このページの本文へ移動

1089ブログ

再会した三輪山信仰の仏像

現在開催中の特別展「国宝 聖林寺十一面観音―三輪山信仰のみほとけ」では、タイトルにある十一面観音菩薩立像だけでなく、かつて一緒にまつられていた仏像も出品されています。
ブログ第5弾ではそれらの仏像を紹介していきます。

聖林寺の十一面観音菩薩立像は、三輪山をご神体とする大神神社の境内にあった、大御輪寺(だいごりんじ)という寺に江戸時代までまつられていました。明治元年(1868)の神仏分離令によって聖林寺へと移されたのですが、大御輪寺にはほかにも仏像がまつられていました。


国宝 地蔵菩薩立像 平安時代・9世紀 奈良・法隆寺蔵

現在、法隆寺にまつられる地蔵菩薩立像は、平安時代初期の一木造りの彫像の代表作です。
明治元年(1868)に十一面観音菩薩立像と一緒に大御輪寺から聖林寺へ移され、その後、明治6年(1873)に法隆寺の北室院(きたむろいん)へと移されました。大御輪寺、聖林寺、法隆寺の北室院は当時交流があったことが記録からわかるので、そういった縁によるものだったのでしょう。

さて、この像の足元にご注目ください。


地蔵菩薩立像 足元

台座の各部位のうち、蓮肉(れんにく)という部位を像と同じ木から彫り出しています。足先や衣の裾と蓮肉の材がつながっているのがおわかりになりますでしょうか。
このように両手を除いて頭頂から蓮肉までを一本の木から彫り出し、体の幅や奥行きもあるこの像は、重量感にあふれた堂々とした姿が魅力です。

衣の表現にも注目です。例えば右腕あたりの衣をご覧ください。

 
地蔵菩薩立像 右腕周辺の衣と書き起こし図

丸みのある襞(ひだ)と鋭い襞が交互に刻まれています。まるで大きい波と小さい波が連続して翻(ひるがえ)る様子であることから、翻波式衣文(ほんぱしきえもん)と呼ばれます。
翻波式衣文は平安時代前期の木彫像にみられる特徴で、当時流行した衣の襞の表現方法の一つです。この像は正面だけでなく側面や背面にもたくさんの襞が刻まれていて、見ごたえ抜群です。

次に、奈良市郊外に位置し、紅葉の名所で有名な正暦寺(しょうりゃくじ)にも大御輪寺から伝わった仏像があります。
 


(右)日光菩薩立像 平安時代・10~11世紀 奈良・正暦寺蔵
(左)月光菩薩立像 平安時代・10~11世紀 奈良・正暦寺蔵

それがこの日光菩薩立像と月光菩薩立像です。どちらも平安時代中期ごろにつくられた優品です。
日光菩薩と月光菩薩は薬師如来に付き従う仏で、正暦寺では本堂の薬師如来坐像の左右に安置されています。明治元年(1868)に正暦寺へ移されたときにはすでに日光菩薩と月光菩薩とされていたようですが、実はつくられた当時の本来の名称は分かっていません。
また現在は一対にされていますが、もとは別々につくられたと考えられています。
一見すると同じようにみえますが、両像の表現の違いはとくに顔に表われています。

 
(左)月光菩薩立像 顔、(右)日光菩薩立像 顔(上)日光菩薩立像 顔
(下)月光菩薩立像 顔

日光菩薩は瞼が広く、頬がふっくらとして丸みを帯びています。
一方、月光菩薩は鼻筋が通り、面長な顔立ちをしています。
一対の像とされ、日光菩薩・月光菩薩の名称が付けられたのは後の時代と思われますが、ふくよかな像の日光(太陽)、ほっそりした像の月光(月)という印象で、それぞれ太陽と月のイメージに合っていると言えるのではないでしょうか。
また、日光菩薩はケヤキから、月光菩薩はヒノキから彫り出しているという樹種の違いもあります。

三輪山のふもとの大御輪寺にまつられ、明治元年(1868)に離れ離れになったこれらの仏像が、本展で実に約150年ぶりに再会しています。かつての大御輪寺の様子を想像しながら、ぜひご覧ください。

カテゴリ:2021年度の特別展

| 記事URL |

posted by 増田政史(絵画・彫刻室) at 2021年08月23日 (月)

 

1