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貴重な蔵出し作品が目白押し―特集「天皇と宮中儀礼」―

去る10月22日、天皇陛下が御即位を宣明される「即位礼正殿の儀」が行なわれました。
祝日となったこの日、私もテレビにかぶりつきでこの儀式の様子を見ていました。今年2019年は、春に現在の上皇陛下が天皇の位を退位され、天皇陛下が即位されることで元号が平成から令和へと改まりました。11月には天皇一代の大祭である「大嘗祭」が行なわれます。

天皇の退位や即位に伴う一連の行事は、長く宮中で培われてきた「伝統」に則ったもので、そのルーツは奈良、平安時代にさかのぼります。明治時代以降は天皇の住まいが東京に遷されたこともあり、儀式の様相も大きく変化しますが、その大枠は継承されています。

このほか、天皇を中心とする宮中貴族社会ではさまざまな儀式・行事が年間を通じて行なわれてきました。こうした儀式・行事、つまり宮中儀礼は過去の先例を大変重要視します。前に行なわれた式次第にいかに変更を加えず行なうことができるかということが最大限求められました。そのため公家たちは、子孫たちがこうした儀礼を行なう際に困らないよう詳細な日記を書き、絵図に残すなどしてきたのです。

こうした過去の記録を紐解き、宮中で行なわれてきたさまざまな儀礼をご紹介しようとするのが特集「天皇と宮中儀礼」(前期:~2019年12月1日(日)、後期:2019年12月3日(火)~ 2020年1月19日(日))で、「即位礼と大嘗祭」「悠紀主基屏風(ゆきすきびょうぶ)」「御所(ごしょ)を飾る絵画」「年中行事」「行幸と御遊(ぎょうこうとぎょゆう)」の5つのテーマを設けています。





「即位礼と大嘗祭」では、天皇の退位(譲位)から新天皇の即位にかかわる一連の行事をご紹介しています。


高御座図 森田亀太郎模 大正4年(1915)模、大正5年(1916)彩色

即位礼などの際、天皇が登壇する高御座(たかみくら)を描いた図。皇后が登壇する御帳台(みちょうだい)は、同様のかたちながら若干小ぶりです。先般の「即位礼正殿の儀」でもご覧になった方も多いと思います。ただ、御帳台が登場するのは大正時代以降で、それまでは高御座1基で行事は進められました。



国宝 延喜式 巻七(甲) 平安時代・11世紀 展示期間:前期
※後期は同様の記述がある延喜式 巻七(乙)を展示


平安時代中頃に作られた法令集で、九条家本と呼ばれる本作は現存最古の延喜式(えんぎしき)として大変貴重です。この巻七には大嘗祭の一連の流れが細かく記されています。天皇は毎年11月に五穀豊穣などを祈る新嘗祭を行ないますが、即位後最初に行なう新嘗祭は特に「大嘗祭」と呼ばれて重視され、天皇一代の大祭と位置付けられています。



「悠紀主基屏風(ゆきすきびょうぶ)」では、大嘗祭の際に調進される悠紀主基屏風(大嘗会屏風)をご紹介しています。大嘗祭では京都から東の悠紀、西の主基の二つの国が選ばれ、この両斎国からさまざまな品が献上されますが、悠紀、主基二国を詠んだ和歌と漢詩の情景を描いたのが悠紀主基屏風です。
平成度の悠紀主基屏風は、今年春に行なわれた特別展 御即位30年記念「両陛下と文化交流―日本美を伝える―」でご覧になった方もいらっしゃるかもしれません。令和度は、悠紀は栃木県、主基は京都府とのこと。どんな屏風となるのか、今から楽しみです。


【右】悠紀屏風 明和元年度正月・二月帖 土佐光貞筆 江戸時代・明和元年(1764)
展示期間:前期
【左】主基屏風 明和元年度三月・四月帖 土佐光貞筆 江戸時代・明和元年(1764)
展示期間:前期

後期は文政元年度の仁孝天皇(1800~1846)の大嘗会屏風を展示。

明和元年に行なわれた後桜町天皇(1740~1813)の大嘗祭に用いられた屏風。悠紀は近江国(現在の滋賀県)、主基は丹波国(現在の京都府)で、それぞれの名所を詠んだ和歌が画中の色紙型に記されています。なお、後桜町天皇は現段階では史上最後の女性天皇です。
明和元年度の本作は、現存する悠紀主基屏風としては最古の作例で極めて貴重です。東京国立博物館所蔵品としての公開は今回が初めてとなります。



天皇の住まいである御所ではさまざまな宮中儀礼が行なわれました。「御所を飾る絵画」では、こうした儀式空間の威儀を整え、場を華やかにするために用いられた作品をご紹介しています。


大宋屏風 江戸時代・19世紀 展示期間:前期

この屏風には毬杖(ぎっちょう)と呼ばれる、現在のポロやホッケーをする中国風の人物が描かれています。こうした屏風を「大宋屏風(たいそうのびょうぶ)」と呼び、天皇が儀式を行なう際に用いられました(実は、後で登場する「年中行事図屏風」右隻の中央上部にもしっかりと描かれています)。
本作は江戸時代末に制作され、実際に宮中で用いられていた可能性の高いものです。こうした屏風は調度品であり消耗品でもあったので、このように残されていることも極めて稀です。



賢聖障子屏風 住吉広行筆 江戸時代・18世紀 展示期間:後期

賢聖障子(けんじょうのそうじ)とは天皇が政務を執る内裏・紫宸殿の天皇の座の背後にある絵のことで、中国の賢臣32人を描きます。筆者の住吉広行は江戸時代後期に新造された内裏(寛政度内裏)の賢聖障子を描いており、現在の京都御所にもこの広行筆の賢聖障子が残されています(実際に現在の京都御所に置かれているのは写しで、原本は別置保存)。
広行はこの屏風のほか画帖(「賢聖障子画帖」 ※展示期間:前期 )のかたちでもこの図様を残しており、完成見本、もしくは後世への参考として作られたと思われます。



「年中行事」では、天皇や宮中の公家たちが行なったさまざまな年中行事をご紹介しています。


年中行事図屏風(右隻) 住吉如慶筆 江戸時代・17世紀 展示期間:前期

この屏風は江戸時代のやまと絵師で、幕府の御用絵師もつとめた住吉如慶が描いたものです。この「賭弓(のりゆみ)」という儀式は、正月18日に内裏の弓場殿というところで行なわれていましたが、江戸時代にはほとんど行なわれなくなっていた儀式です。実はこの図にはネタ元があって、それは平安時代末に制作された「年中行事絵」という絵巻。如慶は後水尾天皇の命令でこの絵巻を模写しており、その知識を生かして過去に行なわれた儀式を描いたのでした。本作に限らず、実際には行なわれていない過去の儀式を復古的、懐古的に描くということもしばしばなされました。
なお、後期展示の左隻の「内宴」は、ネタ元の年中行事絵とともに展示します。



最後のテーマが「行幸と御遊」です。行幸とは天皇が御所から外出することを指す言葉ですが、天皇の外出には様々な制約がありました。ただ、退位して上皇となるとこうした制約も比較的ゆるやかになり(上皇・法皇の外出は御幸と言います)、社寺の参詣や外出先での歌会など、さまざまな遊び(御遊)が行なわれました。


重要文化財 熊野懐紙 飛鳥井雅経筆 鎌倉時代・正治2年(1200) 展示期間:後期

平安時代後期から鎌倉時代前期にかけて、歴代上皇たちの間で紀州の熊野三山を参詣する「熊野御幸」が爆発的なブームとなります。白河上皇が9回、鳥羽上皇が21回、後白河上皇が34回、後鳥羽上皇が28回といいますから、ほぼ毎年熊野にお参りしていたような状態です。京都から舟なども乗り継いで往復1ヶ月はかかるかなりの長旅で、道中では歌会なども行なわれました。この際詠まれた和歌を記したのが「熊野懐紙」です。
なお、この特集で後期に展示する「明月記」を記した藤原定家も後鳥羽上皇の熊野御幸に従った1人です。展示箇所とは別の日の「明月記」には、宿が悪い、風邪をひいたなど、道中でのグチの数々が記されています。



今回の特集の展示品は、一般に評価の高い国宝や重要文化財などの指定品はわずかです。ただ、普段は収蔵庫で眠っている展示機会の極めて稀な作品を、担当研究員4人が1年以上の準備期間をかけ、収蔵庫の奥の奥に分け入って掘り出してきた、選りすぐりの作品群です。明治5年(1872)に開館し、間もなく150周年を迎える東京国立博物館の奥深さを改めて知る機会ともなりました。記録で確認できる限り、開館以来初めて展示するという作品も少なくありません。

令和度の即位礼の復習やこれから行なわれる大嘗祭の予習のみならず、長い伝統の中で培われてきたさまざまな宮中儀礼を知る絶好の機会です。12月2日(月)に展示替を行ない、展示作品もがらりと変わりますが、2020年1月19日(日)まで開催していますので、平成館1階企画展示室へぜひとも足をお運び下さい。主要作品を載せたリーフレットも好評配布中です。
 

 

特集「天皇と宮中儀礼」

平成館 企画展示室
前期展示:
2019年10月8日(火)~2019年12月1日(日)
後期展示:
2019年12月3日(火)~2020年1月19日(日)

 

カテゴリ:研究員のイチオシ特集・特別公開絵画

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posted by 土屋貴裕(特別展室主任研究員) at 2019年11月14日 (木)

 

「平家納経」の模本

即位礼正殿の儀が行われた10月22日から、東京国立博物館では本館15室で特集「平家納経模本の世界―益田本と大倉本―」が始まりました(~2019年12月8日)。
ここでは、「平家納経」の模本二組を比較しながら御覧いただいています。

「平家納経」(へいけのうきょう)は、嚴島神社(いつくしまじんじゃ、広島県・宮島に所在)に伝わる国宝で、『法華経』ほか全33巻の経巻です。
平安時代・長寛2年(1164)に、平清盛(たいらのきよもり、1118~1181)が嚴島神社に奉納しました。

ほぼ全巻にわたって金箔や銀箔がふんだんに撒(ま)かれ、題箋(だいせん)や軸首(じくしゅ)の金工細工も精緻であり、十二単衣(じゅうにひとえ)の女性の姿や極楽浄土の様子が色鮮やかに描かれています。
さらに、平清盛直筆の願文、平頼盛(たいらのよりもり、清盛の弟、1133~1186)の書など、見どころがたくさんある、装飾経の代表といえます。

さて、大正9年(1920)、「平家納経」の保存状態を憂慮した嚴島神社の宮司が、副本(複製本、模本)を作ってほしいと依頼しました。
依頼を受けた高橋箒庵(たかはしそうあん、義雄、1861~1937)と益田鈍翁(ますだどんおう、孝、1848~1937)が、当時の財界人・数寄者から資金を集めます。
そして、田中親美(茂太郎、1875~1975)が5年かけて模本を制作しました。



 
(上)平家納経 厳王品 第二十七(模本)益田本(部分) 田中親美模写 大正~昭和時代・20世紀
(下)平家納経 厳王品 第二十七(模本)松永本(部分) 田中親美模写 大正~昭和時代・20世紀 松永安左エ門氏寄贈
原本=国宝・嚴島神社所蔵 平安時代・長寛2年(1164)


大正14年(1925)、完成した一組33巻を嚴島神社に奉納し、同時に作ったもう一組33巻を田中親美は手元に残します。
その手元の一組からさらに作ったのが、益田家旧蔵の一組(益田本、当館所蔵)と、大倉家旧蔵の一組(大倉本、大倉集古館所蔵)です。
「厳王品」1巻のみは別に作ったようで、当館には松永耳庵(まつながじあん、安左エ門、1875~1971)寄贈の「厳王品」があります。
展示では、「厳王品」のみ、益田本、松永本、大倉本と3巻ならべました。壮観です!




平家納経 宝塔品 第十一(模本)益田本(紙背・部分) 田中親美模写 大正~昭和時代・20世紀
原本=国宝・嚴島神社所蔵 平安時代・長寛2年(1164)


「平家納経」は、表だけでなく、裏(紙背<しはい>)も華麗な装飾が施されています。
田中親美はそのため、「33巻でなく、66巻作った」と述べています。




平家納経 平清盛願文(模本)益田本(部分) 田中親美模写 大正~昭和時代・20世紀
原本=国宝・嚴島神社所蔵 平安時代・長寛2年(1164)


模本は、田中親美一人ではなく、家族や弟子も手伝ってみんなで作りました。ただ、書だけは、すべて親美が一人で写したそうです。
この平清盛の願文も、大らかで品格のある清盛の書を見事に再現しています。原本の写真を、前や横、下に置いて、何度も何度も見ることで書を目に焼き付けて、そして筆を動かしたそうです。

「平家納経」原本そのものが、平安時代末期の技術の粋を結集して作られた唯一無二の装飾経ですが、それをここまで再現されようとは、平清盛も予想しなかったでしょう。

益田本と大倉本を比較しながら、原本のすごさと模本のすごさを同時に感じてください。

 

特別展「三国志」チラシ

特集 平家納経模本の世界―益田本と大倉本―
2019年10月22日(火)~2019年12月8日(日)
本館15室(歴史資料)

図録
『田中親美制作 平家納経模本の世界―益田本と大倉本―』
700円+税 ミュージアムショップで発売中

 

カテゴリ:研究員のイチオシ書跡

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posted by 恵美千鶴子(百五十年史編纂室長) at 2019年10月31日 (木)

 

特集「焼き締め茶陶の美―備前・信楽・伊賀・丹波―」鑑賞のススメ

こんにちは。研究員の横山です。
現在本館14室で展示中の特集「焼き締め茶陶の美」、もう御覧いただけましたでしょうか。
9月の半ばに展示替えをし、秋の訪れとともに、ひとつ前の特集「やちむん沖縄のやきもの」から展示室の雰囲気が一変しました。

さて、「焼き締め」と聞いて、皆さんどんなイメージを持たれるでしょうか。
土もの、茶色、ゴツゴツ、ざらざらとした表面…
簡単に「焼き締め」の概要、しくみをご説明しますと、焼き締めは、釉(うわぐすり)を掛けずに高温で焼かれるやきものです。
ここでいう「高温」とは、陶磁器の世界でいう「高い温度」ですので、窯のなかで焼かれる、およそ1200~1300度ということになります。
焼き締めの土には、高温になっても焼き崩れることのない「耐火度の高い」土が用いられます。
耐火度の高い土のなかには、高温で焼かれることで成分が液状となるもの(珪石や長石など)が含まれており、これらが他の細かい粒子を焼き付けて全体を強く硬くします。
まさに、「焼き締まる」わけです。
こうして、生地はガラス質の釉薬で覆われなくとも、水を通すことのない堅牢なものとなります。

日本では、中世から備前(岡山)、信楽(滋賀)、丹波(兵庫)、越前(福井)、常滑(愛知)といった窯でこうした焼き締めが作られてきました。
今回の特集では、焼き締めのなかでも「茶陶」(茶の湯の器)にスポットを当て、それらをつくりだしてきた備前、信楽、伊賀、丹波の作品をご紹介しています。

焼き締め茶陶は、茶の湯の歴史にとってとても重要です。
なぜなら、焼き締め茶陶の登場が、すなわち和もの(国内産)茶陶の登場となるからです。
室町時代後期に「侘び茶」が広まるようになると、それまで唐物(中国産)を第一としていた価値観は変化していきます。
「心にかなう」ものを選ぶことに重きを置いた「侘び数寄(すき)」の茶では、華やかな茶碗ではなく、あえて粗相な器に目を向け、取り上げていきました。

最初に茶席に登場する焼き締め茶陶は、「見立て」の器です。
穀物を入れる壺など、もともとあった日用の雑器を水指や花入に転用したものでした。

鬼桶水指 信楽 室町時代・16世紀
鬼桶水指 信楽 室町時代・16世紀
鬼桶水指 信楽 室町時代・16世紀

 

種壺形水指 備前 室町~安土桃山時代・16世紀
種壺形水指 備前 室町~安土桃山時代・16世紀
種壺形水指 備前 室町~安土桃山時代・16世紀
穀物や種を入れていた桶や壺が、水指として取り上げられた例です。

やがて、安土桃山時代から江戸時代の初めにかけて、茶の湯が隆盛をきわめあちこちで茶会が開かれるようになると、創意性をもった器が登場します。

扁壺形花入 備前 江戸時代・17世紀 松永安左エ門氏寄贈
扁壺形花入 備前 江戸時代・17世紀 松永安左エ門氏寄贈
扁壺形花入 備前 江戸時代・17世紀 松永安左エ門氏寄贈

 

耳付花入 伊賀 江戸時代・17世紀
歪みやヘラ目が加えられて、左右非対称もお構いなしです。

展示室では、作品を通じて「見立ての器」から「創造の器」まで、変遷や違いをよく感じていただけるのではないかと思います。
本館13室「陶磁」や本館4室「茶の美術」などで複数の作品を展示する機会はこれまでにもありましたが、東京国立博物館所蔵の焼き締めがここまで一堂に会することは珍しく、なかなかの見ごたえです。
実は展示前、「焼き締めばかりがずらりと並んだらどうなるだろう、地味な感じになるかしら」と個人的に少し気がかりだったのですが、結果はむしろ逆でした。
今回のように並ぶことで、それぞれの作品が「個性」をより強調しているように感じられ、個別にみていた時とはまた違った印象がしています。作品数が一番多いのは備前窯のものですが、同じ備前でも焼き上がりの色合いに幅があり、器種も多岐にわたっていることがあらためて感じられます。

さあいざ、展示室へ!

展示室1
展示室1

 

展示室2
展示室2

ギャラリートークなどでいつもお伝えしているのですが、ぜひ「いろいろな角度」からご覧ください。
(あくまでほかの鑑賞者の方の邪魔にならない範囲で。どうぞ可能な限りぐるぐると!)

特に、焼き締めについては、窯のなかでの炎のあたり方によって、ひとつの器のなかでも異なった焼き上がり、表情を見ることができます。「火表(炎が直接当たった面)」「火裏(炎が直面しなかった面)」というような表現もあります。

◎一重口水指 銘 柴庵 信楽 安土桃山~江戸時代・16~17世紀 広田松繁氏寄贈
◎一重口水指 銘 柴庵 信楽 安土桃山~江戸時代・16~17世紀 広田松繁氏寄贈

 

◎一重口水指 銘 柴庵 信楽 安土桃山~江戸時代・16~17世紀 広田松繁氏寄贈
重要文化財 一重口水指 銘 柴庵 信楽 安土桃山~江戸時代・16~17世紀 広田松繁氏寄贈
亀裂の入った側には緑がかった自然釉(燃料の薪が灰となって窯のなかで溶けたもの)がかかり、少し右に回ると、黒く焼け焦げた土肌が見えます。

展示室では「おや?」「いつもと何か違う?」と思われる方もいるかもしれません。
今回は、茶陶としての姿をお伝えすることに重きを置き、水指には蓋をつけて展示しました。

袋形水指 信楽 江戸時代・17世紀 広田松繁氏寄贈
袋形水指 信楽 江戸時代・17世紀 広田松繁氏寄贈
袋形水指 信楽 江戸時代・17世紀 広田松繁氏寄贈
焼き締めと赤絵の蓋の組み合わせは、江戸時代中頃、表千家六代覚々斎原叟(かくかくさいげんそう)が備前の花入に赤絵の蓋を乗せたのが始まりといわれています。

土と炎が生み出す焼き上がりは、偶然の賜物でひとつとして同じ仕上がりになりません。 そこに焼き締めの深い味わいがあります。 いにしえの茶人はそれを楽しんで、ときに焼き過ぎてキズの入った失敗作のようなものまでも面白がって茶席に取り入れてきました。 そんな鑑賞の歴史にも思いを馳せつつ、展示室でぜひお気に入りの作品を見つけてみてください。
特集 焼き締め茶陶の美―備前・信楽・伊賀・丹波―

本館 14室
2019年9月18日(水)~ 2019年12月8日(日)

 

カテゴリ:研究員のイチオシ特集・特別公開

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posted by 横山梓(保存修復課研究員) at 2019年10月29日 (火)

 

中国絵画にLOVEをみつけよう!

現在、東洋館では「博物館でアジアの旅 LOVE♡アジア(ラブラブアジア)」(~10月14日(月・祝))が開催中です。
「中国の絵画 高士と佳人―18から19世紀の人物画と肖像画」(~10月27日(日))が展示されている東洋館8室でも、LOVEを探してみましょう。


東洋館8室「中国の絵画」会場風景

中国では悠久の歴史の中で、さまざまな恋物語が語られてきました。
そして画家たちは、これらの物語にインスピレーションを得て、次々と魅力的な作品を生み出してきたのです。

例えば、三国志に登場する貴公子、曹植(そうしょく/192~232)の文学作品『洛神賦(らくしんふ)』は、古くから何度も絵画化されてきた恋物語です。

曹植は、魏の曹操(そうそう/155~220)の息子で、優れた詩人として知られています。
都から帰る途中、華北地方を流れる洛水(らくすい)のほとりで、川の女神に出会った曹植は一目で恋におちます。

『洛神賦』は、女神の美しさ、二人の間に育まれる愛、そして「心はとこしえにあなたを想っています」との言葉を残して、女神が天上に去っていくまでを、流麗な文章でうたいあげています。
一説に、この女神のモデルは、曹植が恋焦がれていた、兄・曹丕(そうひ/187~226)の妻であったといいます。


洛神女図扇面 顧洛筆 清時代・18~19世紀

顧洛(こらく/1763~1837頃)は、杭州(浙江省)の画家で、美人図を得意としたといいます。
この扇面では、風に衣をたなびかせながら、波立つ水面の上に浮き、蠱惑的な笑みを浮かべる洛水の女神を描きます。

   

髪や耳の華麗な装飾、唇に点じられたつややかな紅など、細部まで非常に丁寧に表わされています。
『洛神賦』が、「朝もやに昇る太陽」「波間に咲く蓮」にたとえるような、曹植を虜にした女神の魅力が伝わってきます。

下って南宋時代、12世紀には、姜夔(きょうき)と小紅(しょうこう)の物語が知られています。
姜夔は、詩体の一種である詞と、笛のような楽器である簫(しょう)の名手として有名な文人でした。
美貌の歌妓(かぎ)、小紅を寵愛しており、詞を作ると彼女に歌わせ、自ら簫を吹いて伴奏するのが常であったと、仲睦まじい様子が伝わっています。

晩年、困窮した姜夔は、小紅のためを思って、しかるべき相手に彼女を嫁がせたようです。
姜夔が亡くなり、馬塍(ばしょう)という花の名所に葬られると、彼の友人が「もし小紅がここにいたら、嘆き悲しんで、馬塍の花をことごとく散らせてしまっただろう」と追悼の言葉を述べています。


春水吹簫図扇面 諸炘筆 清時代・乾隆48年(1783)

諸炘(しょきん)も杭州の画家で、18世紀ころに活躍しました。
姜夔と小紅の故事になぞらえたとして、春のうららかな一日、舟上で簫を奏でる青年と、その音に耳を傾けている乙女を描きます。

 

桃の花が咲き乱れ、思わず召使の子供がうたたねしてしまうような気候の、まさにデート日和。
簫をギターに持ちかえれば、現代日本の公園でもみられる光景かもしれません。
ひな人形のような、愛らしく上品な顔立ちがほほえましい作品です。

この他にも東洋館8室には、「LOVE♡アジア」にちなんだ作品が並んでいます。
この機会にぜひ、中国の絵画・書跡の中に、LOVEをみつけてみてください。

カテゴリ:研究員のイチオシ中国の絵画・書跡博物館でアジアの旅

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posted by 植松瑞希(出版企画室研究員) at 2019年10月04日 (金)

 

トーハクにいる3羽の共命鳥

現在、東洋館で開催している「博物館でアジアの旅 LOVE♡アジア(ラブラブアジア)」(10月14日(月・祝)まで)。愛をテーマにしたさまざまな作品を展示している本企画から、今回は共命鳥についてご紹介します。



共命鳥(ぐみょうちょう)は人の頭をふたつもった想像上の鳥です。

『阿弥陀経(あみだきょう)』には、共命鳥がクジャクやオウムなどとともに極楽浄土に棲み、妙なる声でさえずると記されています。

また『雑宝蔵経(ぞうほうぞうきょう)』では、ふたつある頭のうちの一方がおいしい果実を食べて満腹になったことに、もう一方が嫉妬し、その腹いせに毒の入った果実を食べてしまいます。ついにはともに死んでしまうのです。
この物語は、身体がひとつなのに、頭がふたつあるゆえに生じる感覚や思いの食い違いがさまざまな葛藤や愛憎を惹(ひ)き起こし、やがてわが身を滅ぼすという悲しい結末へと至ります。
そして物語の最後では、おいしい果実を食べた頭が仏陀、毒の入った果実を食べた頭が仏陀と敵対する弟となったと結び、仏教における因果(いんが)がめぐったことを説いています。

このように共命鳥は不思議な姿をし、そして愛憎劇ともいえる不思議なエピソードをもつ鳥として、人々に理解されてきました。
実は、『西遊記』の三蔵法師として知られる玄奘(げんじょう)も『大唐西域記』の中でネパールのヒマラヤ山脈に共命鳥がいたと記しています。玄奘はインドへ仏教経典を取りに行く途中、共命鳥を目撃したのでしょうか。

そんな共命鳥が、トーハクには3羽もいます。


重要文化財 如来三尊仏龕(にょらいさんぞんぶつがん) 中国陝西省西安宝慶寺 唐時代・8世紀

まず1羽は如来三尊仏龕の上部に彫り出された浮彫で、東洋館1階1室の「宝慶寺石仏群」のコーナーにいます。


如来三尊仏龕の上部中央に表わされた共命鳥

これは現在、片方の頭が欠損しているものの、一般的な共命鳥の姿です。ふたつの顔には男女の区別がありません。共命鳥が天空を飛ぶ姿を浮彫に表現したと考えられます。共命鳥を仏龕の上部に表わした例はこの作品のほかになく、たいへん貴重です。

そして残りの2羽は大谷探検隊が将来したテラコッタ製の共命鳥像で、いずれも東洋館2階3室の「西域の美術」のコーナーにいます。

そのうちの1羽は男の顔をもつ鳥と女の顔をもつ鳥が互いに肩を組み、合掌(がっしょう)していたと考えられます。本来の共命鳥像のように身体がひとつでもありません。ただ頭に光背(こうはい)を表わしているので、仏教の尊像であったと考えられます。


共命鳥像 中国、ヨートカン 5世紀 大谷探検隊将来品

もう1羽は人面をもつ鳥ひと組がくっついた姿をしているようです。


共命鳥像 中国、ヨートカン 1~4世紀 大谷探検隊将来品


東洋館3室にある、「テラコッタ小像及破片」を展示したこちらのケース右下にご注目ください。

これらは如来三尊仏龕に表現された共命鳥と、まったく異なるものです。
どうやら西域には男の顔を持つ鳥、女の顔を持つ鳥がそれぞれ仲睦まじい姿に表現されることがあったようです。ただこの種の共命鳥は当館が所蔵する2点しか現存していません。その点できわめて貴重な作品であるといえます。

東洋館では「博物館でアジアの旅」を開催している間、3羽の共命鳥がそろっています。これを機会にぜひ3羽の共命鳥を探してみてください。

カテゴリ:研究員のイチオシ彫刻博物館でアジアの旅

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posted by 勝木言一郎(東洋室長) at 2019年09月24日 (火)