開幕から約40日、特別展「東福寺」はいよいよ会期大詰めです。
多くの雑誌やテレビ番組でも紹介されている圧巻の展覧会。
1089ブログでは、すでに展覧会にお越しいただいた方にはうなずきながら、 まだご覧いただいていない方には身を乗り出して読んでいただけるよう、今後本展に携わった各分野の研究員たちがこの展覧会の知られざるみどころを直接お伝えします。
特別展「東福寺」(東京会場)チラシ表面 制作:ライブアートブックス
さてその前に…本展のポスター・チラシを見かけたことはありますか?
今回の展覧会で多くのご寺宝を公開くださった慧日山 東福寺(えにちさん とうふくじ)は京都を代表する禅寺のひとつ。巨大な建造物の数々を誇る歴史ある大寺院です。
「そんな大禅宗寺院の展覧会とあらば、さぞチラシのビジュアルも厳かなはず……いや、なんだこのポップなデザインは…!」そう驚いた方も多いのでは…。
コンペを通して選ばれたデザイン案をもとに関係者一同でブラッシュアップしたこのビジュアルには、実は展覧会の内容にリンクする様々な意味が込められています。
今回はその要素を紐解きながら、「予告編」として展示会場の様子を少しだけご紹介します。
(1)ビビットな色使い、本当に禅宗美術の展覧会?
さて、このビジュアル。まず目をひくのは鮮やかな色と大きな背景効果。
従来の「禅」のイメージとは少し違うのではないでしょうか。
実はここにひとつめの要素。
東福寺の開山・円爾(えんに・1202~1280)は嘉禎元年(1235)に海を渡り、南宋禅宗界のスーパースター・無準師範(ぶじゅんしばん・1177~1249)に師事。
帰国後、時の権力者・九条道家(くじょうみちいえ・1193~1252)に招かれ東福寺を開きます。
以来、円爾とその弟子達は中国仏教界とも太いパイプを持ち、対外交流を深める中でさまざまな海外の文物が東福寺にもたらされました。
そうした今でこそ禅宗文化の基軸となった文物も、当時は大きな驚きをもって迎え入れられたはず。
今回の展覧会ではそんな「衝撃」もお伝えできればと、広報物の段階からビビットな色使い、まるで効果音が出てきそうなインパクトある背景を採用しました。
左手前:重要文化財 円爾像 自賛
鎌倉時代 弘安2年(1279) 京都・万寿寺蔵
右奥 :重要文化財 無準師範像 師古賛
中国・南宋時代 宝祐2年(1254) 京都・東福寺蔵
展覧会第1会場入り口には師弟の肖像が並びます。
第1章「東福寺の創建と円爾」、第2章「聖一派の形成と展開」では師の無準師範から円爾、そして「聖一派(しょういちは)」と呼ばれた弟子たちを、ゆかりの禅宗美術の優品を通してご紹介。
同じく第4章「禅宗文化と海外交流」では、海外交流の一大拠点として発展した東福寺に集積された文物の数々をご覧いただけます。
禅宗をはじめとする日本仏教界、そして日本文化にも多くの影響を与えた、東福寺の驚くべき存在の大きさをご堪能ください。
(2) 多彩な衣装を身にまとう羅漢たち、伝説の絵仏師 若き日の代表作
続いて目に留まるのは何かを見上げて拝んだり、霊獣を乗りこなすお坊さんたちの姿。
このデザインの主役ともいえる、個性豊かで細部まで描きこまれた羅漢(らかん・釈迦の弟子で、仏教修行の最高段階に達したもの)たちです。
画像のもととなった重要文化財「五百羅漢図(ごひゃくらかんず)」を描いたのは、東福寺を拠点に活躍し、「画聖」とも崇められた絵仏師・吉山明兆(きっさんみんちょう・1352~1431)。
同作品は東福寺に45幅、東京・根津美術館に2幅が伝わり、14年に渡る修理事業後、本展で初めて現存全幅を公開しています。
重要文化財 五百羅漢図 吉山明兆筆
南北朝時代・至徳3年(1386) 京都・東福寺蔵
展示風景(現在は第31~45号幅を展示中)
今にも動き出しそうな羅漢たち、各幅に描き分けられた50もの場面はひとつひとつが物語性を帯びています。
ビジュアルではその画力と「五百羅漢」という魅力的な画題を前面に押しだして、コミカルな(担当研究員がひねり出した)コメントも挿入。
絵画から飛び出した羅漢たちが、皆様を「明兆ワールド」へといざないます。
さらに展示室ではそんな羅漢たちが語りだすような、作品の躍動感を活かした特別な解説パネルも…。
この他にも第3章では「伝説の絵仏師・明兆」の大作がところ狭しと並びます。
その魅力の真髄についてはまたじっくりと。
(3)キャッチコピーに偽りなし!「圧倒的スケール、すべてが規格外。」
この展覧会・東京会場のキャッチコピーは言葉そのまま誇張無し。
巨大伽藍にふさわしい、まさに「圧倒的」な「スケール」感の作品が一度に並びます。
絵画作品も、書跡作品も、そして彫刻作品も、「すべてが」想像を超える「規格外」の大きさと迫力。
特に第5章「巨大伽藍と仏教彫刻」では特別な空間構成で皆様をお迎えします。
キャッチコピーに負けない、大迫力の「圧倒的スケール、すべてが規格外。」を是非会場で体感してください。
仏手 東福寺旧本尊
鎌倉~南北朝時代 14世紀 京都・東福寺蔵
展覧会初出品。焼失した東福寺旧本尊の左手。その大きさはなんと2メートル以上!
これまでの禅宗美術の展覧会とはまた一味違った角度から、その魅力に迫る特別展「東福寺」。
チラシのオモテから辿るだけではもったいない、その壮大さを展覧会会場で味わえるのは5月7日(日)まで。
この機会に、ビジュアル背景色に採用した緑も映える、新緑の上野・東京国立博物館へお出かけください。
(注)展示作品および展示替え情報については、作品リスト(PDF)をご覧ください。
特別展「東福寺」作品リストを開く
(注)本展は事前予約不要です。混雑時は⼊場をお待ちいただく可能性があります。
(注)チケットの販売は展覧会公式サイトよりご確認ください。
特別展「東福寺」東京会場:東京国立博物館 平成館
桜の季節は過ぎましたが、会場までの順路を鮮やかな若葉が彩ります。
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posted by 中束 達矢(広報室) at 2023年04月20日 (木)
永和9年(353)3月3日、王羲之が風光明媚な蘭亭に名士41人を招いて開催した曲水の宴は、北宋時代の李公麟(りこうりん)が描いた蘭亭図に基づいて、蘭亭序にまつわる諸資料を加えた蘭亭図巻が作られました。1780年、清の乾隆帝(けんりゅうてい)が明時代の拓本に拠って作らせた蘭亭図巻には、11人が2篇の詩を、15人が1篇の詩を賦し、16人は詩を賦さず、罰として大きな杯に3杯の酒を飲まされた、と注記しています。
蘭亭図巻(乾隆本)(らんていずかん けんりゅうぼん)(部分)
原跡=王羲之他筆
清時代 乾隆45年(1780) 林宗毅氏寄贈 東京国立博物館蔵
【東博後期展示】
王羲之の上には2篇の詩が刻されていますが、実際には6篇の詩を書いたことが、唐の『右軍書記(ゆうぐんしょき)』等の諸文献から分かります。孫綽(そんしゃく)が記した詩集の後序に拠ると、曲水の宴で作られた詩は多く、全ては詩集に載せなかったようです。酔いが回ると筆は進みますが、後で読み返すと、冷や汗が出る内容であったりするものです。
蘭亭図巻(乾隆本)(部分)
曲水の両岸に陣取る名士たちを見ると、鼻を赤らめた后綿(こうめん)は、どうやら酩酊してぐっすり寝入っているご様子。
蘭亭図巻(乾隆本)(部分)
一方、虞説(ぐえつ)は今し方書き終えた詩稿を手に持って、声高らかに朗読し、お隣の呂系(りょけい)は片膝を立て、耳を傾けて聞き入っています。
蘭亭図巻(乾隆本)(部分)
足下に飲み干した杯を置く楊模(ようも)は、気持ちよさそうに踊っています。42人のパリピが参加した曲水の宴は、後世に大きな影響を与えました。
蘭亭図巻(乾隆本)(部分)
日本における曲水の宴は、『日本書紀(にほんしょき)』に拠ると、顕宗天皇元年(485)3月上巳を筆頭に、486年、487年、691年に開催されたと伝えますが、信憑性には疑問符が付されています。
一方、『聖徳太子伝暦(しょうとくたいしでんりゃく)』では、推古天皇28年(620)3月上巳に、太子が奏して「今日は漢家の天子が飲を賜う日であるぞよ」とのたまい、大臣以下を召して、曲水の宴を開催。諸藩の大徳(冠位十二階の第一番目の位)ならびに漢と百済の文士たちに詩を作らせ、禄を賜りました。日中韓のにぎにぎしいパーティーは、聖徳太子絵伝にも描かれています。
国宝 聖徳太子絵伝(しょうとくたいしえでん)(部分)
秦致貞(はたのちてい)筆 平安時代・延久元年(1069)
【法隆寺宝物館の「デジタル法隆寺宝物館」で、8K高精細画像と複製を7月30日(日)まで展示】
『続日本紀(しょくにほんぎ)』には、文武5年(701)から延暦6年(787)まで15回にわたって開催されたものの、延暦9年(790)に故あって停止され、寛平2年(890)3月3日に再開されました。
源高明(みなもとのたかあきら)の『西宮記(さいきゅうき)』には、曲水の宴の式次第が記されています。その内訳は、(1)天皇出御、(2)王卿が参上し、(3)紙・筆が置かれ、(4)詩題が献上され、(5)三献して、(6)音楽が流れ、(7)身分の低い者から披講し、最後に(8)禄を賜る、という流れでした。
平安時代の中期に、パリピの帝王として君臨したのが藤原道長(ふじわらのみちなが)でした。道長の日記『御堂関白記(みどうかんぱくき)』には、曲水の宴をはじめとする数々のパーティーが記録されています。とりわけ、長保年間から寛弘年間にかけては、タガが外れたように頻繁に開催しています。王羲之が開催した曲水の宴は、時空を隔てた道長の時代にも受け継がれ、道長の部下であった藤原行成(ふじわらのゆきなり)らによって、世界に誇るべきかな表現も最高峰に到達したのでした。
重要文化財 高野切第三種(こうやぎれだいさんしゅ)(部分)
伝紀貫之筆 平安時代 11世紀 東京国立博物館蔵
【書道博で4月23日(日)まで展示】
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posted by 富田淳(東京国立博物館副館長) at 2023年04月18日 (火)
台東区立書道博物館(以下「書道博」)の鍋島稲子です。
東京国立博物館(以下「東博」)と書道博の両館で開催中の連携企画「王羲之と蘭亭序」は、早くも残すところ約1ヶ月となりました。
東博の植松瑞希さんから流れてきた觴(さかずき)が、目の前を通り過ぎる前にブログを書かないと、罰として大きな觴に三杯の酒を飲まされるかもしれない、ハラハラ&ドキドキリレーの1089ブログ!
わたしからは、今回展示の作品中、国宝に指定されている「世説新書巻第六残巻」(せせつしんじょかんだいろくざんかん)についてお話しをしたいと思います。
『世説新語』とは、後漢時代の末から東晋時代(2~4世紀)にかけて活躍した、640人余りの名士の逸話集であり、いいことわるいこと、あることないことが書かれた、今でいうところのゴシップ誌ネタのようなものです。
南朝宋の劉羲慶(りゅうぎけい)が編纂し、梁の劉孝標(りゅうこうひょう)が注を付しました。
都合1120話が収録され、王羲之にまつわるエピソードは45話あります。
その中に蘭亭序の話も含まれ、『世説新語』は、蘭亭序の記述がある最古の文献としても知られています。
王羲之は、自分の書いた「蘭亭序」が、西晋の貴族であった石崇(せきすう)が詩会の雅宴で作った詩集の序文「金谷詩序」(きんこくしじょ)に匹敵するほどの文章だと、ある人がほめてくれたので、とてもうれしそうだった。
『世説新語』企羨(きせん)第16より
王羲之のほほえましいエピソードですね。
そうかと思えば、仲の良かった友人が亡くなると、手のひらを返したように故人の悪口を言ったり、気に食わない奴を無視したりバカにしたりと、王羲之のブラックな部分も描かれています。
清談好きな貴族たちの人間味あふれる姿が映し出された『世説新語』は、王羲之とその時代背景を知る格好の資料であり、読み物としても楽しい内容です。
国宝 世説新書巻第六残巻-規箴・捷悟(きしん・しょうご)-(部分)
唐時代・7世紀 京都国立博物館蔵
【書道博で3月26日(日)まで展示】
親友の王敬仁(おうけいじん)と許玄度(きょげんど)が亡くなると、王羲之は彼らを手厳しく論じたので、孔巌(こうがん)がこれをいさめ、王羲之は自分を恥じた、というお話。
さて、日本には唐時代に書写された最古の『世説新語』が現存します。
巻末に「世説新書巻第六」と書かれていることから、唐時代には『世説新書』と呼ばれていたことがわかります。
「世説新書巻第六」は、明治時代の初期に西村兼文(にしむらかねふみ)が東寺で発見し、所蔵していました。
京都に住む文人の山添快堂(やまぞえかいどう)、北村文石(きたむらぶんせき)、山田永年(やまだえいねん)、森川清蔭(もりかわきよかげ)、神田香巌(かんだこうがん)は古写本に精しく、ぜひみんなで見にいこうと兼文を訪ねます。
現物を目の当たりにした時、清蔭が色めき立ち、ゆずってくれと言い出しました。
他の4人も欲しがり、ついには口論となったため、兼文は困り果て、しかたなく5人にゆずることにしました。
5人はこれを携え、帰りしなに旗亭へ立ち寄り、酒の席で「世説新語巻第六」1巻を5つに裁断し、くじ引きで各々1つ獲りました。
飲み終わると、みんな大笑いしながら家に帰りました。
この時、5分割された「世説新書巻第六」ですが、後に2つの残巻が1つに接合され、現在は4つの残巻が伝わっています。
東博所蔵の残巻には、尾題の「世説新書巻第六」や、旧蔵者の署名「杲宝」(ごうほう)の右半分が残っています。
本文の後にある神田香巌の跋文によると、杲宝は東寺観智院の開祖で、『本朝高僧伝』に見えると記されています。
国宝 世説新書巻第六残巻-豪爽(ごうそう)-(巻頭部分)
唐時代・7世紀 東京国立博物館蔵
【書道博で3月28日(火)~4月23日(日)展示】
国宝 世説新書巻第六残巻-豪爽-(巻末部分)
唐時代・7世紀 東京国立博物館蔵
【書道博で3月28日(火)~4月23日(日)展示】
昨年、東博で開催の特別展「国宝 東京国立博物館のすべて」でも展示されました!
また紙背には、平安後期に書写された「金剛頂蓮花部心念誦儀軌」(こんごうちょうれんげぶしんねんじゅぎき)があり、平安時代にはすでに日本に伝わっていたこともわかります。
[参考]
国宝 世説新書巻第六残巻-豪爽-(紙背部分) 金剛頂蓮花部心念誦儀軌
(注)今回の連携企画では、東博・書道博とも紙背の展示はありません。
そしてなによりも、この作品のすばらしさは、唐時代に完成した楷書の字姿を肉筆で見ることができる点にあります。
美しく力強い筆勢で書かれ、理知的で典雅な響きを持つ「世説新書巻第六」は、日本にのみ現存する、まさに国宝の威厳と風格を備えた、唐時代7世紀の写本の傑作です。
会期中、残巻を書道博で順番に展示していますので、お見逃しなく!
「王羲之と蘭亭序」余話、ここだけのヒ・ミ・ツ
●平成館で開催中の特別展「東福寺」(~5月7日(日))では、国宝「太平御覧」(たいへいぎょらん/京都・東福寺蔵)の第75冊において、王羲之の書論と伝わる部分を4月9日(日)まで展示中!
●東洋館9室「中国の漆工」では、「蘭亭曲水宴堆朱長方形箱」(らんていきょくすいのえんついしゅちょうほうけいばこ)を4月2日(日)まで展示中!
東博館内で、王羲之や蘭亭序にまつわる作品をぜひ探してみてください!
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posted by 鍋島稲子(台東区立書道博物館主任研究員) at 2023年03月24日 (金)
東京国立博物館(以下「東博」)の植松瑞希です。
東洋館8室で開催している東京国立博物館と台東区立書道博物館(以下「書道博」)の連携企画「王羲之と蘭亭序」は後期に入りました(~4月23日(日))。
「王羲之と蘭亭序」の世界をより深く楽しんでいただくため、本展に関わった東博と書道博の研究員で、リレー形式により1089ブログを更新しています。
さて、トップバッターの中村信宏さんに続き、わたしからは、王羲之主催の蘭亭での集まりが、後世、どのように描かれていったのか、というお話をしたいと思います。
東洋館8室展示風景
永和9年(353)の3月3日、王羲之は、いまの浙江省紹興県あたりにあった蘭亭(一説に、蘭花の多い川辺にあったあずまや)という場所で禊(みそぎ、邪気払い)の行事を行い、41人の名士を集めて、「流觴曲水」(りゅうしょうきょくすい)の宴を開きました。
流觴曲水は、川の水を引いて曲がりくねった流れを作り、そこに、觴(酒の入った盃)を流し、これが自分のところに着くまでに詩を作る、作れなかったら盃を飲む、という遊びです。
この遊びで作られた一連の詩に対し、王羲之が書いた序文が「蘭亭序」です。
「蘭亭序」は名文として知られるだけでなく、最高の書家とあがめられる王羲之の代表作品として称えられてきました。
そして、このようなすばらしい名文・名品を生み出した、蘭亭での集まり自体も、憧れの的となったのです。
そのため、これを描いた絵画作品も数多く残っています。
といっても、当時の記録がことこまかに残っているわけではありません。
画家たちは、その様子を想像して描いたわけで、どこに力点を置いて表現するか、全体構成や細部描写をどう工夫していくかというのは、それぞれの腕の見せ所となります。
さて、歴代の蘭亭雅集図の中で最も名高いのは、北宋時代、11世紀頃の文人画家、李公麟(りこうりん)が描いた巻子形式のものです。
真筆は失われてしまいましたが、図像の大枠自体は、拓本の形で伝えられています。
ここでは、清時代の乾隆帝の命令で作られた拓本「蘭亭図巻(乾隆本)」を見ていきましょう。
蘭亭図巻(乾隆本)(らんていずかん けんりゅうぼん)(部分)
原跡=王羲之他筆、清時代・乾隆45年(1780) 林宗毅氏寄贈 東京国立博物館蔵
【東博後期展示】
最初は、川辺のあずまや、蘭亭から始まります。筆を執り、ガチョウを眺める高士は、ガチョウ好きで知られる王羲之です。
あずまやの王羲之とガチョウの後には、曲水に流れ込む急流があり、酒の入った盃を準備し、次々と水に浮かべる召使の子供たちが描かれます。
そして、流れの左右に並んで座る、42人の名士が紹介されていきます(王羲之も再登場します)。
彼らは敷布の上に座り、硯と筆、紙をかたわらに詩作に励んでいます。
頭上には、官職・名前と、作った詩の内容が書かれています(作れなかった人は空欄です)。
途中は省略しますが、最後には、橋が描かれ、その先で、流れた盃をきちんと回収する子供たちの姿が見えます。
蘭亭図巻(乾隆本)(部分)
この蘭亭雅集図は、絵画表現だけで完結するというよりは、王羲之を始めとした有名な文人たちの性格や人生、その詩文の内容に思いをはせ、それが一堂に会した奇跡的な集まりの盛大さを改めて感じさせる、そういったものになっています。
このような、李公麟由来の図像をふまえて作られたのが、明時代末期、王建章(おうけんしょう)という画家が作った扇面です。
この作品では、両手で開くことのできる小さな画面に、一望できるように蘭亭雅集の風景が描かれています。
蘭亭春禊図扇面頁(らんていしゅんけいずせんめんけつ)
王建章筆 明時代・崇禎6年(1633) 比屋根郁子氏寄贈 東京国立博物館蔵
【東博後期展示】
王建章は、蘭亭雅集になくてはならない曲水を、画面上から、逆Cの字を描いて、左下に送るよう配置します。
この流れに沿って見ていくと、盃を準備して流す子供たちがいて、
蘭亭春禊図扇面頁(部分)
水辺で詩を書いたり、あきらめて盃を飲んだりしている参加者たちがあらわれて、
蘭亭春禊図扇面頁(部分)
あずまやでガチョウが泳ぐのを眺める王羲之が見つかり、
蘭亭春禊図扇面頁(部分)
橋の先で盃を回収する子供たちに行き着きます。
蘭亭春禊図扇面頁(部分)
一方、清時代末期の上海で活躍した人物画家、銭慧安(せんけいあん)は、約束事にとらわれない、新たな蘭亭雅集図を描いています。
蘭亭修禊図扇面(らんていしゅうけいずせんめん)
銭慧安筆 清時代・光緒13年(1887) 青山慶示氏寄贈 東京国立博物館蔵
【東博後期展示】
銭慧安の扇面では、表された空間の範囲はぐっと小さくなり、そこに大勢の人々が詰め込まれます。
王羲之らしき人物の座るあずまや、盃を流す曲水は描かれますが、参加者たちの多くは、流れから離れて、思い思いに時を過ごしています。
盃の流れを見ているのは召使の子供たちだけで、しかも彼らも流觴曲水の宴のために仕事をしているというよりは、おもしろい遊びを興味津々に眺めているという風情です。
蘭亭修禊図扇面(部分)
参加者たちは、輪になって談笑していたり、欄干越しに話し込んだり、琴を聞きながら何かを論評したり、それぞれ、友人たちとの交流に集中しています。
蘭亭修禊図扇面(部分)
考えてみれば、最初に見た、李公麟由来の巻子形式の蘭亭雅集図には、名士どうしの交流はほとんど描かれませんでした。
ひるがえって、銭慧安の作品は、宴のにぎやかな様子を表現することに力点を置いた点に新しさが認められます。
蘭亭雅集に対する画家たちそれぞれのアプローチを比較し、楽しんでいただければ幸いです。
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posted by 植松瑞希(絵画・彫刻室) at 2023年03月14日 (火)
「王羲之と蘭亭序」その1 道は違えど蘭亭愛-趙孟頫と趙孟堅-
台東区立書道博物館の中村です。
毎年恒例となっている東京国立博物館(以下「東博」/会場=東洋館8室)と台東区立書道博物館(以下「書道博」)の連携企画は、今年で20回目を数えます。
現在開催中の「王羲之と蘭亭序」(前期=~3月12日(日)、後期=3月14日(火)~4月23日(日))では、20周年の節目を記念して、連携企画初回でも取り上げた王羲之(おうぎし)と蘭亭序(らんていじょ)に焦点をあてるとともに、後世における受容と展開をご紹介しています。
書の名品として名高い王羲之の「蘭亭序」ですが、残念ながら真跡は現存しません。
しかし、その字姿は多くの模本や拓本によって、現代にまで受け継がれてきました。
今回のブログでは、数ある拓本のなかでも「定武蘭亭序」と、それにまつわる書画の大家たちのエピソードをご案内します。
「蘭亭序」を手に入れた唐の太宗皇帝は、臣下たちに臨書や模写を命じました。
そのなかで、欧陽詢(おうようじゅん)の臨書が最も優れているということで、それを石に刻み、とった拓本を下賜したといいます。
この時の版石は、五代十国時代の石晋(せきしん)の乱によって所在不明となり、北宋時代の慶暦年間に定州(ていしゅう/河北省)で発見されました。
この地は唐時代に義武軍(ぎぶぐん/軍団の名)が置かれたため、「定武(ていぶ)」と名付けられたといいます。
同地の太守であった薛珦(せつきょう)が模刻し、子の薛紹彭(せつしょうほう)も模刻を行いましたが、この時にもとの版石の五字(五行目の「湍」「帯」「右」「流」、八行目の「天」)を破損させました。
破損させる前にとられた拓本を「五字未損(みそん)本」あるいは「五字不損(ふそん)本」、破損したあとにとられた拓本は「五字已損(きそん)本」といいます。
版石は北宋王朝滅亡の原因となる靖康(せいこう)の変で失われたと伝えられています。
五字未損本には、書道博が所蔵する中村不折コレクションの「韓珠船本(かんじゅせんぼん)」があります。
定武蘭亭序(韓珠船本)
原跡=王羲之筆 原跡=東晋時代・永和9年(353) 台東区立書道博物館蔵
【書道博前期展示】
「定武蘭亭序(韓珠船本)」展示風景(於=台東区立書道博物館)
【書道博前期展示】
五字已損本には、「呉静心本(ごせいしんぼん)」、そして元時代の大家、趙孟頫(ちょうもうふ)が愛蔵した「独孤本(どっこぼん)」が有名です。
元時代・至大3年(1310)9月、僧の独孤からこの「蘭亭序」を譲り受けた趙孟頫は、都に向かう船のなかで鑑賞・臨書し、「蘭亭序」を尊崇する心情を十三の跋文(ばつぶん)に記しました。
定武蘭亭序(独孤本)
原跡=王羲之筆、跋=趙孟頫他筆 原跡=東晋時代・永和9年(353)、趙孟頫跋=元時代・至大3年(1310) 高島菊次郎氏寄贈 東京国立博物館蔵
【東博後期展示】
[参考]
「定武蘭亭序(独孤本)」より趙孟頫跋文
(注)今回の連携企画では、東博・書道博とも趙孟頫跋文のページ(画像)の展示はありません。
趙孟頫には年の離れた従兄の趙孟堅(ちょうもうけん)がいます。
趙孟堅はある日、五字未損本の「蘭亭序」を手に入れ、限りない喜びを感じていました。
ところが夜に舟で帰るところ、湖中弁山(こちゅうべんざん)という所のふもとで舟がくつがえってしまいます。
荷物の類はみな水浸しとなりましたが、幸いに浅く、趙孟堅はこの巻を持って洲の上に立ち、従者に向かって「蘭亭は私が持っている。その他の物は棄てても何か苦しかろうか」と言いました。
趙孟堅は家に帰ると、巻のはじめに「性命可軽。至宝是保。」の八字を題し、さらに重宝したといいます。
こうして趙孟堅が命懸けで守った五字未損本は「落水本(らくすいぼん)」と呼ばれるようになりました。
(注)今回の連携企画では、東博・書道博とも「落水本」の展示はありません。
中国文化護持のためにあえて元王朝に仕えた趙孟頫とは相容れない仲となってしまいましたが、「蘭亭序」を愛好し、尊重する気持ちはどちらも負けてはいません。
こうした出来事も「蘭亭序」の神格化に一役買ったようです。
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posted by 中村信宏(台東区立書道博物館主任研究員) at 2023年03月01日 (水)