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1089ブログ

「呉昌碩の世界」その3 中華文人の友だちづくり

東京国立博物館(以下「東博」)の植松です。

現在、東洋館8室では、特集「生誕180年記念 呉昌碩の世界―金石の交わり―」(~3月17日(日))が開催中です。
こちらは毎年恒例の東博と台東区立書道博物館の連携企画ですが、今年は、呉昌碩生誕180年記念事業ということで、もう2館、台東区立朝倉彫塑館兵庫県立美術館の呉昌碩展示とも時期を合わせて、より総合的に「呉昌碩の世界」をご案内しています。
 
この展示をよりお楽しみいただくため、リレー形式による1089ブログをお送りします(過去のブログはこちらから。「呉昌碩の世界」その1その2)。
3回目の今回は東博展示から、呉昌碩とその師友との交流がよくわかる作品を紹介します。

古柏図軸(こはくずじく) 呉大澂(ごたいちょう)筆 清時代・光緒14年(1888) 高島菊次郎氏寄贈 東京国立博物館蔵
【東博にて3月17日(日)まで展示】


こちらの、「古柏図軸」、なんか、画のまわりにいっぱい字がある! と驚かれるかもしれません。
どうしてこういうことになるのでしょうか。それはこの作品が、本来は、展覧会に掛けて公(おおやけ)に楽しまれるものではなく、文人たちの友情を深めるためのプライベートな贈りものであったからなのです。
「柏」と題がついていますが、中国でいう柏は、日本のカシワ(落葉樹)ではなくヒノキ(常緑樹)の類を指し、いつでも葉が青々としていることから、長寿や高潔な人柄の象徴として愛されてきました。
贈りものにするのにぴったりの画題ですね。

誰がどんなことを書いているのか、まずは、絵画の部分を見ていきましょう。
落款(らっかん)と印章が2セットあります。


古柏図軸の絵画部分
 

古柏図軸の湯貽汾(とういふん)落款部分

左下の方には「湯雨生(とううせい)」と書かれています。
雨生は、清代後期の著名な画家、湯貽汾(とういふん、1778~1853)の字(あざな)であって、これはその落款ということになります。
 
でもちょっと待ってください。
その下に「清卿臨本(せいけいりんぽん)」と印がありますね。
「臨本」すなわち模写ですから、これは清卿という人が、落款も含めて湯貽汾の古柏図を模写したものという意味になります。
清卿は、清代末期の高官で学者、書画篆刻家としても著名であった呉大澂(ごたいちょう、1835~1902)の字です。

その呉大澂の落款が右上、画の中ほどにあります。


古柏図軸の呉大澂(ごたいちょう)落款部分

これにより、呉大澂は光緒14年(1888)の秋7月、この模写を作って「見山(けんざん)」という人に贈ったことがわかります。
見山は、やはり学者で書家としても有名な楊峴(ようけん、1819~96)の字になります。

模写作品を贈りものにするというのはちょっと変な感じがします。
ただ、清の武官として活躍し、太平天国(たいへいてんごく)の乱で南京が陥落した際に殉死した湯貽汾は、呉大澂にとって尊敬すべき先輩であり、模写も特に謹厳な態度でのぞんでいます。
そのような模写作品であれば、楊峴への贈りものとして問題なかったのではないでしょうか。

楊峴は、光緒16年(1890)の夏6月、画の右外に題記を書いています。
ここには、光緒14年秋、呉大澂からもらったこの作品を、2年後のこの年、「麈遺先生(しゅいせんせい)」なる人の「松柏之寿(しょうはくのじゅ、長寿)」の祝いとして贈ったとあります。


古柏図軸の楊峴(ようけん)題記部分

残念ながら、麈遺先生が誰かはわからなかったのですが、この麈遺先生に頼まれて、光緒16年8月、画の上に堂々たる題字を書いたのが、まだ47歳と比較的若い呉昌碩です。


古柏図の呉昌碩題字部分

呉昌碩にしてみれば、9歳上の呉大澂はこの頃知り合ったばかり、官位も、学者、書画篆刻家としての名声・実績も遠く及びません。
また、25歳上の楊峴は、30代から大変お世話になっている書と詩の師匠です。
その二人ゆかりの作品に題字を書くというのは大変なプレッシャーだったと想像されますが、見事それに応えています。
こういった、作品上での文人同士の交流が、書画家としての呉昌碩を育てていったことがわかるでしょう。

古柏図軸

その後も、10年にわたり都合5名の文人たちが、呉大澂、楊峴、呉昌碩に続いて、画の両側を埋め尽くすように題記を書いた結果、本作は現在の姿になりました。
現代の私たちには見慣れない、書と画の競演ですが、呉昌碩と師友たちとの交流の軌跡として楽しんでいただければ幸いです。

(追記)
ブログを読んでくださった方から、「麈遺」は、楊峴と同郷の書画家、凌霞(りょうか)の号であるとご指摘いただきました。
ありがとうございました!
 

カテゴリ:研究員のイチオシ中国の絵画・書跡「生誕180年記念 呉昌碩の世界—金石の交わり—」

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posted by 植松瑞希(絵画・彫刻室) at 2024年02月26日 (月)

 

「呉昌碩の世界」その2 呉昌碩の十八番、印に注目!

 台東区立書道博物館(以下、書博)の春田賢次朗です。

このたび21回目となる東京国立博物館(以下、東博)と書博の連携企画では、呉昌碩(ごしょうせき)生誕180年事業として、台東区立朝倉彫塑館(以下、朝倉)、兵庫県立美術館と時期を合わせて「生誕180年記念 呉昌碩の世界(東博、書博は3月17日まで)を開催しています。また、ふくやま書道美術館においても、呉昌碩をテーマとした展示を行います。

トップバッターの六人部克典さんによる「呉昌碩の世界」その1 に続き、わたしからは東博展示、朝倉展示、書博展示の呉昌碩作品に捺(お)されている5顆(か)の印についてお話しをしたいと思います。呉昌碩は、生前自らを「篆刻が第一、書法が第二、花卉が第三、山水は素人」と評するように、篆刻(てんこく)を十八番としました。
 

①「道在瓦甓」朱文方印
この印は、「篆書般若心経十二屛」、「墨梅図軸」に見られます。



篆書般若心経十二屛(てんしょはんにゃしんぎょうじゅうにへい) 【右】第一幅 【左】第十二幅
呉昌碩筆 中華民国6年(1917) 高島菊次郎氏寄贈 東京国立博物館蔵 
【東博にて2月12日(月・休)まで展示

 
 

墨梅図軸(ぼくばいずじく)
呉昌碩筆 清時代・光緒11年(1885) 兵庫県立美術館蔵(梅舒適コレクション)
【書博にて2月12日(月・休)まで展示】


側款(印材の側面に刻まれた款記)に「旧蔵漢晋甎甚多、性所好也。爰取『荘子』語摸印。丙子二月。倉碩記。」とあることから、丙子(1876年)の2月、呉昌碩が33歳の時に漢・晋時代の甎(せん)を好み、その書風で刻した印であることが分かります。甎は、現在のレンガに相当します。
「道在瓦甓」は、『荘子』に見える語です。
東郭子(とうかくし)が荘子に「道と言われるものはどこにあるのかな。」と尋ねると、荘子は「どこにだってあるよ。」と答えます。東郭子はさらに「はっきり決めてくれるといいんだけれど。」と言うと、荘子は「螻(オケラ)や蟻の中にもあるよ。稊(いぬびえ)や稗(ひえ)の中にもある。瓦や甓(しきがわら)にだってあるよ。大便や小便にもあるよ。」と答え、東郭子はいよいよ黙ってしまいます。荘子はさらに「正獲の官にあるものが市場の監督人に豚を踏んでその太り具合を調べることを尋ねたとき、胴よりも股(もも)、股よりも足のつけねのように、太りにくい部分へと下がれば下がるほど正確に分かると言うことだった。道はここにあると限定してはいけない。道は全ての物にいきわたっているものだからね。」と言いました。
呉昌碩は、荘子が万物に等しく存在する「道」を説くように、「篆書般若心経十二屛」の一幅一幅にもそれぞれ共通の「道」が存在していることを伝えたかったのでしょうか(十二幅もありますからね)。この印は呉昌碩の他の連幅作品にも見られますが、「墨梅図軸」は一幅のみの作品です。必ずしも連幅専用の印という訳ではないようです。


②「俊卿之印」朱文方印・「倉碩」白文方印(両面印)
この印は、非常に多くの呉昌碩作品に捺されており、呉昌碩の名の「俊卿(しゅんけい)」、字(あざな)の「倉碩(そうせき)」が刻されています。側款に「丁丑九月刻面印。以便行篋携帯。」、「此擬穿帯印。」とあることから、丁丑(1877年)の9月、呉昌碩34歳の時に穿帯印(せんたいいん)を参考にして、携帯用に刻した印であることが分かります。穿帯印は、扁平な両面印で、携帯するのにうってつけでした。
使用頻度が特に高い印なので、印面は徐々に摩耗し、四隅は擦り減っていきます。そこで呉昌碩は光緒23年(1897)、54歳の春に、34歳の時に刻した両面印とそっくりな印を再び刻しています。
呉昌碩が82歳の時、事件は起こります。約50年もの間愛用し続けたこの印が何者かによって盗まれてしまうのです。この時呉昌碩は、弟子の王个簃(おうかい)に54歳の時に刻した印の印影をもとに摸刻させたので、この印は呉昌碩が34歳の時に刻したもの、呉昌碩が54歳の時に刻したもの、王个簃が摸刻したものの、計3顆が存在しているのです。呉昌碩にとってこの印は、特別お気に入りであったことがよく分かります。


③「一狐之白」朱文方印
この印は、「臨石鼓文四屛」に見られ、四幅全てに捺されています。



臨石鼓文四屛(りんせっこぶんしへい)
呉昌碩筆 中華民国7年(1918) 兵庫県立美術館蔵(梅舒適コレクション)
【書博通期展示】


側款に「己卯春日。倉石道人作于苕上。」とあることから、己卯(1879年)の春、呉昌碩が36歳の時に苕上(ちょうじょう)(呉興)で刻した印であることが分かります。
司馬遷の『史記』には、これに類似する「一狐之腋」(一匹のキツネの脇毛)という語があります。この語は、「千金の価値がある皮衣(かわごろも)は一匹のキツネの脇毛からはできない。」という一文で用いられており、国家を治めるためには優れた人材を多く集めるべきであることを説いています。
キツネの脇の下の白毛皮で作られた皮衣は、狐裘(こきゅう)とも言い、昔から珍重されていました。呉昌碩は、一匹のキツネから採取できるほんの少しの上質な皮衣を一幅の聯に見立てて、これを四幅全てに捺すことで、自らの作品を千金の価値がある皮衣と同等であることを暗に示しているのでしょう。つまり、この印は連幅作品に捺されていることではじめて意味を為すのであり、「臨石鼓文四屛」は、呉昌碩自身が認める自信作であったのです。


④「帰仁里民」白文方印
この印は、「篆書八言聯」、「荷花図軸」に見られます。



篆書八言聯(てんしょはちごんれん)
呉昌碩筆 中華民国6年(1917) 林宗毅氏寄贈 東京国立博物館蔵 
【東博通期展示】



荷花図軸(かかずじく) 
呉昌碩筆 中華民国5年(1916) 兵庫県立美術館蔵(梅舒適コレクション)
【書博にて2月14日(水)から3月17日(日)まで展示】



側款に「帰仁吾鄣呉村里名、亦里仁為美之意。壬午冬。昌石記。」(帰仁は我が地元の鄣呉村の里名で、里仁は美の意味である。壬午の冬。昌石が記す。)とあることから、壬午(1882年)の冬、呉昌碩が39歳の時に刻したことが分かります。印面の「帰仁里民」は「鄣呉村の人」という意味で、鄣呉村は呉昌碩の生まれ故郷である浙江省安吉県鄣呉村(せっこうしょうあんきつけんしょうごそん)を指します。
「里仁」は『論語』に見える語です。
「子曰。里仁為美。択不処仁、焉得知。」(孔子が言った。「仁に居る(里(お)る)ことは立派(美(よ)し)なことである。あれこれと選んで仁を離れたならば、どうして智者と言えるだろうか。」)
印面の「帰仁里民」の「仁里」をわざわざひっくり返して『論語』に見られる「里仁」にあてがっています(ちょっと無理があるような…?)。「里仁」は「立派」という意味であり、呉昌碩が故郷に誇りを持っていたことを示す、地元愛溢れる印です。


⑤「半日村」朱文方印
この印は、「藤花爛漫図軸」、「篆書八言聯」、「竹図軸」に見られます。



藤花爛漫図軸(とうからんまんずじく)
呉昌碩筆 中華民国5年(1916) 個人蔵
【東博にて2月14日(水)から3月17日(日)まで展示】

 


篆書八言聯(てんしょはちごんれん)
呉昌碩筆 中華民国13年(1924) 兵庫県立美術館蔵(梅舒適コレクション) 
【書博にて2月14日(水)から3月17日(日)まで展示】




竹図軸(ちくずじく)
呉昌碩筆 中華民国10年(1921) 台東区立朝倉彫塑館蔵 
【朝倉にて2月9日(金)から3月6日(水)まで展示】


側款に「孝豊鄣呉村、一名半日村。甲寅秋。老缶。」とあることから、甲寅(1914年)の秋、呉昌碩が71歳の時に刻した印であることが分かります。
呉昌碩が生まれた鄣呉村は、山々に囲まれ、竹や古樹が空高くそびえているので、木々が日の光を遮り、半日しか日が当たらないことから半日村とも言います。呉昌碩の詩集には、故郷の風土に関する詩が多く見られ、「帰仁里民」印からも分かるように、やはり地元大好き人間だったのです。


呉昌碩の作品には、これまでご紹介した印のように、落款印以外の印が捺されているものが少なくありません。今回ご紹介した5顆の印が紙面のどこに捺してあるかは、あえて内緒にしましたので、ぜひ東京国立博物館、台東区立朝倉彫塑館、台東区立書道博物館に足を運んでいただき、作品のどこにこれらの印があるのかを探してみてください。

 

図録『生誕180年記念 呉昌碩の世界』
ミュージアムショップのウェブサイトに移動する

週刊瓦版
台東区立書道博物館では、本展のトピックスを「週刊瓦版」として、毎週話題を変え、無料で配布しています。各館の担当者が順番に書いています。呉昌碩の世界を楽しむための一助として、ぜひご活用ください。

 

カテゴリ:中国の絵画・書跡「生誕180年記念 呉昌碩の世界—金石の交わり—」

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posted by 春田賢次朗(台東区立書道博物館専門員) at 2024年02月07日 (水)

 

「呉昌碩の世界」その1 真骨頂の書

現在、東洋館8室では、特集「生誕180年記念 呉昌碩の世界―金石の交わり―」(前期展示:2月12日(月・休)まで、後期展示:2月14日(水)~3月17日(日))が開催中です。

今年で21回目を数える東京国立博物館(以下「東博」)と台東区立書道博物館(以下「書道博」)の連携企画。今回は、呉昌碩(ごしょうせき)生誕180年記念事業として、台東区立朝倉彫塑館兵庫県立美術館と時期を合わせて「呉昌碩の世界」をご紹介しています。
本展を多くの方々にお楽しみいただこうと、東博と書道博の研究員でリレー形式による1089ブログをお送りします。初回は東博展示から、書跡のオススメ作品を中心にご案内します。
 

2024年に生誕180年を迎えた呉昌碩(1844~1927)は、清朝末期から中華民国初期にかけて書画篆刻(てんこく)に偉大な業績を遺し、清朝300年の掉尾(ちょうび)と近代中国の劈頭(へきとう)を飾る文人として知られます。その芸術は、当時盛行した古代の金属器や石刻などの金石(きんせき)文字の研究を素地として、同じく金石を尊重した先学や師友たちから影響を受けて形成されました。
呉昌碩はとりわけ戦国時代・秦の「石鼓文(せっこぶん)」に執心しました。石鼓文は王の狩猟の様子などを詠う韻文を、太鼓形の10個の石に刻した銘文で、大篆(だいてん)と呼ばれる篆書(てんしょ)の古典として重んじられます。呉昌碩は生涯にわたってその臨書を続け、自らの芸術を「金石の気」と呼ばれる特異なオーラに満ちた、質朴で重厚なものへと昇華させます。
後年、呉昌碩は上海芸術界の中心人物となり、中国に渡った日本の同好の士とも交流して大きな影響を与えます。大正時代には作品集の刊行や個展の開催など、呉昌碩の作品は日本でも広く愛好されました。
東博展示では、サブタイトルに「金石の交わり」(金石のように堅いまじわり)と題して、第1部「呉昌碩前夜」、第2部「呉昌碩の書・画・印」、第3部「呉昌碩の交遊」の3部構成とし、金石に魅せられた呉昌碩の作品を、影響を受けた先学や交流のあった師友たちの作品とともにご覧いただきます。

 

篆書八言聯(てんしょはちごんれん)
呉昌碩筆 中華民国6年(1917) 林宗毅氏寄贈 東京国立博物館蔵 
[東博通期展示]


呉昌碩の書法の真骨頂である篆書は、50代の頃まで先学の能書、楊沂孫(ようきそん、1812~1881)の書法の影響が顕著でした。しかし、60代以降、恣意的なまでの解釈を加えた石鼓文の臨書により、先学の影響を脱して、70代から最晩年に至るまで独自の様式を築くに至ります。
「篆書八言聯」は呉昌碩が74歳の時に、石鼓文から文字を集めて、8言2句「天馬出斿嚢弓執矢、淵魚共楽微雨夕陰」を2幅に書いた作品です。款記(かんき)には、石鼓文の北宋時代の拓本をもとに阮元(げんげん、1764~1849)が制作した重刻本(じゅうこくぼん)から集字したことが記されます。

 

篆書八言聯 呉昌碩筆(部分)

 


石鼓文―阮氏重撫天一閣本―(せっこぶん げんしじゅうぶてんいつかくぼん) 
阮元模 清時代・嘉慶2年(1797)、原刻:戦国時代・前5~前4世紀 市河三鼎氏寄贈 東京国立博物館蔵
[東博前期展示]


こちらは阮元による石鼓文の重刻本の作例です。阮元は、明の蔵書家、范欽(はんきん、1506~1585)を祖とする天一閣(てんいつかく、浙江省)所蔵の北宋拓本をもとに制作しました。
呉昌碩は阮元が創設した書院、詁経精舎(こけいせいしゃ、浙江省)で学び、学術的な背景から、石鼓文の拓本のなかでも阮元の重刻本を尊重したことが指摘されています。
呉昌碩74歳時の「篆書八言聯」と石鼓文を比べてわかるように、この頃の呉昌碩は石鼓文の字形をもとにしながらも、やや右上がりの躍動感のある文字構えに変えていたり、縦長で重心が高い引き締まった造形にしています。朴訥とした筆使いで、線質は重厚で力強さが感じられます。あたかも無機質な線の石鼓文に息吹を吹き込み、生気に満ちた字姿に再生しているかのようです。

 

篆書集石鼓字聯(てんしょしゅうせっこじれん)
呉昌碩筆 清時代・19世紀 青山慶示氏寄贈 東京国立博物館蔵 
[東博後期展示]


一方、「篆書集石鼓字聯」は呉昌碩が「呉俊(ごしゅん)」と名のっていた51歳以前の早期の作例で、同じく石鼓文から集字して7言2句「水逮深淵又其道、雨滋嘉樹敷之華」を書写した対聯(ついれん※家の門や柱、壁などを飾る対句を表した2幅の書)です。
先ほどの「篆書八言聯」に対して本作は、石鼓文の字形に比較的忠実で、筆使いは謹厳、線には繊細さが見られます。
当時の呉昌碩は、石鼓文をはじめとする金石文字を拠りどころとしながら、先学の書をふまえて自己の作風を模索していました。本作の字姿にも、同じく石鼓文を深く学んだ楊沂孫の書法の影響がうかがえます。

 

篆書集石鼓字聯 呉昌碩筆(部分)

 


篆書八言聯(てんしょはちごんれん)
楊沂孫筆 清時代・光緒5年(1879) 林宗毅氏寄贈 東京国立博物館蔵
東博前期展示


楊沂孫は呉昌碩より32歳年長で、呉昌碩に先んじて、石鼓文をもとに独自の様式を築いた能書です。
この「篆書八言聯」は、楊沂孫が晩年の67歳時に8言2句「欲知則学欲能則問、持酒以礼持才以愚」を書写した対聯です。
秦の始皇帝が制定した、小篆(しょうてん)と呼ばれる篆書を基調として、石鼓文の文字構えを取り入れた造形をしています。虚飾を排した筆使いはよどみがなく実に自然で、剛と柔の中庸を得た線質です。
本作のような清純な趣の石鼓文風の篆書に、模索期の呉昌碩は強く惹かれたのかもしれません。

 

篆書八言聯 楊沂孫筆(部分)


本展を通して、金石で彩られた「呉昌碩の世界」をご堪能いただけますと幸いです。

 

生誕180年記念 呉昌碩の世界

編集:台東区立書道博物館
編集協力:東京国立博物館、九州国立博物館、兵庫県立美術館、台東区立朝倉彫塑館
発行:公益財団法人 台東区芸術文化財団
制作・印刷:大協印刷株式会社
定価:1,800円(税込)
ミュージアムショップのウェブサイトに移動する
生誕180年記念 呉昌碩の世界 表紙画像

カテゴリ:研究員のイチオシ中国の絵画・書跡「生誕180年記念 呉昌碩の世界—金石の交わり—」

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posted by 六人部克典(東洋室) at 2024年02月02日 (金)

 

中国書画精華―日本におけるコレクションの歴史

東洋館8室では、特集「中国書画精華―日本におけるコレクションの歴史」が開催中(後期展示:2023年11月28日(火)~2023年12月24日(日))です。
「中国書画精華」は、東京国立博物館でおこなっている毎年秋恒例の中国書画名品展です。
今年は日本におけるコレクションの歴史を切り口に、「古渡(こわた)り」「中渡(なかわた)り」「新渡(しんわた)り」といった観点から作品を紹介しています。


東洋館8室 展示風景

中国絵画では、室町時代以前に日本に渡ったものを「古渡り」と呼びます。今回の展示では、室町以前の伝来が裏付けられる作品に加え、『君台観左右帳記(くんだいかんそうちょうき)』など、足利将軍家の中国絵画趣味を伝える書物に名前が載っている画家の作品を、「古渡り」のカテゴリーで紹介しています。


重要文化財 羅漢図軸
蔡山(さいざん)筆
元時代・14世紀 中国
[展示中、12月24日まで]

羅漢図軸 寄進銘

例えば、元時代の怪奇趣味を体現する画家、蔡山による、どこか不気味な「羅漢図軸」は、右下の「奉三宝弟子左兵衛督源直義捨入」という寄進銘により、足利尊氏(1305~1358)の弟、直義(1306~1352)が、貞和2年(1346)に高野山 金剛三昧院(こんごうさんまいいん)に寄進した十六羅漢図の一つであることがわかっています。

次に、「中渡り」ですが、中国絵画分野では、「古渡り」と「新渡り」の中間、主に江戸時代に伝わったものを指しています。厳密にいえば、江戸時代に伝わったのか、それ以前から日本にあったのかは定かでありませんが、後世に大きな影響を与えた足利将軍家の中国絵画趣味の体系には入っていない作品を紹介しています。


重要文化財 天帝図軸
元~明時代・14~15世紀 中国 霊雲寺蔵
[展示中、12月24日まで]


天帝図軸 部分(玄天上帝)

天帝図軸 部分(四元帥)

江戸時代に日本にあったことが裏付けられる作品として、霊雲寺ご所蔵の「天帝図軸」があります。霊雲寺は、元禄4年(1691)、5代将軍徳川綱吉(1646~1709)により、徳川将軍家の祈願寺として湯島に創建された名刹です。
本作には、北斗七星の旗と剣、玄武を従える玄天上帝が描かれ、その周りに、青龍偃月刀(せいりゅうえんげつとう)を持った関元帥(関羽)、黒衣の趙元帥、火炎に包まれる馬元帥、青顔の温元帥が配されます。画家の名は伝わりませんが、細かな描写と華やかな彩色が見事な、道教絵画の名品です。


天帝図軸 箱蓋裏(箱蓋裏を拡大して見る

天帝図 竹沢養渓(たけざわようけい)、養竹(ようちく)摸 天明8年(1788)
(注)現在、展示されていません。

霊雲寺の4世住職法明(1706~63)による、箱の蓋裏の書付(1754年)によれば、本作は狩野探幽(1602~74)の旧蔵で、御用絵師を務めた狩野家から8代将軍徳川吉宗(1684~1751)に献上されたものといいます。吉宗はこれの摸本を作らせたのち、原本を霊雲寺の3世住職慧曦(1679~1747)に下賜(かし)したそうです。
狩野家ではこれの摸本を代々作っていたようで、当館にも、狩野惟信(かのうこれのぶ・1753~1808)の弟子、竹沢養渓、養竹の摸本が伝わっています。

さて、清の衰退にともない、中国本土に秘蔵された名画が多く流出した近代には、古渡り、中渡りとは異なる、本場の文人趣味を体現する作品が日本にやってきます。
これら新渡りとして、高島菊次郎(1875~1969)蒐集の揚州八怪(ようしゅうはっかい)の作品を紹介します。揚州八怪は、清の最盛期に商業都市揚州(江蘇省・こうそしょう)で活躍した在野の書画家たちの総称です。その後の文人画の動向を決定づけた彼らの書画は、中国で大変珍重されたため、近代以前の日本人はその真跡を見ることはほとんどできなかったと思われます。


秋柳図巻(しゅうりゅうずかん) 黄慎(こうしん)筆 清時代・雍正13年(1735) 中国 高島菊次郎氏寄贈[展示中、12月24日まで]


秋柳図巻 拡大図

高島菊次郎は大正から昭和にかけての著名なコレクターです。王子製紙社長として活躍しながら、中国書画を多く収集しました。当館に寄贈された高島コレクションには、揚州八怪の一人、黄慎(1687~1768?)の優品が含まれています。
「秋柳図巻」は、王士禎(おうしてい・1634~1711)の著名な詩「秋柳」に想を得た作品で、葉の落ちた柳の枝に見られる、洗練されたすばやい筆さばきが見所です。本場の中華文人の洗練された筆墨を初めて目にした、日本の愛好家の興奮が想像されます。

以上、駆け足で古渡り、中渡り、新渡りについて紹介しました。これらを通覧することで、日本における中国絵画鑑賞伝統の層の厚さを体感していただければ幸いです。

カテゴリ:特集・特別公開中国の絵画・書跡

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posted by 植松瑞希(絵画・彫刻室) at 2023年12月01日 (金)

 

中国元時代の隠れた名品「拾得図」

東洋館8室で開催中の特集「創立80周年記念 常盤山文庫の名宝」(2023年10月22日まで)。今回は、現在展示中の重要文化財「拾得図」について解説したいと思います。


展示風景写真中央
重要文化財 拾得図(じっとくず)
虎巌浄伏賛 元時代・13~14世紀 東京・公益財団法人常盤山文庫蔵
[展示中、10月22日まで]


この「拾得図」は、南宋時代末から元時代初頭に活躍した禅僧・虎巌浄伏(こがんじょうふく/1303年没)の賛を伴う作品です。同じく虎巌の賛を伴う静嘉堂文庫美術館所蔵の「寒山図」と対幅をなしていたことが知られます。
寒山と拾得は、中国唐時代に天台山(てんだいさん)に住んだといわれる伝説的人物で、自由で何ものにも捉われない風狂な姿が禅林(ぜんりん)で好まれ、盛んに絵画化されました。寒山は「寒山詩(かんざんし)」と呼ばれる漢詩を作ったことから経巻を持つ姿で、拾得は寺の掃除を行っていたことから箒(ほうき)を持つ姿で表されるのが通例です。



拾得図 全図

本作では、無背景の画面に、経巻を両手で広げ、やや腰を曲げて裸足で立つ拾得の姿が軽妙な筆致で表されています。
あれ? 経巻を持っているのは寒山じゃなかったっけ?
そう思った方もいるかもしれません。実は、本作と対になる静嘉堂本では「筆」を持つ姿で表されることから、まさに詩を書こうとしている寒山に同定され、となると経巻を持つこちらの人物がやはり拾得だと判断されるのです。いずれにせよ、半円形の目で奇怪な笑みを浮かべるその表情は、拾得の超俗性をよく体現しているといえるでしょう。

画面の上部には画賛(がさん。絵に寄せる言葉)が書かれています。


拾得図 画賛

少し難しい語句も含まれますが、ちょっと読んでみましょう。

【翻刻】
手持一巻出塵経
両眼相看幾度春
要与世人為牓様
莫教虚度此生身
【読み下し】
手に持すは一巻の出塵の経
両眼で相看る幾度かの春
世人のために牓様と為さんと要せば
虚しく此の生身を度せしむること莫れ


これに主語を補って現代語訳すると、次のような意味になるでしょうか。

【句意】
(拾得が)手に持っているのは、汚れた塵を払う一巻の経典(寒山詩か)。(彼が)両眼で見つめるのは(この経典のように清らかな)繰り返す春の情景である。(この賛を読むあなたが)世の人のために模範となろうとするのであれば、(ここに描かれた拾得の)この(幻影の反語としての)生身に対して、無駄に済度(さいど。悟りに導くこと)させるようなことはしないことだ(すでに拾得は脱俗の境地に到達しているのであるから)。


賛者の虎巌浄伏は、杭州の径山(きんざん)に住した高僧で、門下に月江正印(げっこうしょういん)や明極楚俊(みんきそしゅん)といった俊英を輩出したことでも知られています。虎巌の筆跡は他に残されていないことからしても、本作はその貴重な遺墨といえるでしょう。

ちなみに賛の末尾には「浄伏」の署名がありますが、子細に見れば、署名部分の周囲に2.2センチ四方の印章跡が確認できます。斜光撮影した画像をよ~く見てみると、うっすらと四角い跡が見えてくるはずです。摩滅のため印文は不明ですが、おそらくは静嘉堂本と同じ朱文重郭方印であったと思われます。


拾得図 印章跡(斜光撮影)


さて、改めて本作の図様表現を確認すると、衣文を表す描線は起伏に富んだ筆線が用いられ、とりわけ裾や腰帯は右から左へと風になびいてリズミカルに翻っています。対して面部や肉身部は鋭い細線で表されており、略筆でありながらもその像容把握は的確です。


拾得図 全身


また、毛髪は筆をこすりつけるような擦筆が用いられ、拾得の怪異な容貌が強調されています。こうした表現は、伝因陀羅筆「寒山拾得図」(東京国立博物館蔵)などにも見られるものであり、南宋時代末から元時代初期の禅宗人物画の特質をよく示しているといえます。


重要美術品 寒山拾得図(かんざんじっとくず)
伝因陀羅筆、慈覚賛 元時代・14世紀 東京国立博物館蔵
[特集「東京国立博物館の寒山拾得図―伝説の風狂僧への憧れ―」(本館特別1室 10月11日から11月5日まで)にて展示]


さらに注目されるのは、拾得を描く軽やかな描線と、虎巌の賛の流麗な草書体とが見事に照応していることでしょう。とりわけ、小気味良く反転する衣文描写と賛の書体は、明らかに呼応関係にあるといえます。このことは、書画の一致が目指された同時代の作例とも軌を一にしています。
加えて本作では、毛髪を除く図様全体はやや水気を含んだ墨線で描き表すのに対し、瞳部分のみ、黒々とした濃墨を点じていることが見て取れます。こうした表現は、賛にある「両眼相看」の詩句とも対応するだけに興味深いといえるでしょう。


拾得図 面部


本作を描いた画家は不明ですが、このような詩書画の一体性を考慮するならば、賛者虎巌とも親しく接することのできた、禅余画僧(余技として絵を描く禅僧)の手による可能性が考えられるかもしれません。本作は、禅林における道釈人物画の展開をうかがう上でも貴重な作例といえるでしょう。

今回ご紹介した作品と関連して、当館では、表慶館で「横尾忠則 寒山百得」展(12月3日まで)、本館特別1室で特集「東京国立博物館の寒山拾得図―伝説の風狂僧への憧れ―」(11月5日まで)も開催中です。ぜひ、本特集とあわせてご覧ください。

 

カテゴリ:研究員のイチオシ特集・特別公開中国の絵画・書跡

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posted by 高橋真作(特別展室) at 2023年09月28日 (木)

 

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