このページの本文へ移動

1089ブログ

生誕550年記念 文徴明とその時代 その3

台東区立書道博物館との連携企画第17弾、「生誕550年記念 文徴明とその時代」は後期展示に入り、3月1日(日)の閉幕まであとわずかとなりました。鍋島主任研究員六人部研究員に続く、しんがりブログをお届けします!

南宋の皇族であった趙孟頫(ちょうもうふ、1254~1322)は、26歳の時に祖国滅亡の憂き目に遭いましたが、その豊かな才能が元の初代皇帝フビライに認められ、元王朝に仕えることになりました。漢民族である南宋の皇族でありながら、故国を滅ぼした異民族の王朝に仕える忸怩(じくじ)たる思いを、趙孟頫は知人への書簡の中で切々と訴えています。
趙孟頫は高級官僚を務めながら、生涯をかけて壮大な書画のしかけに挑みました。彼は復古主義を提唱し、数々の素晴らしい書画を作ることで、伝統的な漢民族の優位性を天下に知らしめたのです。伝存する王羲之(おうぎし)の書が日ごとに減少するなか、多くの人々は趙孟頫の書を学ぶことで王羲之の書に近づこうとしたほど、趙孟頫の書は王羲之のそれに肉薄していました。楷行草は王羲之・王献之(おうけんし)を学び、精到な書風を誇りました ※図1参照

楷書漢汲黯伝冊 趙孟頫筆
図1:楷書漢汲黯伝冊 趙孟頫筆 元時代・延祐7年(1320) 永青文庫蔵

楷書漢汲黯伝冊 文徴明補筆
図1:楷書漢汲黯伝冊 文徴明補筆 明時代・嘉靖20年(1541) 永青文庫蔵

楷書漢汲黯伝冊跋 文徴明筆
図1:楷書漢汲黯伝冊跋 文徴明筆 明時代・嘉靖20年(1541) 永青文庫蔵

趙孟頫67歳の書。書道博物館では、72歳の文徴明が帖末に記した跋文を展示しています。

趙孟頫が後世に与えた影響はとてつもなく大きく、明時代の初期にも多くの追随者がいました。しかし明時代の中期、趙孟頫の没後150年も過ぎた頃になると、さすがに趙孟頫流の書は形骸化してしまい、趙孟頫の書そのものを貶(おとし)める者が出てきました。文徴明(ぶんちょうめい、1470~1559)の先輩にして友人であった祝允明(しゅくいんめい、1460~1526)もその一人 ※図2参照。祝允明は趙孟頫の書を俗書と貶め、趙孟頫の書を学ぶことなく、直接、王羲之の書の拓本を学ぶことで、王羲之の真髄に近づこうとしたのです。祝允明のこのような立ち位置は、いわば新しい考えに基づく伝統派であったと言えます。

楷書前後出師表巻 祝允明筆
図2:楷書前後出師表巻 祝允明筆 明時代・正徳9年(1514) 東京国立博物館蔵 (高島菊次郎氏寄贈)

祝允明は趙孟頫を介さず、直接に魏晋の書を学びました。祝允明55歳の書。東博展示。
楷書前後出師表巻 祝允明筆
図2:楷書前後出師表巻 祝允明筆 明時代・正徳9年(1514) 東京国立博物館蔵 (高島菊次郎氏寄贈)
祝允明は趙孟頫を介さず、直接に魏晋の書を学びました。祝允明55歳の書。東博展示。


しかし、文徴明は終生にわたって趙孟頫を尊敬し、趙孟頫が歩んだ道を彼自身も歩もうとしました。趙孟頫が理想とした王羲之の書を、おそらく文徴明は趙孟頫の書を通して学び、趙孟頫が幾度となく書いた千字文を、文徴明もまた数え切れないほど揮毫しています ※図3参照。祝允明が新しい考えに基づく伝統派であるとするのなら、文徴明は古い考えを墨守した伝統派であったと言えるでしょう。

草書千字文冊 文徴明筆
図3:草書千字文冊 文徴明筆 明時代・嘉靖14年(1535) 台東区立書道博物館蔵 
文徴明は生涯におびただしい数の千字文を書き残しました。これは66歳の書。書道博展示。「福縁善慶」をあしらったトートバックは、書道博だけで販売しています。

草書千字文巻 文徴明筆
図3:草書千字文巻 文徴明筆 明時代・嘉靖24年(1546) 東京国立博物館蔵 (青山杉雨氏寄贈)
文徴明76歳の書。東博展示。
 

菊花文禽図軸 沈周筆

高級官僚であった文徴明の父文林(ぶんりん)は、趙孟頫の書を学びました。文徴明が幼いころ、画を学んだ沈周や ※図4参照、書を学んだ李応禎や ※図5参照、文を学んだ呉寛 ※図6参照 たちはみな文林の同僚で、それぞれ文徴明より43歳、39歳、35歳も年上でした。悪友の祝允明や唐寅(とういん、1470~1523)が文徴明を騙して色街に連れ出し、あらかじめ示し合わせた妓女が文徴明に科(しな)を作ると、血相を変えて帰宅した堅物の文徴明は、一世代や二世代も古い流れを汲む道学先生の傾向がすこぶる強い人物であったようです。

【写真右】図4:菊花文禽図軸 沈周筆 明時代・成化20年(1484) 大阪市立美術館蔵
沈周の最晩年83歳の作。このとき文徴明は40歳でした。書道博展示。
 
【写真右上】図4:菊花文禽図軸 沈周筆 明時代・成化20年(1484) 大阪市立美術館蔵
沈周の最晩年83歳の作。このとき文徴明は40歳でした。書道博展示。


詔求直言表(停雲館帖より) 李応禎筆
図5:詔求直言表(停雲館帖より) 李応禎筆 明時代・15世紀 東京国立博物館蔵 (高島菊次郎氏寄贈)
李応禎は強い意志を持ち、気概に富んだ人物でした。22歳の文徴明が師事したとき、李応禎は61歳。東博展示。

 

謝賜御書詩表巻跋 呉寛筆
図6:謝賜御書詩表巻跋 呉寛筆 明時代・15~16世紀 台東区立書道博物館蔵
文林は呉寛より10歳年下でしたが、同じ年に進士に及第し、昵懇の間柄でした。書道博展示。

歴史の波に翻弄され、一族だけでなく王朝の恨みまでをも晴らすかのように、壮大な挑戦を試みた趙孟頫と、実に恵まれた環境の中で摂生につとめ、90歳の最晩年まで郷里に閑居して努力に努力を重ねた文徴明は、両者ともその時代や境遇を象徴するかのような、えもいわれぬ書画の世界を築き上げ、後世に大きな影響を与えたのでした。
文徴明とほぼ同時代、文徴明より2つ年下で57歳の生涯を駆け抜けた王守仁は、王陽明と言った方が、通りが良いかも知れません。中国思想史上、朱子学を批判的に継承し、哲学の突破を実現した王守仁(王陽明)の書も、出陳されています ※図7参照

草書何陋軒記巻 王守仁筆
図7:草書何陋軒記巻 王守仁筆 明時代・16世紀 東京国立博物館蔵 (高島菊次郎氏寄贈)
王陽明の哲学は、董其昌にも隠然たる影響を及ぼしました。東博展示。

文徴明が90歳の長寿を全うしたとき、上海に5歳の董其昌(とうきしょう、1555~1636)がいました。王陽明の哲学が右派と左派に分かれながら広く浸透し、文化が爛熟し情欲が解放された明時代の後半、董其昌は文徴明や趙孟頫を意識しながら、芸苑に新たな息吹を吹き込みます ※図8参照

謝賜御書詩表巻跋 董其昌筆
図8:謝賜御書詩表巻跋 董其昌筆 明時代・16~17世紀 台東区立書道博物館蔵
董其昌は文徴明や趙孟頫を乗り越えようとして、数々の名品に真摯に対峙しました。書道博展示。

書画合壁冊 董其昌筆
図8:書画合壁冊 董其昌筆 明時代・崇禎2年(1629) 東京国立博物館蔵 (高島菊次郎氏寄贈)
董其昌は書画に対する考えが文徴明と異なりますが、文徴明がいたからこそ董其昌が活躍したと言えるでしょう。東博展示。

文徴明アイコン

閉幕まであとわずか。文徴明とその時代の書画を通して、文徴明の来し方と行く末に思いを馳せていただければ幸いです。まだ見てない人も、前半の展示しか見てない人も、伝統と革新が入り交じり、文化の流れが大きく変貌しようとする明時代の中期に焦点を当てたこの企画を、お見逃しなく!

 
連携企画「生誕550年記念 文徴明とその時代」バナー

東京国立博物館・台東区立書道博物館 連携企画
「生誕550年記念 文徴明とその時代」

2020年1月2日(木)~3月1日(日)
東京国立博物館 東洋館8室
2020年1月4日(土)~3月1日(日)
台東区立書道博物館

※ 前期:2月2日(日)まで、後期:2月4日(火)から

連携企画「生誕550年記念 文徴明とその時代」バナー

東京国立博物館・台東区立書道博物館 連携企画「生誕550年記念 文徴明とその時代」
2020年1月2日(木)~3月1日(日)
東京国立博物館 東洋館8室
2020年1月4日(土)~3月1日(日)
台東区立書道博物館

※ 前期:2月2日(日)まで、後期:2月4日(火)から

 

カテゴリ:研究員のイチオシ特集・特別公開中国の絵画・書跡

| 記事URL |

posted by 富田淳(学芸企画部長) at 2020年02月14日 (金)

 

1300年つづく、日本書紀の研究

日本書紀成立1300年 特別展「出雲と大和」、もうご覧いただけたでしょうか。
養老4年(720)に元正天皇へ奏上された「日本書紀」は、神代から持統天皇11年(697)までを編年体で記した歴史書で、全30巻あります。
本展では、巻2(神代巻)(じんだいかん)を展示しています。

重要文化財 日本書紀 巻二(にほんしょき まきに) 重要文化財 日本書紀 巻二(にほんしょき まきに)
重要文化財 日本書紀 巻二(にほんしょき まきに) 
南北朝時代・永和元年~3年(1375~77) 愛知・熱田神宮蔵

この場面は、本展の主旨となる第九段一書第二の部分です。右から四行目に、「高皇産霊尊」(たかみむすびのみこと)[▲1][▲1] と、同じ行の下方に「大己貴神」(おおなむちのかみ)[▲1][▲1] という文字が見えます。高皇産霊尊が大己貴神に、「顕露之事」(あらわにのこと)[▲2~3][▲2~3] は我が皇孫が治めるから、あなたは「神事 [▲3][▲3](幽事 [▲4][▲4])」(かくれたること)を治めなさい、と述べています。この時に分けて治められることになった「幽」と「顕」を象徴する場所が、出雲と大和なのです。

この「日本書紀(熱田本)」は、愛知県名古屋市に鎮座する熱田神宮(あつたじんぐう)に奉納され伝わったものです。巻2にはありませんが、全15巻中10巻に奥書(おくがき)があり、永和元年から三年の間に写されたことがわかります。さらに巻9には原本の奥書も記されており、そこから、卜部兼熈(うらべかねひろ、1348~1402)が秘点を記した本を写したことがわかります。

兼熈の卜部氏吉田家は、「日本書紀」の研究を重要視しており、本展の前期(~2月9日(日)まで)で展示した国宝「日本書紀 神代巻(乾元本)」には、卜部氏吉田家の秘点、すなわち解釈や訓点が書き込まれていました。この熱田本にも、その卜部氏吉田家の秘点が継承されていると考えられます。


これは、江戸時代に仮名で書かれた「日本書紀」です。


仮名日本紀 
香河景号写 江戸時代・享保3年(1817)写、30冊のうち、東京国立博物館蔵
※本展で展示はありません

赤線部分に、「あらはにの事」(顕)、「神の事」(幽)が見えます。「日本書紀」は、その読み方や解釈について、鎌倉時代以降に卜部氏が中心になって、研究がさかんに行われました。江戸時代の国学者の間でも研究はつづき、このように読みやすく仮名で記された本も作られたのです。

成立から1300年、さまざまに解釈され研究されてきた「日本書紀」の重みを、ぜひ本展で感じてください。

日本書紀成立1300年 特別展「出雲と大和」

平成館 特別展示室
2020年1月15日(水) ~ 2020年3月8日(日)

 

カテゴリ:2019年度の特別展

| 記事URL |

posted by 恵美千鶴子(百五十年史編纂室長) at 2020年02月12日 (水)

 

出雲と大和の仏像より日本仏教の歩みをたどる

日本書紀成立1300年 特別展「出雲と大和」。ご覧いただいた方のなかには、こんなにたくさん仏像が展示されているなんて知らなかった!という驚きの声をよせてくださる方もいらっしゃいます。

そうなんです。4章立ての展示構成のなかで、最後の第4章「仏と政(まつりごと)」では、奈良、島根からお出ましいただいた仏像をご覧いただくことができます。

本展の展示構成は、「出雲」に代表されるような有力な地域がそれぞれ日本各地に存在していた弥生時代から、奈良の三輪山付近を中心にして「大和」が力をつけ、そうした日本列島の広い地域をゆるやかに束ねる連合体のヤマト王権が成立し、その後中国の政治制度や文化を取り入れて中央集権的な律令国家へと移り変わっていく過程を順にご紹介する内容になっています。

仏教は朝鮮半島にあった百済国から伝来しました。外来の宗教を受け入れるか受け入れないか揉めた後、仏教が受け入れられるようになると、大王家、有力氏族は古墳に代わって寺院を建立するようになります。こうした氏族のシンボルが古墳から寺院へと変化するちょうど過渡期の様相を示すのが、第四章冒頭の「飛鳥寺塔心礎埋納品(あすかでらとうしんそまいのうひん)」です。飛鳥寺五重塔の礎石に埋められていた品々ですが、古墳に納められていたような勾玉や甲などが見られる点が特徴的です。


飛鳥寺塔心礎埋納品
飛鳥時代・6世紀 奈良県明日香村 飛鳥寺出土 奈良文化財研究所 飛鳥資料館蔵

飛鳥時代後期になると、寺院の数は飛鳥時代前期に比べると10倍ちかくに増え、全国に広まります。島根・鰐淵寺(がくえんじ)の観音菩薩立像は、法隆寺の百済観音菩薩立像(くだらかんのんぼさつりゅうぞう)にも似た、すらりとした長身に目を奪われますが、このお像が重要なのは出雲地方の有力氏族が両親のためにつくったものであることが銘文からはっきりわかる点です。たどたどしい文字が台座に見られますが、両親に対する思いが刻まれているかのようです。


重要文化財 観音菩薩立像
飛鳥時代・持統天皇6年(692) 島根・鰐淵寺蔵 (島根県立古代出雲歴史博物館寄託)


台座に刻まれた銘文

仏教は朝鮮半島を経由して日本に伝来してきたため、日本で最初期につくられた仏像は朝鮮半島の仏像の特徴を色濃く引き継いでいます。ところが遣隋使や遣唐使を派遣し、中国とやり取りをするようになると、中国の最新の情報が日本に直接的にもたらされるようになりました。中国唐代はじめの初唐期は、その前の隋代の仏像様式から、玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)が持ち帰ったインドの造形に影響を受けた写実性あふれる初唐様式へと移り変わる時期に当たります。当館の十一面観音菩薩立像(じゅういちめんかんのんぼさつりゅうぞう)は中国製の檀像(だんぞう)ですが、彫りの深い顔立ちからは、この像が玄奘三蔵帰朝後に造られたものであることがわかります。


重要文化財 十一面観音菩薩立像
中国・唐時代・7世紀 東京国立博物館蔵

こうした中国初唐期の仏像のかたちや技法が日本に取り入れられた実例が、奈良・石位寺(いしいでら)の浮彫伝薬師三尊像(うきぼりでんやくしさんぞんぞう)や奈良・當麻寺(たいまでら)の持国天立像(じこくてんりゅうぞう)(四天王像のうち)です。當麻寺の持国天立像は脱活乾漆造(だっかつかんしつづくり)という、奈良・興福寺の阿修羅像と同じ技法でつくられた日本最古の四天王像で、木粉などと漆を混ぜたペースト状のものを盛り上げて表面を形づくるため、細やかな起伏を表現することができます。大きさにも驚きますが、持国天面部の眉根を寄せた表情や見開いた目の表情など、モデルがあったのかと思うほど写実的で、迫真性に富んでいます。


重要文化財 浮彫伝薬師三尊像
飛鳥時代・7~8世紀 奈良・石位寺蔵


重要文化財 持国天立像
飛鳥時代・7世紀 奈良・當麻寺蔵

 

飛鳥時代後期から次第に国の輪郭が整ってくると、奈良時代には仏教が神祇とならんで国の重要な柱となりました。「護国」を担うとされる四天王は重要な信仰対象となり、また十一面観音菩薩のような変化観音の流行も、中国での信仰の隆盛を受けて日本にも取り入れられ、人々の安寧につながる現世利益的な効験を期待されたのでした。

本展の第4章では、日本の仏教黎明期から隆盛期という日本仏教の歩みをたどっていただける展示構成になっています。仏像ファンも必見の特別展「出雲と大和」。ぜひお見逃しなく。

日本書紀成立1300年 特別展「出雲と大和」

平成館 特別展示室
2020年1月15日(水) ~ 2020年3月8日(日)

 

カテゴリ:2019年度の特別展

| 記事URL |

posted by 皿井舞(平常展調整室長) at 2020年02月07日 (金)

 

生誕550年記念 文徴明(ぶんちょうめい)とその時代 その2

トーハク(@東洋館8室)と台東区立書道博物館(書博)で毎年開催している恒例の連携企画は、現在の「生誕550年記念 文徴明とその時代」(前期:~2月2日(日)、後期:2月4日(火)~3月1日(日))で17回目となりました。年明けに開幕した本展も、一部展示替えを経て、2月4日からは後期展が始まります。展覧会は開幕したらあっという間、気付けば閉幕間近ということがよくあります。ぜひ、お見逃しなく。

さて、先日のブログでは、書博の鍋島稲子主任研究員が両館の展示の見どころをご紹介されました。今回は本展の主役の文徴明についてお話ししながら、オススメの展示作品をご紹介しようと思います。

台東区立書道博物館の展示風景 トーハク東洋館8室の展示風景
写真右:トーハク東洋館8室の展示風景
写真左:台東区立書道博物館の展示風景

トーハク東洋館8室の展示風景 台東区立書道博物館の展示風景
写真上:トーハク東洋館8室の展示風景
写真下:台東区立書道博物館の展示風景

文徴明(1470~1559)が生まれたのは今から550年前の蘇州です。当時の蘇州は商品流通の要地で、絹織物などの紡績業によって中国第一の商工業都市に発展を遂げていました。その経済力と長江下流域の豊かな土壌は文化の繁栄をもたらし、書画の商品化が促され、高まる需要は文人たちの活動を支えました。

現在の蘇州の街並み
現在の蘇州の街並み
商品の流通を支えたのが運河。現在も水路が張り巡らされ、白壁に統一された建造物が並ぶ蘇州の街並みは風情たっぷりです。

現在の曹家巷 現在の曹家巷
現在の曹家巷
文徴明の生家は、蘇州府長洲県(現在の蘇州市)の徳慶橋西北に位置する曹家巷というところにありました。巷は街の横丁という意味です。残念ながら徳慶橋は残っていないようですが、曹家巷には今も民家が軒を連ね、外壁には「曹家巷」の標識が掲げられます。文徴明が生まれたのち、父の文林は自邸に停雲館を建てたと言われます。

幼少期の文徴明は言葉が遅く、書は青年期まで下手だったようです。しかし、19歳のときに受けた試験で、書が拙いために順位を落とされたことをきっかけに一念発起、人一倍、書の研鑽に努めました。
文徴明の並々ならぬ努力については、例えば、1000文字からなる長篇の詩「千字文」を日に10回書くことを日課としたなどと、常人離れした逸話が残されます。その真偽は措くとして、実際に文徴明が書いた「千字文」は比較的多く現存し、晩年に至るまで勤勉真摯に書と向き合っていたことが想像されます。

草書千字文巻(部分)
草書千字文巻(部分) 文徴明筆 明時代・嘉靖24年(1545) 東京国立博物館蔵(青山杉雨氏寄贈) 
東博通期展示

これは文徴明が76歳の時に、蘇州の自宅の玉磬山房で書いた「千字文」です。東晋時代の王羲之を手本とした書には、流暢で趣深い線が見られ、洗練された美しさが目を奪います。

文徴明は父と同じ官僚になるべく、26歳~53歳まで合計9度にわたり科挙の地方試験に挑み続けましたが、遂に及第できませんでした。その後、推薦されて54歳から3年間、北京の朝廷に出仕したものの、官界に馴染めず自ら退官を願い出て帰郷します。玉磬山房は、文徴明が蘇州に戻って間もなく自宅の東に築いた一室で、以降そこで自適に詩を詠み書画に耽る翰墨生活を送りました。
帰郷した頃には、すでに先輩や同世代の有能な文人がこの世を去っており、文徴明は以後、蘇州の文人サークルのリーダー的存在となって、その芸術活動を牽引し続けたのです。

文徴明の行草書には、王羲之の書やそれを継承したと伝えられる隋時代の智永の書を基礎とした、端正で雅やかな様式の作が残されます。また、北宋時代の黄庭堅の書法を忠実に修得した、才気あふれる大字の行書も見られます。

行書陶淵明飲酒二十首巻(部分)
行書陶淵明飲酒二十首巻(部分) 文徴明筆 明時代・嘉靖33年(1554) 京都国立博物館蔵 
書博後期(2/4(火)から)展示

陶淵明の有名な詩を、文徴明が最晩年の85歳の時に書きました。絹本の風合が、趣ある字姿を引き立てています。

草書七言律詩扇面 文徴明筆
草書七言律詩扇面 文徴明筆 明時代・16世紀 東京国立博物館蔵(高島菊次郎氏寄贈) 
東博前期(2/2(日)まで)展示

文徴明が蘇州城の西北に位置する虎丘に登った際に詠んだ詩を、煌びやかな金箋の扇面に書きました。大胆かつ軽快に書き進められ、筆画の太細や疎密は変化に富みます。

行書遊天池詩巻(部分) 文徴明筆
行書遊天池詩巻(部分) 文徴明筆 明時代・嘉靖17年(1538) 個人蔵 東博通期展示
行書遊天池詩巻(部分) 文徴明筆
行書遊天池詩巻(部分) 文徴明筆 明時代・嘉靖17年(1538) 個人蔵 東博通期展示

文徴明が40歳の時に蘇州の天池山に遊んだ際に詠んだ詩を69歳の時に書きました。黄庭堅風の代表作の一つです。鋭さと重厚さを兼ね備えた線が躍動します。文徴明の師の沈周もまた、黄庭堅風の書にすぐれました。


文徴明の書で、行草書とならび最も高く評価されているのが超絶技巧の小さな楷書です。王羲之の「黄庭経」や「楽毅論」などをよく学び、それらを消化して清らかで気品に満ちた様式を築きました。晩年になるにつれて技量や精神力は凄みを増し、80代になっても衰えることなく小楷を書き続けました。

楷書尺牘冊 文徴明筆
楷書尺牘冊 文徴明筆 明時代・16世紀 台東区立書道博物館蔵 書博通期展示
文徴明は23歳のときに昆山(現在の蘇州市昆山市)の呉愈の三女と結婚し、のちに文彭、文嘉ら子宝にも恵まれました。岳父の呉愈に宛てたこの手紙は、早年の頃の書と言われます。晩年の小楷と比べると、文字の形のとり方などに初々しさが垣間見られ、文徴明の早期の作例として貴重です。

楷書離騒九歌巻(部分) 文徴明筆
楷書離騒九歌巻(部分) 文徴明筆 明時代・嘉靖31年(1552)  東京国立博物館蔵(高島菊次郎氏寄贈) 
東博通期展示

自宅の停雲館で、83歳の時に『楚辞』の「離騒」と「九歌」を書いた一巻です。縦横1センチにも満たない文字は、1行21字詰めのマス目に合計216行にわたって整然と記され、清らかで澄みきった細身の線は乱れることなく、首尾一貫しています。卓絶した技法と高い精神力に支えられたこの書は、文徴明の代表作の一つに数えられます。

嘉靖39年(1559)2月20日、文徴明は御史の厳傑の亡き母のために墓誌銘を執筆していた際、筆を置き正座したまま逝去し、90の天寿を全うしました。温厚篤実な人柄と清雅な作風に魅せられた門弟や子孫ら、多くの後輩文人によって、文徴明は後世まで多大な影響を及ぼすこととなります。本展の作品から、文徴明とその時代に思いを馳せていただけますと幸いです。

現在の文徴明墓 現在の文徴明墓
現在の文徴明墓
文徴明のお墓は、蘇州市相城区にある孫武紀念園の敷地内に今も残されています。
*曹家巷と文徴明墓の調査では、潘文協氏(蘇州博物館)にご協力いただきました。
 

連携企画「生誕550年記念 文徴明とその時代」バナー

東京国立博物館・台東区立書道博物館 連携企画
「生誕550年記念 文徴明とその時代」

2020年1月2日(木)~3月1日(日)
東京国立博物館 東洋館8室
2020年1月4日(土)~3月1日(日)
台東区立書道博物館

※ 前期:2月2日(日)まで、後期:2月4日(火)から

連携企画「生誕550年記念 文徴明とその時代」バナー

東京国立博物館・台東区立書道博物館 連携企画「生誕550年記念 文徴明とその時代」
2020年1月2日(木)~3月1日(日)
東京国立博物館 東洋館8室
2020年1月4日(土)~3月1日(日)
台東区立書道博物館

※ 前期:2月2日(日)まで、後期:2月4日(火)から

 

カテゴリ:研究員のイチオシ特集・特別公開中国の絵画・書跡

| 記事URL |

posted by 六人部克典(登録室研究員) at 2020年01月31日 (金)

 

世界最大の円筒埴輪を観察する

日本書紀成立1300年 特別展「出雲と大和」が1月15日(水)に開幕いたしました。本展では島根県と奈良県にゆかりのある作品を幅広い分野にわたり展示しています。なかでも私が今回おすすめするのは、考古の作品。古墳時代の埴輪です。

日本書紀によると、大和にて倭彦命(やまとひこのみこと)の葬儀に際して、近習者を集めて古墳のまわりに生き埋めしたむごい光景をみて垂仁(すいにん)天皇が心を痛めていました。そこで皇后の日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)の葬儀の際に野見宿禰(のみのすくね)が妙案をひねり出し、出雲から埴輪作りの工人(職人)を呼び寄せて、生きた人の代わりに人の埴輪を埋めたことが書かれています。これが日本書紀に書かれている埴輪創生の話です。

このような伝承が日本書紀に残っていますが、実際、遺跡を発掘しますと人の埴輪は5世紀から出現して6世紀に日本列島各地で積極的に作られるようになります。一方で3世紀後半からすでに筒の形をした円筒埴輪が大和を中心にして全国各地に広まっていることが、考古学の成果からわかっています。つまり人や馬の埴輪が最初に作られたという日本書紀の記述と、円筒埴輪が最初に作られたという考古学の成果とには齟齬があるのですが、それは日本書記が720年に作られたものであり、埴輪の成立した3世紀後半からはおよそ470年近く開きがあるからです。現在の我々からすると470年前は1550年、戦国時代のころです。現在の我々が戦国時代のことを正確に記述しようとしても戸惑いますが、さらに史料のほとんどない古墳時代の事を奈良時代の方々が記述する事は困難であったと思われます。そのため日本書紀の記述をそのまま事実として捉えるのではなく史料批判をする、また文献史料と考古資料とを突き合わせながら、どこに歴史的な事実が隠れているのかを見極めなければいけません。

今回展示している数ある埴輪のうち、奈良県桜井市のメスリ山古墳出土の埴輪を観察することで、様々なことがわかります。

このメスリ山古墳は、墳丘長224mの前方後円墳です。ヤマト王権の中心地である大和(おおやまと)古墳群の南端に築造された、王墓とも呼ぶべき大きさの4世紀の古墳です。後円部の中央には埋葬施設があり、その上には石垣で長方形の壇がつくられ、その周囲には円筒埴輪が2重に立て並べられていました。ここまで密に円筒埴輪を並べる理由としては、聖域として区画したい意図があったのでしょう。


メスリ山古墳 後円部の石室と埴輪の配列

この埋葬施設の主軸線上の一番大事なところに置かれていたのが、中央に展示した埴輪です。


メスリ山古墳出土の円筒埴輪

最初にご注目いただきたいのはその大きさです。なんと高さが約2.5mもあり、世界最大の円筒埴輪です。この巨大な埴輪は、大和に君臨したヤマト王権の力の大きさを示します。

そして、帯状の突帯が8段ありますが、均等につけられています。埴輪の厚さをみると、なんと1.6~1.8㎝と薄い。これらのことから、かなり高い技術で作られていることがわかります。つまり埴輪作りに熟練した工人が、この大和の地にいたことの証明にもなります。

また、突帯が剥がれてしまった箇所に黒ずんだ横線があるかと思います。そこをよく観察すると、一本の線であったり、点であったり様々な装飾のようなものが施されています。これは突帯設定技法といいまして、突帯を円筒部に貼り付ける際に、貼り付けをよくするためにする技法です。この技法は突帯を貼ってしまうと隠れてしまうため、工人の癖の差を示すことがよくあります。突帯設定技法をみますと複数の種類がありますので、この埴輪作りに携わった人は複数人いたことでしょう。


円筒埴輪の突帯設定技法(線)


円筒埴輪の突帯設定技法(点)

このほか、かなり通な人向けの観察視点として、円筒の形をよくご覧ください。わずかに膨らみの単位をみることができます。これは一気に埴輪を作ったのではなく、少しずつ筒を製作して、乾いたところで再度積み上げた痕跡です。やわらかい粘土のまま一気に積み上げると崩壊しますので、かなり時間をかけて慎重に埴輪を製作したことがわかります。


積み上げの単位

どうやら埴輪作りのセンターは大和にあり、王権ともかかわりの深い熟練した埴輪作りの工人がこの大和の地にいたことが、このメスリ山古墳の円筒埴輪をみるとよくわかります。そうなると大和の埴輪は、出雲出身の方が作ったという日本書紀の記述が気になるところですが、いまのところ埴輪を詳細に観察しても出雲出身の方が作った痕跡はみられません。どうして日本書紀には出雲と埴輪との深いかかわりが書かれているのでしょうか。日本書記に書かれた内容は、なにかしらの理由があって書かれたものだと思います。なぜ出雲と大和と埴輪が結びつくのか、今後よくよく考えてみたいと思います。

日本書紀成立1300年 特別展「出雲と大和」

平成館 特別展示室
2020年1月15日(水) ~ 2020年3月8日(日)

 

カテゴリ:2019年度の特別展

| 記事URL |

posted by 河野正訓(考古室研究員) at 2020年01月28日 (火)