書を見るのは楽しいです。
より多くのみなさんに書を見る楽しさを知ってもらいたい、という願いを込めて、この「書を楽しむ」シリーズ、第21回です。
いま、本館3室(仏教の美術―平安~室町)で料紙装飾の美しい写経が並んでいます。
その中で、国宝「竹生島経」(ちくぶじまきょう) をご紹介します。
国宝 法華経 方便品 (竹生島経) 平安時代・11世紀 (2012年10月8日(月・祝)まで、本館3室にて展示)
花や鳥が大きく描かれた料紙が目を引きます!
「竹生島経」は『法華経』の方便品(ほうべんぼん)で、
琵琶湖にある竹生島に伝わったことから、
この名前で呼ばれています。
平安時代、末法(まっぽう)の世が1052年に来ると恐れられて
『法華経』信仰が高まりました。
貴族たちは、『法華経』の写経をするとともに、
その料紙を美しく飾り始めます。
それを装飾経と呼びます。
「竹生島経」は装飾や書風から、11世紀初めの作品と推定され、
素紙(なにも装飾のない紙)に大ぶりの文様が描かれていて
素朴な風合いです。
このあと、装飾経は、料紙を染めて金銀箔を撒くなど、
どんどんきらびやかになります。
「竹生島経」の文字を、
奈良時代に書かれた「大聖武」(おおじょうむ)と比較してみました。
左:国宝 法華経 方便品 (竹生島経) 平安時代・11世紀 より
右:賢愚経 巻第三 断簡 (大聖武) 伝聖武天皇筆 奈良時代・8世紀(展示未定)より
右側、奈良時代の「言」と比べると、
左側、「竹生島経」の「言」は、口の角がやわらかく曲がっています。
右側、「大聖武」は、ニンベンなど、ぎゅっと力強くとまっています。
左側、「竹生島経」は、柔和な感じの線です。
「竹生島経」のやわらかく、おだやかな感じの書は、
「和様」(わよう)の書です。
「和様」は、「三跡」(平安時代中期の著名な三人の能書) である
小野道風(894~966)、藤原佐理(944~998)、藤原行成(972~1027)らによって
確立した、日本独自の書風です。
写経は、どれも同じような端正な字で書かれていると
見過ごしてしまうかもしれませんが、
じっくり文字を見てみると、違いが見えてきて面白く、楽しめます。
初心に戻って、
書を楽しむブログ第1回で紹介しましたが、
いろいろな写経の中から、自分の名前を探して、
比較してみてください。
美しい料紙も堪能しながら。
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posted by 恵美千鶴子(書跡・歴史室) at 2012年09月05日 (水)
江戸女を描くのに秀でていた、菱川師宣(生年不詳~1694)。
面長の顔立ちに細くきりっとした目、すらりとした姿勢は、まさに江戸女を象徴する美形です。
しかし、浮世美人を描く才能を左右するのは、当時、町中で流行していたファッションにいかに敏感であったかにつきるでしょう。
「え?流行って、江戸時代にもあったの?!」と、思われる方、もちろん、江戸時代にもファッション・トレンドがありました。
寛文年間(1661~1673)には、雛形本と呼ばれるキモノのファッション雑誌も刊行されます。浮世絵の美人画はいわば今でいうアイドルポスター。
現代の若い女の子がアイドルのファッションをこぞって真似るように、昔の女性も浮世絵に描かれた遊女や歌舞伎役者のファッションを追っかけていたわけです。
見返り美人図 菱川師宣筆 江戸時代・17世紀
2012年9月4日(火)~9月30日(日) 本館10室にて展示
菱川師宣の美人画の中でも特に有名なのは、師宣が晩年に描いた「見返り美人図」。
描かれた彼女のファッション・チェックをすれば、師宣の力量がうかがえます。
まず、ヘアースタイルは貞享年間(1684~88)に流行した「玉結び」。前髪は別に取り、立てて膨らませて元結で結ぶ「吹前髪」としています(今でいう「ポンパドール」に近い前髪アレンジですね)。
元結で結んだ先には小さな挿し櫛。当時の裕福な町人ならば上等であれば金2両出しても手に入れたという玳瑁(たいまい=鼈甲(べっこう))でできた櫛のようです。
平元結で垂らした髪を輪に結んでいます。髪の結び目には、やはり玳瑁でできた笄(こうがい)を挿していますが、その先端に家紋を透かし彫りにした飾りが施されています。
このような飾りのついた笄は、江戸時代中期(18世紀半ば)に結髪が普及するにしたがって簪に変化していきます。
ヘアースタイルや髪飾りにも注目!
「玉結び」は菱川師宣が描いた版本『和国百女』(元禄8年〈1695〉)や『和国諸職絵尽』(貞享2年〈1685〉)にも描かれていて、当時流行した髪形の一つであったことがうかがえます。
江戸中期になると、このように長い髪を下ろしたスタイルはほとんど町中では行われなくなり、結髪が普及します。
さて、次にキモノをチェックしてみましょう。
高級な紅を惜しげもなく使って濃い紅色に染めた綸子。サテンのような光沢のある生地に、地紋が織り出されている高級絹織物です。綸子の地紋は小花模様で、菱川師宣の美人画にしばしば登場するからには、当時流行の模様だったのでしょう。
同じ模様の綸子は当館所蔵「打掛 白綸子地枝垂桜花車模様」にも見られます。
打掛 白綸子地枝垂桜花車模様 江戸時代・18世紀
2013年2月26日(火)~4月21日(日) 本館8室にて展示予定
キモノの模様は、貞享年間に流行した友禅模様と同じ「花の丸」模様。
見返り美人のキモノの模様にも当時の流行がうかがえます。
描かれた模様は、鹿の子絞りや、白と縹色の絹糸による刺繍、黄色い花模様は金箔か金糸による刺繍でしょう。
同時期の花の丸模様のキモノが当館にも所蔵されています。
小袖 鬱金綸子地染分花丸模様 江戸時代・17世紀
2013年2月26日(火) ~ 4月21日(日) 本館10室にて展示予定
もともと師宣は縫箔師の家に生まれ、キモノの雛形本『新板当風御ひいなかた』(天和4年〈1684〉)も描いています。キモノの模様は手馴れたものです。
振袖ですから、描かれた女性はまだ結婚前だということがわかります。当時の振袖の長さは60㎝あまり。
現在、成人式で着るような長さ1メートルほどもある振袖は江戸時代後期に流行したファッションです。
手先は出さず、懐に左手を差し入れ右手で褄をからげて裾を引きずりながら歩く姿は、経済的に豊かな環境にある労働に無縁な若い女性の典型的ないでたちです。
キモノの後ろ腰に結んだ帯は、緑色の地に破れ輪繋ぎ文を刺繍しています。帯幅五六寸(15~18㎝)の帯は、寛永年間(1624~1644)頃から遊女の間で用いられるようになったといわれていますが、
一般女性の帯幅も同様に広くなるのは、延宝年間(1673~1681)といわれています。さらに帯の長さがだんだん長くなるのがこの時期の傾向ですが、女帯の長さが長くなり、後ろ結びが中心になった流行のきっかけとなるのが、この女性も結ぶ「吉弥(きちや)結び」です。
人気役者の着こなしにちなんだ「吉弥結び」
「吉弥結び」は延宝年間に京都で活躍した女形役者・上村吉弥(かみむら きちや)にちなみます。
吉弥が祇園で道行く女性を眺めていると、東洞院の浮世紺屋の娘、すがたのお春が、帯の結び手を唐犬の耳を垂れたようにだらりとさげて通りかかった、それからインスピレーションを得た吉弥が一丈二尺の大幅帯の両端のくけ目に鉛のおもりを縫い込んで、結びの両端がだらりと下がるように考案して舞台で使用したのです。
人気役者の新奇な姿は町方の注目となり大流行。前に結んでは帯結びが大きく邪魔なので、後ろ結びが中心となり、結んだ両端が長く垂れ下がる様、帯も長く仕立てられるようになりました。
それにしても、鉛のおもりが入った帯は重かったでしょうに・・・舞台衣裳ならともかく、若い女性のお洒落にのぞむ忍耐力には脱帽ですね。
こうして、ファッション・チェックをしてみますと、菱川師宣が当時町中で流行した最新かつ最高に贅沢なファッションを描いていることがうかがえます。
「私が江戸で一番お洒落なのよ」といわんばかりにトレンドに身を包んだ涼しげな表情の美女。
結婚前の裕福な商家の娘か、あるいは茶屋に上がる前の遊女(新造)か・・・。
描かれた立ち姿の頭上にある空白には、恋の和歌が綴られるはずだったかもしれません。
見返る先にいるはずの人の存在も気になる不思議な魅力は、描かれたファッションの細部から醸し出されるようにも思えます。
さて、トーハクの秋の特別公開(2012年9月15日(土)~30日(日))では、期間中、
きものでご来館のお客様は総合文化展観覧料金が100円割引となります。(ただし各種割引との併用不可)
江戸女、江戸男を気どって、見返り美人に会いにきませんか?
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posted by 小山弓弦葉(工芸室主任研究員) at 2012年09月03日 (月)
今回の特集陳列「動物埴輪の世界」(平成館考古展示室、2012年7月3日(火)~10月28日(日))では、鶏形埴輪に続き、水鳥形埴輪が“群れ”るように展示されています。
水鳥は鶏などと違って特定の種を指す言葉ではなく、ガン・カモ類やサギ・ツル類など多くの種類を含んでいます。
主に海で生活する海鳥に対して、河川や湖沼といった内陸の水辺で活動する鳥の総称で、多くはいわゆる渡り鳥です。
埴輪の鳥は、数種類の水鳥が造り分けられていますが、その意味はどのようなものでしょうか?
それにはまず、水鳥形埴輪に写された鳥の種類を知る必要がありますが、どこで見分けることが出来るのでしょうか?
水鳥形埴輪全景
鳥の姿や体型は、ひとえに鳥たちの生活ぶり(生態)に深く関わっています。
さまざまな姿は、(すべての動物がそうですが)主に動物たちの“死活問題”である餌の獲得(捕食)に強く結びついています。
とくに、嘴(クチバシ)とその活動を支える脚は、捕食の対象(食性)によってそれぞれに有利な形態に進化を遂げ、種類毎に特有な特徴をもっています。
これらは遠目に見ても、鳥を見分けるもっとも特徴的な要素で、種類を見極める最大のポイントです。
このような水鳥の生態に適応した体型や嘴・脚などの特徴と水鳥形埴輪の特徴を比較することで、いくつかの種(モデル)が想定されています。
鳥類の嘴と脚 [現代新百科事典4「足とくちばし」:学習研究社1966年より]
まず、嘴と脚から見てゆきましょう。
いずれも平たい嘴をもち、なかには鼻腔が表現されているものも少なくありません。
眼は、竹管や棒状の工具でシンプルに表現されています。
また、脚先を確認できる例では、水掻きの表現をもつことが判ります。
体型はおしなべてふっくらとした胴体をもち、それに長い頸と上を向いた短い尾羽が表現されています。
平たい嘴と水掻きをもつ脚や短い尻尾など、身近な動物ではマガモを家禽に品種改良したアヒル(家鴨)にそっくりです。
とくに、前列中心に置かれた大型の鳥形埴輪は、(胴体付け根部分から頭部までしかありませんが)大ぶりのしっかりとした膨らみをもつ頭や眼の表現、しなやかにゆったりと延びる頸部や細やかな羽部の線刻文様など出色の造形で、鳥形埴輪としても最大級の逸品です。
鳥形埴輪の嘴(1~4・7)と脚(5・6)
1~3・5:埴輪 水鳥 大阪府羽曳野市 伝応神陵古墳出土 古墳時代・5世紀
4・6:埴輪 水鳥 埼玉県行田市埼玉出土 古墳時代・6世紀 (個人蔵)
7:埴輪 鶏 栃木県真岡市京泉塚原 鶏塚古墳出土 古墳時代・6世紀 (橋本庄三郎氏他3名寄贈)
やはり、これらの水鳥形埴輪は水面を泳ぎながらの活動に適したガン・カモ類の水鳥の特徴をよく捉えた造形といえそうです。
そういえば、アヒルをモデルにしたキャラクターの人気者、ディズニーのドナルド・ダックを想い起こさせますね。
一方、この中に“一羽”、一風変わったポーズの水鳥形埴輪に眼が止まります。
頸部から上を欠いています(判りにくくて恐縮です)が・・・よく見ると、頸部はかなり太めで、しかもまっすぐに斜め上を向いています。脚にはやはり水掻きが表現され、止まり木に掴まっていることが眼を惹きます。
決定的なのは、頸部にはどうやら蝶結び(!)の紐が表現されているようで、野生の鳥ではないことは云うまでもありません。
鵜形埴輪 古墳時代・5世紀 大阪府茨木市太田茶臼山古墳出土 宮内庁蔵
(左:側面、中:背面、右:止まり木と水掻きのある脚)
実は、1990年代になってこのような水鳥形埴輪は、鵜飼いの鵜の姿を象った埴輪であることが明らかとなりました。
群馬県高崎市保渡田八幡塚古墳では、高く挙げた嘴に(ナント)魚を咥(くわ)えている例が見つかり、まさに「ウ飲み」する一瞬の姿を写した鵜形埴輪であったことが判りました。
しかも、頸部には鈴をあしらった紐が巻かれ、鵜飼の場面を表現した儀礼的な造形であるらしいことも注目されました。
鵜飼いはまさに人間社会の中に組み込まれた動物ですから、他の野生の水鳥を象った埴輪とはまったく異なった役割を果たしていたことでしょう。(詳しくは次回のテーマ:狩猟の埴輪で解説する予定です)
鵜形埴輪実測図(群馬県保渡田八幡塚古墳出土)
[若狭徹論文 2002『動物考古学』19、動物考古学研究会より]
すると、水面を浮かびながら泳ぎ回る自然の姿を彷彿とさせるガン・カモ類を象った水鳥形埴輪は、どのような意味をもっていたのでしょうか?
8世紀に成立した『記紀』『風土記』には、次のような不思議な物語が残されています。
『日本書紀』垂仁天皇二十三年九~十月条
「[前略] 誉津別王(ホムチワケノミコ)は、是(コレ)生年(ウマレノトシ)既に三十、[中略] 猶(ナホ)泣つること兒(ワカゴ=幼児)の如し。常に言(マコトト)はざること、何由(ユヘ)ぞ。 [後略]
誉津別皇子侍り。時に鳴鵠(クグヒ)有りて、大虚(オホゾラ)に度(トビワタ)る。皇子仰ぎて鵠(クグヒ)を観(ミ)て曰(ノタマ)はく、「是何物ぞ」とのたまふ。天皇(スメラミコト)、皇子の鵠を見て言(アギトフ)ふこと得たりと知(シロ)しめして喜びたまふ。[後略]」
鵠(クグヒ)は白鳥の古名です。
特別な存在の貴種として期待されて育てられたホムチワケノミコの伝承は、言葉を話せなかったホムチワケが、空高く飛ぶ白鳥の姿を見て魂を揺さぶられ、言葉を取り戻すという物語です。
ほかに、あのヤマトタケルが伊吹山の神との戦いに破れ、命を落とした時、白鳥となって飛び去ったという『記紀』にみえるよく知られた物語を思い出された方も多いと思います。
古代においては、鳥は人間の魂と深く関係していたと考えられていたようです。
一方、このような存在を「見る」ということについては、もう一つ興味深い記録があります。
『万葉集』巻1、第36番歌
「(持統天皇が)吉野の宮に幸しし時、柿本朝臣人麿の作る歌
やすみしし わが大王(おほきみ)の 聞(キコシ)めす 天(アメ)の下に [中略]
水激(ミナタギ)つ 滝の都は 見れど飽(ア)かぬかも」
7世紀の古代国家成立前夜、壬申の乱(672年)を勝ち抜いた夫・天武天皇の後を継いで即位した持統天皇は、短い在位(687~696年)中に31回も吉野を訪れています。
これは当時、神仙世界とも考えられ、後に修験道の聖地ともなる深山の激流を「見る」ことによって魂が揺さぶられ、底知れない自然の力を身に着けるためであったという説が有力です(一見涼しそうですが・・・、イヤ暑い“夏場”ばかりではないのですから真剣です)。
亡き夫・天武の意志を継いだ女帝持統の並々ならぬ覚悟が伝わってくるようです。
古代の人々は白鳥や激流といった生命力の根源のような存在から、普段身近に存在しないパワーを取り入れる手段として、「見る」という呪術的行為にあくなき情熱を燃やしていたようです。
今回の展示では残念ながら欠いているのですが、弥生時代の銅鐸にも登場する細長い嘴と長い頸や脚をもつ、ツル・サギ類を象ったと考えられる水鳥形埴輪は、古墳時代後期の6世紀にならないと出現しません。
これらの埴輪が現れた頃には、同じ墳丘に多数の人物・動物形埴輪が賑やかにたて並べられた時期で、おそらくこれまでご紹介したガン・カモやウ形のような鳥形埴輪とは、まったく違った物語(性格)を背景にもった造形にちがいありません。
左:ツル・サギ類の絵画(国宝 袈裟襷文銅鐸 伝香川県出土 弥生時代(中期) 前2~前1世紀)
右:鵜と魚の絵画(国宝 銀象嵌銘大刀 熊本県玉名郡和水町 江田船山古墳出土 古墳時代・5~6世紀)
いずれにしても、水鳥形埴輪は当時の人々の“想い”を反映した造形であったようです。
季節毎に現れる渡り鳥が大空を高く飛ぶその姿は、いつの時代でも人々の憧れや想像力を掻き立てたことでしょう。
野生であれ、家禽であれ、これらの鳥たちは人間の(勝手な想像に違いありませんが・・・)世界観や社会の一部を“体現”してきた動物で、いわば当時の人々の心象風景であったのかもしれません。
埴輪の鳥たちと向かい合う(「見る」)ことによって、(ほんの一瞬でも・・・心を開放して)当時の人々の想いに少しでも近づいて「パワー」を受け留めて頂ければ幸いです。
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posted by 古谷毅(列品管理課主任研究員) at 2012年09月01日 (土)
毎日展示室を歩いているのに、気になる作品や初めてみる作品に出会い、
まだまだ知らないことや驚くことがたくさんあります。
それだけ多くの文化財に恵まれているんだなぁ、ありがたいことだなぁ、としみじみ思います。
でも、展示室で博物館での過ごし方に戸惑う子どもたちに出会うこともしばしば。
作品を見ないで、題箋(だいせん、作品のデータや解説の書いてあるカード)をデジカメで撮影し、
あとはソファでくつろいで帰ってしまうのです。
きっと学校の宿題でレポートを書いたりするのでしょう。
でも、せっかくほんものの前に立つことができたのに、鑑賞しようとしないのはもったいないですよね。
せっかくなら楽しんで、ほんもののパワーを感じてもらいたい。
そう思っているのは、博物館にいる私たちだけではありません。学校の先生も同じです。
そこで、博物館での学習をどうしたらいいか、それを学校でどう活かしてほしいか、を私たちからお話し、
先生方と意見交換をする機会を設けました。
うだるような暑さのなか、全国から66名の先生方にお越しいただき、
当館で行っているスクールプログラムの体験会などを行いました。
研修の様子です。
どんなことをお話したのか、少しだけご紹介します。
奈良・京都への修学旅行の事前学習に来た、ある学校に対してのプログラムの一部分を実演。
「さて、みなさん。仏像を見たことがありますか?
みんな、見たことがありますね。ではここで仏像の絵を描いてみてください。」
展示室に行く前に、私は子どもたちにこういう課題をだすことがあります。
といっても、1分程度でさらさらとかいてもらうだけ。
みなさんも描いてみてください。もちろん、正しい絵を求めているわけではありません。
研修にご参加いただいた先生にも描いてもらいました。
「では、手を止めてください。
いま仏像を正面からではなくて、斜めから、後ろから、横から書いた人いますか?」
こう問いかけると誰も手を挙げません。
「お祈りする対象だから、正面から描いたのかな?」
と聞いても手は挙がりません。
「正面から鑑賞するのが当たり前と思っていたんじゃないですか?」
こう聞くとハッとした表情でこちらを見上げます。
自分の手を動かすことで、自分がなにか固定概念にとらわれ、教科書の写真どおりの方向から見ることが正しい、と思い込んでいたことに気づくようです。
そして最後にこういう課題を出して、解散します。
「博物館では、四方からみることができるように展示している作品もあります。今日は、いろんな作品をみて一番好きな作品を選んでください。何でそれが気に入ったのか、考えてみてください。そしてその作品をいろんな方向から見て、自分が一番いいと思った角度を見つけてください。学校に帰ったら担任の先生に教えてあげてくださいね。」
こんな経験を先生にお話していると、先生方もいろいろな意見や授業の経験をお話してくださいました。
ほんものに出会うせっかくの機会に立ち会えることが、こんなにうれしく楽しいことなのかと思います。
トーハクにいらっしゃるすべてのお客様と作品との出会いが、充実したものであるようにできることはしていかねばと、
心を新たにした研修でした。
ご参加いただいた先生方、ありがとうございました。
(教員研修のお知らせは、ウェブサイトの学校の先生方へのページに掲載しております。)
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posted by 川岸瀬里(教育普及室) at 2012年08月30日 (木)
特別展「青山杉雨の眼と書」は、2012年8月28日(火)午後、3万3千人目のお客様をお迎えいたしました。(あおやま「さん」う、ということで、「3」万「3」千人のお祝いです!)
これまでご来場いただいたお客様に、心より感謝申し上げます。
3万3千人目のお客様は、千葉県よりお越しの諏訪林郁子さんです。
東京国立博物館長 銭谷眞美より展覧会図録を、
青山杉雨のご長男でいらっしゃる青山慶示氏より、杉雨作品のレプリカを贈呈いたしました。
右から、銭谷眞美館長、青山慶示氏、諏訪林郁子さん、島谷弘幸副館長
2012年8月28日(火) 東京国立博物館平成館にて
諏訪林さんはご自身も書道をされていらっしゃるとのこと。
「自分の作品を家の中に飾っていますが、一番良い所にこのレプリカを置きます。これから展覧会をみて、自分の作品制作に反映できたら嬉しいです」とお話いただきました。
特別展「青山杉雨の眼と書」の会期はいよいよあと2週間、9月9日(日)で閉幕となります。
昭和を代表する書家、青山杉雨の表情豊かな作品の数々をぜひご覧ください。
皆様のご来館を心よりお待ちしております。
カテゴリ:news、2012年度の特別展
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posted by 広報室 at 2012年08月28日 (火)