シカ・シカ・シカ。
ただいま、当館で好評開催中の特別展「春日大社 千年の至宝」の会場には、シカが登場する作品がいろいろと並んでいます。
まさに、シカのオンパレード!
鹿図屏風 (左隻部分)
江戸時代・17世紀 春日大社蔵
春日権現験記絵(春日本)巻一 (部分)
江戸時代・文化4年(1807) 春日大社蔵
鹿の作品には鹿マークが付いています。
特別展会場でぜひチェックしてみてください
なぜこんなにシカがいるのでしょうか。
春日大社にとって、シカはとても重要な動物。それは神様の乗り物であり、神様の使いや化身でもあるからだと言います。
ところで、シカと言えば、銅鐸(どうたく)にもさまざまなシカが描かれているものがあることをご存知でしょうか。
銅鐸にはシカのほか、鳥・トンボ・魚・カマキリ・トカゲ・カエル・イノシシ・クモ・イヌ・ヘビ・カニ・不明動物・人物・建物・船なども描かれていますが、シカは銅鐸絵画のおよそ5割を占め、ダントツの存在感を示しています。
ちなみに、これまでに発見された銅鐸は約600個体。このうち、絵画をもつものは約100個体です。
当館にはシカの絵画をもつ銅鐸が10個もあります。
トーハクは国内有数の銅鐸コレクションを誇ります。まさに銅鐸の聖地
現在、このうちの3個の銅鐸が平成館考古展示室と本館1室に展示されています。
まず考古展示室の独立ケースに並ぶのが国宝の伝香川県出土銅鐸です。
身が6つに区画され、それぞれの区画内には人物・鳥・イノシシ・昆虫・爬虫類、そして狩人に狙われたシカが描かれています。
国宝 銅鐸
伝香川県出土 弥生時代(中期)・前2~前1世紀
~9月3日(日)/平成館考古展示室
次に、その隣の壁付ケースには大阪府恩智銅鐸があります。
この銅鐸の吊り手の部分にはカエルが見えます。裾に注目してみると、そこには魚の群れ、そしてその反対側にはシカの群れが巧みに描かれています。
外縁付鈕2式銅鐸
大阪府八尾市恩智中町3丁目出土 弥生時代(中期)・前2~前1世紀安井増太郎・堀井恵覚氏寄贈
通年/平成館考古展示室
※カエル、魚の群れの描かれた面は、展示室ではご覧いただけません。
一方、本館に並ぶのは、静岡県悪ケ谷銅鐸です。
6つに区画された身の下段の区画内にシカと鳥が描かれています。
袈裟襷文銅鐸(三遠式)
静岡県浜松市北区細江町中川(悪ヶ谷)出土 弥生時代(後期)・1~3世紀
7月17日(月・祝)まで/本館1室
この他、今は展示されていませんが、当館には吊り手の部分に、少なくとも17頭ものシカが描かれた兵庫県気比3号銅鐸、絵物語風に人物や他の生き物とともに10頭ものシカが描かれ鳥取県泊銅鐸、そして裾の部分にシカとイノシシが列をなして向かい合う場面を描いた三重県磯山銅鐸なども所蔵されています。
重要文化財 銅鐸(気比3号銅鐸)
兵庫県豊岡市気比字溝谷出土 弥生時代(中期)・前2~前1世紀
※展示予定はありません。
銅鐸(泊銅鐸)
鳥取県湯梨浜町小浜字池ノ谷出土 弥生時代(中期)・前2~前1世紀
※展示予定はありません。
外縁付鈕2式銅鐸(磯山銅鐸)
三重県鈴鹿市磯山町出土 弥生時代(中期)・前2~前1世紀
※展示予定はありません。下は、シカとイノシシがわかりやすいように拓本を加工したもの。
実は、シカはこうした銅鐸だけでなく、銅剣・銅戈(どうか)、そして多くの弥生土器にも描かれています。
では、なぜ弥生時代にはこんなにシカが描かれたのでしょうか。
それを知るには、弥生時代におけるシカの意味を考える必要があります。
各遺跡から発見される動物遺存体をみると、縄文時代も弥生時代もほとんど同じような動物を食べていたことがわかります。
特に、イノシシとシカは両時代を通して、人々の重要な食糧源となっていたようです。
獲物の豊かさを祈った人々は、両者のより多い獲得を夢見たに違いありません。
それ故、イノシシとシカは、両時代の象徴的な動物として時には土で形作られ、また時には絵画として表現されてきたと考えられます。
ところが、縄文人が形作ったものは、その多くがイノシシであるのに対し、弥生人が描いたものは、圧倒的にシカが多いという、きわめて興味深い現象が見られます。
さて、この現象をどう捉えたらよいでしょう。
どうやらシカは稲作と深い関係にあるようです。
奈良時代に編纂された『豊後国風土記』速水郡の条には、田主が田を荒らすシカを戒め、それを許すことによって田の豊穣が約束されるという話が出てきます。
また、『播磨国風土記』讃容郡の条には、生きたシカを捕らえ、その腹を割き、大地に広がるその血に稲を蒔くと、一夜にして苗が生えてきたという話も見られます。
こうした記事は、シカが日本では古くから稲作と非常に関係が深い動物であったことを伝えています。
これを弥生時代にまで遡らせて考えることが許されるのであれば、弥生社会におけるシカの意味も、田の豊穣をもたらす神、ひいては氏族の繁栄をもたらす神の象徴であったと考えることができます。
おそらくシカは、弥生時代の重要な物語を構成する存在として、当時の人々に選択されたものと考えられます。
ここに縄文時代のイノシシから弥生時代のシカへの変貌の鍵を見出すことができます。
つまり、米という新たな食糧を獲得するにあたって、人々は稲作に対する新たな農耕儀礼をも自分たちの世界に導いたのです。
そして人々は、縄文の食料採集経済から脱却し、新たな食糧生産経済へと向かうのです。
裏を返せば、イノシシは食糧採集経済を、シカは食糧生産経済を反映したものとして捉えることが可能だと思います。
こうした観点に立てば、動物意匠におけるイノシシからシカへの変化は、まさに食糧採集経済から食糧生産経済への変化として捉えることができるのではないでしょうか。
銅鐸に描かれたシカは、私たちにこうしたことをも考えさせる存在なのです。
では展示室にて、その姿をとくとご覧あれ!
鹿の銅鐸、見に行くシカないほ!
※Instagramで、トーハクの銅鐸をアップしています。
「#1089考古ファン」で検索してみてください。
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posted by 井上洋一(学芸企画部長) at 2017年02月17日 (金)
平成館考古展示室の奥、古墳時代の展示スペースの一角に、特集「後期の古墳文化-海北塚古墳展-」(展示期間:2016年7月20日(水) ~ 2016年10月30日(日))がございます。6世紀の後期古墳文化を代表する環頭柄頭、馬具、須恵器を中心に展示しています。
平成館考古展示室の特集コーナー
なかでも展示の核となる大阪府茨木市に所在する海北塚古墳出土品は、明治42(1909)年・昭和10(1935)年に発見されました。
この度、発掘されて100年ほど経ちますが、これまで個別に展示をすることがあっても、まとめて展示をするのは初めてです。
海北塚古墳出土品は、古墳時代の年代を決める上で欠かせない資料として注目されてきました。例えば、環頭柄頭は、朝鮮半島から伝来した日本列島最古のものであり、龍の形がリアルに表現されています。馬具は大変状態が良く、それまでの伝統的な形から「新羅系馬具」への転換を示す、6世紀後半における馬具の基準資料です。そして、須恵器は昭和30年代に「海北塚式須恵器」として全国的に知られるようになりました。これらの資料の特性から、今回の展示コンセプトは「モノの変化」といたしました。
金銅装パルメット文鏡板・杏葉
大阪府茨木市 海北塚古墳出土
古墳時代・6世紀
ここでは刀の柄にあたる部分の装飾に使われた環頭柄頭について、まず、変化の方向についてみたいと思います。環のなかには横を向いた龍や鳳凰がいます。原型となった朝鮮半島の武寧王陵から出土した環頭柄頭の龍は、リアルに表現されています。日本列島に伝来したばかりの海北塚古墳例もまた、比較的、龍の形がはっきりとわかります。しかしながら、龍や鳳凰は日本列島ではあまりなじみがなかったのか、模倣を重ねるにつれて写実的で立体的なものから、簡素なものへと徐々に形が変わります。例えば、龍は歯や頸毛の表現がなくなり、鳳凰は玉を噛まなくなります。まるで伝言ゲームで言葉が変化するみたいです。
単龍環頭柄頭
大阪府茨木市 海北塚古墳出土
古墳時代・6世紀
次に馬具は、日本列島では大陸の影響を受けながら様々な形の馬具が、時期をずらしながら出現したのが特徴です。鏡板は馬を操作するための轡に付属する金具で、杏葉は馬の背中から尻を装飾するための金具です。この鏡板と杏葉の変化をみると、5世紀末頃にはf字形鏡板や剣菱形杏葉が出現し、6世紀にも形を徐々に変えながら普及します。そして6世紀に入ると鐘形・花形・心葉形といった多様な形状をもつ鏡板や杏葉も時期をずらしながら現れます。
左上:変形剣菱形杏葉
群馬県伊勢崎市 恵下古墳出土 古墳時代・6世紀
右上:鐘形杏葉
岡山県倉敷市 王墓山古墳出土 古墳時代・6世紀(矢尾寅吉氏寄贈)
左下:心葉形杏葉
静岡県島田市 御小屋原古墳出土 古墳時代・6世紀
右下:花形杏葉
群馬県前橋市 大日塚古墳出土 古墳時代・6世紀(町田栄之介氏・田村銀平氏外3名寄贈)
最後に須恵器は、個々の種類(器種)ごとに変化します。「世界考古学大系」(昭和34年発行)では、須恵器を9つの段階(様式)に分類しています。その内、古いほうから2番目にあたる「穀塚式」の京都府穀塚古墳出土品、3番目にあたる「陽徳寺式」の福井県獅子塚古墳出土品、6番目にあたる大阪府海北塚古墳出土品を今回展示しました。見比べながら須恵器の変化をご覧いただければ幸いです。
海北塚古墳から出土した須恵器
今回の特集は、10月30日(日曜日)に終わります。ぜひ平成館の考古展示室へお越しいただき、古墳時代のモノづくりに思いを馳せていただければ幸いです。
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posted by 河野正訓(考古室研究員) at 2016年10月14日 (金)
ほほーい! ぼく、トーハクくん。
実は、最近、トーハクの広報大使に就任してますます活躍中なんだほ。ふふん!
・・・で、すっかり考古展示室のことは忘れちゃったんだね?
井出さん!? え、考古展示室・・・?
もともとトーハクくんは考古展示室の広報大使だったでしょ!
もももも、もちろんおぼえているほ。
だったら、早速考古展示室においでよ。いま、特集「経塚(きょうづか)出土の瓦経(がきょう)」という展示やっているんだ。
がきょー・・・おいしそうな名前だほ。
どういうこと?
瓦せんべいみたいだほ!
あのねぇ、トーハクくん! 瓦経は食べられないし、そもそも瓦ではないよ。瓦せんべいとはまったく関係ないから。
もももも、もちろん知っているほ。
相変わらず、トーハクくんはまだまだだなぁ。
・・・!
さて、瓦経について説明する前にまずはテーマ展示の「経塚―56億7000万年のタイムカプセル―」を見てみようか。
タイムカプセル! わくわくするほ。
トーハクくんは、末法(まっぽう)思想って聞いたことないかな? 末法というのは、お釈迦さまの死後2000年経つとやってくる時代のことで、いくら修行しても悟りが得られず、正しい行いさえできない世のことを末法の世というんだよ。平安時代の終わり頃、戦や災害が頻発して、人々は「お釈迦さまの教えが正しく働かない、最悪の世の中が到来した!」と思ったんだ。
なんだか破滅的だほ。
そうだね、しかもこの末法の世はながーく続くと考えられていたんだ。
ながーく?
56億7000万年だよ。
!!!
そして、56億7000万年後に弥勒菩薩(みろくぼさつ)が現れて世の中を救う、とされているんだ。
ほー。
でも、せっかく弥勒菩薩が現れてもお釈迦さまの教えが伝わっていないと困っちゃうでしょ? それで、経典つまりお釈迦さまの教えを地中に埋めて後世に残そうとしたんだ。それが経塚だね。
お経を埋めちゃうんだほ?
そうそう。お経は経筒という入れ物に納め、経筒はさらに別の入れ物(外容器)に納めて埋められたんだ。一般的に、お経・経筒・外容器の3点セットが経塚には埋められたんだよ。このテーマ展示では、典型的な経塚出土資料を展示しているから、瓦経の特集の前にまずはこの展示を見ておいて欲しいな。
稲荷山経塚出土品
京都市伏見区稲荷山 稲荷山経塚出土
平安時代・12世紀
稲荷山経塚出土の経筒(左)と外容器(右)
あれ? 肝心のお経がないほ??
お、いいね~、トーハクくん。グッジョブ! そこで瓦経なんだよ!!
ほめられたほ~。
紙は残りづらく、年月を経ることで朽ちてしまう場合がほとんどだから、紙のお経よりも長持ちするものをってことで、粘土にお経を刻んで焼いた「瓦経」が作られた、と考えられるんだ。他にも、石や金属を用いた例も発見されているよ。
残欠も含め、各地の瓦経を展示しています
滑石(かっせき)という石に経文を刻んだ「滑石経」
伝福岡県筑後市若菜 八幡宮出土
平安時代・12世紀
・・・読めないほ(ボソッ)。
書かれている内容だけじゃなくて、ほかにもたくさんの情報が詰まっているんだよ。文字がどういう書き順で書かれているかとか、筆跡の違いとか、どんなふうに書かれているかとか、焼き上がりとか、いろいろあるでしょ。
重要文化財 瓦経
三重県伊勢市浦口町旦過 小町塚経塚出土
平安時代・承安4年(1174)
遺存状態の良い瓦経の名品。
紙の経文と同様に、天地や行間に線(界線)が引かれています
極楽寺経塚出土瓦経拓本
江戸時代・19世紀
同じ経塚から出土した瓦経の拓本ですが、複数の筆跡がみられます
※期間中、展示箇所の変更を行います。写真上は5月15日(日)まで、写真下は5月17日(火)~6月19日(日)
ほー!
出土地にも注目してごらん。三重県、鳥取県、岡山県・・・。
みんな西日本だほ!
そのとおり。経塚自体は東北から九州までみられるけど、瓦経が出土した経塚は西日本が中心なんだ。
ほほー!
観察は考古学の基本だよ。トーハクくんは考古展示室の広報大使なのにねぇ。
(ちょいちょいコメントがきびしいほ。)
最後にぼくのお気に入りを見て行ってよ。
瓦経
兵庫県朝来市山東町 楽音寺出土
平安時代・12世紀
仏像だほ!
これは仏像1体1体に、1字ずつ文字が刻まれているんだ。
いろんなやり方があるんだほ。
そうなんだよね。時代による違いなのか、地域による違いなのか、身分による違いなのか、いろんな例を見比べて「なんで違うのかな」って考えるのが、考古展示室の楽しみ方のひとつだと思うよ。
なるほー! 瓦経どうしだけじゃなくて、タイムカプセルの展示コーナーと見比べてみるのも楽しそうだほ。
井出さん、今日はありがほーございました。
大好物のはにわクッキーを、何とか56億7000万年後まで残せないかと企むトーハクくんなのでした
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posted by トーハクくん at 2016年04月29日 (金)
特別公開「国宝土偶 縄文の女神」が3月23日(水)より開催されています。
縄文時代の土偶はこれまで約1万8千点が出土しているともいわれますが、そのなかでも国宝土偶はたったの5点。
その一つである国宝土偶「縄文の女神」が土偶仲間を引き連れ、春の訪れとともにトーハクにやってきました。
今回の特別公開の見どころを逃さないためにも、注目ポイントをみなさんにお教えします。
国宝 土偶 縄文の女神
山形県舟形町 西ノ前遺跡出土
縄文時代(中期)・前3000~2000年
山形県蔵(山形県立博物館保管)
国宝土偶「縄文の女神」は、現存する立像土偶(りつぞうどぐう)では日本最大。堂々とした正面観と先鋭的な印象を与える側面観との差異が際立つ、造形的にも優れた土偶です。
ぜひケースの周りをぐるりと回ってご覧ください。
形だけではなく文様にもご注目。前後・左右を意識して文様が描き分けられています。
そもそも土偶は完全な形のままで出土することは珍しく、その多くは破片で出土します。
しかもその破片をつなぎあわせても、完全な形に復元できることはまずありません。
「縄文の女神」が出土した山形県舟形町(ふながたまち)西ノ前遺跡からは総数48点の土偶が出土していますが、完全な形に復元することができたのは「縄文の女神」のみ。
そこに当時の人びとの「縄文の女神」へ対する想いをうかがうことができます。
「縄文の女神」とともに出土した土偶仲間「土偶残欠」にも注目です。
これらの「土偶残欠」には複数のグループがあります。
国宝 土偶残欠
山形県舟形町 西ノ前遺跡出土
縄文時代(中期)・前3000~2000年
山形県蔵(山形県立博物館保管)
西ノ前遺跡で多数派を占めるのが「縄文の女神」とよく似た土偶グループ。
形や文様構成は「縄文の女神」と共通していますが、大きさは一回りも二回りも小さく作られています。
つまりは「縄文の女神」、特別仕様の大きさなのです。
この他にも「縄文の女神」とは姿形の異なる土偶仲間が少数出土しています。
これら土偶は近隣の地域に数多く分布することから、その影響を受けて作られたものと考えられます。
国宝 土偶残欠
山形県舟形町 西ノ前遺跡出土
縄文時代(中期)・前3000~2000年
山形県蔵(山形県立博物館保管)
「縄文の女神」とは異なる顔の表現や腰の文様そして脚部の形などが目印です
国宝土偶「縄文の女神」の魅力を漏らさず知ろうとするならば、まずはそのものをいろんな角度からじっくり見ることが大切です。次に、ともに出土した土偶仲間と見比べることで新たな発見があると思っています。
もっと土偶について知りたい方は、階段を昇って本館1室と特別1室へも足をお運びください。「縄文の女神」と同じ頃(縄文時代中期)に作られた土偶の名品がちょうどいま展示されています。
ぜひお見逃しなく!
土偶
山梨県笛吹市御坂町上黒駒出土
縄文時代(中期)・前3000~前2000年
宮本直吉氏寄贈
本館1室にて5月29日(日)まで展示
ポーズ土偶の代表例。山猫のような面貌と胸をぎゅっとつかむようなしぐさが愛らしい土偶です
河童形土偶
縄文時代(中期)・前3000~前2000年
新潟県糸魚川市一の宮出土
林カツ子氏寄贈
本館特別1室、特集「東京国立博物館コレクションの保存と修理」で4月24日(日)まで展示
頭頂部が凹むその形から河童形土偶と呼ばれています。
土坑の底部にすえられた石の上から出土した特異な例でもあります
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posted by 品川欣也(特別展室主任研究員) at 2016年04月09日 (土)
3月23日(水)から始まった特別公開「国宝土偶 縄文の女神」。
この展示で使われているケースは山形県で製作されたものです。
ミュージアムの展示ケースについて一番大事なことは「モノがよく見えること」です。
モノはいろいろ、例えば美術・工芸品だったり考古遺物・歴史資料だったりします。
思い返せば、このプロジェクトが始まったのは、2014年8月でした。
山形県産の有機EL照明を使って、よく見せるためのケースを開発したい、という強い意志を持った山形県の方々とお会いし、まずは当館の展示室で展示ケースや照明のいろいろをご案内したのを覚えています。
こうして「山形県産の有機EL照明を活かした次世代展示ケース開発プロジェクト」はスタートしました。
まずは、そのケースにいったい何を展示するべきか、の検討から。
本末転倒のようですが、新しい技術が生まれる時は往々にしてそんなものです。
まずは有機EL照明を様々な場所で使用しているという山形県へ行ってみよう! ということで(公財)山形県産業技術振興機構にお願いして、見に行くことにしました。
各施設を見て回るなか、ピン! と閃いたのは、山形県立博物館で国宝附(つけたり)に指定された47点の土偶残欠を見た時でした。
もうケースにかじり付くように「残欠」の魅力に惹き付けられたのです。
山形県立博物館での「縄文の女神」の展示。
有機EL照明を使用した展示ですが「女神」よりもやや照明が目立ちます
国宝附 土偶残欠(山形県立博物館蔵)
展示するモノ=「縄文の女神」を開発予定の展示ケースに輝くように展示し、女神が「残欠」を仲間として引き連れてくるように東博の歴史的展示ケースに・・・という会場デザインを頭の中にイメージしたのです。
高円宮コレクション室で使用されている歴史的展示ケース
昭和初期の「歴史的展示ケース」は、数台が捨てられずに、リフォームしつつ、今も特別展や根付 高円宮コレクションの展示などで使われています。
さらに、会場全体をを山形の有機EL照明のみで照らしてみよう、と閃きました。
有機EL照明は「薄くてぺらぺら」なので、従来の照明よりも展示デザインの幅が広がります。
2015年8月21日 模造による照明実験
結果、展示会場では大小合わせて153枚の有機EL照明が使われています。
次世代ケース:20枚
歴史的展示ケース:33枚
窓際の間接照明:80枚
解説パネル:20枚
展示会場(本館特別4室)
「杉圧密加工」(天童木工製)の手すりにもたれて「縄文の女神」をご覧いただけます
間接照明として1ヵ所あたり20枚の有機ELパネルが並んでいます
有機EL照明は、その開発当初よりも年々明るさを増しているので、直接光源を見ると眩しく、多くの枚数を使う場合は光をコントロールする必要があります。
そうなると、有機EL照明の「ペラペラな薄さ・軽さ」の魅力が半減してしまいます。
そこで、あえて展示の解説用には、「ペラペラ」なまま有機EL照明パネルを吊ってみました。
うーむ。いずれ自宅用にこんな照明器具をデザインしてみたいなぁ。。。
※すでに有機ELのテレビやスマートフォンのバックパネルでは実用です。
展示終了後、「縄文の女神」と「残欠」は、山形県立博物館へ戻ります。
ぜひ、みなさま山形県へもお運びくださいませ。
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posted by 木下史青(デザイン室長) at 2016年04月01日 (金)