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特集「西日本の埴輪 -畿内・大王陵古墳の周辺-」の見方2-技術編-

特集「西日本の埴輪-畿内・大王陵古墳の周辺」(2014年9月9日(火)~12月7日(日)、平成館考古展示室)がはじまり、はや1ヶ月余りがたちました。
たくさんのお客様にお越しいただき、心から感謝しています。

考古展示室前・看板(猪形埴輪)、館内サイン(家形埴輪)
左:考古展示室前・看板(猪形埴輪)、右:館内サイン(家形埴輪)

この特集展示では、古墳時代の中心地域であり、大王のお墓(大王陵古墳)が多数含まれるとみられる大阪府古市古墳群の埴輪をたくさん展示しています。
展示の概要については、前回のブログをご覧ください。
今回は、その埴輪の造り方をキーワードに、見どころのポイントについて解説いたします。


まず、今回展示をした作品のなかですぐに目に付くのは、土管のような形をした大きな円筒埴輪です。
大きなものでは160㎝以上もあり、大人の背丈ほどもある大きさです。
大王陵級の古墳にたてられた円筒埴輪ともなると、このようにかなり大きかったようです。

5世紀前半の円筒埴輪(大阪府土師の里遺跡出土 大阪府立近つ飛鳥博物館蔵)
5世紀前半の円筒埴輪(大阪府土師の里遺跡出土 大阪府立近つ飛鳥博物館蔵)

この円筒埴輪はずいぶんと大きいので、造るのには相当大変だったことと思います。
板状や棒状に伸ばした粘土を輪にして、その輪を積み重ねることで筒状の埴輪ができあがります。
でも、この粘土は乾燥する前に一気に積み上げると重みで崩れてしまいます。私も実験で円筒埴輪を作ったことがあるのですが、何度も「倒壊」させてしまいました(笑)。

それを防ぐためには、ある程度の高さになったら一旦作業をとめて乾燥させる必要があります。
そして乾燥が終わると、ふたたび粘土を積み上げ、その繰り返しによって大きな筒をつくることができます。
とても手間と根気のいる作業です。

次に、円筒埴輪の表面に帯のように横にめぐる突帯をご覧ください。その間隔が一定なことに気がつかれたことと思います。
この突帯は、じつは定規のようなものを使って間隔が均一になるように、正確に計って(!)造られているのです。
しかも、横一直線に整然とめぐらせています。相当高い技術で造られていることがわかります。


さらに、この突帯の間には、横にめぐる細い線状の痕でびっしりと埋められていることがご覧いただけることと思います。
これはハケメ(刷毛目)と呼ばれる痕跡で、埴輪の表面を整えるために板状の木の工具でつけられた木目の跡です。

横方向のハケメ(左:写真2左の円筒埴輪の拡大、右:ハケメの微細写真)
横方向のハケメ(左:ハケメの微細写真、右:突帯間にあるハケメ)

まず、粘土を積み上げる過程で、粘土同士を密着させるために縦方向のハケメを施します。これは一次ハケメと呼ばれます。
次に、突帯を貼り付けた後に、狭い突帯の間に再度ハケメを施します。これを二次ハケメと呼んでいます。
このように、2回にわけてハケメを施すことによって表面を丁寧に整えてゆきます。
実は、この二次ハケメについては、1970年代から考古学的に重要な特徴がわかってきました。

当初、縦方向に施していた二次ハケメは、4世紀後半頃になるとランダムな横方向(A種)に変化してゆきます。
5世紀になると、横方向のハケメは断続的にめぐらされ、美しいリズミカルな模様を描くようになります(B種)。
さらに5世紀後半には、突帯の間を一周する切れ目のないハケメ(C種)に変化することがわかりました。
どうも円筒埴輪が回転する台の上で製作されるようになり、二次ハケメは回転台の力を利用して施すようになったと考えられています。

ハケメの変遷(円筒埴輪の編年 大阪府立近つ飛鳥博物館編2009『百舌鳥・古市古墳群展』を参考に作成)

このような製作技術の移り変わりは、1980年代以降、円筒埴輪の年代を推定する重要な指標として広く学会に受け容れられました。
とくに簡単に発掘できない大型古墳では、年代観の基礎データとなり、遺跡の研究や保護に大きな役割を果しています。
埴輪は古墳の地表面からも採集できますので、発掘調査をしていなくても古墳の時期や性格を知ることができる“すぐれもの”なのです。


次いで5世紀の後半から6世紀になると、円筒埴輪の製作にも大きな変化がみられます。
本展示では、小型の埴輪を6点展示しています。先ほどの大型の円筒埴輪と見比べてみましょう。


5世紀後半から6世紀の円筒埴輪(大阪府青山2号墳・蕃上山古墳・矢倉古墳 大阪府立近つ飛鳥博物館蔵)

一見して、とりわけ顕著な変化はその大きさです。腕の長さで納まる程度に小さくなります。
しかし、十分な乾燥期間をとらずに粘土の積み上げを一気におこなったために、埴輪がゆがんでしまうこともしばしばあります。

また、横方向のハケメを省略したため、二次ハケメでみえなかった縦方向の一次ハケメが表面に現れます。
突帯も、真っ直ぐではなくとも、多少斜めに曲がっていてもおかまいなしです。
この省略化や、造形美への“こだわりの薄さ”というのが、5世紀後半以降の埴輪のキーワードになっています。

縦方向のハケメと歪んだ突帯(左:縦方向のハケメ、右:歪んだ突帯 矢倉古墳 大阪府立近つ飛鳥博物館蔵)
縦方向のハケメと歪んだ突帯(左:縦方向のハケメ、右:歪んだ突帯 矢倉古墳 大阪府立近つ飛鳥博物館蔵)

このように埴輪の製作技術は、時期によって大きく変化します。
それゆえに、古墳の築造時期や性格を探る大きな手がかりともなっているのです。


ところで、ご紹介しました大型の円筒埴輪は5世紀の土師の里遺跡から出土しました。
この遺跡は、全国2位の規模をもつ伝応神天皇陵古墳(墳丘長:425m)に隣接し、古墳造営や埴輪生産に関わる伝承をもつ氏族、土師氏の本貫地と推定されています。
この埴輪は、中に人が入いる埋葬用のお棺として使われた特殊なもので、丸く刳り貫いた透孔も少なく、埋葬時にはこの孔も埴輪の破片で塞いでいました。

160㎝以上もある“巨大な”円筒埴輪を精巧につくるには、もちろん熟練した技術が必要です。
この埴輪もトップレベルの造り手の製品であるに違いありません。
そのような埴輪製作者や、埴輪製作者を統率していたリーダーが、この円筒埴輪に葬られたのかもしれません。
もしかしたら、「埴輪とともに生き、埴輪とともに死す」という世界観があったのでしょうか…。

展示室風景
展示室風景

畿内地方は、古墳時代の政治や経済の中心地であるとともに、埴輪生産の中心地でもありました。
古市古墳群周辺をはじめ、畿内地方で培われた埴輪製作技術が、各地方へと伝播してゆきます。
精巧に造っている段階でも、省略化した段階でも、全国の埴輪づくりの基準であることに変わりはありませんでした。


埴輪は見た目の印象でも充分に楽しめますが、その造り方に注目して細かく観察してみると、さらに楽しみは倍増します。
ぜひ、実物の資料を間近にご覧いただき、埴輪製作者の“情熱(?)”や想いというものを体感してみてください。

 

ギャラリートーク
円筒埴輪と形象埴輪の見方」 2014年11月7日(金) 18:30~19:00  東洋館ミュージアムシアター

 

カテゴリ:研究員のイチオシ考古特集・特別公開

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posted by 河野正訓(考古室アソシエイトフェロー) at 2014年10月28日 (火)

 

特集「西日本の埴輪 -畿内・大王陵古墳の周辺-」の見方1-誕生・伝播編-

特集「西日本の埴輪-畿内・大王陵古墳の周辺-」(2014年9月9日(火)~12月7日(日)、平成館考古展示室)がはじまりました。
今回の特集展示は平成26年度考古相互貸借事業の一環として、大阪府立近つ飛鳥博物館と相互交換でお借りした埴輪を中心に構成しています。

展示全景
展示全景

展示室見取図
展示室見取図

当館の埴輪展示は、考古展示室に常設2ヵ所の展示コーナー(ステージ)があります。
いつも多くのお客さまに楽しんで頂いていますが、今回は普段、なかなかお目にかけることができない西日本の埴輪が「主役」です。


そもそも「埴輪の起原」は岡山県を中心とした瀬戸内から近畿地方にあります。
古墳時代の始まり(3世紀後半)と共に出現した(土管のような・・・)円筒埴輪と壺形埴輪が最初です。
発掘などの調査・研究活動の結果、1960年頃から次第に、その「誕生の秘密」が明らかにされてきました。

それは、弥生時代終末頃(3世紀前半頃)の墳墓(墳丘墓)で、祖先を祭る祭祀に用いられたと考えられている特殊器台形土器とよばれる“筒形”の土器と、それに載せていた壺形の土器が変化して生まれたというものです。
埴輪といえば、誰もが想い出す(おなじみの・・・)さまざまなカタチの形象埴輪は、かなり遅れて登場することも明らかになってきました。

形象埴輪は、まず4世紀中頃から後半に家形や蓋(きぬがさ)形、甲冑・盾・靫(ゆき)形や船形などの器財埴輪や、鶏・水鳥形などといった鳥形埴輪が現れます。

家形埴輪ステージ
家形埴輪ステージ(中央:家形埴輪群(群馬県伊勢崎市赤堀茶臼山古墳出土、
前列左端
:短甲形埴輪(群馬県藤岡市白石稲荷山古墳出土)、前列右端:蓋形埴輪(奈良県磯城郡三宅町石見出土)

やがて5世紀後半には、新たに人物・動物埴輪が加わります。
葬送儀礼に関わるさまざまな場面を表現する形象埴輪が、次第に揃っていった様子がうかがわれます。
1970年代以降には、このような埴輪群が5世紀末頃までに、日本列島の東北南部から九州南部地方にまで拡がっていったことも明らかにされました。

人物・動物埴輪ステージ
左:人物・動物埴輪ステージ(手前:巫女形埴輪(群馬県伊勢崎市古海出土))、右:猪形埴輪・犬形埴輪(群馬県伊勢崎市天神山古墳出土)


一方、畿内地方の巨大な大王陵古墳と地方の大型前方後円墳の墳丘は、しばしば相似形であることが注目されてきました。
当然、巨大な墳丘を築くにためには高度な測量や土木技術が必要であることはいうまでもありません。
また、日本列島各地で築造された大型古墳には、このような器財埴輪を含む埴輪群を備えた例が多いことにも注意する必要があります。

大型前方後円墳測量図
大型前方後円墳測量図 左:九州・宮崎県女狭穂塚古墳(西都市:全長176m)、右:畿内・大阪府伝仲津媛陵古墳(羽曳野市仲ッ山古墳:全長283m)

このような墳丘や埴輪にみられる「文化伝播の背景」には、古墳の築造に必要な墳丘構築と(土器と比べて“超”大型の焼き物である・・・)埴輪製作における密接な技術交流があったとみられます。
まさに、畿内地方の埴輪は全国の「埴輪造りの基準」であったのです。


今回の主役の埴輪が生まれた奈良県や大阪府は、畿内と呼ばれた古代日本の中心地の一つです。
世界最大の墳墓遺跡である伝仁徳天皇陵古墳(大阪府堺市大山古墳:全長486m)をはじめとした巨大な大王陵古墳が多数築造されたことで知られます。
とくに大阪平野では、巨大な古墳が4世紀末頃から5世紀に次々と築造され、現在世界遺産への登録を目指している古市・百舌鳥古墳群といった巨大古墳群が形成されました。

もちろん古墳時代(3世紀後半~7世紀)の中枢地域ですので、もっとも多量に大型の埴輪が生産された地方でもあり、人物・動物埴輪などの形象埴輪の主な新たな器種が最初に造られた可能性がもっとも高い地方でもあるのです。


さて、当館の埴輪はご承知のように、関東地方の家形埴輪や人物・動物埴輪が中心です。
そのため、残念ながらこのような畿内地方の埴輪ほとんどありません。

今回は、畿内中枢地域の埴輪を展示出来る絶好の機会ですので、(当館の人気者?である)人物・動物埴輪が生み出されたプロセスも併せてご覧頂けるようにテーマの構成を組み立てています。
1. 西日本の埴輪
2. 畿内地方の円筒埴輪
3. 人物・動物埴輪の出現

1. では、古墳時代前半期の埴輪のうち、畿内と地方の代表的な形象埴輪を中心にご覧頂きます。
大型船を象ったと考えられる宮崎県西都原古墳群出土の船形埴輪と、東日本ではみられない立派な入母屋造屋根をもつ奈良県出土の家形埴輪はその典型です。
いずれも重要文化財にも指定されており、器財埴輪として戦前から有名なものです。

左:西日本(前半期)の埴輪(全景)、右:器財埴輪模式図(阪口編2014より)
:西日本(前半期)の埴輪(全景)、右:器財埴輪模式図(阪口編2014より)

一方、4~5世紀の畿内地方で著しく発達した埴輪は、古墳時代中期(4世紀末~5世紀末)には東北の岩手県から九州の鹿児島県まで伝播します。
当然・・・、畿内地方との技術交流の存在が想定でき、人々がダイナミックに交流する姿が浮かび上がります。
まず、畿内(中央)と地方の埴輪における技術的な親縁性や文化伝播の背景を感じ取って頂ければと思います。

次に、2. では大王陵古墳が集中する大阪平野の古市古墳群の円筒埴輪を展示しています。
なかでも最大の大型円筒埴輪は高さ160㎝を超える雄大な大型品で、(普段目にしている・・・)小型の埴輪からは想像できないほどの労力(情熱?・エネルギー?)が注がれたことは容易に想像できます。
用途は円筒棺とよばれる埴製の棺ですが、その雄大な規模や近年の発掘調査の事例から、大王陵古墳の円筒埴輪とほぼ同等な製品であると考えられています。

 左:畿内(古市古墳群)の埴輪(全景)、右:古市古墳群分布図
:畿内(古市古墳群)の埴輪(全景)、右:古市古墳群分布図

出土した大阪府藤井寺市土師の里遺跡は、古市古墳群の“ド”真ん中に存在します。
1970年代から発掘調査によって、古墳群の築造開始とともに成立した、多数の埴輪窯を伴った埴輪生産に携わった人々の集落遺跡であることが判明しました。
円筒埴輪の技術で製作される円筒棺は、大王陵古墳をはじめとした古墳造りで当時の王権を支えた集団のリーダーであった人物のための特別な棺であったとみられます。
畿内地方における大王陵古墳周辺の埴輪の規模と質感、(あるいは・・・)製作した人々の息吹も“実感”して頂けるのではないかと思います。

最後は、3. の古墳時代後半期の埴輪です。
形象埴輪群の構成・造形の移り変わりにおいて、もっとも大きな変化(画期)を紹介します。
器財埴輪はこれまでと大きくフォルムを変え、家形埴輪に代表される埴輪独自ともいえる独特な造形が確立する時期です。
しかし、もっとも大きな特色は、なんといっても新たに登場した人物・動物埴輪の出現でしょう。

左:後半期の埴輪(全景)、右:猪形埴輪(大阪府藤井寺市青山4号墳出土)
:後半期の埴輪(全景)、右:猪形埴輪(大阪府藤井寺市青山4号墳出土)

5世紀中頃に出現する女子(巫女)形・馬形埴輪に続いて、5世紀後半にはさまざまな人物埴輪・動物埴輪が登場します。
人物埴輪は少数の全身像と大多数の半身像のさまざまな男女像で構成されています。
その種類は男子埴輪を中心にして、盛装の男女形をはじめ、武人・楽人・力士形などなど、実に50以上もあります。

一方、動物埴輪には鹿・猪・犬・猿形などや水鳥形などの鳥形埴輪がありますが、なかには猪・犬形埴輪が狩人とみられる人物埴輪とセットで狩猟場面を表す例などもあります。
いずれも群で表現される物語性をもった造形であることが、これまでの埴輪にはない大きな特色のひとつです。


一口に埴輪と言っても、その誕生から終焉の間には、劇的な変化が起きていたことがお解り頂けたことと思います。
このような変化は1970年代以降の研究によって、埴輪が突如として造られなくなる6世紀末ごろまで全国共通の変化であることも明らかにされてきました。
その“震源地”は常に畿内地方で、全国の埴輪造りに大きく関わっていたことも近年の研究でいよいよ明らかになってきています。


埴輪に限らず、「原点(原資料)」を見つめることは、多くの事実やヒントに気づかせてくれます。
今回の特集展示では、“原点の埴輪”を比較・観察して頂くことによって、時代の変化とともに移り変わっていった埴輪群の構成や造形の変化のありさまをじっくりご覧頂けることと思います。

このような変化の“原動力”とその歴史的な意味を明らかにすることができれば、当時の人々の世界観の一端に触れることが可能となる日もそう遠くないに違いありません。

それには、やはり今一度、埴輪自身を見つめることが第一歩です。
次回は、埴輪のカタチや造形の特色を決定づける「製作技術の秘密」についてお話しします。


ギャラリートーク
西日本の埴輪の造形・変遷と伝播」2014年10月21日(火) 14:00~14:30  平成館考古展示室
円筒埴輪と形象埴輪の見方」 2014年11月7日(金) 18:30~19:00  東洋館ミュージアムシアター

カテゴリ:研究員のイチオシ考古特集・特別公開

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posted by 古谷毅(列品管理課主任研究員) at 2014年10月03日 (金)

 

聖人たちのアトリビュート

特集「キリシタン関係遺品」(8月26日(火)~10月5日(日)、平成館企画展示室)では、イエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルが日本にキリスト教を伝えた16世紀半ばから、キリスト教禁教令が廃止される直前の19世紀半ばまでの遺品と関係資料を約70点展示しています。美しい遺品として人気の高い「親指のマリア」もご覧いただけます。

キリシタン関係遺品について、知っているとちょっと得した気分で鑑賞できる情報を紹介します。それは「聖人たちのアトリビュート」です。

キリスト教美術に登場する聖人には、その人に由来する持ち物や小道具が添えられています。それらの物をアトリビュートといいます。アトリビュートは聖人を特定するヒントになります。今回の展示作品にも数々のアトリビュートをみることができます。

重要文化財 三聖人像(模写)
(左) 重要文化財 三聖人像(模写) 長崎奉行所旧蔵品 安土桃山~江戸時代・16~17世紀
(右) 部分拡大

三人の聖人たちが持っている物、これがアトリビュートになります。中央の聖人は殉教具の金網と棕櫚を持っているため、聖ロレンソ(ラウレンティス)とされています。これは聖ロレンソが格子状の金網で焼かれて殉教したという伝説に由来します。棕櫚の枝は殉教者共通のアトリビュートです。左側の聖人はマリアの純潔を象徴する百合と福音書(キリストの言行録)を持っているため、ドミニコ会の創始者である聖ドメニクス(ドミニコ)、あるいはパドヴァの聖アントニウスとされています。右側はキリストの磔刑を象徴する茨の冠をつけ百合を持っているため、シエナの聖カタリナだとされています。

重要文化財 聖人像
重要文化財 聖人像 長崎奉行所旧蔵品 安土桃山~江戸時代・16~17世紀

次は象牙の聖人像。さきほども登場した聖アントニウスだとされています。幼子キリストがアトリビュートです。これは聖アントニウスが幼子キリストの姿を幻視したという伝説に由来します。聖アントニウスにはほかにも魚、燃える心臓などのアトリビュートがあります。

重要文化財 板踏絵
(左) 重要文化財 板踏絵 無原罪の聖母  長崎奉行所旧蔵品  江戸時代・17世紀
(中、右) 部分拡大

板にはめ込まれているのは、信者から没収した大型のメダイです。星の冠、足元の三日月は聖母マリアのアトリビュートです。特に、穢れなくしてキリストを身ごもったマリアを象徴します。そのためこのマリアは「無原罪の聖母(御宿り)」とよばれます。マリアの姿はヨハネ黙示録12章にある「壮大なしるしが天にあらわれた。太陽に包まれた婦人があり、その足の下に月があり、その頭に十二の星の冠をいただいていた」に由来します。


重要文化財 親指のマリア
重要文化財 聖母像(親指のマリア) イタリア 長崎奉行所旧蔵品 17世紀

最後に「親指のマリア」にみるアトリビュートを。それは青いマントです。聖母マリアを「海の星」と称えた聖歌が由来のようです。海=青ということでしょう。このアトリビュートはとてもよく知られるもので、青色は聖母マリアを象徴する色になっています。ちなみに赤色は神の慈愛を示す色ですが、親指のマリアのマントの裏側にも赤色が見えます。

聖人たちのアトリビュート、いかがでしたか? そういえば、アトリビュートではないのですが、聖母マリアは泣いている表情で描かれることがしばしばあります。今回展示した親指のマリアも涙しています。彼女の美しい涙のしずくもお見逃しなく。
 

 

カテゴリ:研究員のイチオシ特集・特別公開

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posted by 神辺知加(教育講座室研究員) at 2014年08月27日 (水)

 

仏女がおすすめする「仏像の楽しみ方」

夏休みもあとわずか。地域によっては新学期が始まっているところもあるかもしれませんが、宿題や自由研究も大詰めのお子さんたちもいるのではないでしょうか。

トーハクの夏休み恒例企画・親と子のギャラリーでは、「仏像のみかた 鎌倉時代編」(8月31日(日)まで、本館11・14室)を開催中ですが、8月23日(土)に、展示に関連した講演会が開催されました。

題して、「夏休みの宿題-わたしの仏像自由研究-」。

今回は、3月まで当館に在籍し、川岸瀬里研究員(教育普及室)とともに展示を企画した浅見龍介研究員(京都国立博物館)に加え、奈良県生駒市の小学5年生・飯島可琳さん(生駒市子ども学芸員第1号)を迎えての講演会となりました。
小学校1年生の頃、近鉄奈良駅前に建つ行基菩薩像に興味を持ち、仏像めぐりを始めたという可琳さんは、毎月「仏女新聞」をオンライン発行しています。

講演会は、可琳さんが身近にある奈良の仏像を例にその見方・楽しみ方を提案し、浅見研究員が親と子のギャラリーで展示中の仏像を例に補足説明をする展開で始まりました。

講演会 研究員の解説
(左)仏像は難しくありません!
(右)「仏像を飾るもの」について展示中の仏像を例に浅見研究員が解説。

可琳さんがおすすめする仏像の見方のポイントは5つ。

1.表情を見る
2.いろいろな角度から見る
3.仏像を飾るものを見る
4.時代背景を知る

ここまででちょっと難しいな…と感じるときは、

5.動物を探そう!

とのこと。

確かに動物なら親しみやすいですね。
可琳さんは、獅子像を例に、平安時代の像は「気をつけ!のポーズできっちり」していて、鎌倉時代の像は「足を踏んばり、力強さ」を感じると、自身で気づいたポイントを挙げました。


また、おすすめの仏像紹介や、鎌倉時代以降に一般化した「玉眼」の技法についても、その手法を紙で再現した模型の写真を交えて紹介したり、時代別の説明では「白鳳時代(飛鳥時代後期)の仏像は、日本らしい仏像へと変化する重要なステップと考え、これをもう少しよく見る必要があるのでは?」という自説をとなえるなど、大人顔負けのプレゼンテーションを行いました。


玉眼スライド2
(左)玉眼の技法についての解説も。
(右)手書きイラストも交えた自作のスライドで堂々と発表しています。


最後は、浅見研究員から可琳さんにインタビューのコーナー。
可琳さんは今までに100カ寺、2000体以上の仏像を見ているそうです。同じお寺に何度も足を運ぶことも。
将来は仏像関係の仕事に就きたいとの夢も聞かせてくれました。

インタビュー

最近は入門書なども数多く出版されていますが、まずは自分の目で、実物を楽しんで見ること。
そこで気になったところは、何回も繰り返し見ることで、自分なりの発見があるかもしれません。

親と子のギャラリー「仏像のみかた 鎌倉時代編」の展示室では「仏女新聞」ならぬ「トーハク新聞」と銘打った新聞形のワークシートを配布しています。
展示室で仏像を見て気づいたことなどを書き込んでみてください。きっと自分なりの、仏像の楽しみ方がみつかるはずです。
夏休みの自由研究がまだすんでいないお子さんはもちろん、「仏像はなんだか難しくて…」と感じている大人の方もぜひチャレンジしてみてください。


関連リンク
親と子のギャラリー「仏像のみかた 鎌倉時代編」(8月31日(日)まで、本館11・14室)トーハク新聞(ワークシートPDF)のダウンロードもできます。
おすすめコース「仏像大好きコース」 トーハクで仏像のきた道をたどる、仏像好きの方へのおすすめコースです。
仏女新聞 飯島可琳さんが執筆・制作・発行している新聞。購読申込制です。

 

カテゴリ:教育普及彫刻特集・特別公開

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posted by 奥田 緑(広報室) at 2014年08月26日 (火)

 

展示室で歩く聖地・春日野

いま、本館の特別2室で「春日権現験記絵模本 I―美しき春日野の風景―」(2014年8月31日(日)まで)と題する特集の展示を行なっています。
春日権現験記絵とは、奈良市に鎮座する春日大社に祀られる神々の利益と霊験を描く絵巻で、三の丸尚蔵館が所蔵しています。全20巻から成るこの絵巻は、鎌倉時代の後期、時の左大臣西園寺公衡の発願により、高階隆兼という宮廷絵所の絵師が描いたもので、多くの絵巻作品の中でも最高峰の一つに数えられています。

この絵巻、永らく春日大社に秘蔵されてきたのですが、江戸時代の終わりに民間に流出してしまったようなのです。関係者の努力により絵巻は回収されましたが、こうした貴重な絵巻が紛失した時にそなえ、模本を作ろうという動きが出てきました。その命を下したのが紀州(和歌山)藩主徳川治宝(とくがわはるとみ)。治宝は幕末において様々な文化的な営みを主導した、まさに「文人お殿様」。この絵巻の模本を作ることで、いにしえの有職故実の研究にも役立てようとしていたようです。林康足、原在明、浮田一蕙、冷泉為恭、岩瀬広隆といった復古やまと絵師たちによって写されました。
模写にあたっては「復元模写」という、絵の具や絹などが剝落した箇所を復元し、彩色などをする方法がとられました。発色の良い絵の具が眼に栄えます。今回この特集で展示しているのは、この時写された模本です。模本といって侮ってはいけません。原本制作当初はこうした発色だったとも思われます。


春日権現験記絵模本 巻第19
春日権現験記絵模本 巻第19(部分) 冷泉為恭他模 江戸時代・19世紀 東京国立博物館蔵
この雪山の表現は原本でも模本でも、全場面中白眉の表現。


さて、今回の特集は「美しき春日野の風景」をテーマに、験記絵模本の中から、春日野を描く場面を選りすぐって展示しました。
春日社は藤原氏の氏神として多くの崇敬を受け、人びとは春日社の朱塗りの美しい鳥居や社殿を前に祈りを捧げてきました。ただ、春日の神々への祈りは社殿など目に見えるものではなく、目に見えぬ神々、そして神々の鎮座する春日野という「場」へ捧げられたものでした。春日野そのものが聖なる祈りの対象であるという認識です。こうした考えから、「春日宮曼荼羅」など、春日野の景観を一望にする作品が多く制作されました。


春日宮曼荼羅
春日宮曼荼羅図 鎌倉時代・13世紀(8月11日(月)で展示終了)
こうした聖地春日野の景観をふんだんに描き、その聖性を絵巻に込めたのが春日権現験記絵でした。


展示している各場面の詳細な説明は出来ませんので、一場面を取りあげます。
この絵巻の最終巻であり最後の絵である巻第20です。


春日権現験記絵模本 巻第20
春日権現験記絵模本 巻第20(部分) 冷泉為恭他模  江戸時代・19世紀 東京国立博物館蔵

春日の二の鳥居から本殿へ至る参道が長大な画面に描かれています。春日社を主題とするこの絵巻の中でも、これほど長く春日野を描いた箇所はありません。まさにこの絵巻のハイライトと呼べるシーンです(一方、物語の内容は春日の怪異をめぐるお話。詳細は会場で)。

展示室は多くの「美しき春日野の風景」であふれています。ぜひともお運び頂き、その清澄で美しい春日野の景観に思いを馳せて頂ければと思います。
最後に、展示室の作品には、どこにもかしこにも多くの鹿が描かれています。愛らしい鹿たちを探すのも、この特集の楽しみ方の一つです。


春日権現験記絵模本 巻第12
春日権現験記絵模本 巻第12(部分)  冷泉為恭他模  江戸時代・19世紀  東京国立博物館蔵(8月12日(火)から展示)
鹿に囲まれる牛車。これには深い訳があります。答えは会場の解説に。ぜひお越しください。

 

カテゴリ:研究員のイチオシ特集・特別公開

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posted by 土屋貴裕(平常展調整室研究員) at 2014年08月12日 (火)