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栄西の人となりについて

日本に禅宗を広め、茶の文化をもたらしたといわれている栄西ですが、その人物像については、あまり知られていないのが実状のようです。その理由の一つは、栄西についてわかりやすく書かれた本が、書店でもあまりみられないことにあると思います。


明庵栄西坐像 鎌倉時代・13~14世紀 神奈川・寿福寺蔵

栄西に関する伝記としてまとまっているものに、初期の五山文学を代表する僧侶である虎関師錬(こかんしれん、1278~1346)が著した『元亨釈書(げんこうしゃくしょ)』があります。
この本は高僧について記した日本仏教史で、中国の事だけ詳しくて、自国の事に無知であることを、元より来日した一山一寧(いっさんいちねい)に指摘されたことがきっかけで、虎関が一念発起して書いたものだそうです。漢文で書かれているため、親しみやすいとはいえませんが、栄西の業績を簡潔に示していて、その人となりを考えるときの第一級の資料です。
たとえば、栄西が二度目に中国に渡ったとき、たまたま立ち寄った天台山万年寺において虚庵懐敞(こあんえじょう)より、密教と禅は本質を同じくすると教えられ、以後、心をつくして禅に精進したことや、5000巻もの一切経を三度も読んだこと、さらに戒律を第一に考えていたことなどが記されています。

また、無住(むじゅう、1227~1312)が、仏教の教義を平易に説き明かそうとした説話集『沙石集(しゃせきしゅう)』にも栄西に関するエピソードがみえます。
京都で大風があり、禅僧の袖のむやみに大きい異国風の大袈裟のためであると評判になりました。この件で朝廷に呼び出された栄西は、「風神ではないのに、風を吹かせる徳があるのならば、明王はこれを放っておかないだろう」と回答しました。このやり取りに感心した朝廷は、栄西の人物を認め、建仁寺を建立する許可を与えたそうです。
もちろん誇張している部分もあるでしょうが、この説話が、栄西と風神を結びつけ、国宝の風神雷神図屏風を建仁寺が所蔵するにいたったのであれば、なんと楽しいことであろうと思わずにはいられません。


他方、2003年、栄西の研究に大きな進展がありました。名古屋市の大須観音宝生院において、これまでに知られていなかった栄西の著作の成立間もないころの写本や、東大寺大勧進に在職中の栄西自筆の文書17通が、新たに発見されたのです。この書状も栄西の人となりを知る上で非常に貴重な資料といえるでしょう。

本展覧会ではそのうちの4通を展示していますが、内容は下記のようなものです。


会場における展示の様子

(1)九月六日の書状: 建物の造営は、資金があればやり遂げられるものでななく、重源や栄西のような戒律を重んじる力があってこそ実現できる、としています。
(2)正月二十二日の書状: 材木の手配に苦慮していたことを伝えています。
(3)十月十七日の書状: 後鳥羽上皇が周防国(すおうのくに)(山口県)宮野庄からの年貢だけで造営を行うように決定したが、このままでは造営は困難であり、ついには栄西が「打ち殺されてしまう」と危機感を示しています。
(4)言上状: 東大寺大仏殿前の八角灯籠の扉が盗まれたこと、その犯人が銅細工ではないかと指摘しており、栄西が灯籠の造営にも関わっていたことがわかります。

こうした栄西に関連する書跡をとおして、これまでとは違った栄西の人物像に思いをはせていただければと存じます。

カテゴリ:研究員のイチオシ2014年度の特別展

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posted by 高橋裕次(博物館情報課長) at 2014年05月06日 (火)