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1089ブログ

「クレオパトラとエジプトの王妃展」天下分け目のアクティウム

「クレオパトラとエジプトの王妃展」のヒロイン、クレオパトラ。
彼女の人生を語るときに必ず登場するのが、アクティウムの海戦です。
今回の1089ブログは、特別編として、ギリシア・ローマ考古学が専門の青柳文化庁長官が、アクティウムの海戦を語ります。


紀元前31年9月2日、ギリシアのイオニア海側にある小さな町、アクティウムの沖でくり広げられた海戦は、ローマの命運を決した戦いでした。
カエサルが紀元前44年に暗殺されて以降、その名声と財産は二人の男に受け継がれました。
一人はカエサルの甥で弱冠19歳のオクタウィアヌス(のちのアウグストゥス)。
もう一人はカエサルと戦場をともにし、輝かしい戦功を挙げた将軍マルクス・アントニウス。
二人はカエサルの暗殺者たちを成敗するまでは互いに協力しあったばかりか、オクタウィアヌスの姉の小オクタヴィアがアントニウスと結婚し、強い絆で結ばれます。
しかし、東方世界を統治するためにエジプトに赴いたアントニウスはクレオパトラ(7世)とともに暮らすようになり、その地からローマ世界全体の支配を目論むようになります。
オクタウィアヌスと覇権をかけた戦いが不可避となった紀元前32年、両者はギリシアに進軍し総力戦の時期を互いにうかがっていました。

決戦の準備を進めていたマルクス・アントニウスは、アテネに滞在中、パルテノンの東側に並ぶ彫像のなかからディオニュソス像だけが崖下の劇場に落ちました。
このことをひどく気にしたアントニウスは、敗戦の予兆であることを懸命に打ち消し、自ら広言していたディオニュソス再来説を否定するほどでした。
カエサルとともに輝かしい武勲をあげた武将も、オクタウィアヌスの影におびえたのか、冷静な判断に欠けていた。
圧倒的な兵力を擁していながらクレオパトラの主張によって海上での戦いを選択したアントニウスは、アクティウム沖の海戦で決着をつける決心をし、陸上と海上の兵力すべてをアクティウム周辺に集結させました。
一方のオクタウィアヌス軍は歴戦の将軍であるアグリッパが指揮をとり、アントニウスとクレオパトラの艦隊を封じ込めるような戦陣をとります。



9月2日朝から小さな海上戦がいくつか繰り広げられましたが、互いに譲ることなく膠着状態になっていました。
この時、クレオパトラは自らの艦隊を率いて突如戦線を離脱するという行為にでます。
浮き足立ったエジプト軍は戦陣をたてなおすこともできず、ついにアントニウスも戦陣を離れ、クレオパトラの後を追うことにしました。
この結果、雌雄を決した海戦はオクタウィアヌスの勝利に終わったのです。


アクティウムの海戦のレリーフ
ローマ時代 ユリウス・クラウディウス朝(前27~後68年)
カルドナ公爵コレクション


 
(左)オクタウィアヌスが乗る船/(右)アントニウスが乗る船


海戦で敗退し、アレクサンドリアでの篭城戦に場所を移したものの結末は明らかでした。
翌年、武将にふさわしくアントニウスは自らの命を絶ちました。
アントニウスの死後、オクタウィアヌスに捕らえられたクレオパトラも、毒蛇に身を噛ませ、女王としての威厳をたもちながら亡くなります。
ほぼ1世紀にもおよぶ内乱が終結し、地中海域で唯一のこされていたエジプトは、オクタウィアヌスによって併合が完了しました。

本展覧会の最後の部屋に展示されている浮彫りは、このアクティウムの海戦を表すとされています。
100年もの長い内戦の末の決戦、アクティウムの海戦の様子を見ながら、エジプトを守るために身を犠牲にして活躍したクレオパトラにぜひ思いを寄せていただきたいと思います。

カテゴリ:2015年度の特別展

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posted by 青柳正規(文化庁長官) at 2015年09月09日 (水)