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1089ブログ

運慶仏に囲まれる幸福

みなさまは、仏師運慶をご存じですか?

日本で最も名の知れた仏師ですので、名前はもちろんのこと、運慶の作品をご存じの方も少なくないでしょう。夏目漱石の『夢十夜』には、護国寺の仁王門で仁王像を彫る運慶を見物するという話も出てきますから、ご承知の方もいらっしゃるでしょう。また、東博では2017年に興福寺中金堂再建記念特別展「運慶」を開催しておりますので、親しく運慶の作品をご覧いただいた方もいらっしゃることと思います。
今回ご紹介するのは、現在、本館 特別5室で開催中の特別展「運慶 祈りの空間―興福寺北円堂」です。この展覧会に出品されているのは7軀(く)の仏像だけです。とは言え、この7軀が日本の彫刻の歴史を代表する名品揃いなのです。すべて国宝、しかも、すべて運慶の作品です(と言って良いと考えています)。
 
特別展「運慶」会場入口
 
修学旅行などで多くの方が一度は訪れたことがあるのではないかと思われる、奈良・興福寺。その境内の西北隅に建つ北円堂は、藤原不比等(ふじわらのふひと)の一周忌追善供養のために養老5年(721)に建立されたと伝えます。その後、平安時代に二度の火災に見舞われました。二度目の火災が、治承四年(1180)の平家による南都焼討です。
興福寺はこの未曾有の災害からすぐに復興を計画します。藤原氏と朝廷という強力な後ろ盾があったからこそなせる業です。ところが、北円堂の復興は遅れました。焼失から30年、創建から約500年を経た承元4年(1210)頃、北円堂の再建はなりました。この3代目の北円堂が、現在私たちが目にする国宝・北円堂です。興福寺境内でもっとも古い建造物です。その外観が、本展の入口で皆様をお出迎えいたします。
 
会場入り口にある国宝・北円堂外観の展示パネル
 
この鎌倉復興時の北円堂の造仏を担当したのが運慶(生年未詳~1223)率いる一門の仏師たちでした。建暦2年(1212)頃に完成した9軀の仏像のうち、両脇侍菩薩像は行方が知れませんが、国宝 弥勒如来坐像(みろくにょらいざぞう)と国宝 無著(むじゃく)・世親(せしん)菩薩立像は、いまも北円堂に残ります。そして、現在中金堂に安置される国宝 四天王立像を運慶作の旧北円堂像と考える説が近年有力です。
本展は、この国宝仏像7軀で鎌倉復興期の北円堂を再現することを企図しています。運慶が構想した至高の祈りの空間を追体験していただけるのです。
では、会場にご案内いたしましょう。
 
(左から)世親菩薩立像、弥勒如来坐像、無著菩薩立像 すべて国宝 運慶作 鎌倉時代・建暦2年(1212)頃 奈良・興福寺蔵 北円堂安置
 
展示室中央に設けた八角のステージ((注)画像は展覧会開幕前に撮影したものです)に、国宝 弥勒如来坐像と、国宝 無著・世親菩薩立像を展示しています。この八角ステージは外周に結界が巡りますが、4本の柱が立つ八角形の内部空間は、北円堂の八角須弥壇の実際の平面規模とほぼ同寸です。今は行方の知れない脇侍菩薩像と今回は会場の四隅でにらみを利かす四天王像も、本来はこの八角形の空間の中に安置されていたことを想像しながらご鑑賞ください。
 
国宝 弥勒如来坐像(部分) 運慶作 鎌倉時代・建暦2年(1212)頃 奈良・興福寺蔵 北円堂安置
 
中央の弥勒像は奈良時代の古典彫刻の姿を踏襲しながら、運慶の新しい感覚が加味された傑作です。まっすぐと厳しいまなざしを向ける姿は堂々としていますが、ややはつらつとした運慶らしさに欠けると思われるかもしれません。
 
国宝 弥勒如来坐像(部分) 運慶作 鎌倉時代・建暦2年(1212)頃 奈良・興福寺蔵 北円堂安置
 
ところが、八角ステージを時計回りに進んでみてください。たっぷりとした奥行き感を持つ独特の立体感覚をご体感いただけるはずです。これぞ運慶作品の持つ量感表現。さらに側面に回ると、正面からは理解できなかった奥行きを感じることができます。胸を張った堂々たる体軀と盛り上がった背筋に驚かされます。そして、やや猫背とすることで生まれる独特の奥行き感。斜め後ろから背中越しにのぞく頬は、ふっくらと赤ん坊のように膨らみます。ぐっと胸を張りつつ、首を前に出して猫背気味とする独特のスタイル越しにのぞく、かわいらしい頬のふくらみ。今回のおすすめ鑑賞ポイントのひとつです。
 
国宝 弥勒如来坐像(部分) 運慶作 鎌倉時代・建暦2年(1212)頃 奈良・興福寺蔵 北円堂安置
 
さらに進むと、本展の目玉のひとつともいえる、弥勒像と無著・世親像の背面3ショットが皆様を待ち構えます。
 
(左から)無著菩薩立像、弥勒如来坐像、世親菩薩立像 すべて国宝 運慶作 鎌倉時代・建暦2年(1212)頃 奈良・興福寺蔵 北円堂安置
 
興福寺北円堂は春と秋に特別公開を行っていますので、拝観された方もいらっしゃるかもしれません。ところが、弥勒像の背後には光背があるので、普段はここまで背面をご覧いただくことができないのです。
本来、仏像に光背はつきものなのですが、弥勒像の光背は江戸時代に補われたものですので、今回の運慶の構想した空間の再現というコンセプトから、光背は興福寺でお留守番となりました。実はこの弥勒像、昨年度一年かけて表面の剥落(はくらく)止めを中心とする保存修理が行われました。特に背面の傷みがひどかったため、修理の成果を披露するためにも背面を是非ご覧いただきたく、このような展示となった次第です。弥勒像と無著・世親像の背中の対比を会場でお楽しみください。
 
国宝 無著菩薩立像(部分) 運慶作 鎌倉時代・建暦2年(1212)頃 奈良・興福寺蔵 北円堂安置
 
無著・世親像はインド古代僧をモデルとした肖像彫刻ですが、写実を超えて崇高な精神性までを表現した姿と、圧倒的な存在感が見どころです。おそらく、モデルが誰かを知らなくとも、本像の魅力は普遍的に理解されることだろうと信じています。眼に水晶を嵌(は)める玉眼技法の最も成功した例の一つと申し上げても過言ではないでしょう。角度によっては、世親像の眼は涙をたたえているようにも見えます。無著像はキラッと、世親像はキラキラと、その眼光の違いは正面よりも少し斜めからご覧いただくと、よくわかるかもしれません。
 
ところで、この二人、実は兄弟です。無著が兄、世親が弟。無著は老僧にあらわし、一方の世親は壮年の姿です。この兄弟僧は、法相宗(ほっそうしゅう)の根本となる唯識教学(ゆいしききょうがく)を修めました。彼らの著作をインドから中国にもたらしたのが、かの玄奘三蔵です。その教えの系譜に、興福寺はつらなるのです。玄奘がもたらした情報によると、無著は、夜は兜率天(とそつてん:天界のひとつ)に昇って弥勒の教えを受け、昼間は人間界におりてその教えを広めたといいます。こうした説話は、日本でも『今昔物語集』に収められるほど知られていました。人間の姿を見事にとらえながらも、それでいて崇高な存在であることを感じさせる運慶の彫刻表現は、無著が人間界と天界とを往還できる特別な存在であったと説く、こうした説話にも影響を受けているのかもしれません。
 
国宝 世親菩薩立像(部分) 運慶作 鎌倉時代・建暦2年(1212)頃 奈良・興福寺蔵 北円堂安置
 
さて、本展の最大の見どころ、それは会場中央の現在も北円堂に安置される弥勒像、無著・世親像と、現在は中金堂に安置される四天王像が一堂に会したところをご覧いただける点です。
 
国宝 四天王立像(持国天) 鎌倉時代・13世紀 奈良・興福寺蔵 中金堂安置
 
特にご覧いただきたいのがこちらの持国天像です。奈良時代の古典彫刻を踏まえながら、写実を基本とした力強い鎌倉彫刻の特徴を示す持国天像は、弥勒像と全く同じ視線を来館者に向けているように見えます。このことに気づいたとき、中金堂四天王像は北円堂のもので間違いない、つまり、弥勒、無著・世親像とセットの運慶作とみて間違いないだろうと確信しました。四天王像の激しい動きを示すポーズは変化に富み、静寂な雰囲気を漂わせる弥勒、無著・世親像とは対極的です。ところが、それが不思議と調和しているように見えるのです。これは、展覧会担当者のひいき目でしょうか。是非皆さんの眼で、お確かめください。
 
この7軀による競演は、興福寺でもご覧になれない本展だけの企画です。運慶による日本彫刻の最高傑作が織りなす至高の空間を是非会場でご堪能ください。特別展「運慶 祈りの空間―興福寺北円堂」は11月30日までです。どうぞお見逃しなく。金・土曜日は夜8時まで開館しています(入館は30分前まで)。比較的混雑を回避できる夜間開館も是非ご利用ください。
 
国宝 四天王立像(増長天) 鎌倉時代・13世紀 奈良・興福寺蔵 中金堂安置
 

カテゴリ:研究員のイチオシ彫刻「運慶」

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posted by 児島大輔(彫刻担当研究員) at 2025年10月23日 (木)

 

河合純一さんがめぐる、「博物館でアジアの旅」のハンズオン

「博物館でアジアの旅」は、東洋館で開催している秋の恒例企画です。今年は、日韓国交正常化60周年を記念して「てくてくコリア―韓国文化のさんぽみち―」と題し、当館が所蔵する、韓国にちなんだ作品の数々をご紹介しています。この展示の会期中、「東洋館インクルーシブ・プロジェクト」の一環として、視覚に障害がある方にも展示をお楽しみいただけるハンズオンを設置しました。

2025年9月23日、「東京国立博物館アンバサダー」のおひとりである、スポーツ庁長官の河合純一さんに、そのハンズオンの取り組みを体験いただきました。今回はその様子をお伝えします。


河合純一さん略歴
1975年生まれ。パラリンピックの競泳の視覚障害のクラスで、2012年のロンドン大会まで6大会連続で出場。金メダル5個を含む、計21個のメダルを獲得。2020年より日本パラリンピック委員会の委員長を務め、東京パラリンピックなどで日本代表選手団団長を担う。2025年10月、スポーツ庁長官に就任。

 

対話を促すハンズオン


東洋館1階でごあいさつ。三笠研究員(右)がご案内します。

ハンズオンは東洋館内に2か所設置されています。まずは、東洋館1階エントランスを入り左手にあるエレベーターで、東洋館5階へ向かいます。

東洋館5階に到着。 河合さんをアテンドしていただくのは、早稲田大学 理工センター技術部 教育研究支援課長の地神貴史さん(中央)。
東洋館5階に到着。河合さんをアテンドしていただくのは、早稲田大学 理工センター技術部 教育研究支援課長の地神貴史さん(中央)。

東洋館5階10室に到着しました。広い展示室の中央に、ひとつめのハンズオン「サイコロdeタイムトラベル」があります。


直径1.4メートルの丸いテーブルの上に、1辺が15センチの6面体の布製サイコロが2つ置いてあります。画像右側のサイコロは文字が書かれています。左側のサイコロは、点字で問いかけが記されています。テーブルの端にある丸い溝には、白杖や杖をかけてお使いいただけます。

これは、視覚障害の有無にかかわらず一緒に展示をお楽しみいただけるように設置したものです。サイコロの各面には、「三国時代、高貴な女性のためにつくられたアクセサリーを探そう」や、「どのうつわを使ってみたい?」など、この展示室をより深く楽しむための6つの問いかけが書かれています。

ハンズオンの説明を受け、早速サイコロを振ってみる河合さん。どの面が出たのか確認します。 一番左は六人部研究員。
ハンズオンの説明を受け、早速サイコロを振ってみる河合さん。どの面が出たのか確認します。一番左は六人部研究員。 

河合さんのサイコロは、この面が出ました。


右側のサイコロには点字で、左側のサイコロには日本語・英語とイラストで、「三国時代 土でつくられた動物がいるよ。探してみよう。」と、記されています。

では、展示室で実際に「三国時代 土でつくられた動物」を探しに行きましょう。


土でつくられた動物が展示されているケースを発見! ここでの三笠研究員のおすすめは「土偶 亀 (どぐう かめ)」。親指の先くらいサイズの、可愛らしい作品です。

展示室の中で、会話が弾みます。

(河合さん)「日本にも、亀の土偶はあるのですか?」
(三笠研究員)「日本では、あまり見たことがないですね。」
(河合さん)「そうですか。日本と東洋の違いがみられて面白いですね。」
(地神さん)「ケースの左側にある騎馬人物土偶も、騎士がつけている鎧の感じが日本のものとは明らかに違う印象をもちますね。」
(三笠研究員)「この騎馬人物土偶は、音声ガイドを用意していますので、ぜひ聞いてみてください。」

研究員の話したいこと、たっぷり聴けるAI音声ガイド」は、作品の詳しい解説や、研究員おすすめの見どころを聞くことができます。ご自身のスマートフォンで、展示作品のそばに配置された二次元コードを読み込むと、文字または音声で作品の詳細な解説をお楽しみいただける仕組みで、アプリのダウンロードは不要です。対象作品は5点です。


AI音声ガイドをお楽しみいただく様子。
再生速度を好きなスピードに変えられる、VOXX LITEという音声ガイドシステムを使っています。ちなみに河合さんは2倍速で聞いていらっしゃいました。


 

「”おしゃべりフリーな東洋館」

この取材は、開館時間中に行われました。おしゃべりの声が、ほかの来館者にうるさく思われないかとご心配な方もいらっしゃるかと思います。でも大丈夫です。実は、「博物館でアジアの旅」の会期中は、「”おしゃべりフリー”な東洋館」というスローガンを掲げました。

このきっかけとなったのは、アテンドの方から「視覚に障害がある方に展示の説明をする時、熱が入って声が大きくなってしまうので、展示室で監視さんに注意されないかと気をつかう」というご意見をいただいたからでした。
視覚に障害がある方が鑑賞する際は、アテンドの方との対話によるアプローチが不可欠です。当館ではこれまで、当事者とアテンドの皆さまに、そのような気まずい思いをさせてしまっていたことを大いに反省し、まずは展覧会期中だけでも「おしゃべりフリー」の環境を創出しようという試みを実施しています。
(この試みは、展示の鑑賞を目的としているため、携帯電話等での通話は展示室内ではお控えいただいております。)

 

書体の違いをさわって感じるハンズオン

それでは、ふたつめのハンズオンがある、東洋館4階へ移動します。
 
ふたつめのハンズオンは、「漢字の『手』をさわってみよう」というタイトルです。東洋館4階8室の中央に設置された、直径1.4メートルの丸いテーブルの上に、複数のプレートが設置されています。
3000年以上も前に中国でうまれた漢字は、長い歴史のなかで書きやすさや美しさなどが工夫され、篆書(てんしょ)、隷書(れいしょ)、草書(そうしょ)、行書(ぎょうしょ)、楷書(かいしょ)の、5つのスタイル(書体)があらわれました。
それぞれのプレートには、異なる書体で「手」という漢字が立体的に表されています。
プレートをさわって、書体の違いを直感的に感じていただき、漢字や書について新たな発見をしていただこう、という趣旨のハンズオンです。
 

河合さんがハンズオンのプレートにさわって、六人部研究員と対話する様子。
 
(河合さん)「これって、印鑑とかにつかわれている書体ですか?」
(六人部研究員)「そうです! 5つのなかで最も古い書体の篆書です。ここでは、青銅器にあしらわれた篆書の文字をイメージして、プレートは金属でつくられています。」
(河合さん)「1、2、3、4、5本の指がありますね。」
(六人部研究員)「まさに手のひらを広げているかたちです。まるで絵画のようなところが、篆書の面白さですね。」
 
次は、隷書のプレートです。篆書が簡略化されてできた隷書は、線が整理されて、現在、一般的に使われている漢字(楷書)に近いかたちをしています。
 
(六人部研究員)「横線(「手」の漢字の3画目)をさわってみてください。」
 

河合さんが隷書のプレートに触れている様子。
 
(河合さん)「まっすぐな線ではないですね」
(六人部研究員)「筆でリズムをとって、波打った線を書くのが、隷書の特徴なんです。この隷書は石碑にあらわされることも多かったので、プレートは石でつくられています。」
(河合さん)「石碑ということは、字を書くというよりは、石に字を刻んでいたということですね。」
(六人部研究員)「そうです!このプレートでは分かりやすいように、文字を立体的に起こしていますが、実際の石碑では文字の部分が彫られて、くぼんでいることがほとんどです。」
 

残り3つの書体についても、六人部研究員の説明を聞く河合さん。とても楽しそうに、ひとつひとつ興味深く聞いてくださいました。
 
(河合さん)「このハンズオンは、さわることを意識して「手」という漢字を採用されたと思うので、次は「目」という漢字のバージョンをつくってみるのも良いかもしれませんね。」
(六人部研究員)「いいですね!「目」という漢字は、まさしく人の目をかたどったかたちで、面白いので、ぜひやってみたいです。」
(河合さん)「体の部位がイメージできると、もしかしたら子どもたちに向けても分かりやすい教材になるかもしれませんね。」
 
 
課題は、伸びしろ。そして、可能性。
 
最後に、ふたつのハンズオンのご感想についてお伺いしました。
 
(河合さん)「いつも東博に来ると学びが多くて、今日も楽しく過ごすことができました。博物館で、こういうアプローチが増えていくと良いなと思います。スポーツ選手は、自分のパフォーマンスに注力しがちですが、たまに文化に触れてみると、インスパイアされて刺激を受けるように思います。
音声ガイドの説明でも理解が進みましたが、作品のイメージをより膨らませるためのサポートとして、作品がつくられた国や時代が伝わってくるような音楽や香りなどが組み合わさるような、五感に刺激のある展示も面白いかもしれません。
書のハンズオンは、改めて勉強になりました。金属・石・木などの素材にこだわってつくっておられましたね。作品自体はさわれなくても、展示作品の前で、その作品と同じような素材をさわることができたり、作品のサイズ感を体感できるようなパネルなどがあっても伝わりやすいなと思いました。」
 
(三笠研究員)「大変貴重なご意見をどうも有難うございます。このプロジェクトは、以前河合さんから展示や音声ガイドについて評価をいただけたことがきっかけとなって発足したものです。それ以降、研究員の視点から、視覚に障害のある方がいつでも安心して来館いただける館を目指して、先駆的な取り組みをされていらっしゃる博物館や施設に見学に行くようになりました。ですが、東博の現状と他館の現状を単純に比較することは難しく、東博ならではの問題を解決するには、館の中の人間が考え、発信しないとならないことを痛感しました。」
 
(河合さん)「こういう取り組みを繰り返し続けていくことが大事だと思います。このプロジェクトが、1回だけで終わってほしいわけではありません。これで完璧だと思った瞬間に終わってしまいます。まだ課題があると思っていれば、もっと良い博物館になっていく可能性がある。課題は伸びしろ、そして可能性だと思います。考え続けていく姿勢をもち、そういう人がひとりでも増えていくことが、東博の価値になるのではないでしょうか。」
 

展示室で対話する河合さんと三笠研究員

今回は、「東洋館インクルーシブ・プロジェクト」の企画第 1 弾として、同行者とご一緒に展示をお楽しみいただけるハンズオンや音声ガイドを、河合さんに体験していただきました。たくさんの貴重なアドバイスをもとに、当館は今後もプロジェクトを推進し、展示手法のさらなる開発とアクセシビリティの向上を目指してまいりますので、皆さまのご意見やご感想をお待ちしております。

大きな示唆をくださいました河合純一さん、本当に有難うございました!

カテゴリ:博物館でアジアの旅東洋館インクルーシブ・プロジェクト

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posted by 東京国立博物館広報室 at 2025年10月20日 (月)

 

特別展「運慶」10万人達成!

 現在、本館 特別5室で開催中の特別展「運慶 祈りの空間―興福寺北円堂」(11月30日(日)まで)は、この度来場者10万人を達成しました。

これを記念し、東京都からお越しの深田さん、神奈川県からお越しの満石さんに当館館長藤原誠より記念品と図録を、興福寺の森谷英俊貫首より直筆の色紙を贈呈いたしました。


記念品贈呈の様子。左から森谷貫首、満石さん、深田さん、10万人達成パネルを持つ藤原館長

お二人は大学の同級生。現在、フィールドワークの授業で、海外の観光客に向けて「鎌倉」をプロモーションするための調査をされているとのことです。
本展は、フィールドワークの担当教員の方におすすめされてお越しいただきました。

深田さんは修学旅行で興福寺を訪れたことがあり、満石さんは御朱印集めが趣味とのこと。
これまで仏像をじっくり拝見する機会はなかなかなかったとのことで、「ゆっくり楽しみます」と期待を膨らませていました。

鎌倉復興当時の北円堂内陣の再現を試みる本展。弥勒如来坐像は、2024年度の修理を経て、約60年ぶりに東京で公開されています。
運慶の最高傑作が織りなす至高の空間を、心ゆくまでご堪能ください。

なお、毎週金・土曜日および11月2日(日)、11月23日(日)は午後8時まで開館しています(入館は閉館の30分前まで)。
夕方以降の時間帯は比較的ゆっくりとご鑑賞いただけます。ぜひ夜間開館時にも足をお運びくださいませ。

カテゴリ:news彫刻「運慶」

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posted by 田中 未来(広報室) at 2025年10月15日 (水)

 

江戸城大奥へようこそ 其の六 大奥の歌舞伎―女の歌舞伎役者・坂東三津江の話

十一代将軍徳川家斉(いえなり)の時代は、文化文政期を中心に退廃的なムードの中で享楽を好む文化が広がりました。そのような時代にふさわしく、大奥においても、歌舞伎が行われるようになりました。当館には、家斉の時代に三代坂東三津五郎の弟子、坂東三津江(ばんどうみつえ)が大奥で演じた際に用いたと伝えられる歌舞伎衣装が40件余り伝わっており、特別展「江戸☆大奥」(9月21日(日)まで)では、その歌舞伎衣装が一堂に展示されています。
第4章「大奥のくらし」より『大奥の歌舞伎』展示。11代将軍徳川家斉の時代に活躍した女性の歌舞伎役者(お狂言師)・坂東三津江が用いた衣装の数々を一堂に会します。

それらの衣装の数々は、主として大奥に生きた3人の姫君と1人の側室が主催した歌舞伎で用いられた衣装と伝えられています。中でも、家斉の異母妹である一橋治済(【ひとつばしはるさだ】 1751〜1827)の娘だった紀姫(蓮性院【れんしょういん】 1785~1861)主催の舞台で用いられた衣装がもっとも多く遺されています。紀姫は、家斉が15歳で将軍となった天明6年(1786)の時はまだわずか2歳で、共に大奥に入ったのでしょう。家斉が将軍の座に就いた際、大御所のように家斉を後見し、権勢を誇ったのが治済でした(今、大河ドラマでは蔦屋重三郎を主人公とした「べらぼう」が放映されていますが、俳優の生田斗真さんが演じている役、といえば、どのような人物か想像がつくでしょう)。『ひらかな盛衰記』、『双蝶々曲輪日記(ふたつちょうちょうくるわにっき)』、『一谷嫩軍記(いちのたにふたばぐんき)』、『妹背山婦女庭訓(いもせやまおんなていきん)』、『京鹿子娘道成寺(きょうがのこむすめどうじょうじ)』、『積恋雪関扉(つもるこいゆきのせきのと)』と、伝えられるだけでも6つの演目で用いられた豪華な衣装の数々です。
家斉の妹、紀姫の主催する舞台で用いられた衣装。高価な素材、特別感のあるデザイン、豪華な刺繡にご注目ください。

三田村鳶魚(みたむらえんぎょ)の『御殿女中』では、大奥で1回の歌舞伎を演じるのに1000両かかったとのべています。実に1回1億円の舞台を催したということですから、実父・治済の贅沢は娘にも及んだということでしょう。
家斉は正室・側室・側妾を16人も抱え、53人もの子女がありましたが、家斉をめぐる女性のうち、家斉の側近だった旗本・中野清茂(【なかのきよしげ】1765〜1842)の養女として大奥に入ったお美代の方(専行院【せんこういん】 1797~1872)は、晩年の家斉に愛され、溶姫(【ようひめ】1813~1868)、末姫(【すえひめ】1817~1872)を生んだ側室でした。養父だった中野清茂は、家斉の父・治済、家斉の正室・広大院(こうだいいん)の実父・島津藩主八代島津重豪(【しげひで】1745〜1833)とともに「天下の楽に先んじて楽しむ」三翁の一人として(五弓久文【ごきゅうひさふみ】『文恭公実録』)、家斉時代に実権を握り、欲するままに贅沢をした人物として知られています。清茂という大きな後ろ盾のあった、お美代の方の主催した舞台で用いられた衣装が、紀姫の次に数多く遺されています。
家斉の側室、お美代の方(専行院)の主催する舞台で用いられた衣装。お美代の方は、豊臣秀吉を主人公にしたいわゆる「太閤物」が好みでした。

また、溶姫の舞台で用いられた衣装が1件、
打掛 黒繻子地松藤紅葉模様(うちかけ くろしゅすじまつふじもみじもよう) 坂東三津江所用 江戸時代・19世紀 東京国立博物館蔵 高木キヨウ氏寄贈
『伽羅先代萩』のヒロイン、高尾太夫の役に用いられた打掛。立体的な刺繡、大胆な意匠、錦で覆われた裾の太い袘(ふき)など、江戸時代後期の太夫や花魁の衣装の特徴がうかがえます。

末姫の舞台で用いられた衣装が4件、遺されています。
 
小忌衣 浅葱天鵞絨地菊水模様(おみごろも あさぎビロードじきくすいもよう) 坂東三津江所用 江戸時代・19世紀 東京国立博物館蔵 高木キヨウ氏寄贈
『時今也桔梗旗挙(ときはいまききょうのはたあげ)』の小田春永(史実では織田信長)の役に用いられた衣装です。南蛮服の影響と考えられる立襟や、金糸によるきらびやかな龍の刺繡など、トップに君臨する武将にふさわしい意匠です。

これらの衣装は、髙木キヨウが溶姫の女中だった母親から譲られたと伝えられています。また、髙木キヨウは、溶姫の妹・末姫の遊び相手として大奥に入ったとも伝えられています。大奥には男性の役者は出入りが禁止されていましたから、大奥の歌舞伎は女性の歌舞伎役者であるお狂言師が演じていました。『御殿女中』では「御狂言師は皆御抱えの人で、他からお雇ひになることはないのです」と述べています。さらに、お抱えのお狂言師は「お茶の間」が勤めるとありますが、お次やお三の間にある茶飲み所にお狂言師が詰めていたことから、お茶の間という役名ができたといいます。以上のことから推理すると、溶姫の女中としてお茶の間に詰めていたのが初代・坂東三津江だったのではないでしょうか。明治期になり、髙木キヨウが2代目坂東三津江を継いだと言われています。
家斉の側室や姫君たちの生活はほとんど記録に残されていません。しかし、特別展「江戸☆大奥」で一堂に展示されている豪奢な歌舞伎衣装の数々が、いずれも家斉時代の側室、姫君たちの舞台で使用されたことを思えば、文化文政期における大奥の贅を極めた生活がしのばれるのです。
 

カテゴリ:研究員のイチオシ「江戸☆大奥」

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posted by 小山弓弦葉(日本染織、東洋染織) at 2025年09月18日 (木)

 

江戸城大奥へようこそ 其の五 展覧会の舞台裏・染織品保存修復

特別展「江戸☆大奥」のリレーブログ第5弾は、染織品保存修復分野よりお送りします。染織品の中でとりわけ今回の展示に数多く出品されている衣装類は、衣桁(いこう)やマネキンに着付けされて展示される工程や環境を考えて保存修復処置を行う必要があります。私たちの仕事は、作品が安全に展示され、且つその損傷箇所が鑑賞の妨げにならないように、必要最低限の処置を行うことです。今回は、その内容の一部をご紹介いたします。

第4章「大奥のくらし」より、『四季の装い』展示風景
(上段右端)産衣 縹紗綾地宝尽模様 江戸時代・19世紀 東京国立博物館蔵 通期展示


処置前 右肩山の欠損部
 
産衣 縹紗綾地宝尽模様(うぶぎ はなださやじたからづくしもよう)には、右肩山に15.5センチメートルの裂けがあり、衣桁展示の際に肩山に負荷がかかり損傷が広がる恐れがありました。そのため、裂けた部分の内側から補修布を当て、欠損箇所を補強しました。
まず、補修材料となる絹羽二重と絹糸を化学染料で染めて、作品損傷箇所に馴染むように色を合わせます。
色選定の際の染色レシピと染色後の絹羽二重
 
次に、色合わせした補修布を損傷箇所に縫い留めました。カウチングステッチという保存修復で使用される方法を用いています。他にも金糸が外れて美観が損なわれている箇所もありました。外れた金糸の針穴や退色の跡を辿りながら、元の位置に繍い留めました。
 
処置後 カウチングステッチ

左:処置前 金糸の外れ 右:処置後
 
第4章「大奥のくらし」より、『大奥の歌舞伎』展示風景
(左端)筥迫 黒天鵞絨地桜鷹模様 
坂東三津江所用 江戸時代・19世紀 東京国立博物館蔵 高木キヨウ氏寄贈 通期展示
(右端)振袖 紅縮緬地桜流水模様 坂東三津江所用 江戸時代・19世紀 東京国立博物館蔵 高木キヨウ氏寄贈 通期展示
 
筥迫 黒天鵞絨地桜鷹模様(はこせこ くろビロードじさくらたかもよう)では、金糸のほつれが著しかったため、カーブ針(縫合針)を使用して金糸を繍い留める処置を行いました。カーブ針は、作品の裏側に針を通すことなく、表側からの処置を可能にします。
処置前 裏面 カーブ針での処置
 
また、黒天鵞絨(ビロード)地は非常に脆弱で粉状化が進んでいました。そのため生地への負担がかからないように、最小限の針数で処置をしなければいけませんでした。金糸を繍い留める位置を検討し、直径0.35ミリメートル 針長12ミリメートルと16ミリメートルのサイズ3と2のカーブ針を使い分けて処置を行いました。
カーブ針サンプル
 
振袖 紅縮緬地桜流水模様(ふりそで べにちりめんじさくらりゅうすいもよう)では、裾の施(ふき:着物の裏地を表に折り返して綿を入れ仕立てた部分)の生地が欠損し下の層の綿生地が露出していました。作品は露出展示で、該当の裾の施はお客様からも近い位置で見えるため、シルククレペリンという半透明の絹布で損傷箇所をカバーし、保護する処置を選択しました。化学染料で染めたシルククレペリンで、破れて脆弱な裾施の上からカバーし縫い留め、安全に展示されています。
化学染料でのシルククレペリン染色

左:処置前 裾の施 右:処置後 シルククレペリンでカバーされた裾の施
 
今回ご紹介したのは、展覧会のために実施した保存修復のごく一部です。他にも一見して気付かれることのない数多くの細かな作業が、展覧会の舞台裏で行われています。しかし私たちにとっては「見えない」仕事に徹することが使命であり、江戸時代の貴重で美しく繊細な染織品の数々にスポットライトが当たり、皆様に展覧会を楽しんでいただけることを心より願っています。
 
処置担当:横山翠(外部修理技術者)

カテゴリ:保存と修理「江戸☆大奥」

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posted by 佐藤萌(保存修復室) at 2025年09月16日 (火)

 

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