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1089ブログ

特集 おひなさまと日本の人形―日比谷家の雛人形を中心に―

金のびょうぶに うつる灯(ひ)を
かすかにゆする 春の風
すこし白酒 めされたか
あかいお顔の 右大臣

今年もおひなさまの季節がやってきましたね~。毎年この季節になると、博物館の研究員として、雛人形の展示に大忙しです。
あまり世の中では知られていないと思いますが、トーハクのお雛様展示は毎年内容が違うんです(写真1)。
一般的に博物館での雛人形展示は同じ作品を例年並べることが多い傾向にありますが、トーハクでは毎年テーマを決めて展示を行っています。
そのため、滅多に展示しない作品も多く、是非とも毎年注目して頂きたいと思います。


写真1 特集「おひなさまと日本の人形」会場の様子

今年の特集「おひなさまと日本の人形」(本館14室 2018年3月18日(日)まで)では江戸の地を中心とする関東地域で作られた雛人形と、関西を中心に作られた木彫の人形に焦点をあてました。
気づかれにくいのですが、「おひなさまと日本の人形」といういつものタイトルには、「おひなさまと、それ以外の人形の展示」という意味が込められているんです。
さてさて、雛人形の制作というと、「京都が本場!」というイメージがありませんか。それは正しいイメージです。衣裳を着せ付けた雛人形の発祥は京都ですし、日本の人形文化自体、京都が中心となって牽引してきたからです。

しかし、関東だって負けていません。むしろ、幕末から明治にかけて、江戸の町は個性的な人形を作る作家を多く輩出し、人形文化の爛熟を向かえました。

今日、多くの方々がイメージする華やかな衣裳を着た雛人形を「古今雛」と称しますが、これはそもそも大坂出身で江戸日本橋十軒店(じっけんだな:現在の中央区日本橋室町の三越前駅近く)に店を構えた初代原舟月が安永年間(1772~1781)頃に創作し、二代舟月によって寛政年間(1789~1801)に完成された形式に仕上げられたものなのです。
その他にも江戸では末吉石舟(すえよし せきしゅう)や仲秀英(なか しゅうえい)、川端玉山(かわばた ぎょくざん)など伝説的な名工が活躍していました。

では何故、いまでも京都の人形ばかりが目立っているのでしょうか。
それは圧倒的に江戸で作られた人形の現存例が少ないからなのです。

「火事と喧嘩は江戸の華」というように、江戸の町は度重なる大火に襲われました。また関東大震災や東京大空襲によって壊滅的な打撃を被り、こうした中で江戸製のお雛さまは、その多くが失われてしまいました。
雛人形を紹介する本を通覧しても、江戸で作られた人形は少しだけしか掲載されておらず、今となってはその存在自体が貴重なものとなっています。

そうした江戸製雛人形(古今雛)のなかで今回特に注目したいのが、日比谷家ご寄託のお雛様です(写真2)。
日比谷家は江戸を代表する豪農で、「日比谷区」という名の起源ともなった名家です。


写真2 古今雛 日比谷家伝来 江戸時代・安政7年(1860) 個人蔵

明治10年に発行された日本で最初の和独辞書『和獨對訳字林』は、日比谷家6代の健次郎(または健治郎、天保7年(1836)~明治19(1886))がスポンサーとなって出来上がったものですが、このお雛様は安政7年に健治郎が長女の「しん」の初節句に際して求めたものであることが、箱書き(写真3)と家系図によってわかります。


写真3 お雛様の箱

さて、このお雛様のすごいところは、江戸製であること、一人の作者による大型の人形一式が伝えられていること(現在のようなデパートのセット販売が始まる以前、江戸時代には内裏雛は誰々の作、三人官女は誰々の作というように、自由に人形の組み合わせを考えて購入するのが当たり前でした)、箱書きに「安政七年 春三月」(まさに「桜田門外の変」が起きた時です!)とあり、制作年代がわかること、誰のために誂えられたものかわかること、などです。
つまり美術的評価とともに、歴史学や文化史の上からも貴重な史料と評価することができるでしょう。

しかし、寄託された当時、このお人形はかなり傷んだ状態でした。
髪は抜け落ち、道具はバラバラで、台座の漆もバリバリと剥がれ、セロハンテープで固定されていました(写真4)。


写真4 台座の漆剥離

このため、トーハクでは昨年から約1年を掛けて修理を行いました。
修理は保存修復課の職員である野中昭美(のなか てるみ)氏を中心として進められ、その立派な成果を展示会場でご覧いただけます。

通常、ひな人形の修理というと、欠けたお顔や台座の剥がれは塗り直し、傷んだ衣裳は新調するのが当たり前に行われていますが、文化財的価値をもったお人形にそういった手法をとることはできません。
そのため、今回はあくまで「文化財としての修理」の原則であるオリジナル部分を生かした作業を進めることになりました。

女雛のお顔をご覧ください(写真5)。修理前は額が欠け落ち、髪が抜けてしまっていました。しかし、欠けた額は保存されており、接合することが可能でした。
また頭髪の再生については専門家の技術が必要であるため、古い人形の修理にも精通されている博多人形作家の中村信喬(なかむら しんきょう)氏にお願いしました。
江戸時代の雛人形は、鬢(びん:髪の左右の張り出し)が強く張った現代の人形と異なり、もっと膨らみの少ない「おっとり」とした髪型をしています。
中村氏によって、当時の雰囲気をしのばせる再現性の高い修理を行って頂きました。


写真5 女雛・修理前(左)、修理後(右)

またもう一つ再現したのは、五人囃子のかぶっている侍烏帽子(さむらいえぼし)です(写真6)。
これはもう水にぬれてクチャクチャになったような状態で、再使用は叶いませんでした。
侍烏帽子は逆さまにすると、ちょうど舟のような恰好になるので、だれか日比谷家のご先祖に水に浮かべて遊んだ方がいらしたのではないかな~と想像しています。


写真6 侍烏帽子の新調(オリジナル(左)、新補(右))

この侍烏帽子については静岡の人形師である望月勇治(もちづき ゆうじ)氏に新調をお願いしました。
残されている作品を忠実に再現したもので、これを被ったお人形には艶と張りが甦ったように見えます(写真7)。


写真7 五人囃子・修理前(左)、修理後(右)

その他、衣裳については朽ちた織物を染織修理の方法で固定し直し(写真8)、めくれてしまった漆の層は固定。
また欠損部には丁寧な充填が行われました。いずれも一般的な人形の修理では考え難い、極めて丁寧な仕事です。


写真8 山崎真紀子(やまざき まきこ)氏による染織品部分の修理

こうした「文化財」としての雛人形の大掛かりな修理はトーハクとしてほとんど初めてのことであり、おそらく国内を見渡しても初めての試みではなかったかと思います。
雛人形については文化財として扱う意識が一般に薄く、また文化財修理の優先度からいっても低いことは否めません。

そうした中にあって、今回トーハクが行った修理は「文化財として雛人形をどう修理すべきか」という模索の中で行われたものであり、その試行錯誤の中で生み出された手法は、今後の人形を文化財として修理していく中で重要な指針になるものであると考えています。

オリジナルを大切にしつつ、お雛祭りにふさわしく、美しく艶やかに甦った日比谷家のお雛様(写真9、写真10)。是非ともみなさまには会場にお越しいただき、日本が誇る人形文化の素晴らしさと、保存修復の重要性を感じて頂ければと思います。


写真9 男雛・修理前(左)、修理後(右)


写真10 女雛・修理前(左)、修理後(右)

特集 おひなさまと日本の人形
本館 14室 2018年2月27日(火)~ 2018年3月18日(日)
 

カテゴリ:研究員のイチオシ特集・特別公開

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posted by 三田覚之(教育普及室) at 2018年03月02日 (金)