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三輪山信仰のみほとけとは?

開催中の特別展「国宝 聖林寺十一面観音―三輪山信仰のみほとけ」ブログ第4弾では国宝 十一面観音菩薩立像についてご紹介します。

聖林寺の国宝 十一面観音菩薩立像は、江戸時代までは、三輪山を御神体とする大神神社(おおみわじんじゃ)の境内にあった大御輪寺(だいごりんじ)に安置されていました。


覚 聖林寺蔵(本展では展示していません)

この文書は、聖林寺にあるものです。慶応四年すなわち明治元年(1868)に、本尊十一面観音、脇士(脇侍)地蔵菩薩像などを「御一新につき、当分拙寺(聖林寺)へ慥(たし)かに預かり置き候」と書かれています。
明治新政府の発した神仏分離令によって、神社にあった仏像や仏具など仏教的なものが排除されました。

ここに書かれた十一面観音像が、今回展示している像です。脇侍の地蔵菩薩像は明治6年に聖林寺から法隆寺に移されました。
この展覧会は、およそ150年前に離れてしまったこれらの像を同じ展示室に置いて、かつての大御輪寺の堂内の空間を再現することを意図したものです。


三輪山絵図(部分) 江戸時代・文政13年(1830) 奈良・大神神社蔵
中央上方の赤い柵で囲まれたところが拝殿があるところで左下方が現在若宮になっている旧大御輪寺です。


大御輪寺部分の拡大。三重塔は撤去されましたが、左の仏堂は現存します。

奈良時代から江戸時代まではこのように神社の境内に寺、あるいは寺の境内に神社があるのは普通でした。
詳しく話すと長くなるので簡単に言うと、仏教は多神教で、それぞれの土地の神を守護神として取り込んで、融合する性格だったというのが理由のひとつです。
日本古来の神を信仰する人々が最初は敵対しましたが、飛鳥時代から奈良時代に国家が仏教を重んじるようになって、神仏が合わせて信仰されるようになりました。

しかし、明治政府は神道を国家の宗教にしようと意図して、神と仏を分けること、寺院の財産を没収するなど寺院の勢力を削ぐ政策を実施しました。
それとともに、廃仏毀釈という仏堂、仏像や仏具などを破壊する運動が各地で巻き起こったと言います。


重要文化財 大神神社 若宮社 
瓦葺きで柱の上の組み物など仏堂の建築です。

大神神社の場合は、仏堂はそのまま若宮とされて残り、仏像は前述した2体のほか、不動明王坐像が桜井市の玄賓庵に、日光・月光菩薩像が仏具とともに奈良市の正暦寺に移されています。


国宝 十一面観音菩薩立像 奈良時代・8世紀 奈良・聖林寺蔵

そして、特に注目していただきたいのは、十一面観音像の両腕から垂れる帯状の天衣、左手に持つ花瓶と花、さらには台座、蓮弁の大半も奈良時代のものだということです。
これほどよい状態で保存されたのは、第1に大御輪寺で秘仏だった(最初に掲げた文書に秘仏とあります)こと、第2に大御輪寺から聖林寺に移される時に、丁寧に梱包されて慎重に運ばれたからでしょう。


左手に持つ水瓶
王子形と呼ばれる古い形の水瓶(法隆寺宝物館にたくさんあります)に挿し込まれた花の茎や葉は鉄線に乾漆(かんしつ:漆に木の粉などを混ぜたペースト状のもの)を付けて形を造っています。


台座 
蓮の花弁は1枚1枚作って台座に挿し込んでいいます。

そしてもう一つ、両腕から垂れる天衣(てんね:帯状の布)の末端と台座の隙間はわずかで、揺れたら折れる危険がありますが、この像はほとんど揺れません。
なぜなら、足の下から伸びる長い枘(ほぞ:足の裏につくり、台座にあけた穴に挿して倒れないようにするもの)が60センチもあり、台座の底面積も広いのでとても安定しているからです。


足の下から伸びる長い枘

現在、昭和34年に建てられた鉄筋コンクリートの観音堂の改修工事が始まっています。像が造られてから1200年以上を経ていますが、この先それ以上、人類の遺産として護り伝えて行かなければなりません。

カテゴリ:2021年度の特別展

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posted by 浅見龍介(学芸企画部長) at 2021年08月18日 (水)

 

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