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特別展「始皇帝と大兵馬俑」 40万人達成!

特別展「始皇帝と大兵馬俑」(2015年10月27日(火)~ 2016年2月21日(日)、平成館)は、2月10日(水)に40万人目のお客様をお迎えしました。
お越しいただきました皆様に、心より御礼申し上げます。

40万人目のお客様は、神奈川県横浜市よりお越しの沢田栞さん。
大学のお友達、谷口真里恵さんと一緒にご来館いただきました。
沢田さんには、東京国立博物館長 銭谷眞美より、記念品として特別展図録とクッキー(特別展のショップで大好評販売中!)などを贈呈しました。


特別展「始皇帝と大兵馬俑」40万人セレモニー
右から館長の銭谷眞美、沢田栞さん、ご友人の谷口真里恵さん
2月10日(水) 平成館エントランスにて



「40万人達成」のプレートとともに、平成館ラウンジの撮影コーナーで記念撮影

お2人の通っていらっしゃる大学はキャンパスメンバーズの会員校ということで、当館によくお越しいただいているとか。
いつもありがとうございます。
お2人とも大学では日本史を専攻されており、歴史に興味があって本展にお越しになったそうです。

「中国まで兵馬俑を見に行く機会がなかなかないので、日本で展示されているうちに見たいと思って来ました」という沢田さん。
展覧会公式サイトで予習も済んでいるそうで、「1体1体顔が違うと聞いているので、じっくり見たいです」と、お2人で展覧会への期待を語ってくださいました。

特別展「始皇帝と大兵馬俑」は残りあと10日ほど。
もしかしたら、皆様の身近な人に似た兵馬俑があるかもしれません。兵馬俑の顔をじっくりとご覧になりにいらっしゃいませんか?
皆様のご来館を心よりお待ちしております。
 

カテゴリ:news2015年度の特別展

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posted by 高桑那々美(広報室) at 2016年02月10日 (水)

 

寄贈された「中国史跡写真」

東京国立博物館には、歴史的な価値の高い写真のコレクションがいくつもあります。
徳川家が去った後の江戸城の最後の姿を写した「旧江戸城写真帖」、近代日本最初の文化財調査の記録「壬申検査写真」、文化財保護の基礎を築いた「臨時全国宝物取調写真」、北京・紫禁城の深奥を捉えた「北京城写真帖」などです。

このような当館の古写真コレクションに、新たに貴重な一群が加わりました。それが今回特集で展示中の「中国史跡写真」(2016年1月2日(土)~ 2016年2月28日(日)、本館15室)です。写真カードで約4500枚にのぼるこの写真は、関野貞(1867~1935)と竹島卓一(1902~1992)という二人の東洋建築史学者の長年にわたる調査の成果です。

関野は東洋建築史研究を代表する学者の一人で、若い頃は奈良で古寺の調査と修理に従事するとともに、平城宮跡の位置を確定しました。東京帝国大学教授となった明治時代の後半からは朝鮮半島と中国大陸を踏査し、各地の古建築や史跡の意義を明らかにしました。関野が東大を退官した後、新設された研究機関、東方文化学院東京研究所の事業として構想したのが、中国歴代王朝の皇帝陵と遼・金王朝時代の建築の調査です。昭和5年(1930)に始まった関野の調査に助手として随行したのが竹島でした。二人は江南から調査を始めて北上し華北に至りますが、昭和10年に関野は急逝しました。その遺志を受けた竹島が調査を継続しますが、昭和12年には応召して戦地に赴くこととなり、調査は中絶します。
主に竹島が撮影した史跡・建築の写真は研究書『熱河』『遼金時代の建築と其仏像』の素材となるとともに、原板と焼付の一式が東方文化学院に納められました。しかし竹島は納入した写真以外に自分で撮っていたものも含めて、第二次大戦後も一人で焼付写真の整理を続けていました。竹島は戦後、名古屋工業大学教授として教壇に立つかたわら、東洋古建築に関する学識を見込まれて、火災で損傷した法隆寺金堂の保存工事事務所長を務め、その再建に尽力しました。また若い頃から研究していた宋代の建築書『営造法式』の研究によって、昭和48年には学士院賞・恩賜賞を授賞しています。

杭州霊隠寺大殿前東塔 明成祖長陵 石人
左:霊隠寺大殿前東塔  大正7年(1918) 竹島卓一氏寄贈
右:明成祖長陵 石人
(文臣)  竹島卓一撮影  昭和6年(1931) 竹島卓一氏寄贈


竹島が整理を続けていた写真はその没後、ご息女が手元に留めて、やはりこつこつと目録を作っておられました。そしてご息女がたまたま当館で、関紀子(当館アソシエイトフェロー)が担当した古写真の特集陳列「清朝末期の光景」(2010年)をごらんになったことから、私たちとのご縁ができたのです。寄贈を受けた写真については、東方文化学院の資料を引き継いだ東京大学東洋文化研究所の平勢隆郎教授のご理解によって、東大所蔵分の写真との突合せとそれに基いた学術的な目録の刊行を果たすことができました。『東方文化学院旧蔵建築写真目録』(2014年)と『東京国立博物館旧蔵「中国史跡写真」目録』(2015年、いずれも東京大学東洋文化研究所から刊行)の2冊です。細かい確認点の多い調査には関と三輪紫都香(当館アソシエイトフェロー)が従事しましたが、竹島家二代にわたる整理がなければ、このように短い期間で成果をまとめることはできなかったでしょう。

今回の展示で紹介した写真は、「中国史跡写真」のごく一部です。関野が最初に撮影した写真は大正7年(1918)のものですから、およそ100年を経て皆さんの前に姿を見せたことになります。私たちも写真の保存と整理に尽くされた方々に常に思いを馳せながら、その継承と公開を図ってゆきたいと思います。(文中敬称略)
 

 

カテゴリ:研究員のイチオシ特集・特別公開

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posted by 田良島哲(博物館情報課長) at 2016年02月09日 (火)

 

源頼光の大江山酒呑童子退治

このあいだお正月と思ったら、1月も早や終わり。「1月は行く 2月は逃げる 3月は去る」と申しますが、特にせわしない年度末は、時間の経過がいっそう早く感じられます。さて2月3日は節分。紙のお面を付けて鬼の役をする人は、とんでくる豆にお気を付けください。(余談ですが、あのシンプルに炒っただけの大豆、くせになりますよね~)今回は節分にちなんで、鬼退治をテーマとする美術工芸品のお話をしたいと思います。

ご紹介するのは、「頼光大江山入図大花瓶(らいこうおおえやまいりずだいかびん)」。2点1セットで、高さが127センチ近い大作です。富山・高岡の鋳金工であった横山孝茂(たかしげ)・孝純(こうじゅん)親子が共同制作し、明治6年(1873)のウィーン万国博覧会に出品されました。全体を銅の鋳造で作り、金や銀、赤銅(しゃくどう・金と銅の合金)や四分一(しぶいち・銀と銅の合金)などを交え、多様なモチーフを、鋳金と彫金の技法を駆使して平面に立体に表しています。龍・蛟(みずち)・邪鬼や虎・三猿(見ざる聞かざる言わざる)・亀などの動物、松葉・紅葉・銀杏などの植物、列弁文や幾何学文など、日本の伝統的なモチーフや文様ですが、その種類は数え上げたらきりがないほど。しかも技術の精巧さと表現の豊かさ!一体どうやって作ったのか、完成に幾日を要したことか・・日本のハイレベルな金工品が、世界に驚嘆をもって迎えられたことは、想像に難くありません。

頼光大江山入図大花瓶
頼光大江山入図大花瓶
横山孝茂・横山孝純作 明治5年(1872)  ウィーン万国博覧会事務局
(本館18室にて通年展示)

頼光大江山入図大花瓶

頼光大江山入図大花瓶

まだまだ語り尽くせぬ作品の魅力。ですが今回は、胴の部分に表わされた物語に注目します。2点の花瓶の胴部表裏4箇所に描かれた物語は、作品の名称にもなっているとおり、武勇で知られた源頼光(みなもとのよりみつ・らいこう 948~1021)らが大江山で酒呑童子(しゅてんどうじ 酒天童子とも)を征伐したという、お伽(とぎ)話の中の場面なのです。このお話を描いた絵巻や絵本は、江戸時代には広く人々の目にするところとなり、近代も戦前までは、誰もが小さいころ、一度は目にし耳にした、お伽話の代表ともいわれています。お話の内容には、いくつかの系統があるようですが、ここでは一般的な筋書きにしたがって、場面を見ていきます。比較の対象として、当館の所蔵する「酒呑童子絵巻」(伝狩野孝信筆 江戸時代・江戸時代17世紀 ※現在は展示されておりません)をあげます。(なおこの絵巻では、舞台が大江山ではなく伊吹山となっています)

【第1場面】(A瓶-表)山伏姿の3名が、滝の落ちる山中に丸木を掛け渡っています。左上には老人と童子の姿がみえます。
悪鬼の酒呑童子は大江山にひそみ、子分の鬼たちに命じて、都から女性をさらっていました。帝は勇猛な武人として聞こえた源頼光(みなもとのよりみつ・らいこう)をはじめ、渡辺綱(わたなべのつな)、坂田金時(さかたのきんとき)、卜部季武(うらべのすえたけ)、碓井貞光(うすいさだみつ)、藤原保昌(ふじわらのやすまさ)6名に、酒呑童子討伐の命をくだし、おのおのは山伏姿に身を変えて、住吉・八幡・熊野の3神に導かれながら、難所を越え山中に踏み込みます。大花瓶では、山伏は3名、神々は2柱ですが、あとの3名1神を次の場面に分けて配したものと思われ、これは山伏の衣装の文様が6パターンあることからも明らかです。縦長な画面という制約の中で、人物など主題をできるだけ大きく見せようと配慮したのでしょう。これは裏面でも同様です。
第一場面
左:頼光大江山入図大花瓶 第1場面(A瓶-表) 以下同
右:酒呑童子絵巻 伝狩野孝信筆 江戸時代・17世紀 東京国立博物館蔵(現在展示されていません) 以下同



【第2場面】(B瓶-表)一行の前に川辺で衣服を洗っている十二単姿の女性がいます。右上には神の姿。左上は酒呑童子の棲家で、門前には見張役の子分の鬼たちがいます。
頼光らは途上の川辺で、泣きながら衣服を洗っている女性に出会います。わけを尋ねると、「酒呑童子たちは、都から女性をさらってきては殺し、体を食べ血を飲んでいます。私はこうして血の付いた服を洗っているのです」。女性から鬼たちの棲家を聞き出した一行は歩みを進めるのでした。
第2場面
左:第2場面(A瓶-表)
右:酒呑童子絵巻


【第3場面】(A瓶-裏)十二単をまとった女性にかしづかれ、大きな酒盃を前にした総髪の大男。その前では、扇を手ににぎやかに舞い踊る山伏たち。
一行の前に現れた酒呑童子は、鬼ではなく人間の姿をしていました。一行を山伏とみて信用した酒呑童子は、彼らを酒宴に誘います。頼光たちは持参した酒を酒呑童子たちにふるまいますが、実はこの酒、神々より授かった神通力のあるもの。鬼が呑めば毒となり、しびれてしまうのでした。盃を重ねた酒呑童子はすっかり参ってしまい、奥へ引き取ります。
第4場面
左:第3場面(A瓶-裏)
右:酒呑童子絵巻


【第4場面】(B瓶-裏)山伏たちは、子分の鬼たちに酒を勧めます。すでに酒呑童子の姿は見えず、酩酊して寝込む鬼の姿も見えます。
奥に下がった酒呑童子をよそに、山伏たちと鬼たちは酒盛りを続けます。不思議な酒の力で子分の鬼たちは次々と倒れ伏していきます。A・B瓶の表側では、向かって右から左へと話が展開していますが、絵巻の場面の順番に従うなら、裏側では向かって左(A瓶)から右(B瓶)へと進行していることになります。つまり表側をA→B瓶へと見て後ろに回りこみ、普通ならば裏面を右から左つまりB→A瓶と見ていくのでしょうが、そうすると絵巻とは場面の順番が異なることになります。あるいは別系統の絵手本にならったのか、そのあたりはさほど頓着しなかったのか。
第3場面
左:第4場面(B瓶-裏)
右:酒呑童子絵巻



大花瓶では、お話しはここまで。こののち頼光らは、背負っていた笈(おい)から甲冑を取り出して着けると、酩酊して鬼の正体を現した酒呑童子や配下の鬼たちを次々と斬り倒し、女性たちを救い出して都へと戻るという、ドラマチックな場面が展開するのですけれど。昨年10月放映の「ぶらぶら美術・博物館」で、この大花瓶をご紹介した時も、山田五郎さん、おぎやはぎさんから、「オチないじゃん!」と突っ込まれました。(そう仰られても・・)


酒呑童子絵巻


この大作が製作された明治初期は、老若男女だれもがよく知っていたであろう、源頼光や渡辺綱の酒呑童子退治の物語。当時の人々は、大花瓶の図柄を見て「ああ、あのお話しだ。」とすぐに理解できたはず。長く親しまれてきた日本の武勇伝だからこそ、横山親子は様々なモチーフとともに、日本的なものの象徴としてこの物語を択んだのでしょう。

そして、この作品とともにぜひご覧いただきたいのが、国宝の太刀 伯耆安綱(童子切安綱)です(本館13室にて3月13日(日)まで展示中)。源頼光が酒呑童子を切った太刀の伝説に仮託されての号「童子切」。当館の誇る名刀、もはや言葉は不要。ぜひその目で確かめてください!


国宝  太刀 伯耆安綱(名物 童子切安綱) 平安時代・10~12世紀 東京国立博物館蔵



 

カテゴリ:研究員のイチオシ

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posted by 伊藤信二(広報室長) at 2016年02月02日 (火)

 

「始皇帝と大兵馬俑」研究員のオススメ2

「立射俑」~発射準備、完了!~

閉幕までついに1ヵ月を切った特別展「始皇帝と大兵馬俑」
もうご覧いただけたましたでしょうか?

さて、本展の展示作品をご紹介する「担当研究員オススメ」シリーズ第二弾として、今回は私のお気に入りの、立射俑(りっしゃよう)をご紹介いたします。


立射俑
秦時代・前3世紀
秦始皇帝陵博物院蔵


立射俑は、弓または弩(ど)を構えた状態でポーズをとっていると考えられる兵馬俑です。
両手に弓・弩弓をもち、矢をつがえて攻撃命令を待つ、緊迫した兵士の姿を表したものです。

無冠で軽く結い上げた髷は、歩兵俑と同様に紐で留めてあります。
少し上向きに遠くを見据える視線は、接近戦ではなく、遠くの敵へ目掛けて矢を射る兵士の独特な表情のように感じられます。

 
髪型や表情にもご注目ください

また、革製や鉄製の鎧を身に着けない軽装備は、刻々と変化する戦場に臨機応変に対応するために簡略化されたと考えられています。きっと陣中にあって散開、移動を繰り返しては敵に矢を射掛けていたのでしょう。

目標にまっすぐに向けた瞳と連動した、指先までピンと張り詰めたポーズは、朽ちてなくなってしまったとはいえ、弓・弩を引き絞る音が聞こえそうな空気感がよく伝わってきます。
L字状に足を交差させて踏ん張っている足とひねりを加えた腕のバランスがとても良い、見ていて飽きないポーズだと思いますが、いかがでしょうか。
こんな兵士に遠くから的にされた敵軍兵士はきっと生きた心地がしなかっただろうなぁと、心の底から思います。

さて、この立射俑、私にとっては「あるポーズ」に見えて仕方のない兵馬俑です。
私が会場で見かけたときに「このポーズは何かに似ている気がするなぁ・・・」と思った瞬間、「アチョ~!」と思わずつぶやいてしまったことをよく覚えています。
弓・弩を両手で引き絞っている動作が、その武器がなくなってしまうと、まるでカンフー映画のひとコマのように見えてしまったのです。
私にとっては、立射俑である前に、相手に見事な一撃を決めた主人公が叫ぶ雄叫びポーズだったのです。
皆さんにはどのように見えるでしょうか。

さて、最後に、本展覧会では今回ご紹介した立射俑のほかに、もう1体、弓兵もしくは弩兵と考えられる兵馬俑がいます。
跪射俑(きしゃよう)と呼ばれるその兵馬俑は、武器は一緒と考えられながらも、立射俑と異なるいでたちです。

 
跪射俑(左)と立射俑(右)
秦時代・前3世紀
秦始皇帝陵博物院蔵


こちらも凛々しい兵士ですが、立射俑とどこが似ていて、どこが違うか、会場で見比べるというのも、本展の楽しみ方のひとつだと思います。

カテゴリ:研究員のイチオシ2015年度の特別展

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posted by 井出浩正(考古室) at 2016年01月26日 (火)

 

特集「顔真卿と唐時代の書」の見どころ(3)

東博&書道博の「顔真卿と唐時代の書」(東洋館8室、1月31日(日)まで)も、残すところ数日となってきました。日本国内はもちろん、海外の雑誌にもこの連携企画は取り上げられ、唐時代の書の奥深さと、人気の高さを実感しています。

3000年に及ぶ中国の書の歴史上、王羲之(おうぎし)が活躍した東晋時代と、欧陽詢(おうようじゅん)・虞世南(ぐせいなん)・褚遂良(ちょすいりょう)・顔真卿(がんしんけい)の四大家が活躍した唐時代においては、書法が最高潮に到達しました。一口に四大家と言っても、それぞれに書風は異なり、よくもまぁこれほど高いレベルで、趣の異なる書が完成したものです。

欧陽詢も虞世南も、もとは南朝の陳に生まれました。しかし、欧陽詢の代表作「九成宮醴泉銘(きゅうせいきゅうれいせんめい)」(632年)は、北朝の流れを汲む隋様式を受け継いで、研ぎ澄まされた造形を誇っています。隋の「美人董氏墓誌銘(びじんとうしぼしめい)」(597年)は、すでにかなり洗練されていました。欧陽詢はこれをもう一押し、更に磨きをかけたのです。では、欧陽詢はどのような観点から磨きをかけたのでしょうか?・・・答えは、文字の組み立て方。

九成宮醴泉銘、美人董氏墓誌銘
(左)九成宮醴泉銘 欧陽詢筆 唐時代・貞観6年(632)  台東区立書道博物館蔵
台東区立書道博物館で1月31日(日)まで展示
(中)九成宮醴泉銘 欧陽詢筆 唐時代・貞観6年(632)  個人蔵
東京国立博物館で1月31日(日)まで展示
(右)美人董氏墓誌銘 隋時代・開皇17年(597) 台東区立書道博物館蔵
台東区立書道博物館で1月31日(日)まで展示


欧陽詢は文字を書くにあたって、どの部分を主とし、どの部分を従とするのか、どこを軽くしどこを重くするのか、全体の字姿をイメージしてから、筆をおろしました。そして、この考えを突き詰めて、36のルールに帰納させたのです。この36のルールを学べば、誰でも手っ取り早く、さしあたって美しい文字が書けるようになります。 書き方のノウハウを公式化しちゃうなんて、さすがです、欧陽詢!


これに対し虞世南の代表作 「孔子廟堂碑(こうしびょうどうひ)」(628~630頃)は、王羲之の7代目の孫・智永に書を学んだだけあって、一見すると穏やかな用筆でありながら、力を内にこめた表現になっています。もちろん、隋の「蘇慈墓誌銘」(そじぼしめい)」(603年)などの美しさを継承し、その上に立脚しているわけですが、虞世南の書き方のポイントは何だったのでしょうか?・・・答えは、響きです。

孔子廟堂碑、蘇慈墓誌銘
(左)孔子廟堂碑 虞世南筆 唐時代・628~630頃 台東区立書道博物館蔵
台東区立書道博物館で1月31日(日)まで展示
(右)蘇慈墓誌銘 隋時代・仁寿3年(603)
 台東区立書道博物館蔵
台東区立書道博物館で1月31日(日)まで展示


東晋の王羲之は、何気ない書きぶりの中に、豊かな表情を盛り込みました。つまり、文字の形も大切ですが、実際の書を見ると、筆の勢いや墨色の諧調などが微妙にからみあい、形以上に文字がオーラを発しているのです。現代風に言うなら、写真に撮った時に失われる要素を大切にした、というところでしょうか。虞世南はこの考えを推し進め、文字の組み立て方や筆の用い方に留意するだけでなく、文字に自分の心もちを盛り込む表現をめざしたのです。見方によっては欧陽詢の上を行くスタンス、みごとです、虞世南!


唐の初代皇帝の高祖や第2代皇帝の太宗は、正当な伝統を受け継ぐ江南の文化に、いかに対峙するかが大きな問題でした。太宗が王羲之を熱愛し、蘭亭序に固執したのも、それなりの理由があったのです。太宗の善政によって貞観の治が導かれ、天下泰平の日々が続き、素晴らしい名筆がうまれました。あっぱれです、太宗皇帝!


やがて褚遂良、そして顔真卿らが活躍し、歴史に残る黄金期を形成していった唐時代の名筆の数々をお楽しみください。

孟法師碑、千福寺多宝塔碑、顔氏家廟碑
(左)孟法師碑(もうほうしひ) 褚遂良筆 唐時代・貞観16年(642)、三井記念美術館蔵
東京国立博物館で1月31日(日)まで展示
(中)千福寺多宝塔碑(せんぷくじたほうとうひ) 顔真卿筆 唐時代・天宝11年(752) 東京国立博物館蔵
東京国立博物館で1月31日(日)まで展示
(右)顔氏家廟碑(がんしかびょうひ) 顔真卿筆 唐時代・建中元年(780) 台東区立書道博物館蔵
台東区立書道博物館で1月31日(日)まで展示


 

カテゴリ:研究員のイチオシ特集・特別公開中国の絵画・書跡

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posted by 富田淳(学芸企画課長) at 2016年01月20日 (水)