです。
青卞隠居図軸の余白には、項元汴や乾隆皇帝の印とともに、梁清標の印も押されていますが、10日間の所有者、朱彝尊の印が押されることはありませんでした。

乾隆皇帝や項元汴を魅了した天下の名品・青卞隠居図軸は、10月29日(火)からの公開となります(イチオシ)。
全ての宋元作品と一部の明清作品も展示替え!!特別展「上海博物館 中国絵画の至宝」後期展示もお楽しみに。

カテゴリ:研究員のイチオシnews2013年度の特別展展示環境・たてもの

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posted by 富田淳(列品管理課長) at 2013年10月23日 (水)