このページの本文へ移動

1089ブログ

「古墳時代の神マツリ」のミカタ(見方・味方…) 3

特集陳列「古墳時代の神マツリ」(~2012年3月11日(日))の展示についてご紹介する「「古墳時代の神マツリ」のミカタ(見方・味方…) 」は今回で3回目となります。
2月14日(火)には、本展示についての列品解説を行います。

さて、前回のブログでご紹介した三輪山神(大物主神)は酒神としての性格のほかに、祟り神としても知られていたことに触れました。
三輪山神のもう一つの“正体”は、実はその直前の記事に語られています。

『日本書紀』崇神天皇五年条
     「国内に疾疫(エノヤマヒ)多くして、民(オオミタカラ)死亡(マカ)れる者有りて、且大半(ナカバニス)ぎなむとす。」

三輪山神は疫病の流行をもたらした畏(オソ)ろしい祟り神として登場し、過半の人々が病に倒れるという大変な惨禍がです。このような自然の猛威は、人間の歴史の中で幾度となく訪れたことでしょう。
あの大田田根子(オオタタネコ)は、この苦境を神マツリの力で打開した“救世主”であった訳です。
 
土製模造品(左: 臼・杵、右: 坩・柄杓(ヒシャク)と案(ツクエ)) 奈良県桜井市三輪馬場  山ノ神遺跡出土 古墳時代・5~6世紀 東京国立博物館蔵・通年展示

それにしても、三輪山神の“豹変”ぶりは、穏やかな雰囲気(?)のお酒の神さまのイメージとはだいぶかけ離れていて、戸惑いを覚えます。
もしかして・・・、神さまの二重人格(イヤ“神格”)?。
ところが8世紀の文献には、古代以前における祟り神の猛威ぶりが頻繁に登場します。

『筑後国風土記』逸文 筑後國號の条
     「[前略]昔、この堺の上に麁猛(アラブル)神あり、往來(ユキキ)の人、半ば生き、半ば死にき。[中略]因りて命盡(ツクシ)神と曰ひき。時に筑紫君肥君占へて、筑紫君等が 祖甕依姫(ミカヨリヒメ)を祝(ハフリ)と為して祭らしめき。それより路行く人、神に害(ソコナ)はれず。[後略]」

福岡(筑紫国)県の熊本県境の峠にすむ命盡神という荒ぶる神が人々を苦しめていたので、占い(神意)によって筑紫君が先祖甕依比女という人物に祀らせたところ、鎮めることに成功したという内容です。
手荒で暴力的な峠の荒ぶる神に、路行く人々が畏(オソ)れ慄(オノノ)いていた様子が目に浮かぶようです。

しかし・・・「半ば生き、半ば死にき。」、どこかで聴いたような表現ですね。
そう、三輪山神が人々を苦しめたときの表現と大変よく似ていて、話の筋立ても大田田根子の話とそっくりです。

前期の祭祀遺物(上段: 石釧残欠・石製紡錘車他、下段: 土製模造品・土錘他)
長野市石川条里遺跡出土 古墳時代・4世紀 長野県歴史博物館蔵

(特集陳列「古墳時代の神マツリ」(~2012年3月11日(日))にて展示)

ほかに、こんな説話もあります。
『肥前国風土記』佐嘉郡条
     「[前略]この川上に荒ぶる神ありて、往來(ユキキ)の人、半ば生かし、半ば殺しき。ここに縣主等の祖大荒田占問ひき。時に、土蜘蛛、大山田女・狭山田女といふものあり、[中略]下田の土を取りて人形・馬形を作りて、この神を祭祀らば必ず應和(ヤワラ)ぎなむ、といひき。[中略]神、この祭を(受)けて、遂に應和(ヤワラ)ぎき。[後略]」

佐賀(肥前国)県の有力者・大荒田の先祖が地元女性(首長?)のアドバイスで、土で人・馬形を作って荒ぶる神を鎮めたという内容です。このとき、川上の荒ぶる神に相応しい(望む?と考えた)土製祭具、つまり土製模造品を使った神マツリが行われていて注目されます。

これらの説話には、語りの表現や登場人物の性格に大変共通点が目立ちます。
つまり、同じ話型をもつ説話といえ、同じような背景があったと考えることができるようです。

平安時代の『土佐日記』にも、紀貫之が京へ帰還する船旅の途中、荒天時に海神に旅の安全を祈った記事があります。
このときは、海中に鏡を投入して平穏を取り戻しましたが、これも類似した話型をもつ説話といえます。

中期の祭祀遺物(前列左から :子持勾玉・滑石製斧・滑石製鎌・滑石製勾玉他)大阪府カトンボ山古墳出土 古墳時代・5世紀 他
(特集陳列「古墳時代の神マツリ」(~2012年3月11日(日))にて展示)

これらは日本の古代祭祀では、和魂・荒魂という二つの側面で呼ばれるカミは、人間にとってプラスとマイナスの性格を併せもつという観念があったのとよく似ています。
マツリの力によって、神さまの性格をマイナスからプラスに「転換」して(機嫌を直して?)頂く。そのような“手続き”(儀礼)が神マツリであったという訳です。
日本古代における祭祀の本質をうかがう上で、大変興味深い伝承といえます。


ところが『風土記』には、人間と神の関係の移り変わりを如実に示す、次のような有名な説話があります。
『常陸国風土記』行方(ナメカタ)郡 提賀(テガ)里条
     A「[前略]箭括(ヤハズ)の氏の麻多智(マタチ)、郡より西の谷の葦原を截(キリハラ)ひ、墾闢(ヒラ)きて新たに田を治(ハ)りき。この時、夜刀(ヤト)の神、相群れ引率て、ことごとに到来(キ)たり。[中略]吾、神の祝(ハフリ)と爲りて、永代に敬ひ祭らむ。冀(ネガワ)くは、な祟りそ、な恨みそといひて、社を設けて初めて祭りき、といへり。」
     B「[前略]壬生連麿、初めて其の谷を占めて、池の堤を築かしめき。[中略]麿、声を擧げて大言(オタケ)びけらく、[中略]役(エダチ)の民に令(オホ)せていひけらく、目に見る雑の物、魚虫の類は、憚(ハバカ)り懼(オソ)るるところなく、ことごとに打殺せ。言ひ了(オハ)はる應時(ソノトキ)、神(アヤ)しき蛇避け隠りき。」

Aは、継体朝(6世紀)に水田開発に際して、蛇身の夜刀神と対峙した箭括氏麻多智が神と人間の棲分けの代償として、祝(ハフリ=祭主)となって夜刀神を祀るという内容です。
続くBは、孝徳朝(7世紀)になると、壬生連麿が池造成の谷開発で、(ナント!)神を追い払ったというものです。


これまでの逃げ惑うような姿に比べると、一転してずいぶんと“強気”な姿勢に少々びっくりです。
人間の方がまるで二重人格のよう・・・ですね。

後期の祭祀遺物(須恵器 壺 ・土製模造品・土製勾玉他)千葉県館山市出野尾猿田遺跡他出土 古墳時代・6世紀  千葉・館山市立博物館蔵 他
(特集陳列「古墳時代の神マツリ」(~2012年3月11日(日))にて展示)

これらはいずれも、神マツリを介して自然に立ち向かう人間と神の間のさまざまな葛藤を物語る伝承とみられます。
あの三輪山神の大田田根子伝承も、一般に5世紀頃に伝来した須恵器の起源を語る説話と考えられています。
少なくとも8世紀頃の人々は、過去の時代には人間と神の関係にはかなりの「変化」があった、と捉えていたフシがあります。

これらの諸伝承から、時代を経るにしたがって、神マツリの背景にある人間の自然に対する姿勢が次第に“進化”していった様子が窺えそうです。
Ⅰ:荒ぶる神を避けるだけの一方的な段階  → Ⅱ:特別な能力の人物を祝として鎮めさせる段階
                                                        → Ⅲ:自ら祝として鎮める段階  → Ⅳ:荒ぶる神を駆逐(!?)する段階

もちろん、地域や社会階層が違えば、微妙にズレや差があったということは想像に難くありません。
しかし8世紀の伝承に、このような人間側の世界観(気分?)の変遷がうかがえることが重要です。
古墳時代における神マツリのあり方は、ずいぶんと“進化”を遂げていたに違いありません。

やはり、それぞれの時期の祭祀遺物に映し出された神々の「性格」を、もう一度確かめてみる必要がありそうです。
 

カテゴリ:研究員のイチオシ考古

| 記事URL |

posted by 古谷毅(列品管理課主任研究員) at 2012年02月11日 (土)