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北京故宮博物院200選 研究員おすすめのみどころ(絵画の名品)

特別展「北京故宮博物院200選」(~2012年2月19日(日))をより深くお楽しみいただくための「研究員のおすすめ」シリーズのブログをお届けします。 今日は「絵画の名品」についてです。

トーハクの特別展「北京故宮博物院200選」には3つの“世界初”があります。
一つめは「清明上河図」の初の国外公開(2012年1月24日(火)まで展示)。これはもう何回も述べました。ところがこれ以外にもすごいところがあるんです!

二つめは、それまで持ち出しが厳しく制限されていた宋元の書画41件の大量公開です。これまで故宮が行ってきた海外展では最多の宋元書画が展示されています。もちろんすべて一級文物。
そのなかでもお勧めなのは、前回の「研究員のおすすめ」シリーズのブログ「書の名品」でもご紹介した「水村図」と、「楊竹西小像巻(ようちくせいしょうずかん)」です。


一級文物 楊竹西小像巻 王繹・倪瓚筆 元時代・至正23年(1363)

楊竹西こと楊謙は元時代の江南の富豪です。大金持ちにしては質素な格好をしていますね。これは文人の姿です。決して派手派手しい物質的に豊かな暮らしではなく、書を読み芸術を愛する文人として過ごすのが、中国人の最高の理想でした。冬でも枯れない松の木や静謐な筆づかいが、楊謙の人格の高さまでを象徴しています。


楊竹西小像巻(部分)
よく見るととても繊細な線を重ねて立体感を出しています。


三つめは、「康煕帝南巡図」(北京故宮)の二巻同時全巻展示。「南巡図」は清朝の第四代皇帝康熙帝(こうきてい)が江南地方を視察した様子を描いた作品です。もとは12巻ありましたが、今回展示しているのはクライマックスの最後の二巻。



ど~ん。横26メートルと33メートル(!)の北京故宮の「南巡図」が二巻同時に全巻ひろげて展示されるのは世界初!巨大な特別ケースに故宮博物院の研究員もびっくりしていました。

 
(左右ともに)一級文物 康熙帝南巡図巻 第11巻(部分) 王翬等筆 清時代・康熙30年(1691)

華麗な色彩、繊細な描写。
12巻描くのに6年(!)もかかったという、清朝の“国家プロジェクト”。


トーハクの展示チームが「南巡図」の展示にこだわったのは理由があります。「南巡図」に描かれているのは、皇帝の徳治のもとに暮らす、人々の幸せな姿です。「南巡図」を見ていると、その体験が「清明上河図」と似ているのを感じるでしょう。

 
(左右ともに)康熙帝南巡図巻 第11巻(部分)
大通りで、すってんころりん!
「お母さん、皇帝さまが通るんだってさ!」。家族や老人が描かれるのも特徴です。


(左右ともに)康熙帝南巡図巻 第11巻(部分)
力を合わせて長江を渡ります。
かわいいおじいさんたち、実は「天」の一部です。なぜって? 答えは会場で!

「南巡図」は「清明上河図」の清朝版とも言える作品で、この作品を二つ並べることで初めて、「清明上河図」が中国文化に担ってきた、重要な意味を体感することができるのです。

ほかにも、「清明上河図」の意味を改めて確認できる作品がありました。

 
(左)乾隆帝紫光閣遊宴画巻 姚文瀚筆 清時代・18世紀
スケートは満州族の武芸向上のための競技でもありました。
(右)万国来朝図(部分) 清時代・18世紀
西洋人にまじって琉球使節の顔が見えます。

 
乾隆帝生春詩意北京図軸 徐揚筆 清時代・乾隆32年(1767) (右は左の部分)
舞台は開封から北京に。
時代を超えてここでも、皇帝のもとで幸せに暮らす人々の姿が描かれています。

一見綺麗で豪華に見える様々な宮廷の装飾品は、ただ鑑賞するためのものではなく、そこに様々な意味が隠されています。
その意味に迫ったのが、第Ⅱ部の展示です。徽宗皇帝から乾隆皇帝へ、コレクションの歴史、文人たちの活躍…。展示にはたくさんの伏線が張り巡らされています。「名品を持ってきました!」というだけではない、北京故宮とトーハクのコラボならではの、展示のストーリーも見どころの一つです。
中国美術の真髄を、ぜひお楽しみください。

カテゴリ:研究員のイチオシ2011年度の特別展

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posted by 塚本麿充(東洋室) at 2012年01月15日 (日)

 

いろいろな龍に会えます(特集陳列「天翔ける龍」4)

特集陳列「天翔ける龍」(~2012年1月29日(日))は、おかげさまでたくさんの方々にお楽しみいただいています。
本館2階、中央の階段をはさんだ2つの部屋で開催しています。すぐ隣ではないのでどうぞお間違いのないように。あわせて77件の作品を展示しています。そんなに龍ばかりで面白い?と思われるかもしれませんが、いろいろな龍がいます。


一般になじみの深い龍はこれですね。現在、本ウェブサイトのコンテンツ「投票」の「トーハクの龍ベスト12」でトップを行くのは「博物館に初もうで」のポスターになったからでしょうか。
 
龍図屏風(龍虎図屏風のうち 部分) 曽我直庵筆 安土桃山~江戸時代・17世紀


では以下、個性派の登場です。
翼のある龍はご存知ですか?予告ブログ第1回で紹介しました。応龍という名前です。龍の中でも格が高く、雨を降らせる力があります。
  
(左)陣羽織 猩々緋羅紗地応龍波濤模様(部分) 江戸時代・19世紀 高木キヨウ氏寄贈
(右)和漢三才図会(部分) 巻45、46 龍蛇類・介甲類亀蟹属 江戸時代・正徳2年(1712)成立



角、鱗のない龍はいかがでしょう。螭龍(ちりゅう、あまりゅう)です。顔は猿のようです。なじみがないので皆さん探すのに苦労すると思います。

雲龍堆黒合子 中国 南宋時代・13世紀

 
雲龍堆黒合子(部分) 中国 南宋時代・13世紀

 
和漢三才図会(部分) 巻45、46 龍蛇類・介甲類亀蟹属 寺島良安編 江戸時代・正徳2年(1712)成立


象のように鼻の長い龍。これは名前がわかりません。舞楽面陵王の頭に乗っている龍は、腕や脛があります。展示しているのは鎌倉時代のものですが、源流は中国にありますからこんな姿の龍も中国で生まれたのです。
十二神将の兜の上の龍も象に似ていますね。
 
(左)重要文化財 十二神将立像 辰神(部分) 伝浄瑠璃寺伝来 鎌倉時代・13世紀
(右)舞楽面 陵王(部分) 高野山天野社伝来 鎌倉時代・13~14世紀 水野忠弘氏寄贈



十一面観音のように頭上にたくさんの顔のある龍もいます。これも鼻が長いですね。
中世の龍は象のように長い鼻が多いようです。
 
摩尼宝珠曼荼羅図(部分) 鎌倉時代・14世紀


龍の爪の数にも注目してください。日本の作品は3本が多いのですが、中国では3、4、5本のものがあります。
このうち5本は特別な龍です。5本爪の龍は中国では皇帝の象徴とされ、皇帝の身の回りで使うものにしか表わしてはいけないきまりでした。
 
黄釉龍文軒丸瓦 中国北京市明永楽帝長陵 明時代・15世紀

この瓦は明時代の皇帝永楽帝のお墓の建物に使われたもので、爪は5本、そして皇帝しか使用できなかった黄色の釉薬がかけられています。


さて、かっこいい龍の代表は左。当館の龍コレクションのトップスターです。右もなかなかですね。どちらも5本爪ですから皇帝のための器です。
 
(左)重要文化財 龍濤螺鈿稜花盆(部分) 中国 元時代・14世紀
(右)龍濤存星輪花盆(部分) 中国 清時代・康煕年間(1662~1722)



ではこれはどうでしょう。
 
鉄砂雲龍文壺 朝鮮 朝鮮時代・17世紀 清水信子氏寄贈

龍の頭部を拡大しました。横向きの顔なのに目がふたつ見えています。ピカソの絵のようです。


次は正面向き。
 
染付雲龍図菊形皿 伊万里 江戸時代・18~19世紀 平野耕輔氏寄贈


正面向きの龍はむずかしいのです。それにしてもこの団子鼻とウミウシのような体。故宮博物院展に出ている皇帝の服に表わされた龍のような中国の絵を真似たのですが、うまく描けなかったのですね。しかしこれはこれで味わいがあります。


これは何?
 
双龍文環頭大刀柄頭 三重県四日市市糠塚山出土 古墳時代・6世紀 安田由松氏・安田專行氏寄贈


ではこれは?
  
双龍文環頭大刀柄頭 愛知県春日井市明神町 猪之洞古墳出土 古墳時代・6世紀 愛知県寄贈


少しわかりやすくなりましたね。何か2匹の小動物が珠をくわえているのです。これは龍なんです。古墳時代、朝鮮半島からこの種の大刀が伝わったけれども表わされているものが何かわからなかったのでしょう。とりあえず真似てみた。真似た国産のものをまた真似て、ということを繰り返すうちに幾何学模様のようになったのでしょう。


今回の特集で一番のゆるキャラはこれ。
  
鬼龍子 韓国ソウル市徳寿宮 朝鮮時代・19世紀 

顔をアップにすると…。

鬼龍子(部分) 韓国ソウル市徳寿宮 朝鮮時代・19世紀

これが龍?と誰もが思うでしょう。龍には9匹の子がいるといいますが、そのうちの1匹、鬼龍子(きりゅうし)です。高いところから遠くを眺めるのが好きといわれ、屋根の上にのせられていたものです。強いから魔除けになります。


いかがですか?変わったものを中心に紹介しましたが、もちろん皆さんお馴染みの姿の龍もたくさんいます。本ブログの「博物館に初もうで」シリーズの「天翔ける龍」1~3もご参照ください。

ブログ1で紹介しました、今回展示している「自在置物 龍」の動きを実感できる、疑似体験コーナーを設置しています。自在置物は実際に手で動かすことができるのですが、残念ながら実物で体験していただくことはできません。そのかわりに画面に映った龍をみなさんの手で動かしていただきます。


最後に図録の宣伝です。
この図録は特集陳列の作品を順番に掲載し、解説したものではありません。展示作品の8割ほどを掲載していますが、他の部屋に展示している作品、展示していない作品も含む、トーハクの龍の優品104件を収録しています。「東の龍、西のドラゴン」「龍のルーツ」「仏教を守る龍」「雲をおこす龍」「龍と虎」「龍と鳳凰」「龍と芸能」など23のトピックスに分けて作品を紹介します。この本をガイドにしてトーハクの龍制覇を目指してください。

カテゴリ:研究員のイチオシ博物館に初もうで

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posted by 浅見龍介(東洋室) at 2012年01月13日 (金)

 

国宝 賢愚経残巻(大聖武)公開期間も残りわずか!

本館第1室で1月2日(月)より1月15日(日)まで正月特別公開を行っている国宝 賢愚経残巻(大聖武)をご紹介します。

国宝 賢愚経残巻(大聖武) 奈良時代・8世紀
(以下二枚)国宝 賢愚経残巻(大聖武)(部分) 奈良時代・8世紀

『賢愚経』は、仏教的な立場からみた賢人と愚人の寓話(ぐうわ)69編を収めた経典です。平安時代の『今昔物語』にも大きな影響を与えたと考えられています。この東博本は、もとは東大寺に伝来した奈良時代の写経のうちの一巻で、「波斯匿王女金剛品(はしのくおうにょこんごうぼん) 第八」にはじまる計262行からなっています。

国宝 賢愚経残巻(大聖武) 奈良時代・8世紀
(上図の拡大)

ご覧になって、まず気がつくのは、文字が大きめで、力強く堂々としていること、そして料紙の中につぶつぶが見えることだと思います。
私たちが目にする経典のほとんどは、漢字で書かれていますが、文字を読むよりも、だれがどんな気持ちでつくったのかなどを想像しながら見てみると、新しい発見があります。
それは文字のかたちや、字配り、使用している紙にもあらわれています。奈良時代には、文字を書きやすくするために、紙の表面を石で叩いたり、金泥で書いた文字を輝かせようと猪の牙で磨くことも行われました。

本文は、写経のなかでもとくに大きい文字で、通常の経典が一行十七字であるのに対し、一行十二、三字で肉太のしっかりとした筆致で書かれているのが特徴です。古くから聖武天皇(701~756年)筆と伝え、その断簡は「大聖武」あるいは大和国の東大寺戒壇院に伝来したことから「大和切」と称して、茶人などに愛好されました。とくに古い名筆を収録したアルバムともいえる古筆手鑑(こひつてかがみ)などの巻頭を飾り、手鑑の格式(かくしき)を示す指標となっていることで知られています。

古筆手鑑
古筆手鑑 毫戦 奈良時代-江戸時代(展示予定は未定)

料紙は「茶毘紙(だびし)」とよばれる厚手の紙を用いています。この名称は、骨粉を漉き込んだようにみえるところから付けられました。かつては麻紙(まし)に白土を混入し、防虫と荘厳(しょうごん)をかねて香木の粉末を漉き込んだものといわれていました。荼毘紙は、一行十七字で「中聖武」と称される奈良時代の経典のなかにもみられますが、近年、当館所蔵の中聖武である「称讃浄土仏摂受経」の修理にともなう調査で、巻末の第6紙から第8紙に使用されている白荼毘紙が、ニシキギ科の落葉灌木である真弓(まゆみ)の靭皮(じんぴ)繊維でつくられていることが明らかとなりました。

称讃浄土仏摂受経
称讃浄土仏摂受経(部分) 奈良時代・8世紀(展示予定未定)

真弓を原料とする紙は、天平感宝元年(749年)に正倉院文書に「更別真弓紙十三張」とみえますが、注目してもらいたいのはその繊維の長さです。平均の繊維の長さが8~9mmと長い楮の繊維と比べて、繊維の長さが0.5~0.6mmと非常に短い真弓は、水の中で分散しやすく、地合の良い紙を作ることができるというメリットがあります。繊維に混入しているつぶつぶは、真弓の靭皮繊維に含まれる樹脂成分や粗い繊維と思われます。

大聖武の真弓の繊維とつぶつぶ
大聖武の真弓の繊維とつぶつぶ (1目盛りは0.01㎜) 
国宝 賢愚経残巻(大聖武)(部分) 奈良時代・8世紀


いわゆる天平経と称する唐風写経の黄金時代には、紫紙金字の金光明最勝王経のように、字形はあくまで端正で、温雅な美しさがあります。この書風に一種の荘重な趣が加わって新しい写経体が登場するのが、奈良時代後期であり、その根幹となった書風が、この賢愚経(大聖武)であるといえます。

紫紙金字金光明最勝王経
紫紙金字金光明最勝王経(部分) 奈良時代・8世紀(展示予定未定)

国宝 賢愚経残巻(大聖武)の展示期間は残りわずか(2012年1月15日(日)まで)となっております。お見逃しなく!

カテゴリ:研究員のイチオシ博物館に初もうで

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posted by 高橋裕次(博物館情報課長) at 2012年01月12日 (木)

 

北京故宮博物院200選 研究員おすすめのみどころ(書の名品)

特別展「北京故宮博物院200選」(~2012年2月19日(日))をより深くお楽しみいただくための「研究員のおすすめ」シリーズのブログをお届けします。 今日は「書の名品」についてです。


趙孟頫(ちょうもうふ)は宋の皇族の末裔でありながら、26歳で故国滅亡の憂き目に遭います。その後、彼はしばし郷里に隠棲。しかし、ほどなく元の初代皇帝フビライに抜擢され、心ならずも元朝に仕えることとなります。中国では、二つの王朝に仕えた者を“弐臣”(じしん)と呼んで侮蔑する伝統があります。漢民族の趙孟頫は、母国を滅ぼしたモンゴル族の元に仕えたために、同僚はもちろん知人や家族からも白眼視されてしまいます。この時期に友人に宛てた手紙には、「辞めることは許されないし、いつも南を望むと、ふと涙があふれ出てしまう」と、凄惨な心境を吐露しています。


彼は書において復古主義を標榜し、王羲之(おうぎし)・王献之(おうけんし)らの伝統的な書法を復興しました。趙孟頫の20代の書は、まだまだ荒削りでしたが、40代には別人と思えるほど美しい書を表現する能力を身につけるようになります。趙孟頫は、書を学ぶには拓本を通して古人の用筆の意(こころ)を知ることが肝要であり、その上でさらに結体(文字の組み立て方)にも留意すべきであると言っています。彼が見つめていたのは目先の形だけではなく、形と用筆が密接な関係にあることを見抜き、用筆を導く古意に注目しました。


今回出陳されている趙孟頫の書は2点。
一つは石碑のための原稿で、石に刻した時に見ばえが良い書風を選び、字形も実に堂々としています。
 
一級文物 楷書帝師胆巴碑巻(部分) 趙孟頫筆 元時代・延祐3年(1316) 中国・故宮博物院蔵


そしてもう一つは、趙孟頫の行書の代表作として知られる洛神賦(らくしんふ)。
 
一級文物 行書洛神賦巻(部分) 趙孟頫筆 元時代・14世紀 中国・故宮博物院蔵 (右)左の画像の拡大

滲みの少ない紙に曹植の洛神賦を行書で揮毫したこの書巻、流麗な字形の美しさはもちろんですが、みじんの破綻もきたさない凄絶な用筆の素晴らしさ、前後の関係から臨機応変に字形を変える応用力。比類のないこの巧さを、是非ご自分の眼で見て、納得していただきたいと思います。


そして、これだけの技巧を持った趙孟頫が49歳で描いた中国絵画史上の傑作が、水村図巻(すいそんずかん)。
 
一級文物 水村図巻(部分) 趙孟頫 元時代・大徳6年(1302) 中国・故宮博物院蔵

画を描くには技巧が必要ですが、技巧がすなわち絵画の価値に等しいわけではありません。技巧や形を超えて、文人の内面までをも表現してしまった水村図巻。趙孟頫は、異民族の元に仕えながら、書画の伝統を復興し、漢民族の精粋を改めて世に知らしめ、後世に極めて大きな影響を与えました。

ちなみに、趙孟頫の代筆と指摘される妻の管道昇(かんどうしょう)の書簡をはじめとして、次子の趙雍(ちょうよう)、孫の趙麟(ちょうりん)や王蒙(おうもう)など、趙ファミリーの諸作も展示しています。
お見逃しなく!

 
一級文物 行書秋深帖(部分) 管道昇 元時代・13-14世紀  中国・故宮博物院蔵 (右)左の画像の拡大

カテゴリ:研究員のイチオシ2011年度の特別展

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posted by 富田淳(列品管理課長) at 2012年01月10日 (火)

 

正月行事のルーツは宮廷儀礼!!

博物館に初もうで」( ~1月29日(日))と連動し、江戸時代の年中行事、とりわけ正月にかかわるさまざまな風俗や行事を絵画・書跡・歴史資料・工芸品で紹介する展示「歴史資料 江戸の年中行事―新年を祝う」が、本館16室にて2月12日(日)まで開催されています。

正月に家の入口に門松を飾り羽子板で羽根つきをする。きれいな着物を着飾って外出するといった光景は、現代の日本のお正月でも普通に見られる景色ですがその起源はかなり昔に遡ることができます。門松は平安時代の宮廷儀礼である「小松引き」がルーツと考えられています。「小松引き」とは、正月初めの子の日に、外出して小さな松の木を引き抜いてくる貴族たちの遊びの一種で、この「子の日の松」を長寿祈願のため愛好する習慣から変遷したものです。現在でも「根引きの松」と呼よばれ、関西地方の家の玄関の両側に白い和紙で包み金赤の水引を掛けた根が付いたままの小松が飾られているのはその名残でしょう。

正月飾りをする永寿堂店先 と 門松売図
(左)正月飾りをする永寿堂店先 鈴木春信筆 江戸時代・18世紀
(右)門松売図 模者不詳 原本:狩野晴川院筆 江戸~明治時代・19世紀
(ともに ~2012年2月12日(日)展示 本館16室)

また正月遊びの代名詞である羽子板での羽根突きは、毬杖(ぎっちょう)という奈良時代から行われてきた宮廷の神事がもとになっています。木製の槌をつけた木製の杖を振るい、木製の毬を相手陣に打ち込む正月の宮廷神事でしたが、後に童子の遊びとなり、杖が羽子板に変化し、毬が羽に変わった遊びが江戸時代に入ると庶民の遊びとして人気となり現在の羽根突きの原型が形作られたと考えられています。

羽子板 と 合惚色の五節句・正月
(左)羽子板 江戸時代・18~19世紀
(右)合惚色の五節句・正月 喜多川歌麿筆 江戸時代・18世紀
(
ともに ~2012年2月12日(日)展示 本館16室)

今ご紹介したこれらはあくまでほんの一例ですが、季節ごとに行う日本人が今も大切にしている一年の中で行う様々なイベントである「年中行事」の大半は、実は貴族たちがその精力を傾けた宮廷儀礼や儀式にその起源を求めることができます。貴族たちにとってはそうした儀礼や儀式を滞りなくこなしていくことがいわゆる政治を行うこととイコールだったのです。

しかし時代が下り貴族が政治の表舞台から遠ざかっていくにつれて、宮廷で行われていた儀式や儀礼は庶民へと広がって行き、多くの遊びや民間での行事へと変化していきます。今では大人も子供も楽しむ正月遊びも、かつての平安貴族たちにとっては自分たちの浮沈をかけた真剣勝負の場であったことに思いをはせると何とも不思議な感じがしませんか?

カテゴリ:研究員のイチオシ博物館に初もうで

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posted by 高梨真行(書跡・歴史室、ボランティア室)) at 2012年01月09日 (月)