3世紀後半頃よりはじまる古墳時代の日本列島は、その時代名称が示すとおり墓である古墳を積極的につくる時代でした。
その時代は今とは異なり、医学的な知識も乏しく、病気になってもワクチンなどで治す手段を持っておらず、せいぜい因幡の白兎でおなじみの蒲(がま)のように、薬草を用いたりすることが精一杯なところでしょう。
そのため、人々は不安を解消するために、また病気を回復するためにも、祈りや願いをとりわけ重視したと考えられます。
その祈りや願いの在り方は、使う道具や場面によって様々あると考えられますが、一例として古墳の上や周囲に樹立された埴輪から、当時の人びとが思い至った祈りや願いを垣間見ることができます。

4世紀の柳井茶臼山古墳(山口県柳井市)。復元された古墳と埴輪をみることができます。

後円部の埋葬施設の上には家形埴輪が置かれていました。
古墳のなかでも埋葬施設に近く、中心に置かれるのが家形の埴輪です。
家形埴輪は亡くなった被葬者の魂の依代(よりしろ)となる事から、埴輪のなかでも一番重要だと考えられます。

重要文化財 埴輪 入母屋造家 古墳時代・5世紀 奈良県桜井市外山出土
その家形埴輪の近くに置かれたのが鶏形の埴輪です。
この鶏形埴輪は、数ある鳥や動物を象った埴輪のなかでも存続時期が長く、鳥のなかでは鶏が最もよく作られました。

埴輪 鶏 古墳時代・5世紀 群馬県伊勢崎市 赤堀茶臼山古墳出土
日本書紀や古事記の鶏に関する記事を読み解くと、鶏鳴や闘鶏の記事があります。
朝に夜明けとともに鳴く鶏は、「常世の長鳴鳥」と呼ばれ、天照大神を天岩戸より呼ぶ役割を担っていたと書かれています。
そのため鶏は亡き首長の再生を祈り願うために、鶏形埴輪がつくられたとみる意見もあります。
一方で、街灯のない時代でしたので、夜は真っ暗闇。暗闇の中では邪悪なものが暗躍していると考える時代、夜明けを告げる鶏は光をもたらし邪悪な物を退ける辟邪(へきじゃ)の役割が期待されたとも考えられます。
他にもどうして鶏が埴輪となったのか様々な説があり、研究者の間で議論になっていますが、いずれにせよ古墳時代の人びとにとって、鶏が神聖な鳥であったがゆえに、再生や辟邪などの祈りを込めて鶏形埴輪がつくられたのは間違いありません。

埴輪 鶏 古墳時代・6世紀 栃木県真岡市 鶏塚古墳出土
なお、鶏を食用とするのは近世以降からです。日々の食卓に登場する鶏に見慣れていると、古墳時代の鶏を神聖な鳥と見る事にピンとこないと思います。
しかし、神社に訪れると鶏が放し飼いされているのをみることができ、古墳時代の人びとの鶏のイメージと近い役割を担っています。

神社にて放し飼いされる鶏
最後に、邪を払う辟邪についての埴輪は他にもあります。それは武具を模した埴輪です。
矢や剣を退ける盾、身を守る甲冑、矢を入れる靫(ゆぎ)、矢を放った際に腕を守る鞆(とも)、など様々な武具の埴輪がつくられています。
盾や靫の埴輪をみると正面を古墳の外側に向けて置かれることが多いため、外から邪悪なものが入ってくるのを退ける役割があったのです。

埴輪 短甲 古墳時代・5世紀 群馬県藤岡市 白石稲荷山古墳出土

埴輪 靫 古墳時代・6世紀 群馬県桐生市相生町出土
一見すると埴輪がつくられた理由は非科学的であるのかもしれません。
しかし、辟邪としての役割が人々の間で共通認識として普及していたとみると、単に悪霊のような目に見えない邪悪なものを退けるという以外に、古墳にむやみに入ってはいけない、盗掘などもってのほか、など当時の人々が期待する以上の効果があったものと思われます。
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posted by 河野正訓(考古室研究員) at 2020年05月15日 (金)
ほほーい! ぼくトーハクくん。今日は、市元研究員が見どころを紹介してくれるっていうから、特別展「三国志」の会場に遊びにきたほ!
市元さんよろしくだほ!

特別展「三国志」会場。奥に見えるのは関羽像(新郷市博物館蔵)です
よろしく。ところでトーハクくん、三国志に出てくる魏・蜀・呉って聞いたことあるかい?
ぎ・しょく・ご?
そう、どんなところだったかって知ってる?
うーん、三国志ってだいたい戦ってばかりいる感じで、それぞれの国のことまではイメージ沸かないほ。
そっか(笑)。今回の特別展「三国志」では、魏・蜀・呉がどのような国だったのかを知ることができる出土品を、色々見ることができるんだよ。
ほほ!
今日は、俑(よう)というお墓の副葬品として作られた人形や動物の模型を見て、実際に魏・蜀・呉を感じてみよう。
なんだかワクワクだほ!

儀仗俑(ぎじょうよう)
青銅製 後漢時代・2~3世紀
1969年、甘粛省武威市雷台墓出土
甘粛省博物館蔵
はじめに三国時代の前にあたる、漢時代の俑を見てみよう。
これは儀仗俑といって馬車と牛車の隊列を矛(ほこ)や戟(げき)で武装した騎兵が警護する様子を表した俑だよ。
本物そっくりだほ!
俑などの副葬品は生前の生活が死後も続くようにと作られるんだけど、漢時代のものは写実的なのが特徴。しかも、バランスよく作られていて、ちょっとやそっとじゃ倒れないんだよ。

体は立体的ですが、腕は平べったいです
この歩いている人の腕は本物っぽくないほ。
ちょっとおもしろいよね。腕だけを平べったく作ることに何か意味があったのかもしれないね。
うん。それでこれが三国時代になるとどうなるほ?
はいはい、それじゃあ、三国のうち、まずは呉を見ていこう。

武士俑(ぶしよう)
土製 三国時代(呉)・3世紀
1999年、湖北省赤壁市蘆林畈1号墓出土
赤壁市博物館蔵
これは、武士俑って言うよ。武士だから頭に冑(かぶと)をかぶってる。
ほー、ぼくにちょっと似てる! 市元さん、俑とぼく(埴輪)ってどう違うほ?

俑も埴輪もお墓の副葬品として作られたものだけど、埴輪はお墓の上や周りに並べるのに対して、俑はお墓の中に並べるんだよ。
ほほー。お家の中と外の違いかほ。
お家の模型もお墓のなかにいれるから、まあ考え方の違いなんだろうね。
他にも、こんなに色々な俑があるんだ。役割を細かく分けて仕事をしていたことが分かるね。

俑(よう)
青磁 三国時代(呉)・3世紀
2001年、湖北省武漢市黄陂区蔡塘角1号墓出土
武漢博物館蔵
ほー、なんか、心なしかみんな真面目な顔してるほ。
呉は経済的に発展していた国だったけれど、この俑たちのように真面目な人々が支えていたんだろうね。
トーハクくんも働くなら呉がいいと思うよ。
ぼくはトーハクで十分だほ。

一級文物 牛車(ぎっしゃ)
青磁 三国時代(呉)・3世紀
2006年、江蘇省南京市江寧区上坊1号墓出土
南京市博物総館蔵
一方でこの牛車の模型は、一見シンプルだけど牛の顔から車輪まで特徴をよくとらえて丁寧につくられていることが分かる。
シンプルだけど手を抜かない。これも呉の特徴だね。
うん。牛の足の形とかもく見るとしっかりしてるほ。
そうでしょ。さて、次は蜀を見ていこう。

説唱俑(せっしょうよう)
土製 後漢~三国時代(蜀)・2~3世紀
重慶市忠県花灯墳墓群11号墓出土
重慶中国三峡博物館蔵

調理俑(ちょうりよう)
土製 後漢~三国時代(蜀)・2~3世紀
重慶市三峡庫区出土
重慶中国三峡博物館蔵

舞踏俑(ぶとうよう)(右)
石製 後漢~三国時代(蜀)・2~3世紀 重慶市出土 四川博物院蔵
舞踏俑(左)
石製 後漢~三国時代(蜀)・2~3世紀 重慶市出土 重慶中国三峡博物館蔵
みんなニコニコ、なんかポーズも決まってるほ。
ホントいい笑顔だよね。蜀の人々の穏やかな気風が伝わってくるでしょ。
蜀は動物の模型もぜひ見てほしいな。

一級文物 犬
土製 後漢~三国時代(蜀)・2~3世紀
1957年、四川省成都市天迴山3号墓出土
四川博物院蔵
今にも動きだしそうだほ! ちょっと怖いほ~。
躍動感があって生き生きとしているね。呉は見たものの特徴をそのまま再現するけど、蜀はそれに加えてアーティスティックでクリエイティブな表現をする。
ほほー。アーティスティックでクリエイティブ!(
ちょっと何言ってるかわからないほ)。
実在しない架空のものでも、生き生きとしているんだ。

揺銭樹台座(ようせんじゅだいざ)
後漢~三国時代(蜀)・3世紀
2012年、重慶市豊都県林口墓地2号墓出土
重慶市文化遺産研究院蔵
これは揺銭樹台座といって金のなる木を取り付ける台座だよ。この怪獣の顔とかユーモアがあって、なかなかいいよね。
怪獣のほかにも、鳥とか龍とかいろいろあるほ。
もう、アーティスティックでクリエイティブで、さらにファンタジックだね!
うんうん。あーでこーで、さらにファンタジックだほ!
トーハクくん、ちょっと馬鹿にしてるよね。
やだなー、そんなことないほー。
気を取り直して、それでは最後の魏を見ていこう。

侍俑(じよう)
土製 後漢~三国時代(魏)・3世紀
2008~09年、河南省安陽市曹操高陵出土
河南省文物考古研究院蔵
この侍俑は魏の王、曹操(そうそう)のお墓、曹操高陵(そうそうこうりょう)から出土したものだよ。ちなみに女性だよ。
……なんていったらいいかわからないほ。
トーハクくんの気持ち、わかるよ。シンプルなうえ、呉と違って作りが雑なんだよね。前後の合わせ型で作ったものなんだけど、合わせ目のバリがそのままのこっててちょっと粗雑。
鼻もぺたんこだほ。
ぺたんこだね(笑)。
こっちにある曹操の息子の曹植(そうしょく)のお墓から出土した動物の模型を見てみて。水鳥、鶏、そして犬。

水鳥、鶏、犬(みずどり、にわとり、いぬ)
土製 三国時代(魏)・3世紀
1951年、山東省聊城市東阿県曹植墓出土
東阿県文物管理所蔵
……シュールだほ。ある意味、芸術的……。
同感、シュールで芸術的。侍俑のような雑さはないけど。
どうして魏の副葬品はこんなにシンプルなんだほ?
曹操の残した遺言が影響しているんだ。
どういうことだほ?
曹操は質素倹約を重んじていて、「自分の葬儀は手厚くするな」と遺言をのこしたんだ。
えー! すっごく偉い人なのに! なぜだほ!?
曹操はおそらく、それまでの漢王朝の秩序をかえて、新しい国の体制を築こうとしたんだと思う。手厚い葬儀にするとそれだけ手間がかかる、その手間を新しい国をつくっていくことに使いたかったんじゃないかと。
え、ちょっといい話だほ。なんだか曹操、ステキだほー!
どうだい、トーハクくん。こんな具合に、小説や歴史書だけじゃわからないことが、実際の出土品から読み解くことができるんだ。
まさに「リアル三国志」の世界だね。
うん、最高の世界なんだほ。ぼく、広報大使やっててよかったほ。

特別展「三国志」は9月16日(月・祝)までです。ぜひ足をお運びください!(来てほー!)

日中文化交流協定締結40周年記念 特別展「三国志」
2019年7月9日(火)~9月16日(月・祝)
平成館 特別展示室
カテゴリ:考古、2019年度の特別展
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posted by 市元塁(東洋室) at 2019年08月26日 (月)
三国志のなかでも抜群の知名度を誇る曹操。
そのお墓(曹操高陵 (そうそうこうりょう))がみつかったのは今から10年ほど前のことでした。
特別展「三国志」では、2016年に刊行された発掘報告書をもとに、曹操高陵の墓室を実寸で再現しています。

本展会場に実寸で再現した曹操高陵の内部
この墓をご覧になって、立派な墓と感じる方もいれば、意外と簡素だなと思われる方もおられることでしょう。
私たち研究者も、そうした点に強い関心を抱いています。
なぜなら、西晋時代の陳寿が著した正史『三国志』に、曹操は自身の葬儀を簡素にするようにとの遺言が記されているからなのです。
遺令の内容は次の通りです。
天下はいまだ安定していない状況である。
よって、古制にしたがうこともままならない。
葬儀が終われば皆は早々に喪を解くように、
将兵は持ち場を離れてはならない。
役人は職務を遂行せよ。
遺体を飾る必要はない。
金玉珍宝の類いを墓におさめるな。
これによると、墓室の大小は曹操がいう薄葬とは直接的な結びつきはないのかもしれません。
ただこれまで知られている魏の有力者の墓とくらべると、曹操高陵は抜きんでて大きいというわけではなさそうです。
あらためて遺令をみてみましょう。
遺体を飾るなというくだり、そして金玉珍宝を墓に入れるなという最後の一文。
これらは考古学的に検証ができそうです。
遺体を飾るなというのは、原文では「時服」にせよと言っています。
いうなれば「普段の装いのまま葬れ、特別なあつらえは不要である」と言っているのです。
では、特別にあつらえた死装束とはどのような服だったのでしょうか。
漢時代、王などの貴族が葬られる際は、軟玉の板を銀や銅の糸で綴じ合わせた「玉衣」を着せるならわしでした。

亳州市博物館の展示室でみた玉衣(曹氏一族墓出土)
ところが、曹操高陵の中からはその断片すら検出されませんでした。
後漢時代の王クラスの墓の発掘事例をみますと、盗掘に遭っている場合でも少量の玉衣片はみつかるものです。
その痕跡すら確認されなかった以上、曹操は玉衣に覆われることなく葬られたといえそうです。
次に金玉珍宝とはどのようなものをいうのでしょうか、後漢時代の王クラスの墓にはまばゆいばかりの金粒細工による品々が納められました。
特別展「三国志」では、後漢時代の金製獣文帯金具(きんせいじゅうもんおびかなぐ)を展示しておりますが、こうした文物がまさに当時いわれたところの「金玉珍宝」であったと考えられます。

一級文物 金製獣文帯金具
金製、貴石象嵌 後漢時代・2世紀
2009年、安徽省淮南市寿県寿春鎮古墓出土
寿県博物館蔵
曹操の墓からは、若干の金糸などが出土しているものの、「金玉珍宝」と言えるものは見つかっていません。
ここでひとつ留意しておきたいことがあります。曹操高陵は過去に何度も盗掘に遭っているということです。
金目のものはすでに持ち去られている可能性があるのです。
そうした可能性を完全に排除することはできませんが、現在知り得る情報に基づけば、曹操の遺言は実行にうつされたと判断できます。
それでは、曹操の墓からどのようなものが出土したのでしょうか。
詳しくは会場でご覧いただきたいと思うのですが、曹操高陵からは用途不明のものが多数出土しています。
まるで曹操が研究者の力量を試しているかのようです。
なかでも際立っているのが瑪瑙円盤(めのうえんばん)です。

瑪瑙円盤
瑪瑙製 後漢~三国時代(魏)・3世紀
2008~09年、河南省安陽市曹操高陵出土
河南省文物考古研究院蔵
木星を思わせる美しい縞模様。表面は丁寧に磨き上げ、周囲は面取り加工を施しています。
何かにはめ込んだのか、そのまま使ったのか。使ったとしてその用途は何なのか。
いまだ答えにはたどり着けていません。
開閉器(かいへいき)も謎に満ちています。

開閉器
青銅製、鍍銀 後漢~三国時代(魏)・3世紀
2008~09年、河南省安陽市曹操高陵出土
河南省文物考古研究院蔵
下半の砲弾型の部分が左右に開く仕組みになっているのですが、具体的な用途となると皆目見当もつきません。
こうした謎めいたものに出会ったとき、私たち考古学者はどうするのかというと、とにかく実物をよく観察するのです。
答えに近づくヒントは、インターネットの中でも文献の中でもなく、往々にしてそのモノに込められているからです。
また、よく観察しておくことで、何か別の資料を見たときに思わぬ共通点に気づくこともあるのです。
特別展「三国志」は始まったばかり。
これからも実物をじっくり観察し、なんとか謎の解明につなげたいと思っています。

日中文化交流協定締結40周年記念 特別展「三国志」
2019年7月9日(火)~9月16日(月・祝)
平成館 特別展示室
カテゴリ:研究員のイチオシ、考古、2019年度の特別展
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posted by 市元塁(東洋室) at 2019年07月18日 (木)
こんにちは。考古室研究員の山本です。
今回がはじめてのブログ登場です。皆さまどうぞよろしくお願いいたします。
ただいま平成館企画展示室では、特集「松山・徳島の考古学」(~12月25日(火))を開催しています。
この展示は考古相互貸借事業により、当館から作品をお貸出しするかわりに、松山市考古館と徳島市立考古資料館の所蔵する考古資料をお借りして展示しています。

入り口付近からみた西側ケース
この展示では地域の特性に触れることができるのも見どころのひとつ。両館からは、縄文時代から平安時代まで、多岐にわたる作品をお貸出しいただいています。
それでは同じ四国(高知)出身の私から、ふだん考古展示室でお目にかける機会のない魅力的な作品をご紹介しましょう。
まず松山市からは、大渕遺跡の彩文(さいもん)壺形土器です。大渕遺跡は縄文時代晩期の遺跡で、松山平野に水田稲作が定着する過程を知るうえで重要な遺跡です。

彩文壺形土器 愛媛県松山市 大渕遺跡出土 縄文時代(晩期)・前1000~前400年 松山市考古館蔵
夏の縄文展で、いろんな土器をご覧になって縄文土器に強くなった皆さんも、この壺を見ればびっくりするのではないでしょうか?
まん丸なフォルムに、短い口。口の周りの黒い模様は、まるで茄子の“へた”のようですね。個人的には、地元の高知の美味しい秋茄子を思い出してしまいます。この模様は土器を焼くときに、こうなることを意図して炭素を吸着させたものと考えられます。つまり狙ってナスビのように仕上げたのです。
これは似たような土器が朝鮮半島からも見つかっていますが、全く同じものはありません。水田稲作が行われるようになる時期に突然あらわれた、謎の多い土器なのです。
次に、徳島市からは弥生時代に製作された木偶(もくぐう)です。

左:木偶 徳島市 庄遺跡出土 弥生時代(中期)・前2~前1世紀 徳島市立考古資料館蔵
ちょっとこわいリアルな表情の顔に、棒のような胴体部分。胴の部分は別の素材で組み合わせていたとも考えられています。
皆さんは縄文時代の土偶はよくご存知かと思いますが、この木偶は弥生時代のものです。こうした弥生時代の人形表現は、男女が対になるものが多くみられます。夏の縄文展でも、弥生時代の土偶形容器など男女一対になるものがありましたね。この木偶にもパートナーがいたかもしれません。パートナーはどんな姿だったのか、そもそもこの木偶さんは女性なのか男性なのか・・・興味は尽きません。
この他にも見どころたっぷりの展示となっていますので、ぜひ足をお運びいただけますと幸いです。
また、今回の展示で興味を持っていただけましたら、ぜひ松山と徳島へも足を伸ばしてみてはいかがでしょうか。どちらもより多くの魅力ある考古資料、・・・そして美味しいお酒と海の幸が皆さまをお待ちしていることと思います。

出口側から見た東側ケース
毎年おこなってきました東京国立博物館での考古相互貸借事業も、今年度が最後となります。これまで楽しみにしてきてくださった皆さま、どうもありがとうございました。今後とも、当館所蔵資料での特集陳列は続けてまいりますので、ご愛顧のほどよろしくお願いいたします。
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posted by 山本 亮(考古室研究員) at 2018年11月27日 (火)
「遺跡へゴー! ~遺跡で楽しむ縄文~その1」に引き続き、特別展「縄文―1万年の美の鼓動」展示作品が出土した遺跡を、いくつかご紹介します。
井戸尻(いどじり)遺跡群
長野県と山梨県の県境にほど近い富士見町には、縄文時代の遺跡が数多く眠っています。
特に中期の遺跡がたくさんあり、井戸尻遺跡群とも呼ばれる遺跡密集地帯からは、造形的に優れた作品が多く発見されています。
本展覧会でも中期を代表する特色ある作品が出品されています。

No.33 深鉢形土器 長野県富士見町 藤内遺跡出土

No.162 重要文化財 深鉢形土器 長野県富士見町 藤内遺跡出土

No.163 深鉢形土器 長野県富士見町 曽利遺跡出土
いずれも縄文時代(中期)・前3000~前2000年/長野・井戸尻考古館蔵
富士見町内から出土した作品の多くは、井戸尻考古館に収蔵されています。
博物館は井戸尻遺跡に隣接しており、復元された竪穴住居など、史跡が整備されています。
周囲は井戸尻の名の由来となったともいわれるように、豊富な湧水に恵まれ、日当たりがよく見晴らしの良い風景は、縄文人がこの地を好んで利用していたことが頷けます。
さらに、遺跡の目の前に連なる山々の間から、富士山の8合目付近から山頂付近がはっきりと見えます。
はっきり見えるのは空気が澄んだ秋から春にかけてですが、私が行った6月でも、残雪が残る山頂を見ることができました。
一際存在感ある富士山を見つめながら縄文人も暮らしていたのでしょうね。

井戸尻遺跡からみた富士山(2018年6月)
北沢石棒
最後にご紹介するのは長野県佐久市月夜平遺跡出土の石棒です。
この作品は昭和8年に道路改修工事の際に偶然土中から発見されました。
その後近くに鎮座する大宮諏訪神社へ奉納され、以来、ご神宝として通常は社殿に納められています。
何度か神社へうかがいましたが、いずれも氏子代表の皆さんが立ち会ってくださり、神社でご神宝が大切に守られていると感じました。
月夜平遺跡は、昭和初期の文献に写真入りで紹介されるなど、佐久地方では有名な遺跡です。現在もその頃と大きく変わらない景観で、遺跡が眠っています。
今回の展覧会では特別にご許可を得て、作品をケースに入れず、石棒が直立した状態で展示しています。これまでの発掘事例によれば、一般的に石棒は寝かせられた状態や、人為的に破壊された状態で出土することが多いといえます。ただし、住居跡や土坑から頭部の破片が直立した状態で発見されることもあり、本来石棒は立たせて儀礼などに使われたとする考え方もあります。また、月夜平遺跡周辺では石棒がたくさん発見されていますが、月夜平遺跡からそれほど遠くない佐久穂町北沢には、高さ2メートルを超える大きな石棒が現在も田んぼの畔に直立した状態でたたずんでいます。この石棒はもともと地表からわずかに立った状態で現在の場所に置かれていたものが、昭和40年代に掘り起こされ、補強されて現在のように立っているそうです。重厚感がありながらも端正な姿形が周囲の風景にごく自然に溶け込んでいるのがとても印象的です。農作物の収穫を終えた晩秋から春先に訪れてはいかがでしょうか。北沢の石棒は、月夜平遺跡出土の石棒の展示を考えるうえでとても参考になりました。
中央で直立する石棒(作品№146)
社殿の石棒撮影のようす(カメラを構えているのは当館の藤瀬カメラマンです)(2018年4月筆者撮影)
佐久穂町北沢の石棒(2018年4月筆者撮影)
【さあ、遺跡へゴー!】
本展覧会に関する取材を受けるとき、私がよくお話しすることがあります。それは、もし本展覧会で展示されている作品をご覧になったら、今度はぜひ、その作品が発見された場所(遺跡)にお出かけくださいとお話しています。なぜならば、作品が発見された遺跡は、その作品が生み出され(あるいは持ち込まれ)、使われ、役目を終えて長い年月眠っていた場所です。いわば作品の故郷のような場所。その故郷に実際に出かけ、その場に立ってみることをお勧めしたいですね。たとえ景観が少し変わっていたとしても、当時の風景や当時暮らしていた縄文人の気分に近づくことができるんじゃないかな、と考えています。
遺跡で縄文人の気分を味わうことができたら、次に、普段その作品が所蔵・展示されている博物館を見学してみませんか。地域の博物館には、その作品と同じ遺跡から発見された出土品や、近くの遺跡から発見された出土品など、その地域ならではの作品がたくさん展示されています。その中には、美しいもの、かっこいいもの、きれいなもの、かわいいものなど、皆さんの心をつかむ、お気に入りの作品が見つかると思います。もしかしたら未来のスーパースターとなる作品と出会えるかもしれませんね。
私が学生時代、先輩から考古学は「歩けオロジーだ!」とよく言われました。考古学の英訳であるArchaeology(アーケオロジー)をおもしろおかしく語呂を合わせて「歩けオロジー」などといつの頃からか言われるようになったものだと思います。おそらく「考古学は現場(現地)が大切で、足で稼いで(実際に遺跡を訪れたり、出土品の調査に各地の所蔵先を訪ねて)学問をするものだ」という意味合いなのではないかと私は理解しています。
この夏、トーハクで縄文展をご覧になられたら、各地の縄文の美を求めて、皆さんも「歩けオロジー」してみませんか?新しい出会いがきっとあるはずです。ぜひ遺跡や博物館での出会いを楽しみつつ、縄文時代や縄文文化をさらに身近に感じてみてください。
国宝「土偶縄文のビーナス」」が発見された棚畑遺跡にて(2018年7月筆者)
※翌日の国宝土偶縄文のビーナス拝借を前に、遺跡に「ご挨拶」
カテゴリ:研究員のイチオシ、考古、2018年度の特別展
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posted by 井出浩正(特別展室主任研究員) at 2018年08月24日 (金)