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1089ブログ

円空と木の関係

円空仏は素材である木が造形に大きく関わっています。木の形や質感を最大限生かして造った像は円空と自然の合作と言ってもいいでしょう。
たとえば三十三観音の顔に注目してください。木目が等間隔に通っている柾目(まさめ)の顔と隙間が多い板目(いため)の顔では印象が違いますね。
板目(左から2つめと4つめ)の方がのんびりしていて、柾目の方はまじめそうです。
 
三十三観音立像 円空作 江戸時代・17世紀 岐阜・千光寺蔵
三十三観音立像(部分) 円空作 江戸時代・17世紀 岐阜・千光寺蔵


木目の間隔によっても印象は異なります。宇賀神と弁財天を比べてみましょう。
 
(左)弁財天坐像および二童子立像のうち弁財天坐像 円空作 江戸時代・17世紀 岐阜・千光寺蔵 (右)宇賀神像 円空作 江戸時代・17世紀 岐阜・千光寺蔵
(左)弁財天坐像および二童子立像のうち弁財天坐像(部分) 円空作 江戸時代・17世紀 岐阜・千光寺蔵
(右)宇賀神像
(部分) 円空作 江戸時代・17世紀 岐阜・千光寺蔵

左の弁財天の方が目が詰んでいて木目が目立ちません。宇賀神の木目も同様だったらその魅力は少し減るのではないでしょうか。


円空が彫り進めている時に節が現われたため、姿を変えたと思われる例がこちら。

僧形立像 円空作 江戸時代・17世紀 岐阜・熊野神社蔵
僧形立像 円空作 江戸時代・17世紀 岐阜・熊野神社蔵

胸の前の宝珠が中央から少しずれているのは右胸に節があるからでしょう。からだを左にひねった分、顔は右を向いています。動きが出て面白い像になりました。


木を断ち割った時の断面がとても効果的に見えるものもあります。
 
龍頭観音菩薩立像 円空作 江戸時代・17世紀 岐阜・清峰寺蔵
龍頭観音菩薩立像(部分) 円空作 江戸時代・17世紀 岐阜・清峰寺蔵

木の繊維のつくる曲線が龍の頭に動きを加えています。ここには一切鑿は入れていません。

今回出品作中最大の金剛力士(仁王)立像は横から見ると肩甲骨が出っ張って、腰に向かってすぼまっていく背中のラインがみごとに表現されているように見えます。
しかしこれはもともとの木の形です。円空はこれを見越して仁王像を造ることにしたのでしょう。

金剛力士(仁王)立像 吽形  円空作 江戸時代・17世紀  岐阜・千光寺蔵
金剛力士(仁王)立像 吽形  円空作 江戸時代・17世紀  岐阜・千光寺蔵


円空は木にカミや仏がこもっていると考えていました。だから木の質感、あるいは個々の木が持っている姿にあまり手を加えずに完成としたのです。 

東京国立博物館140周年 特別展「飛騨の円空―千光寺とその周辺の足跡―」(~4月7日(日)、本館特別5室)

 

カテゴリ:彫刻2013年度の特別展

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posted by 浅見龍介(東洋室長) at 2013年03月01日 (金)

 

二人の王氏

王羲之の没後、多くの人々が王羲之の書を理想とし、摸本や拓本を通してその書を学びました。ここでは、明末清初に活躍した王鐸(おうたく)(1592~1652)と、乾隆の三筆の一人に挙げられる王文治(おうぶんじ)(1730~1802)をご紹介しましょう。

王鐸は、明王朝が瓦解し、清王朝が天下を支配した激動の時代に生まれました。明の官僚であった王鐸は、清朝に投降し、明と清の両朝に仕えたので、後世から不節操な人物を意味する「弐臣(じしん)」のレッテルを貼られ、歴史の上ではとても低い評価を与えられています。そのため、王鐸の書は長い間、等閑に付されてきました。

王鐸の書をご覧ください(図1)。典雅な美しさをたたえた王羲之の書とは異なり、いかにも書きなぐった、無粋な書に見えませんか?しかし、じっくりと王鐸の書を眺めていると、王鐸の図抜けた素晴らしさが見えてきます。実は王鐸、同姓の王羲之を殊のほか敬愛し、執拗なまでに王羲之の書を学んでいるのです。

行書五言律詩軸(部分) 王鐸筆 明~清時代・17世紀 東京国立博物館蔵
図1: 行書五言律詩軸(部分) 王鐸筆 明~清時代・17世紀 東京国立博物館蔵

図2は、王鐸が自らどのような書を学んできたかに言及した文章です。世の人々は、私は宋時代の米芾(べいふつ)を学んだとか、さらに遡って唐時代の虞世南(ぐせいなん)を学んだとか言っているけれど、彼らの書も王羲之・王献之(おうけんし)に源を発していることに気付いていない。私は50年このかた、王羲之・王献之の書を学んできた…。

臨淳化閣帖 書画合璧巻(部分) 王鐸筆 清時代・順治6年(1649) 大阪市立美術館蔵
図2: 臨淳化閣帖 書画合璧巻(部分) 王鐸筆 清時代・順治6年(1649) 大阪市立美術館蔵

王鐸の書の魅力は一言で語り尽くせません。当時の知識人たちは、書を学ぶには学問を修めるべきであると考えていました。枝葉末節の技法の習得にうつつを抜かすのではなく、物事の本質をつかもうとしたのです。臨機応変に文字の姿を変えながら、グイグイと書き進め、紙面全体からは見事なオーラが立ち昇っています。


一方、乾隆25年(1760)に第3位の成績で進士に及第したエリート官僚の王文治も、王羲之の書をこよなく愛しました。王文治は、まず王羲之の拓本をとことん鑑賞することが大切であると言っています。

図3は、元時代の呉炳が収蔵していたことから、呉炳本として知られる定武蘭亭序です。その拓本の後ろには、王文治が幸運にもこの名品を鑑賞しえた際の感懐を書き記しています(図4)。

定武蘭亭序-呉炳本- 王羲之筆 原跡=東晋時代・永和9年(353)  東京国立博物館蔵
図3: 定武蘭亭序-呉炳本- 王羲之筆 原跡=東晋時代・永和9年(353)  東京国立博物館蔵

定武蘭亭序-呉炳本-に書き記した王文治の識語
図4: 定武蘭亭序-呉炳本-に書き記した王文治の識語

王文治は、友人が所有する定武蘭亭序が、あまりに素晴らしいので借用し、三日にわたってずっと鑑賞しました。王文治は、拓本の来歴などをあれこれ考証するのではなく、あくまでも自らの直感を大切にするタイプでした。そして三日後、王文治は王羲之の書の素晴らしさを感得します。ためつすがめつ、じっくりと定武蘭亭序を鑑賞することで、王文治の感覚が王羲之の書と共鳴し、形を越えた奥深さを理解したのでした。

王鐸と王文治、ともに王羲之の書を何十年にもわたって学び続けることで、自分の理想とする書を見つけ出しました。王羲之の書のどこが素晴らしいのか。そもそも、どのような書が理想であるのか。自問自答を繰り返すことで、あなたにしかたどり着けない桃源郷を見つけてください。

日中国交正常化40周年 東京国立博物館140周年 特別展「書聖 王羲之」(~3月3日(日)、平成館)

 

 

カテゴリ:2012年度の特別展

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posted by 富田淳(列品管理課長) at 2013年02月28日 (木)

 

書を楽しむ 第32回「短冊」

書を見るのは楽しいです。

より多くのみなさんに書を見る楽しさを知ってもらいたい、という願いを込めて、この「書を楽しむ」シリーズ、第32回です。

短冊(たんざく)、というと、
一番身近なのは、七夕でしょうか。
7月7日、
笹の枝に、願い事を書いた短冊を結びつけましたよね。

いま、本館3室で、
短冊をたくさん貼り付けたアルバム、
「短冊手鑑」を展示しています。

短冊手鑑
短冊手鑑  鎌倉~江戸時代・14~18世紀(本館3室・宮廷の美術にて 2013年3月24日(日) まで展示)

ひとつひとつの短冊に装飾がされていて、
きらびやかです。



短冊の右側には、
小さめの紙に人の名前が書いてあり、
これを極札(きわめふだ)と呼びます。
筆跡を鑑定する古筆家(こひつけ)が、
筆者名を書き、印(「琴山」) を捺しています。

短冊の一番上に書かれた大きい文字は、
和歌の題です。
その下に二行に分けて和歌が記され、
左下に和歌を詠んだ人の名前が小さく書かれています。
(天皇の短冊の場合、親王時代には名前を書きますが、
天皇になってからのものは署名をしません)

和歌の会では、
題名だけ書かれた短冊を渡されて、
その題に合わせた和歌を書きます。
だから、歌会での短冊の場合は、
題と和歌は、ちがう人が書いていることになります。


さて、この「短冊手鑑」は、
江戸時代の浦井有国(うらいありくに、1780~1858)が
編纂したものです。

浦井有国は、刀剣の柄糸(つかいと)を扱う商人ですが、
俳句や和歌を学んでいて、短冊収集に熱心でした。
そのため、
その時期の『甲子夜話』(かっしやわ)という本の中で、
浦井有国は「短冊天狗」(たんざくてんぐ)と呼ばれています。

「短冊天狗」、
なんだか、いい呼び名ですね。

「短冊天狗」の集めた「短冊手鑑」、
ぜひ御覧ください。

カテゴリ:研究員のイチオシ書跡

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posted by 恵美千鶴子(書跡・歴史室) at 2013年02月27日 (水)

 

特集陳列「南九州の古墳文化」

平成24年度 文化庁考古資料相互活用促進事業(考古資料相互貸借事業)として、宮崎県立西都原考古博物館と当館所蔵の宮崎県・鹿児島県内で出土した考古資料で、独自性の高い南九州地方の古墳文化をご紹介します。(特集陳列「南九州の古墳文化」3月3日(日)まで)
考古資料相互貸借事業は、国立博物館所蔵の考古資料を地元の地方博物館所蔵品と交換・展示し、相互に広く公開する目的で平成10年度に始まり15年目を迎えました。

展示全景、展示室入口
(左)展示全景、(右)展示室入口

さて、九州地方は日本列島を構成する主な4つの大島のうち、南北約320km、東西約220kmの規模をもち本州西端に接する位置します。
いわゆる北九州地方と南九州地方は、ちょうど東京-名古屋間くらいの距離ですね。
九州北部(長崎・佐賀・福岡県)地方は、対馬海峡を挟んで北西約200kmに朝鮮半島と向かい合い、弥生時代以降は連綿として大陸の影響を受けてきました。新来の文化は主に日本海や瀬戸内海地方を経て、中国・近畿地方へ伝えられました。
対して、九州南部(鹿児島・宮崎県)地方は、南(太平洋)側に1000kmにおよぶ西南諸島(琉球列島)が連なり、北東側には遠く四国西南部を望んでいます。

これまで先史・原史(縄文・弥生~古墳)時代の九州南部地方のさまざまな交流が明らかにされてきています。
すでに縄文時代(後期)には、市来貝塚(鹿児島県いちき串木野市)を標識とする市来式土器が西南諸島(沖縄本島)に及んでおり、屋久島では大規模な集落も確認されています。
また、豊後水道を挟んで四国西南部(伊予・土佐)との交流もみられます。
一方、弥生時代(中期~後期)には四国北岸部の瀬戸内系土器が出土し、これらの模倣土器が作られることから、豊後水道を経た瀬戸内海との交流も深めていったようです。
やがて、後期後半には畿内系土器が出土するようになり注目されます。

古墳時代前期(3~4世紀)に、九州北部の瀬戸内沿岸部に畿内型古墳が出現しますが、大正年間の調査などで、中期(5世紀)に宮崎県西都原古墳群などで高い水準の古墳文化が成立していたことが知られていました。
近年、宮崎県・鹿児島県の地元自治体・大学の調査研究によって、九州南部にもいち早く古墳文化の定着が確認され、前期~中期には九州最大の前方後円墳が、次々と営まれていたことが明らかになっています。

概説パネル
南九州の古墳文化解説パネル

これまで古墳文化発祥の畿内地方から遠隔地であることや、地下式横穴墓と板石積(いたいしづみ)石棺墓などの特異な墓制の存在からその独自性が強調されてきました。しかし、最近では大規模な古墳群と地下式横穴墓の一体性も解明されつつあり、このような九州南部の独自性の高い古墳文化の位置づけは今後の課題です。
日本古代国家形成期の古墳時代において、どのような歴史的位置を占めるかは23日(土)に開催される特別講演会(シンポジウム形式)に譲るとしまして、ここでは本特集陳列の見どころをかいつまんでご紹介します。


まず、前半部は九州東南部地方の独自性の高い地下式横穴墓からの出土品です。
地下式横穴墓は、地表から掘下げた1~2mほどの「竪坑」の底から、横方向に設けた「玄室」を墓室としていることが特徴です。
古墳時代中期(5世紀)から終末期の7世紀初めまで、霧島山系の北麓盆地部(宮崎県えびの市など)から宮崎平野と鹿児島県志布志湾(肝属平野)周辺地域を中心に分布しています。
えびの市内だけでも1000基を超えると推定されていて、在地系の古墳として定着していたことがわかります。

しかし、宮崎平野や肝属平野では5世紀後半の前方後円墳とも重複する例が見つかっており、墳丘をもつ畿内古墳文化とも融合していた可能性が高まってきています。
さらに従来、出土品に中期(5世紀)の古墳文化を代表する鉄製帯金式甲冑や武器類が多いことが著しい特徴であることは知られていましたが、近年の発掘調査でますます増加し、やはり地方において最大の甲冑出土古墳の集中地域であることがはっきりしてきました。
逆に云えば、“見慣れない”構造の古墳でありながら、中身は近畿地方と遜色ない内容で、被葬者の社会的位置を暗示しています。

鉄製帯金式甲冑 (左:宮崎県六野原8号地下式横穴墓出土、右:宮崎県西都原4号地下式横穴墓出土他)
鉄製帯金式甲冑 (左:宮崎県西都原4号地下式横穴墓出土、右:宮崎県六野原8号地下式横穴墓出土、古墳時代・5世紀  宮崎県立西都原考古博物館蔵)

一方、同じ出土品でも、なかには他の地方ではみられない“特異な”遺物が含まれることも注目されてきました。
その代表は蛇行剣です。
蛇行剣は古墳時代中期から後期(5~6世紀)に全国で約70例が出土していますが、そのおよそ半数が地下式横穴墓出土品です。
ただ、とっても使いずらそうですので・・・(= 戦争の道具としては大変キケン!です)、まさに九州南部の古墳文化を象徴する存在といえます。

同様に、本来の武器の機能をわざわざ“損ねる”ような製品は、実は5世紀には近畿地方でも多様な形態が知られています。
今回、当時大陸の戦闘で主流であった最新の武器である鉄矛の「“変わり”矛」(蛇行鉄矛・刀形鉄矛など)も小特集(考古展示室)していますので、是非ご覧頂きたいと思います。


(左) 蛇行剣 宮崎県大萩31号地下式横穴墓出土 古墳時代・5世紀  宮崎・宮崎県立西都原考古博物館蔵
(右上)蛇行鉄矛 兵庫県加西市亀山古墳出土 古墳時代・5世紀 東京国立博物館蔵 平成館考古展示室にて展示中
(右下)鉄矛 香川県綾川町小野津頭出土 古墳時代・5世紀 東京国立博物館蔵(宮武喩・大澤伊三郎氏寄贈) 平成館考古展示室にて展示中


また、九州地方全体で出土する圭頭形鉄鏃や(うまく表現できないほど“変わった形”の・・・)異形鉄鏃も、九州東南部地方独特のカタチをもつことが特色です。
当時の(近畿地方でも流行っていた)“トレンド”を採り入れた九州南部バージョンといえます。
ほかにも、奄美大島以南の西南諸島でしか獲れない南海産貝(イモガイ)製釧なども他の地方には見られません。
弥生時代以来の西南諸島との伝統を背景にした九州南部地方の交流の足跡と、独自のファッションを窺わせるもので注目されます。

ちなみに、当時最新で貴重品の初期馬具も、畿内地方では(おそらく沢山あったに違いないのですが・・・)副葬品にはあまり選ばれていません。しかし、地下式横穴墓には(なぜか?・・・)たくさん副葬されています。
もしかして?・・・、イイものが手に入った(!?)ということで、即(!)永遠の眠りの伴侶にしてしまうような(“屈託”のない)おおらかさを感じるのは私だけでしょうか・・・。

鉄鏃と貝釧・鉄鐸・初期馬具 (左:宮崎県小木原7号地下式横穴墓出土他、右:宮崎県旭台6号地下式横穴墓出土他)


貝釧・鉄鐸・初期馬具(左上:宮崎県小木原7号地下式横穴墓出土他)と鉄鏃・土器(右上:宮崎県旭台6号地下式横穴墓出土他、左下:鹿児島県溝下古墳出土、右下:宮崎県西臼杵郡高千穂町大字田原出土他・土器は宮崎県西都市下三財古城出土)

次に、後半部に展示されている埴輪にも、重要な特徴が見られます。
古墳時代中期(5世紀)に西日本最大級の前方後円墳として出現する宮崎県西都原古墳群の男狭穂塚・女狭穂塚古墳(全長175・175m:実は岡山県を除けば西日本最大!です)とその周辺の古墳には、きわめて高い技術で製作された埴輪群が樹立されていたことは、古くから知られていました。

近年の宮崎県立西都原考古博物館の発掘調査によってその全貌が解明しつつあり、埴輪のほとんどが高い技術で製作される西日本でも稀な例であることがいよいよはっきりしてきました(他の古墳では通常、“地元の職人”が製作したと考えられる製品が混じっているのが普通です・・・)。
その典型が、戦後早く重要文化財に指定された子持家形埴輪と船形埴輪であることは誰しも認めるところとなっています。



(左)重要文化財 埴輪 船  宮崎県西都市三宅 西都原古墳群出土  古墳時代・5世紀(東京国立博物館蔵)
(右)
重要文化財 埴輪 子持家 宮崎県西都市三宅 西都原古墳群出土 古墳時代・5世紀(東京国立博物館蔵) 平成館考古展示室で展示


このようなある種の“文化的落差の混在”をギャップ?と感じてしまうのは、現代人の「古墳文化」に対するステレオタイプな考えに基づくものでしょう。
少なくとも、これらの古墳造りに参加した大半の人々は“地元”の人々と考えられますし、その指揮をしたのは(間違いなく・・・)西都原古墳群に集った首長たちとみられます。

むしろ、地下式横穴墓を代表とする独自性の高い古墳に眠る九州南部の人々が、ありのままの姿を見せてくれている“メッセージ”と考えた方が素直に理解できそうです。
そこには日本の古代国家成立期に各地方の畿内古墳文化への明確な主体性と、決して一方通行ではない地域間交流の多様な在り方があったことが如実に示されているようです。

このように、5世紀を中心とした九州南部地方には、独自の墓制の存在にもかかわらず近畿地方の最新の技術と製品が“投入”されている様子が明らかにされつつあります。
日本上代史にも登場する「日向・諸縣(もろあがたの)君」ら、南九州の首長達との関係があるのかどうか。 
あるとすれば、どのような「事情」なのか、その歴史的な評価はこれからです。

これらの地下の“メッセージ”から、当時の人々のダイナミックな活動振りに想いを馳せていただければ幸いです。
 

関連事業
特別講演会「南九州の古墳文化 ―日本古代国家成立と九州南部地域文化の展開―」
2013年2月23日(土) 13:00 ~ 16:15 平成館-大講堂

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<1089ブログ>特集陳列「南九州の古墳文化」特別講演会へのいざない

 

カテゴリ:研究員のイチオシ考古

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posted by 古谷毅(列品管理課主任研究員) at 2013年02月22日 (金)

 

特別展「書聖 王羲之」10万人達成!

書の世界のスーパースターである王羲之、その書の実像や後世に与えた影響などに迫る
特別展「書聖 王羲之」(2013年1月22日(火)~3月3日(日))は、
おかげさまで、2月22日(金)に10万人目のお客様をお迎えしました。
たくさんのご来場、誠にありがとうございます。

10万人目のお客様は、千葉県・習志野市よりお越しの米地奈美(よねじなみ)さんです。
高校時代に書道部に所属し、王羲之の字をお手本にしていたという米地さん。
今日は、会社を早退して、本展覧会を観にお越しくださったとのことです。
米地さんには、東京国立博物館長 銭谷眞美より、記念品として
本展図録と展覧会オリジナルグッズを贈呈いたしました。



10万人セレモニーの様子。左から、米地奈美さん、銭谷眞美館長
2013年2月22日(金) 東京国立博物館平成館にて


本展覧会には王羲之の字姿を伝える資料や、王羲之の影響を受けた後世の書家の作品など、
たくさんの書の名品が並んでいますので、米地さんにもご満足いただけたことと思います。

ただいま、国宝「孔侍中帖(こうじちゅうじょう)」
(原跡=王羲之筆 唐時代・7~8世紀摸 前田育徳会蔵)も公開中。
[展示期間:2013年2月19日(火)~3月3日(日)]
王羲之の字姿を伝えるもっとも信憑性の高い資料とされる唐時代の摸本のひとつで、
桓武天皇(737-806)も借覧したという由緒正しい作品です。
会期も残りあとわずか。どうぞお見逃しなく!

カテゴリ:news2012年度の特別展

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posted by 林素子(広報室) at 2013年02月22日 (金)