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1089ブログ

ここで会ったが100年目…には一年早く

今年、トーハクは140周年を迎えました。総合文化展ではこれを記念した特集陳列が沢山開催されています。そこでは140年という長い歴史の間に寄贈していただいた作品を、感謝の気持ちとともにご紹介しようというのが大事なコンセプトのひとつとなっています。秋の特別公開でご寄贈いただいた名品をご紹介したのはまさしくそうしたものですし、現在開催中の特集陳列「大正元年 帝室技芸員からの寄贈品」(本館18室・19室、2012年12月9日(日)まで )もそのひとつ、ご寄贈に対する感謝の心を込めた特集陳列です。


どのくらい前から考えていたのか
展覧会というのはどのくらい前から計画するのですか、ということよく聞かれます。これは一概に言えません。考え始めて一気に実現することもありますし、随分前から考えていて、あたためていたものが実現するということもあるのです。この特集陳列は、後者です。
最初に考え始めたのは、十年以上前のことでした。憶えていらっしゃるでしょうか、平成16年(2005)に『世紀の祭典 万国博覧会の美術』という展覧会があったこと。この展覧会の準備のために、トーハクの歴史や収蔵品を調べておりました。そこで出会ったのが、『列品録』の中に「帝室技芸員高村光雲外二十一名ヨリ各自作製ヲ東京帝室博物館ヘ献納願之件」という明治44年7月12日付の文書でありました。それ以前から、担当している日本陶磁や七宝の中に、大正元年に帝室技芸員から寄贈されたものがあることは気がついていたのですが、陶磁・七宝だけではなく、当時の帝室技芸員がこぞって寄贈して下さっていたということは大きな驚きでありました。そして、これを集めて展示したいと思い始めたのでありました。

どうして開催までにこんなに時間がかかったのか
すべてを見てみたい。これは研究員なら誰しもが思うこと。同じ年に寄贈されたということは、制作年代が明らかであるところから、それぞれの作家の基準作となるものです。ところが、これをすべて見るということがなかなか大変なことでした。
トーハクは140年という長い歴史を持っています。その間に、館の役割が変り、展示の体系が変り、作品の収蔵体系も変化してきました。大正元年に寄贈された24名31件の作品には、絵画、彫刻、陶磁、漆工など現在の「列品区分」にそのまま当てはまるものも多くあります。その一方で、例えば伊藤平左衛門設計という「京都大谷派本願寺大師堂諸圖」なるものは、現在の列品区分のどこにあるものか見当もつかないのでありました。

大谷派本願寺大師堂内部 金障子側二十分一之図
(1)
大谷派本願寺 大師堂側図五十分一之図 大谷派本願寺 大師堂正図五十分一之図
(2)                             (3)


どうしてできたのか
それができたのは、大きく二つの理由がありました。ひとつはトーハクの沢山のスタッフの力です。トーハクではもう何年も館史研究会という勉強会が続いています。こうした研究会が多くの人の興味を呼び起こしてくれます。一人で出来ないことが、それによって可能となってくる。そしてもうひとつ、トーハクが数年かけて実施している列品の存在確認調査です。トーハクには作品を収蔵する蔵が沢山あります。そこにある作品を、ひとつひとつどういうものか確認し、台帳と照らし合わせていくという地道でとても大事な調査です。
多くの人の目と知識、そして全収蔵作品を調査するという列品の存在確認調査によって、例えば先ほどの伊藤平左衛門設計の「京都大谷派本願寺大師堂諸圖」は、近代絵画の収蔵庫と歴史資料の収蔵庫に分かれて収蔵されていることが明らかになりました。小川一真の寄贈作品には図書に分類されていたものも。

ということで100年目…には一年早く
寄贈された作品に関する文書を調べていくと、大正2年に寄贈作品を中心とした帝室技芸員作品を集めた特別展が開催されていたことが分かりました。大正2年4月3日から4月30日。表慶館を会場として、特別展覧会「帝室技芸員献品並に故帝室技芸員製作品」が155件の作品を集めた展覧会です。
今回の特集陳列は、それ以来、初めて大正元年に帝室技芸員が寄贈した作品が並ぶということになるのです。100年目には一年早く本館の18室、19室に並びました。「この空間に立つと、明治から大正の空気が感じられますね」というのが館の人からの感想でした。同じ時代に作られたものが作り出す空気、それがしっかりと伝わってきます。そんな空気を一緒に感じていただけませんかというお誘いです。


最後に画像でご紹介しているのは…
伊藤平左衛門設計「京都大谷派本願寺大師堂諸圖」は、
「大谷派本願寺大師堂内部 内陣飾間二十分一之図」
「大谷派本願寺大師堂内部 金障子側二十分一之図」(1)
「大谷派本願寺 大師堂側図五十分一之図」(2)
「大谷派本願寺 大師堂正図五十分一之図」(3)
という4面からなるものです。今回の特集陳列では、前期9/19~10/28に「大師堂内部 内陣飾間」のみの展示でした。
4面の内の展示できなかった3面(1)~(3)のご紹介でした。

 

関連事業のお知らせ
東京国立博物館140周年月例講演会「東京国立博物館と帝室技芸員」
2012年11月17日(土) 13:30 ~ 15:00 (13:00開場予定)
会場:平成館大講堂
講師:伊藤嘉章(学芸研究部長)
定員:380名(先着順)
聴講料:無料(ただし当日の入館料は必要)

 

カテゴリ:研究員のイチオシトーハク140周年

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posted by 伊藤嘉章(学芸研究部長) at 2012年11月13日 (火)

 

宇豆柱のいざない

今回、特別展「出雲-聖地の至宝-」(2012年10月10日(水)~11月25日(日))で展示している作品の中で多分二度と島根県から外へ出ることはないだろうと思われるものは、特別5室の中央にある鎌倉時代の出雲大社の本殿の宇豆柱です。


重要文化財 宇豆柱 鎌倉時代・宝治2年(1248)  出雲大社境内遺跡出土 島根県・出雲大社蔵
重要文化財 宇豆柱 鎌倉時代・宝治2年(1248)
出雲大社境内遺跡出土 島根県・出雲大社蔵


この柱は、平成12年(2000)の発掘調査で出土したものです。三本が近接して出土し、しかもその下に石がぎっしりと詰まっている状態でそれは発見されました。材質は杉です。この柱が出土した時はホントビックリしました。だって、出雲大社の宮司千家国造家に伝わるいにしえの出雲大社の本殿の設計図と一致したわけですから。


金輪御造営差図(かなわごぞうえいさしず) 鎌倉~室町時代・13~16世紀 島根県・千家家蔵
金輪御造営差図(かなわごぞうえいさしず) 
鎌倉~室町時代・13~16世紀 島根県・千家家蔵

(注)こちらの作品は11月4日(日)で展示が終了しています


そこには、まさに3本の柱が1本に束ねられて、それが9セットで出雲大社の本殿が立つように描かれていたのです。
古代の出雲大社の本殿が、今よりもずっと高くて日本一高い建物だったという伝承は事実だったのか。
いろいろと想像したくなりますが、まずは実物をごらんいただき、その迫力を体感してください。
1本の柱の直径は、1.3メートルもありますよ。それが3本束ねて1本の柱となり、それが9セットで出雲大社の本殿となる。その様子を想像してみてください。
めっちゃ高い建物のように思えてきませんか。さて想像にひたるだけではなく、冷静にケース内の柱を観察しましょう。

おや、穴があいている。これは発掘調査であいた穴?



いえいえ違います。この柱を運んできて柱穴に落として立てる時に、縄を引っかけるためにあけた穴だったのです。
それから表面を削った後がある。猫がひっかいたのかって?違いますよ。手斧(ちょうな)と呼ばれる工具で加工した痕なのです。柱、それ自体を観察するといにしえの大社本殿の巨大性だけではなく、本殿そのものがどのように建てられたのか、その一端を知ることもできるのです。実物のもつ重要性、おわかりいただけましたでしょうか。

でも、この宇豆柱、保存処理がなされているとは言え、とてもデリケートなものなのです。本来、遠くまで旅するものではないんです。それは、あたかもルーブル美術館からモナリザを東博へ運ぶようなものです。

では、なぜ島根県は宇豆柱を県外で展示したのか。それは、全国の人々が集うこの東博で宇豆柱をたくさんの人々に見てもらって、「神々の国」に足を運んでもらいたいからです。
そのために私達は、出雲大社のご理解のもと、宇豆柱を東京まで持ってきました。
どうか、この島根県の心意気を受けとめ、多くの方々の来県をお待ちしています。

そうそう、大事なことを言うのを忘れていました。肉眼では確認できませんが、この宇豆柱、ベンガラが付着していたんですよ。
ということは、鎌倉時代の出雲大社の本殿は朱色だったのです。

 

カテゴリ:研究員のイチオシ2012年度の特別展

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posted by 森田喜久男(島根県立古代出雲歴史博物館専門学芸員) at 2012年11月08日 (木)

 

書を楽しむ 第25回 「うたあわせ」

書を見るのは楽しいです。

より多くのみなさんに書を見る楽しさを知ってもらいたい、という願いを込めて、この「書を楽しむ」シリーズ、第25回です。

本館3室(宮廷の美術)で国宝「寛平御時后宮歌合」が展示中です(2012年11月18日(日) まで) 。

国宝 寛平御時后宮歌合(十巻本歌合)(部分) 伝宗尊親王筆 平安時代・11世紀
国宝 寛平御時后宮歌合(十巻本歌合)(部分) 伝宗尊親王筆 平安時代・11世紀

国宝なのにずいぶん地味な作品だな~、
なんて、思いませんでしたか?
これが、よく見ると、
やっぱり仮名が美しいです!

(左)拡大、(右)筆者のエンピツ写し
(左)拡大、(右)恵美がエンピツで写しました。

エンピツで、「ゆきの」と「やまの」だけ
写してみました。
「ゆ」や「の」がゆったりと丸くて、
やわらかい、優しい気持ちになる字です。

エンピツで写しつづけて、
形は似るようになりましたが、
エンピツと筆とは大きな違いがあります。
それは、筆の弾力です。
筆の弾力で、
リズムや筆力が生まれて、
美しい線が表現されます。



この「寛平御時后宮歌合」は、
「十巻本歌合」(じっかんぼんうたあわせ)の一部です。

「十巻本歌合」とは、
平安時代、関白の藤原頼通(よりみち、992~1074)が編纂させたものですが、
これは草稿なので、
朱や墨の加筆や訂正があります。

以前、「書を楽しむ」第18回でお伝えした、仮名の王様「高野切」(こうやぎれ)。
覚えていますか?
「十巻本歌合」は、「高野切」と近い時期に書写されたので、
中に、「高野切」と同じ筆者の字もあります。

ところで、
「歌合」とは、なんでしょう。

画像に「右」や「左」と書いてあるのが見えますよね。
右の歌と、左の歌で、競い合う催しです。
一番古い記録では、仁和年間(885~89)の歌合があります。

今回展示している場面は、
冬の歌の歌合の部分ですから、
「ゆき」、「しらゆき」の字がたくさん見えます。

ゆったりと優雅な「ゆき」を探して、
真っ白い雪景色を想像してみませんか?

 

カテゴリ:研究員のイチオシ書跡

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posted by 恵美千鶴子(書跡・歴史室) at 2012年11月07日 (水)

 

トーハク仏像選手権 途中経過

東京国立博物館140周年特集陳列「館蔵仏像名品選」(本館11室、12月2日(日)まで)にあわせて開催中の「トーハク仏像選手権」。
みなさまは投票いただけましたか?

投票期間も半ばを過ぎましたので、ここで現在の投票状況を確認してみましょう。
現在の投票状況

1~3位は大接戦!
これからも刻々と順位が変化しそうで、目が離せません。

そこで、上位の3作品にについて、みどころポイントをあらためて紹介いたします。


まずは、鎌倉時代に南都諸寺院の造像に携わった仏師善円の作風に近いといわれる菩薩立像です。
こちらは「唇」にご注目ください。まるでリップグロスを塗ったかのように、つやつやした輝きを放っています。
唇に薄い水晶を嵌めているのは大変めずらしい作例です。

 
重要文化財 菩薩立像 鎌倉時代・13世紀
唇にご注目ください。


次に、奈良の内山永久寺(廃寺)に伝来したことが知られる愛染明王坐像です。
像の彩色から厨子の絵画まで、鎌倉末期の造像当初のものを良好な状態で残しています。
特に瓔珞や台座、厨子の天蓋などの装飾の美しさはみごとです。


重要文化財 愛染明王坐像  鎌倉時代 13~14世紀

展示では厨子から出していますが、厨子に納められた状態の写真で天蓋や厨子内部の絵とのバランスをご覧ください。


最後に、京都府加茂町の浄瑠璃寺にあったと伝えられる十二神将像です。
躍動感あふれる姿や個性的な表情に目が行きがちですが、
展示では下から当てている照明により、繊細な衣の模様や彩色もよくご覧いただけます。


重要文化財 十二神将 京都・浄瑠璃寺伝来  鎌倉時代・13世紀
衣の模様や彩色をじっくりご覧ください。


ところで、トーハクの総合文化展で、個人利用にかぎって写真撮影(寄託品など一部撮影禁止マークのついている作品以外)ができることは、意外と知られいていないようです。
今回の特集陳列はすべて館蔵品のため、お寺などではなかなか撮影できない仏像をご自由に撮影いただける貴重な機会となっています。


お気に入りの仏像をみつけたら、とっておきの表情をカメラに収めてお持ち帰りください。
そして、トーハク仏像選手権への投票もお忘れなく!
 

カテゴリ:ウェブおすすめコンテンツ彫刻

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posted by 奥田 緑(広報室) at 2012年11月06日 (火)

 

特別展「出雲―聖地の至宝―」の“奇妙な”銅鐸

お蔭様で多くの方々にご覧いただいている特別展「出雲―聖地の至宝―」(2012年10月10日(水)~11月25日(日)、本館特別5室・4室)。
今回は、その2章「島根の至宝」の作品のなかから、実に奇妙な銅鐸をご紹介しましょう。
2章の入口を入ると正面に鈕(吊り手)が欠けた小さな銅鐸が展示してあります。
皆さん、展示ケースに近づいてこの銅鐸をよーくご覧ください。特に、身の上半にあけられた二つの丸い孔(あな)の間にご注目! 

何か見えませんか?

銅鐸 伝出雲出土 弥生時代中期 島根・八雲本陣記念財団蔵
島根県指定文化財 銅鐸 伝出雲出土 
弥生時代中期 現存高 22.3cm
島根・八雲本陣記念財団蔵


「よく見えないよ!」
 
「ちょっと待って! 眼のようなものが・・・。 あっ、顔だ!!」

部分拡大

その通り!

ライトに照らされて浮かび上がる妖しげな顔。
眉とともに目尻が極端に長く表現された特徴的な眼。そして大きな鼻。そこには口の表現はありません。静かに何ものかをにらみつけているかのようなその独特な眼は、悪霊や邪悪なものすべてをにらみ威嚇する「邪視(じゃし)」を表現したものとも言われています。
こうした邪視文をもつ銅鐸は、明治24年(1891)に、最初に広島県福田(木ノ宗山)で発見されたことから「福田型銅鐸」とも呼ばれています。その数はきわめて少なく、中国地方から4個の発見が知られるのみでした。しかし、昭和55年(1980)、佐賀県鳥栖市教育委員会の発掘調査で、これと同型式の銅鐸の鋳型が発見されました。これによって、これまで銅鐸分布圏外にあった九州でも銅鐸の生産が行われていたことが明らかとなってきました。そして平成10年(1998)、佐賀県吉野ヶ里遺跡から待望の銅鐸が発見。その型式は福田型であり、しかもこの伝出雲銅鐸と同じ鋳型で鋳造された同笵銅鐸であることがその後の調査で明らかとなりました。こうした一連の発見により、佐賀地域で福田型銅鐸が製作され、それが出雲まで運ばれたことが指摘されるようになってきたのです。
これらの銅鐸に表現された邪視文は、ここに見られるような写実的なものからはじまり、次にその眼のみが表現され、やがて本来きわめて重要であったはずのその眼も消え去り、その空間のみが存在するという変遷をたどります(下図参照)。

出雲銅鐸実測図
岡山市上足守出土銅鐸実測図
左:福田木ノ宗山出土銅鐸実測図、右:伯耆国出土銅鐸実測図
井上洋一 福田型銅鐸の再検討 福田型銅鐸 『古代青銅の流通と鋳造』鶴山堂1999より


神の顔とも表現されるこの邪視文は、その下に表現された水鳥とともに、銅鐸の謎を解く重要な鍵となっています。

ところで、この銅鐸は、長く木幡家に「花器」として伝えられてきました。
なんと、銅鐸が花器に使われていた!?

銅鐸の周囲には魚の鰭のように飛び出した部分があります。その左右の鰭の下方に注目すると、そこには孔が開けられた痕跡がみられます。この孔(今は埋められています)に紐や針金などを通し、銅鐸を逆さに壁や柱などに吊るし、花器として用いていたようです。このように銅鐸を花器に変身させた例は他にもありますが、その多くは、江戸時代ころに改変されたのではないか。奈良文化財研究所の難波洋三さんの見解です。
それにしても銅鐸を花器にしてしまうとは・・・。時の趣味人には脱帽ですね。

特別4室入ってすぐ正面に展示しているこちらの銅鐸をぜひご覧ください。

 

カテゴリ:研究員のイチオシ考古2012年度の特別展

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posted by 井上洋一(学芸企画課長) at 2012年11月02日 (金)