黒田先生のアトリエから―特集「ラファエル・コランと黒田清輝」によせて
黒田記念館 黒田記念室では現在、特集「ラファエル・コランと黒田清輝」(~4月14日(日))を開催しています。
今日は、そのご紹介もかねて“日本近代洋画の父”、黒田清輝先生のお宅にお邪魔してみましょう。
写真はおそらく明治30年代後半、黒田先生のアトリエで撮ったものです。
足を組んでポーズをとる黒田先生、コール天の上下は当時、奔放な芸術家のファッションとして人目を引いたそうです。
アトリエでの黒田清輝 明治30年代後半撮影
黒田先生のうしろに見えるのは、現在、静嘉堂文庫美術館にある《裸体婦人像》(①)。
明治34(1901)年の白馬会展覧会で展示されたおり、風紀を乱すということで下半身を布でおおわれた、いわゆる“腰巻事件”で有名な作品です。
この写真でも、黒田先生の頭で下半身が隠れていますが、これはたまたまでしょう。
写真右端には、黒田先生が明治30(1897)年に描いた《秋草》(岩崎美術館蔵、②)も見えます。その左にある小さな額(③)に飾られているのは、おそらく現在、ミラノのアンブロジアーナ絵画館にある《貴婦人の肖像》の写真でしょう。この絵は長い間、レオナルド・ダ・ヴィンチの作と考えられていました。黒田先生、どうやらルネサンス美術にも関心があったようです。
さて、ご注目いただきたいのは、写真左上に写っている作品(④)です。
これは今回の特集「ラファエル・コランと黒田清輝」で展示している、ラファエル・コラン《三人の女下絵》のようです。
三人の女下絵
ラファエル・コラン筆 フランス 1892年頃 個人蔵(黒田清輝旧蔵)
《三人の女下絵》は黒田の旧蔵品として伝えられたものですが、この写真から、実際にアトリエの一隅を飾っていたことがわかります。
コランは、黒田がフランス留学中に画技を学び、その生涯を通して敬愛した師匠でした。
今回の特集では、黒田が描いたコランのポートレートも展示しています。
ラファエル・コラン像
黒田清輝筆 大正5年(1916) 東京国立博物館蔵
ちなみに《三人の女下絵》の右下に写っている絵(⑤)も、コランの作品《夏の野》(久米美術館蔵)です。
黒田とともにコランのもとで画技を学んだ久米桂一郎が持っていた作品ですが、ちょっとお借りしてアトリエに飾っていたのでしょうか。
なお図様の確認できる⑥の作品ですが、これはだれが描いた、なんの絵(の写真)なのか、今のところ不明です。
もしご存知の方がおられましたら、までお知らせいただければ幸いです。
ブログの最後に、特集「ラファエル・コランと黒田清輝」の展示作品をもう一点ご紹介しましょう。
先にふれた“腰巻事件”をめぐっては、黒田の《裸体婦人像》がよく知られていますが、取り締まりの対象となった作品は他にもありました。
黒田は自分の所持していたコランの絵を参考のために出品したのですが、ヌードということで、《裸体婦人像》と同様に腰部を隠して展示されました。
そのひとつが《オペラ・コミック座天井画「虚構に生気を与える真実」のための素描(1)》です。
オペラ・コミック座天井画「虚構に生気を与える真実」のための素描(1)
ラファエル・コラン筆 フランス 1898年頃 個人蔵(黒田清輝旧蔵)
明治34(1901)年11月1日付『二六新報』より
コラン作品の取り締まりの様子を、図入りで伝えています。
そんなわけで、今回の特集「ラファエル・コランと黒田清輝」は、黒田が愛蔵していたコランの作品を通して、師弟の絆の深さをしのぶと同時に、明治時代、西洋の美術がどのように日本に受け入れられていったのかをうかがう企画となっています。
どうぞお見逃しなく!
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posted by 塩谷純(東京文化財研究所 文化財情報資料部 近・現代視覚芸術研究室長) at 2019年02月07日 (木)
年明け早々、トーハクは書の展覧会はなざかり。平成館では特別展「顔真卿 王羲之を超えた名筆」が、東洋館8室では書道博物館との連携企画「王羲之書法の残影-唐時代への道程-」が、それぞれ絶賛開催中です!
さて、タイトルを見てすでにお気づきかもしれませんが、実はこの2つの展覧会、すごーく密接な関係にあります。王羲之が活躍した東晋時代と、顔真卿が活躍した唐時代は、書が最も高い水準に到達したツインピークスであり、数多くの名品が誕生しました。この東晋と唐とを結ぶ架け橋となるのが、439年から589年までの150年に及ぶ南北朝時代です。
「王羲之書法の残影-唐時代への道程-」では、この南北朝時代の書を中心に、王羲之・王献之から唐時代までのみちのりをたどりながら、唐時代の華やかな書が生まれたワケを解き明かしていきます。そして「顔真卿 王羲之を超えた名筆」をご覧になっていただくと、より理解が深まる、という仕組みになっているのです。
それでは、連携企画「王羲之書法の残影-唐時代への道程-」の内容を、章ごとにチラッと紹介しましょう。題して、東晋時代と唐時代をつなぐ虹の架け橋、珠玉のきらめき!
第1章 王羲之・王献之とその周辺
王羲之は、先進的な書体の中に深遠な表現を盛り込み、当時の書の水準を格段に引き上げました。その息子である王献之もまた、父に負けないくらい華やかな表現を得意としました。父子は東晋時代を代表する二大能書として、後世に多大な影響を与えます。
これぞ天下第一行書!
定武蘭亭序-呉炳本-(部分) 王羲之筆
東晋時代・永和9年(353)
東京国立博物館蔵(東博全期間展示)
第2章 南朝の書
南朝では、宋・斉・梁・陳の4つの王朝が興亡し、政治的にも文化的にも東晋の影響を受け継いでいました。宋・斉では王献之がもてはやされましたが、梁の武帝が王羲之を評価して以降、王羲之の書がナンバーワンに返り咲きました。
世の中は王献之モード!
草書栢酒帖(部分) 王慈筆
宋~斉時代・5世紀
東京国立博物館蔵(東博全期間展示)
第3章 北朝の書
北朝では、北魏の王朝が長い間君臨しました。北魏の書は、洛陽遷都のあとさきで大きな変貌を遂げます。洛陽遷都後は漢化政策が推し進められ、先進的な南朝の書法を取り入れながら、野趣あふれる力強い理知的な書を生み出しました。
龍門造像記のきらめき
牛橛造像記(部分)
北魏時代・太和19年(495)
東京国立博物館蔵(東博全期間展示)
第4章 肉筆にみる書風の変遷
20世紀初頭、敦煌などから大量の肉筆写本が発見され、楷書が形成される過程をつぶさにみることができるようになりました。南朝の肉筆は、王羲之の影響が色濃い優雅な書風、北朝の肉筆は雄偉で構築性に富んだ書風です。
肉筆もやっぱり龍門っぽいです
大般涅槃経巻第四十(部分)
北魏時代・正始2年(505)
台東区立書道博物館蔵(書博後期展示)
第5章 隋から唐へ
陳を滅ぼして天下を統一した隋王朝は、北朝の出身者が多くを占めていましたが、書法を重視した隋においては、南北それぞれの書風の良さが認識され、両者の書風は急速に融合します。そして唐の太宗皇帝のもとに、極めて高いレベルの書法が出現するのです!
南と北が融合っ!
龍蔵寺碑(部分)
随時代・開皇6年(586)
台東区立書道博物館蔵(書博全期間展示)
…さて、この続きを知りたいかたは、ぜひ「顔真卿 王羲之を超えた名筆」もご一緒にご鑑賞ください!唐の都がなぜ世界の中心となりえたか、そのヒミツがきっとわかります。
図録
王羲之書法の残影-唐時代への道程-
編集・編集協力:台東区立書道博物館、東京国立博物館
発行:公益財団法人 台東区芸術文化財団
定価:1,000円(税込)
ミュージアムショップにて販売
※台東区立書道博物館でも販売しています。
図録
王羲之書法の残影-唐時代への道程-
編集・編集協力:台東区立書道博物館、東京国立博物館
発行:公益財団法人 台東区芸術文化財団
定価:1,000円(税込)
ミュージアムショップにて販売
※台東区立書道博物館でも販売しています。
週刊瓦版
台東区立書道博物館では、本展のトピックスを「週刊瓦版」という形で、毎週話題を変えて無料で配布しています。トーハク、書道博物館の学芸員が書いています。展覧会を楽しくみるための一助として、ぜひご活用ください。
関連展示
特別展「顔真卿 王羲之を超えた名筆」2019年2月24日(日)まで
東京国立博物館平成館にて絶賛開催中!
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posted by 鍋島稲子(台東区立書道博物館主任研究員) at 2019年01月18日 (金)
こんにちは、ユリノキちゃんです!
ほほーい! ぼくトーハクくん!
今日は本館特別1室・特別2室で開催中の、特集「博物館に初もうで イノシシ 勢いのある年に」(1月27日(日)まで)を見にきたんだほー
亥年にちなんだ作品がたーくさん展示されているのよね。
中でも「野猪」がオススメね、ユリノキちゃん。
その声は、皿井研究員!
こんにちは、トーハクくん、ユリノキちゃん。二人は動物の彫刻を見たことある?
もちろんあるほ。鮭をくわえた熊だほ。
おみやげっ(どこで見たの?)
私は、本館18室・近代の美術のコーナーで「老猿」や「馬」を見たし、いまなら「牝牡鹿」も見られますよね。
そう、近代の美術よね。
そもそも古い彫刻には動物作品はあまりなくて、近代になってモチーフのバリエーションを広げていく中で、ここにある「野猪」やユリノキちゃんが見た「老猿」といった作品が生まれてきたの。
とりわけ「野猪」は、日本の彫刻史全体の中でもイノシシをモチーフにした珍しい作品なのよ。
野猪 石川光明作 大正元年(1912) 石川光明氏寄贈
なんだか、いじらしいほ。
うん、可愛い。
イノシシって、現代ではどっちかというと害獣で獰猛なイメージだけど、この「野猪」は横座りしてシナをつくった感じが、妙に可愛いってイメージよね。
作者の石川光明はもともと、根付とかの牙彫の職人として技術を学んだ人なの。根付ではいろんな動物を彫るのは普通のことなので、それを木彫でも制作したいっていうのは、彼の心の中に常日頃からあったのかもしれない。
ふーん、根付のような可愛らしさが自然と表れたのかな。
可愛いだけじゃなくて、牙彫作家らしい細かい彫りの技術も見てほしいな。細かい毛並み、動物らしい毛並みが実に巧みに表現されているの。可愛らしさと写実がギュッと凝縮されている作品なのよ。
皿井さん、ここには他にもイノシシさんがいますね。
ぼくの友達もいるほ。
そうよ。例えばこの中国の「玉豚」は、ものすごく抽象化されていて、死者の手に握らせていたと考えられているものです。イノシシは多産や富の象徴として、死んだ後も幸せにいられるよう、お墓の中に一緒に埋葬されることがあったのね。
玉豚 中国 前漢~後漢時代・前2~後3世紀
それと、そのほかの中国の作品を見ると、逆に小さいながらもイノシシの力強さがよくあらわされていて、中国の人たちの対象物を見て、それを写し取って造形化する技術力、造形把握能力ってものすごいと感じるけど・・・。
灰陶豚 中国 前漢時代・前2~前1世紀 広田松繁氏寄贈
褐釉豚 中国 唐時代・8世紀
ん、なんだほ?
一方で日本の「埴輪 猪」を見ると、あれ?って。これでよかったの?って。
縄文時代は、イノシシは狩猟の対象として身近だったからよーく観察されていて、「猪形土製品」のような形をちゃんと写し取った作品はいっぱいあるのに、それが埴輪になると一気にゆるキャラ化して・・・、形もこんな足が長い。馬みたい。
重要美術品 猪形土製品 青森県つがる市木造亀ヶ岡出土 縄文時代(後~晩期)・前2000~前400年
重要文化財 埴輪 猪 群馬県伊勢崎市大字境上武士字天神山出土 古墳時代・6世紀
なな、なんてこと言うんだほ、皿井さん。
ふふ。中国の造形に対する関心のあり方と、日本の対象物をどう造形化するか、この違いが浮き彫りになって、すごく面白い。皆さんにはそういうところも見てほしいと思います。
しくしく。「埴輪 猪」の立場が・・・。
じゃあ、どうして足が長いのか、私に説明させてください。
あ、あなたは、河野研究員!
ほほーい! 河野さん、たのんだほ!
はい。まずこの重文「埴輪 猪」、縄文時代や東洋考古のイノシシと比べると極めて足が長いのが奇妙でして、イノシシというには不思議な体形ですね。
よく見ると足の先の後部が半円形にくりぬかれて、馬の蹄と同じようになっています。日常的にイノシシを見ている人が作ったのなら、偶蹄類なのでつま先は二つに分かれるはずなのに。
つまり、馬形埴輪を作っている人がイノシシをよく知らないまま作ったんではないかと思われます。
えーっ、そういうことあるんですか?
古墳時代になると、縄文時代にくらべて、人が生きる上での生業がいろいろ多様化していますし、山など自然からは離れて生活している、そういう人たちも沢山いたと考えられます。
イノシシ狩りは王様の狩猟儀礼みたいなものに変わってしまっているだろうし、イノシシと犬の埴輪でそれを古墳内に再現する際も、そこにはあまり写実性が求められてなかった、そんな背景があるんじゃないでしょうか。
なるほどぉ。
王様にとってイノシシを狩るというのは、突進してくる獰猛な存在をやっつけるということで、自身の権威を高めることになりますね。狩ったということを表現しようとして「矢負いの埴輪」も作られたと考えられます。古墳に眠る人の権威のほどを示したわけです。
埴輪 矢負いの猪 伝千葉県我孫子市出土 古墳時代・6世紀
ほんとだ、“←”が付いてる! 現代のやじるしと全くおんなじ。
この矢の形(←)というのは誰かが考えて広めたというものではなく、動物を狩るような尖ったものを表現する際、人類が普通に思い浮かび知らずしらず共有されている、時間と場所も超越する、そんなサインなのかな。だから、この埴輪でも使用されたんじゃないかと思います。
そーそー、超越したサインなんだほ。
埴輪を研究している身としては、この大阪の堺市から出土した「埴輪 猪」も、ぜひ見てほしいですね。
埴輪 猪 大阪府堺市出土 古墳時代・5~6世紀 伊藤福次氏・橘喜一郎氏寄贈
微笑ましい表情で、私も大好き。
ゆるキャラ具合もそうだけど、重文「埴輪 猪」と見比べてみて、どっか違うところないかい?
ほ?
こっちのは足の側面に穴が開いてるでしょ。これは近畿地方の埴輪の特徴です。埴輪の地域性が見て取れますね。
ほんとだほ。お尻以外に足の付け根にも穴があるほ。ね、ユリノキちゃん。
ほんと、お尻以外にも穴が空いてるわ。
河野さん、言っておくけど、ぼくもユリノキちゃんも極めてマジメだほ。
はい(汗)
ところでトーハクくん、こっちには絵画作品もあるわよ。
そうだほ。あれは、特集のメインビジュアルをつとめる「猪図」だほ。
もう、“猪突猛進”感だしまくり、ビューって向かってくるほ。
猪図 岸連山筆 江戸時代・19世紀 ハーディ・ウィルソン氏寄贈
ふふふ。やっと私の出番がきたわね。
大橋研究員!
「猪図」もいいけど、私のオススメはこれよ。その名も「大小暦類聚」。
だいしょうごよみるいじゅう?
大小暦類聚 寛政3年(1791)
大黒天様の打ち出の小槌からイノシシさんがいっぱいでてきてる。よく見ると、大きいのと小さいのがいて、お父さん、お母さん、子供たちみたい。
ほう。でも、大きいイノシシは2匹だけじゃないほ。叔父さん叔母さん、従妹たち、親せき一同が集まって、いったい何の騒ぎだほ?
二人ともすばらしい観察力ね。これは適当に大小があるんじゃなくて、ちゃんとした、っていうか、江戸の時代のユーモアが隠されてるのよ。
どういうことだほ?
作品名を見てみて。大小の暦の類をあつ(聚)めたってことで、これは暦を描いているの。
そうなんだ。
江戸時代の暦は現代と違って、月の満ち欠けを基にした、大の月(30日)と小の月(29日)が年ごとに変わる、そういう暦だったの。
ほー。
お正月になると、その年の月の大小を示す絵暦を交換したりして楽しむようになって、デザインに干支を表わすおめでたい図柄も多く採用されたってわけ。
これもイノシシの大小によって月の大小がわかるというユーモアあふれる絵暦なのよ。
じゃぁこれは、亥年の暦ってことですね?
そう、200年以上前の寛政3年(1791)の絵暦です。
暮らしぶりが粋なんだほ。
うん、江戸時代の人たちは、いろいろと粋なことをして楽しんだのよ。
この「見立富士の巻狩」もそう。
見立富士の巻狩 葛飾北斎筆 享和3年(1803)
葛飾北斎さんだほ。
本来は、源頼朝の富士の裾野での狩りを題材にした「富士の巻狩」っていうのがあって、その中に頼朝に向かって突進してきたイノシシを退治した話があるんだけど、それを北斎は七福神がしているように見立てたわけ。つまり・・・
パロディー!
大黒天がイノシシに跨って、打ち出の小槌でしっぽを切ろうとする仕草が描かれていて、昔の人もパロディーを楽しんだっていうのが分かる作品なのよ。
大橋さん、こっちは? イノシシの団扇を持っている人に蛇のオモチャでいたずらしてる人が描かれてますよ。
むっ、悪さをする子は、ぼくが許さないんだほ。
浮世七ツ目合・巳亥 喜多川歌麿筆 江戸時代・19世紀
二人とも十二支は言える?
はい。子ぇ、丑、寅、卯ぅ、辰、巳ぃ
午、未、申、酉、戌、亥ぃ・・・
あ、巳年、蛇もでてくるわね。
そう、この作品は「浮世七ツ目合・巳亥」といって、亥年のイノシシと巳年の蛇がモチーフになってるの。
どうして、この組み合わせなのかしら?
ある干支と、それから数えて七つ目の干支の組み合わせは幸運を招くとされていたからなのよ。亥年から七つ目は巳年なの。
この喜多川歌麿の作品は、いたずらしてるように見えて、じつは幸運を招く縁起の良さが描かれているのね。
ほ! 巳年から数えたら七つ目は亥年だほ。この浮世絵はきっと、7年後の特集展示にも出てくるほ。
トーハクくんて、ときどき妙にピントが合ったこと言うのね(まぁ、数えるなら6年後だけど・・・)。
トーハクくん、イノシシさんの楽しい見方がいっぱい詰まった特集展示ね。
ユリノキちゃん、そうなんだほ。みんなにもぜったい見てほしいんだほ。
うん。じゃ、そろそろほかの展示室に行こうか?
ちょっと待ったぁー!!!
強烈に聞き覚えのある声。
おいおいおい。水くさいじゃないか二人とも。
井上副館長!
そうだよ。井上副館長だよ。
井上さん、そんなに興奮して、どうし
ここにある国宝、目につかないかい? 国宝「袈裟襷文銅鐸」だよ。
(食い気味にきたほ)画数の多い漢字は苦手だほ。
国宝 袈裟襷文銅鐸 伝香川県出土 弥生時代(中期)・前2~前1世紀
この部分にイノシシが描かれているんだ。見てごらん。
あっ、ほんとだ。ほかに小さい動物と人間もいますね。
そ、これはもう弥生絵画の傑作だよ。
いいかい、まずイノシシ、それに立ち向かっていこうとする5匹の犬。そして矢を放とうとする人間。つまり当時の犬追い狩猟の様子の在りのままがここに再現されているんだ。
縄文時代はリアルなイノシシだって皿井さんが言ってたように、この弥生時代の銅鐸に描かれたイノシシもまた、イノシシそのものをうまく表現している。素晴らしいだろ?
イノシシらしい鼻先、耳、しっぽ。イノシシにしか見えないわね。
銅鐸にイノシシが描かれることは非常にめずらしい。多く描かれているのは鹿なんだよ。縄文時代の土製品などはイノシシが大変多いんだが、それが弥生時代に入ると、イノシシに代わって鹿が多くなるんだ。
どうしてだほ?
それには縄文時代と弥生時代の生業の違いが関係しているようだね。縄文時代は狩猟・漁労・採集といったものが人々の生活を支えていたんだ。ところが、弥生時代になると大陸から米作りが伝わり、人々の生活は大きく変化する。
そうなんですか?
おそらく、縄文人は獰猛で多産なイノシシにパワーを感じ、弥生人は稲作のシンボルとして田の豊穣をもたらす神、ひいては子孫の繁栄をもたらす神の象徴として鹿にパワーを感じていたんだな。稲作が始まって、狩猟採集から食料の栽培生産へと変化したために対象獣も変わったんだよ。
時代は変われど、人間は動物にさまざまな願いを託していたことを分かって欲しいんだ。そして大切なことは、この絵画が示すように、弥生人は稲作を始めたからと言って狩猟というものを止めたわけじゃないんだよと。
たったこれだけの中に、それだけの情報が詰まっているのね。
そう。ただし、他の遺物との比較があってのことだけどね。
比較から、そういう考察が生まれるよってことだほ。
そう、考察が生まれ、え?
(トーハクくん、どうしちゃったの?)
ん、二人ともなんだほ?
だから、絵画、彫刻、歴史資料、いろいろなイノシシが会場にはいるけれど、ぜひこの銅鐸も見ていってほしんだな。
うん、分かった。井上副館長、いろいろ教えてくれて、どうもありがとうなんだほ。
皿井さん、河野さん、大橋さんもどうもありがとうございました。
さてトーハクファンのみなさん、私たちの紹介で、この特集に興味を持ってくれたかしら?
特集「博物館に初もうで イノシシ 勢いのある年に」は1月27日(日)までです。
みなさんのご来館をお待ちしてまーす!
カテゴリ:研究員のイチオシ、特集・特別公開、トーハクくん&ユリノキちゃん
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posted by トーハクくんとユリノキちゃん at 2019年01月15日 (火)
新年明けましておめでとうございます。
本年もトーハクは、「博物館に初もうで」と銘打って1月2日より開館。お天気に恵まれたこともあり、たくさんのお客様をお迎えし、幸先よいスタートをきることができました。新しい年明けをここはひとつ景気良く、ということで、「大判と小判」という特集の展示を本館14室にて2月3日(日)まで行っています。
折しもこのお正月、2日と3日の夜に、門井慶喜さん原作の「家康、江戸を建てる」がテレビドラマ化、放映され、特に3日の「金貨の町」は、京の金工家、後藤家の職人であった橋本庄三郎(後藤庄三郎光次)が家康のもとで小判を作ることをメインテーマに据えた内容。なんとタイムリー!これは必見と思っていたのですが、年末から続く飲み疲れか、不覚にも眠ってしまい見逃しました。再放送やっていただけないものでしょうか。
大判・小判は、金工家であった後藤家が製造を担いました。大判は豊臣秀吉が天正16年(1588)、御用金工家であった後藤家の5代、徳乗(とくじょう)に造らせた天正大判に始まり、後藤家はその後、江戸幕府の金工家も務め、必要に応じて大判を製造しました。また小判は、徳乗の門人で、徳川家康の命により徳乗の代理として江戸に下った後藤庄三郎光次(みつつぐ)が造ったのに始まり、金座で製造がなされました。金貨といっても純金ではなく、銀をまじえた合金を素材とします。それは金が高価であったことに加え、金のみでは柔らかすぎるためであったと考えられます。例えば享保大判の場合、金67.7%、銀27.68%、銅4.62%。元禄小判の場合、金57.37%、銀42.63%の合金とされます。これほど銀が多いと、普通は白っぽくなってしまうのですが、そこで色付(いろづけ)、色揚(いろあげ)と呼ばれる表面処理がなされました。それは何種類かの薬品を塗った後に加熱し、水で洗い流すことにより、表面では銀成分が溶け流され、濃度の高い金が現れるというものです。
今回は展示していませんが、当館には後藤家が小判を製造している様子を描いた巻物「小判所並後藤ニテ小判仕立絵図」(江戸時代19世紀 東京国立博物館蔵)があり、そこでは文様や極印を打ったり(画像1)、色付をしている工人の様子が描かれています(画像2)。
画像1:模様や極印を打つ
画像2:色付(色揚)をする
大判小判はよく時代劇やマンガにも登場します。いっとう私の印象に残っているのは、テレビアニメの「ルパン三世」の、いわゆるファーストシリーズ(ルパンのジャケットは緑。セカンドシリーズが赤だったので、リトマス試験紙の変化になぞらえて、青→赤は三世つまり酸性、と覚えた人もおられましょう)の最終回。発掘された大判小判をルパン一味はまんまとせしめるのですが、あまりに事が上手く運んだことに、ルパンは不審を抱きます。「次元、その小判、かしてみな。」カリッと噛んだ小判は割れて、中から銭形警部の仕込んだ発信機が出てくるのでした・・(テレビの話ばかりで恐縮です)
本物の山吹色の輝きを、ぜひご覧にお運びください。お待ちしています!
本館14室の展示の様子
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posted by 伊藤信二(博物館教育課長) at 2019年01月10日 (木)
こんにちは。考古室研究員の山本です。
今回がはじめてのブログ登場です。皆さまどうぞよろしくお願いいたします。
ただいま平成館企画展示室では、特集「松山・徳島の考古学」(~12月25日(火))を開催しています。
この展示は考古相互貸借事業により、当館から作品をお貸出しするかわりに、松山市考古館と徳島市立考古資料館の所蔵する考古資料をお借りして展示しています。
入り口付近からみた西側ケース
この展示では地域の特性に触れることができるのも見どころのひとつ。両館からは、縄文時代から平安時代まで、多岐にわたる作品をお貸出しいただいています。
それでは同じ四国(高知)出身の私から、ふだん考古展示室でお目にかける機会のない魅力的な作品をご紹介しましょう。
まず松山市からは、大渕遺跡の彩文(さいもん)壺形土器です。大渕遺跡は縄文時代晩期の遺跡で、松山平野に水田稲作が定着する過程を知るうえで重要な遺跡です。
彩文壺形土器 愛媛県松山市 大渕遺跡出土 縄文時代(晩期)・前1000~前400年 松山市考古館蔵
夏の縄文展で、いろんな土器をご覧になって縄文土器に強くなった皆さんも、この壺を見ればびっくりするのではないでしょうか?
まん丸なフォルムに、短い口。口の周りの黒い模様は、まるで茄子の“へた”のようですね。個人的には、地元の高知の美味しい秋茄子を思い出してしまいます。この模様は土器を焼くときに、こうなることを意図して炭素を吸着させたものと考えられます。つまり狙ってナスビのように仕上げたのです。
これは似たような土器が朝鮮半島からも見つかっていますが、全く同じものはありません。水田稲作が行われるようになる時期に突然あらわれた、謎の多い土器なのです。
次に、徳島市からは弥生時代に製作された木偶(もくぐう)です。
左:木偶 徳島市 庄遺跡出土 弥生時代(中期)・前2~前1世紀 徳島市立考古資料館蔵
ちょっとこわいリアルな表情の顔に、棒のような胴体部分。胴の部分は別の素材で組み合わせていたとも考えられています。
皆さんは縄文時代の土偶はよくご存知かと思いますが、この木偶は弥生時代のものです。こうした弥生時代の人形表現は、男女が対になるものが多くみられます。夏の縄文展でも、弥生時代の土偶形容器など男女一対になるものがありましたね。この木偶にもパートナーがいたかもしれません。パートナーはどんな姿だったのか、そもそもこの木偶さんは女性なのか男性なのか・・・興味は尽きません。
この他にも見どころたっぷりの展示となっていますので、ぜひ足をお運びいただけますと幸いです。
また、今回の展示で興味を持っていただけましたら、ぜひ松山と徳島へも足を伸ばしてみてはいかがでしょうか。どちらもより多くの魅力ある考古資料、・・・そして美味しいお酒と海の幸が皆さまをお待ちしていることと思います。
出口側から見た東側ケース
毎年おこなってきました東京国立博物館での考古相互貸借事業も、今年度が最後となります。これまで楽しみにしてきてくださった皆さま、どうもありがとうございました。今後とも、当館所蔵資料での特集陳列は続けてまいりますので、ご愛顧のほどよろしくお願いいたします。
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posted by 山本 亮(考古室研究員) at 2018年11月27日 (火)