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名品の名品たる所以―伝趙昌筆「竹虫図」の場合―

東洋館8室では、2018年8月28日(火)から2018年10月21日(日)まで、特集「中国書画精華-名品の魅力-」を開催しています。
毎年秋恒例の中国書画の名品展ですが、今年のテーマは名品の名品たる所以をわかりやすく紹介、ということですので、本ブログでは、伝趙昌筆「竹虫図」について、その魅力をお話してみようと思います。


重要文化財 竹虫図 伝趙昌筆 南宋時代・13世紀 (9月24日まで展示)


名品たる所以 その1 ―圧倒的な描写力―

この「竹虫図」は、今からおよそ800年前、13世紀に描かれたと考えられている作品です。大きく回転しながら竹が伸び、瓜、鶏頭が添えられ、間に、チョウやトンボ、イナゴ、スズムシ、クツワムシなどが遊びます。

日本では、10~11世紀に活躍したという有名な花鳥画家、趙昌筆として伝えられてきましたが、実際の作者の名前はわかっていません。
しかし、当時でも指折りの名人であったことは確実でしょう。

複雑に重なり交差しあう竹の細枝を見事に描ききり・・・、


「竹虫図」(部分:竹枝)

トンボの頭部の立体感、翅の文様まで細かに再現しています。


「竹虫図」(部分:トンボ) ※絹糸の織目が見えるくらいまで拡大しました。

鶏頭の花の色と質感を、様々な色の点描を重ねることで表し・・・、


「竹虫図」(部分:鶏頭)

瓜の葉の、深緑から黄緑に変わっていくグラデーションを丁寧に伝えます。


「竹虫図」(部分:瓜)


注目すべきは、金泥をごく限定的かつ効果的に使用する、洗練された感覚です。
これは12~13世紀の中国絵画特有のもので、本図では、チョウの翅の文様の一部、カゲロウの目、瓜の葉の上の小虫などに金が用いられ、控えめな輝きを放っています


「竹虫図」(部分:チョウ)


「竹虫図」(部分:カゲロウ)


「竹虫図」(部分:小虫)


名品たる所以 その2 ―他に現存例のない希少性―

草花の間に昆虫を散りばめる作品は、中国絵画史では「草虫」というジャンルに区分されます。
草虫図は10世紀ころから人気の画題となってきたようで、絵画の歴史書にも草虫図を得意にしたという画家の記述が出てきます。
ただ、このころの作品はほとんど残っておらず、比較的画面の大きい掛軸形式のものとしては、本図が現存最古の作例といえるでしょう。

14世紀以降、掛軸形式の草虫図の構図は形式化して、重要文化財「草虫図」のように、左右対称性を重視した静的なものがほとんどになっていきます。
一方、本図はモチーフを片側に寄せ、より動きのある画面を作っており、定型化する前の草虫図の表現がどのようなものであったかを私たちに教えてくれるのです。


重要文化財 草虫図(右幅) 元時代・14世紀 (9月24日まで展示)

また、白居易(772-846)が「竹の性は直」というように(「養竹記」)、基本的に竹はまっすぐであるべきだと考えられ、そのように描かれてきました。
しかし、ご覧のように、本図の竹は大きく曲がっています。これは他にあまり例がありません。


「竹虫図」(部分:竹幹)

歴史書には、10~11世紀にかけて活躍した劉夢松という花鳥画家が、曲がり竹をよく作っていたとあるので(『宣和画譜』「墨竹門」)、中国には、竹を曲げて描く伝統もあったようです。
しかし、そのような作品はほとんど残っておらず、曲がり竹の持つ意味も忘れられてしまいました。

竹の中には、実際に曲がって生える種類もあるようです。
書物には、仙人が杖を植えたところ、その場所の竹が曲がるようになり、僧侶たちがこれを杖にした、という記録(潛説友『咸淳臨安志』「安隠院」)や、「羅漢杖竹」(李衎『竹譜詳録』巻五)という種が紹介されています。


李衎『竹譜詳録』巻五「羅漢杖竹」

仙人や羅漢の杖と関連付けられることからも、曲がり竹には吉祥の意味があったと推定されます。
草虫図は基本的に、おめでたいモチーフから構成される画題であるので、本図もやはりそのような意味で曲がり竹を表したのでしょう。
竹を曲げて描く伝統を考える上で、本図は重要な手掛かりの一つとなりそうです。


名品たる所以 その3 ―大切にされてきた歴史―

本図の左上には、「雑華室印」という、室町幕府第6代将軍・足利義教(1394~1441)の所蔵印が捺されています。


「竹虫図」(部分:「雑華室印」白文方印)

その後も、足利将軍家ゆかりの宝物として大切に伝えられ、江戸時代には広島の大名・浅野家のコレクションにあったことが知られています。


「竹虫図」箱


「竹虫図」箱金具

この箱は浅野家であつらえられたものでしょうか。絵にあわせて、曲がり竹に様々な虫を配した、非常に手の込んだ作りの金具がつけられています。
真ん中のクツワムシがへこむようになっていて、ここを押さないと蓋が開けられないという凝りようです。

本図には、江戸幕府の御用絵師・狩野尚信(1607~1650)の鑑定書きが付属しています。狩野派の画家たちも熱心にこの絵の重要性を理解し、一生懸命勉強したのでしょう。
当館には、18~19世紀の狩野派の画家・笹山伊成(?~1814)の模写も残っています。


「竹虫図」狩野尚信鑑定書き


趙昌曲竹辟虫図 笹山伊成筆 江戸時代・18-19世紀 (本展では展示されません)

ここまで、伝趙昌筆「竹虫図」について、その1-圧倒的な描写力、その2-他に現存例のない希少性、その3-大切にされてきた歴史、という3つの観点から、名品の名品たる所以をご説明してきました。

特集「中国書画精華-名品の魅力-」には他にも、トーハクの誇る中国書画の名品がずらっと並んでいます。
ぜひ東洋館8室まで足を運んでいただき、それぞれの名品たる所以を考えていただければ幸いです。


本館8室 特集展示の様子

特集「中国書画精華-名品の魅力-」
東洋館 8室 2018年8月28日(火)~10月21日(日)
前期:8月28日(火)~9月24日(月)
後期:9月26日(水)~10月21日(日)
作品リストはこちらから

 

カテゴリ:研究員のイチオシ特集・特別公開中国の絵画・書跡

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posted by 植松瑞希(出版企画室研究員) at 2018年08月29日 (水)

 

日本製《大ガラス》の旅 ~準備編~

10月2日開幕の特別展「マルセル・デュシャンと日本美術」に向けて、現在準備を進めております。この展覧会には、米国・フィラデルフィア美術館の著名なデュシャン・コレクションが数多く出品されますが、どうしても持ってこられない作品の一つが、《彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも》、通称《大ガラス》です。

《大ガラス》の複製は、1961年に制作されたストックホルム近代美術館の「ストックホルム版」、1966年に制作されたテート・ギャラリーの「ロンドン版」がデュシャンの在命中に制作されましたが、デュシャンの死後、1980年に制作された3番目の複製が、現在東京大学駒場博物館にある「東京版」です。
東京版は、デュシャンと親交のあった美術評論家で詩人の瀧口修造、当時多摩美術大学教授であった東野芳明両氏の監修で制作されたもので、他の複製と違い展覧会に際して展示目的で制作されたのでなく、研究用としてデュシャンが作成した当時の技術をできるだけ忠実に使って制作されました。現在フィラデルフィア美術館にあるオリジナルの《大ガラス》は1926年に破損してデュシャンが修復したものですが、東京版は破損する前の「オリジナル」の姿を再現しようとつくられています。

《大ガラス》は、デュシャンの最も重要な作品の一つで、今回トーハクでの展覧会開催にあたり、特別にお願いしてお借りすることになりました。駒場博物館以外での展覧会に出品するのは、2004-2005年に国立国際美術館と横浜美術館で開催した「マルセル・デュシャンと20世紀美術」展以来のことで、今回フィラデルフィア美術館による国際巡回先のソウル、シドニーには作品の安全上輸送ができないため、トーハクのみご出品いただきます。
当時の技術で制作された「ガラス絵」なので、大変脆弱でトーハクへの輸送には事前に確認することが多くあります。
輸送に向けて、先月末に駒場博物館にて勉強会を開いていただきました。
 


当館研究員だけでなく、実際に輸送にあたる日本通運のご担当とガラスの取り扱いをされるご担当の皆さんも参加しました

概要の資料を元に、駒場博物館の学芸員である折茂先生、そして、当時実際に「東京版」の制作にあたった有福先生が、《大ガラス》の各パーツの説明、取り外す箇所、取扱についての注意点をご説明くださいました。


当時、直接制作にかかわった有福先生が、作品の構造、各部分に使われている技法などについて、解説してくださいました


実際に作品を詳細に検分します


前回の移送の際撮影したビデオも確認します。写っている作業員の方は今回も関わっていただきます


各部分の採寸は、準備をする上で大変重要です

いよいよ特別展「マルセル・デュシャンと日本美術」まであとほぼ1カ月。
《大ガラス》がトーハクへの旅を無事に終えられるよう、輸送当日まで準備を重ねます!

カテゴリ:2018年度の特別展

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posted by 鬼頭智美(広報室長) at 2018年08月28日 (火)

 

海の道をジャランジャラン

スラマッパギ(おはようございます)。調査研究課の今井です。
恒例となった「博物館でアジアの旅」、5回目の今年のテーマはインドネシア、「海の道 ジャランジャラン」(9月4日~30日)です。
ジャランジャランはインドネシア語で散歩といった意味です。


バティックのインドネシア地図

突然ですが、皆さんは東洋館地下の展示室に足を運んだことはございますか?


東洋館13室の展示風景

自分と向き合うにはうってつけのスペースです。
静かです。
とにかく静かです。
・・・まったく静か過ぎます。

かつて、東洋館地下には特別展用の会場がありました。
平成25年(2013)1月に東洋館をリニューアルオープンするにあたり、地下の展示室も東洋館の展示体系に組み込むことになりました。

東洋館は1階の吹き抜けに中国の大型の石像彫刻、2階からはガンダーラ、西アジアからいわゆるシルクロードに沿って、西から順に東に向かう構成となっています。
しかしながら、アジアにおいて文化が行き交った道は陸路のシルクロードばかりではありません。
そう、もう一つ「海の道」があるのです。
そこで、東南アジア地域の美術、工芸、考古を地下に展示することになりました。

インドネシアは東南アジア海域の中核に位置します。赤道にまたがる13,000以上の島々からなり、東西5,000キロ以上、人口は2億6,000万人以上、300もの民族からなります。
世界最大のムスリム人口を擁する国ですが、そのほかプロテスタント、カトリック、ヒンドゥー教、仏教なども信仰されています。
そのため、「多様性の中の統一」が国是となっています。

この海域では、古来、人とモノの活発な往来があり、各地に起源をもつ文化と土着の文化とが融合して、活力に満ちた独自の文化を形作ってきました。文化の坩堝(るつぼ)というより、「大鍋」といったイメージかもしれません。
世界遺産に登録されている中部ジャワのボロブドゥルは仏教遺跡、プランバナンはヒンドゥー教の遺跡です。
また、クリス(短剣)、ワヤン人形劇、バティック(ろうけつ染め)は、ユネスコの無形文化遺産に登録されています。

今年は1958年に日本との国交を樹立してから60周年を迎えます。
近年経済的な結びつきがとみに強まっている両国ですが、文化の面での理解と友好をいっそう深めるために、インドネシアで生み出されたさまざまな文化財のほか、この海域を行き交った交易品としての中国陶磁、ベトナム陶磁などをご紹介します。
この機会に、東洋館地下の展示室にもどうぞご注目ください。

それでは、サンパイジュンパラギ(またお会いしましょう)。

博物館でアジアの旅 海の道 ジャランジャラン
東洋館 2018年9月4日(火)~9月30日(日)

 

カテゴリ:研究員のイチオシ博物館でアジアの旅

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posted by 今井敦(調査研究課長) at 2018年08月27日 (月)

 

【縄文】遺跡へゴー! ~遺跡で楽しむ縄文~その2

遺跡へゴー! ~遺跡で楽しむ縄文~その1」に引き続き、特別展「縄文―1万年の美の鼓動」展示作品が出土した遺跡を、いくつかご紹介します。

井戸尻(いどじり)遺跡群
長野県と山梨県の県境にほど近い富士見町には、縄文時代の遺跡が数多く眠っています。
特に中期の遺跡がたくさんあり、井戸尻遺跡群とも呼ばれる遺跡密集地帯からは、造形的に優れた作品が多く発見されています。
本展覧会でも中期を代表する特色ある作品が出品されています。

深鉢形土器
No.33 深鉢形土器 長野県富士見町 藤内遺跡出土 

重要文化財 深鉢形土器
No.162 重要文化財 深鉢形土器 長野県富士見町 藤内遺跡出土

深鉢形土器
No.163 深鉢形土器 長野県富士見町 曽利遺跡出土

いずれも縄文時代(中期)・前3000~前2000年/長野・井戸尻考古館蔵

富士見町内から出土した作品の多くは、井戸尻考古館に収蔵されています。
博物館は井戸尻遺跡に隣接しており、復元された竪穴住居など、史跡が整備されています。
周囲は井戸尻の名の由来となったともいわれるように、豊富な湧水に恵まれ、日当たりがよく見晴らしの良い風景は、縄文人がこの地を好んで利用していたことが頷けます。
さらに、遺跡の目の前に連なる山々の間から、富士山の8合目付近から山頂付近がはっきりと見えます。
はっきり見えるのは空気が澄んだ秋から春にかけてですが、私が行った6月でも、残雪が残る山頂を見ることができました。
一際存在感ある富士山を見つめながら縄文人も暮らしていたのでしょうね。

井戸尻遺跡からみた富士山
井戸尻遺跡からみた富士山(2018年6月)


北沢石棒
最後にご紹介するのは長野県佐久市月夜平遺跡出土の石棒です。
この作品は昭和8年に道路改修工事の際に偶然土中から発見されました。
その後近くに鎮座する大宮諏訪神社へ奉納され、以来、ご神宝として通常は社殿に納められています。
何度か神社へうかがいましたが、いずれも氏子代表の皆さんが立ち会ってくださり、神社でご神宝が大切に守られていると感じました。
月夜平遺跡は、昭和初期の文献に写真入りで紹介されるなど、佐久地方では有名な遺跡です。現在もその頃と大きく変わらない景観で、遺跡が眠っています。
今回の展覧会では特別にご許可を得て、作品をケースに入れず、石棒が直立した状態で展示しています。これまでの発掘事例によれば、一般的に石棒は寝かせられた状態や、人為的に破壊された状態で出土することが多いといえます。ただし、住居跡や土坑から頭部の破片が直立した状態で発見されることもあり、本来石棒は立たせて儀礼などに使われたとする考え方もあります。また、月夜平遺跡周辺では石棒がたくさん発見されていますが、月夜平遺跡からそれほど遠くない佐久穂町北沢には、高さ2メートルを超える大きな石棒が現在も田んぼの畔に直立した状態でたたずんでいます。この石棒はもともと地表からわずかに立った状態で現在の場所に置かれていたものが、昭和40年代に掘り起こされ、補強されて現在のように立っているそうです。重厚感がありながらも端正な姿形が周囲の風景にごく自然に溶け込んでいるのがとても印象的です。農作物の収穫を終えた晩秋から春先に訪れてはいかがでしょうか。北沢の石棒は、月夜平遺跡出土の石棒の展示を考えるうえでとても参考になりました。

中央で直立する石棒 
中央で直立する石棒(作品№146) 

社殿の石棒撮影のようす 
社殿の石棒撮影のようす(カメラを構えているのは当館の藤瀬カメラマンです)(2018年4月筆者撮影)

佐久穂町北沢の石棒 
佐久穂町北沢の石棒(2018年4月筆者撮影)

【さあ、遺跡へゴー!】
本展覧会に関する取材を受けるとき、私がよくお話しすることがあります。それは、もし本展覧会で展示されている作品をご覧になったら、今度はぜひ、その作品が発見された場所(遺跡)にお出かけくださいとお話しています。なぜならば、作品が発見された遺跡は、その作品が生み出され(あるいは持ち込まれ)、使われ、役目を終えて長い年月眠っていた場所です。いわば作品の故郷のような場所。その故郷に実際に出かけ、その場に立ってみることをお勧めしたいですね。たとえ景観が少し変わっていたとしても、当時の風景や当時暮らしていた縄文人の気分に近づくことができるんじゃないかな、と考えています。
遺跡で縄文人の気分を味わうことができたら、次に、普段その作品が所蔵・展示されている博物館を見学してみませんか。地域の博物館には、その作品と同じ遺跡から発見された出土品や、近くの遺跡から発見された出土品など、その地域ならではの作品がたくさん展示されています。その中には、美しいもの、かっこいいもの、きれいなもの、かわいいものなど、皆さんの心をつかむ、お気に入りの作品が見つかると思います。もしかしたら未来のスーパースターとなる作品と出会えるかもしれませんね。

私が学生時代、先輩から考古学は「歩けオロジーだ!」とよく言われました。考古学の英訳であるArchaeology(アーケオロジー)をおもしろおかしく語呂を合わせて「歩けオロジー」などといつの頃からか言われるようになったものだと思います。おそらく「考古学は現場(現地)が大切で、足で稼いで(実際に遺跡を訪れたり、出土品の調査に各地の所蔵先を訪ねて)学問をするものだ」という意味合いなのではないかと私は理解しています。

この夏、トーハクで縄文展をご覧になられたら、各地の縄文の美を求めて、皆さんも「歩けオロジー」してみませんか?新しい出会いがきっとあるはずです。ぜひ遺跡や博物館での出会いを楽しみつつ、縄文時代や縄文文化をさらに身近に感じてみてください。

国宝土偶縄文のビーナスが発見された棚畑遺跡にて 
国宝「土偶縄文のビーナス」」が発見された棚畑遺跡にて(2018年7月筆者)
※翌日の国宝土偶縄文のビーナス拝借を前に、遺跡に「ご挨拶」

カテゴリ:研究員のイチオシ考古2018年度の特別展

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posted by 井出浩正(特別展室主任研究員) at 2018年08月24日 (金)

 

【縄文】遺跡へゴー! ~遺跡で楽しむ縄文~その1

特別展「縄文―1万年の美の鼓動」(2018年7月3日(火)~9月2日(日))はもうご覧になられたでしょうか。会期も残すところ僅かとなってきました。どうかお見逃しなくご観覧ください。

本特別展では207件の作品を拝借・展示しています。
今回は、展示作品が出土した遺跡のうち、最近私が実際に訪れた遺跡を、いくつかご紹介したいと思います。


真脇(まわき)遺跡
真脇遺跡は石川県能登半島の内浦と呼ばれる富山湾に面した遺跡です。
縄文時代前期から晩期にかけて集落が営まれました。
真脇遺跡は通常では残りにくい有機物が豊富に残されており、多量のイルカ骨や彫刻木柱など、極めて特徴的な出土品が有名です。
本展覧会では「第5章 祈りの美、祈りの形」に作品が展示されています。

重要文化財 彫刻木柱
No.144 重要文化財 彫刻木柱 縄文時代(前期)・前4000~前3000年

重要文化財 彫刻木柱
No.145 重要文化財 彫刻木柱 縄文時代(晩期)・前1000~前400年

重要文化財 鳥形把手付鉢形土器
No.180 重要文化財 鳥形把手付鉢形土器 縄文時代(中期)・前3000~前2000年

いずれも真脇遺跡出土/石川・能登町教育委員会蔵

このうち、作品№145はクリの丸太を半円状に割って加工した木柱で、発掘調査によって同様の木柱が輪を描くように並んで発見されました。
発見された木柱は根元に近い部分のみでしたが、横方向や縦方向の溝が彫ってあり、縄文人が石器で加工を施した痕跡がよく観察できます。
本例は縄文時代晩期のものと考えられており、特徴的なサークル状の配置は、縄文人の何らかの記念碑的な役割が推定されています。

そして、なんと真脇遺跡ではそのサークルが復元されています。
現在、真脇遺跡は史跡整備が進められており、史跡公園に真脇遺跡縄文館があります。
おだやかな湾を望む微高地にある真脇遺跡には、現在大きな柱がそびえており、遠くからでもその姿を確認することができます。
もしかしたら当時も海から真脇ムラの木柱がよく見えたのかもしれませんし、真脇ムラのランドマークとしても機能していたのかもしれませんね。
復元されたウッドサークルの一部
復元されたウッドサークルの一部(2018年4月)


鳥浜(とりはま)貝塚
北陸にはユニークな遺跡がまだまだあります。
次にご紹介する鳥浜貝塚もそのひとつです。
鳥浜貝塚は福井県三方郡美浜町から三方上中郡若狭町に広がる三方五湖のうち、三方湖に注ぐ鰣(はす)川と高瀬川合流付近に形成された低湿地遺跡で、縄文時代草創期から前期を中心に貝塚が形成されました。
通常では残りにくい有機物や彩色が施された土器などが多数発見されており、「縄文人のタイムカプセル」とも呼ばれています。

重要文化財 赤彩鉢形土器
No.3 重要文化財 赤彩鉢形土器
鳥浜貝塚出土 縄文時代(前期)・前4000~前3000年
福井県立若狭歴史博物館蔵


No.3は小ぶりな鉢ですが、丁寧な縄文と磨消縄文(※)、さらに赤彩によって幾何学的な文様が際立っています。
※磨消(すりけし)縄文…縄文時代を代表する、指や工具などで平滑に調整する装飾技法

私にとって鳥浜貝塚は、学生の頃に先輩や後輩たちと発掘調査のため合宿生活していた思い出の地です。
今回、実に十数年ぶりに再訪しましたが、遺跡も遺跡を流れる鰣川も当時のままで、日本海へとつながる三方五湖は穏やかな風景のままでした。
縄文時代の水辺に暮らした人々の暮らしを考えるうえでとても興味深い遺跡や博物館です。
現在の鳥浜貝塚周辺
現在の鳥浜貝塚周辺(2018年7月)
鳥浜貝塚は河川改修の際に発掘調査されました


鳥浜貝塚出土品の多くを展示している若狭三方縄文館
鳥浜貝塚出土品の多くを展示している若狭三方縄文館(2018年7月筆者撮影)
※No.3の所蔵館とは異なります



尖石(とがりいし)遺跡
次は内陸の縄文集落へ行ってみましょう。長野県茅野市にある尖石遺跡です。
長野県茅野市は縄文時代の国宝6件のうち2件の土偶が発見された縄文時代を代表する拠点です。
八ヶ岳をのぞむ標高約800~1000メートルのなだらかな斜面にはたくさんの縄文時代の遺跡が今もなお数多く眠っています。

尖石遺跡は、縄文時代の集落跡研究のレジェンド的な遺跡。
今日の縄文時代集落跡研究を振り返るには欠かせない、学史上大変著名な遺跡です。
尖石遺跡と与助尾根(よすけおね)遺跡が横並びに隣りあっており、二つの大きな環状集落が並んでいたと考えられています。
尖石遺跡と与助尾根遺跡に隣接して茅野市尖石縄文考古館があります。
国宝「土偶 縄文のビーナス」と国宝「土偶 仮面の女神」が保管・展示されている博物館です。

国宝 土偶 縄文のビーナス
No.80 国宝 土偶 縄文のビーナス
長野県茅野市 棚畑遺跡出土 縄文時代(中期)・前3000~前2000年


国宝 土偶 仮面の女神
No.82 国宝 土偶 仮面の女神
長野県茅野市 中ッ原遺跡出土 縄文時代(後期)・前2000~前1000年


いずれも長野・茅野市蔵(茅野市尖石縄文考古館保管)

本展覧会では、2点の国宝土偶に加えて、尖石遺跡から出土した縄文時代中期の蛇体把手付深鉢形土器が出品されています。
蛇体把手付深鉢形土器
蛇体把手付深鉢形土器
長野県茅野市 尖石遺跡出土 縄文時代(中期)・前3000~前2000年
長野・茅野市尖石縄文考古館蔵


この作品は昭和8年(1933)の発掘調査で出土しました。
土器の口縁部に存在感ある把手がひとつ。
わずかに口を開けた横向きの蛇が跳ね上がらんとしている姿が印象的ではないでしょうか。
縄文時代中期の中部高地周辺では、本例のように蛇を思わせる立体的な装飾が付けられた作品があります。
なぜ蛇をあしらったかはまだよく分かっていませんが、手足がない、成長過程で脱皮をする、毒で時に人に襲い掛かることもある、冬眠をするなど、人とは異なる蛇の特徴的な生態に縄文人が何らかの畏怖や興味の想いを抱いてこうした作品をつくったのかもしれません。

現在尖石遺跡と与助尾根遺跡は遺跡の史跡化が進んでおり、発掘調査時の住居跡や、竪穴住居の復元家屋などが整備されています。
また遺跡内に縄文時代に利用されていた樹木や植物などを植栽し縄文時代の森を育てています。
かつて尖石縄文考古館がリニューアルオープンした2000年に訪れた際は、復元されて間もない新築の復元家屋でしたし、植えられたクリの木も小さな幼木でした。
それから18年がたち、今回訪れてみると、時を刻んでとても味わい深い復元住居に変貌しており、まるで中から縄文人が出てきそうな気配すら感じさせました。
自然の中で暮らしていた山の縄文人の生活風景がここにはあります。
与助尾根遺跡内の竪穴住居の復元家屋
与助尾根遺跡内の竪穴住居の復元家屋(2018年7月)

尖石遺跡の脇には、遺跡の名前の由来となった奇岩「尖石」がひっそりと佇んでいます。
こちらも遺跡を訪れた際はぜひ立ち寄ってみたいですね。
尖石
尖石(2018年7月)


中ッ原(なかっぱら)遺跡
つづいて、同じく茅野市内の中ッ原遺跡をご案内します。
国宝「土偶 仮面の女神」の出土遺跡です。
この土偶は、全体の姿形ももちろん素晴らしいのですが、私は後ろの仮面と頭部を固定するのに縛りつけている十字のひも状の表現など、細かなところにまで装飾が行き届いているのがかっこいいなぁと思います。
 「土偶 仮面の女神」の後頭部にもご注目ください
「土偶 仮面の女神」の後頭部にもご注目ください

本例以外に、この展覧会では山梨県韮崎市後田遺跡(No.106)や長野県辰野町泉水遺跡(No.107)の出土の仮面土偶が展示されています。
似ているようでどこか違う、その姿形や文様を、ぜひこの機会に3作品を見比べてみてはいかがでしょうか。

さて、中ッ原遺跡は縄文時代中期から後期の大きな集落跡です。
弧状に並ぶ住居跡に沿うようにお墓と考えられる穴がたくさん発見されています。
中ッ原遺跡
中ッ原遺跡(2017年6月)

「仮面の女神」は墓のひとつにあけられた小さな穴から横倒しの状態で発見されました。
この遺跡では現地で「仮面の女神」が発見された時の状況が復元されています。
土偶が発見された実際の穴は、保存のため、現在埋め戻されていますが、それとほぼ同じ位置に合成樹脂などで復元されています。
地中からまさに「仮面の女神」が発見された状況がよくわかります。
「仮面の女神」の出土状態の復元
「仮面の女神」の出土状態の復元(2017年6月)

遠くの山々を見渡すことができる見晴らしの良いこの場に立つと、土偶が発見された縄文時代のお墓のあつまり(墓域)がなぜこの場所に作られたのか、なんとなくわかるような気がします。

遺跡へゴー! ~遺跡で楽しむ縄文~その2」へ続く

カテゴリ:研究員のイチオシ考古2018年度の特別展

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posted by 井出浩正(特別展室主任研究員) at 2018年08月22日 (水)