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1089ブログ

トーハクくん、大包平で刀剣の魅力にふれる!

ほほーい!ぼくトーハクくん!
今日は刀剣界のビッグスターが展示されてるって噂を聞いて、本館の13室に来たんだほ。
ブームあっつ熱の刀剣を一目見ようと思ってるんだほ。


おー、トーハクくん。ようこそ刀剣の部屋へ。

酒井さん、おつかさまだほ! 今日はよろしくだほ。
それで、その刀剣のスターはどこにいるんだほ?

この太刀、大包平(おおかねひら)のことだね。

国宝 太刀 古備前包平(名物 大包平) 平安時代・12世紀
国宝 太刀 古備前包平(名物 大包平) 平安時代・12世紀

おおかねひら? ほー、国宝なんだほ!
ところで酒井さん、題箋には太刀のあとにも色々かかれてるんだけど、古備前包平とか、これどんな意味だほ?

えー、古備前とは、平安時代のおわりに備前国、現在の岡山県の東南部にいた刀工のことを指します。備前国は、鎌倉時代に一文字派、長船派などが生まれて、刀剣の一大産地となりましたが、このうち古備前とはそうした流派より古い刀工の総称をいいます。さらに、このうち包平は古備前を代表する刀鍛冶で、この作品は包平の傑作として知られています。江戸時代には岡山藩の池田家に伝来し、18世紀の前半に全国の名刀を集めた『享保名物帳』によると、寸法が長いことから「大包平」の名がついたそうです。

僕といっしょで、存在感ありまくりだほ!

おー、分かるかい。うれしいね。
まず、大きさがあって迫力があるよね。でも、反りのカーブとかは無駄がなく、刀剣独特の鋭さのある美は保っているよ。また、地鉄にあらわれる木材のような模様はきめ細やかで、刃文は小模様で複雑な形で、細かい変化にあふれているんだよね。

国宝 太刀 古備前包平(名物 大包平) 平安時代・12世紀(部分)
国宝 太刀 古備前包平(名物 大包平)の地鉄と刃文(小乱[こみだれ])

ふんふん。

同じ部屋に展示されている、鎌倉時代おわりの相模国(神奈川県)で活躍した刀工、相州国光の短刀と比較すると、大包平にみられる刃文の複雑な形がよりわかるよね。こうした大包平の刃文を「小乱(こみだれ)」、国光の直線的な刃文を「直刃(すぐは)」と呼んでいるのだけど、刃文は刀工の個性があらわれるところなんだ。

重要文化財 短刀 相州国光 鎌倉時代・13世紀 渡邊誠一郎氏寄贈(部分)
重要文化財 短刀 相州国光の地金と刃文(直刃[すぐは])

重要文化財 短刀 相州国光 鎌倉時代・13世紀 渡邊誠一郎氏寄贈
重要文化財 短刀 相州国光 鎌倉時代・13世紀 渡邊誠一郎氏寄贈

で、大包平はどうしてこんなに大きいんだほ?

うーん・・・

うーん・・・

分からない、謎だね(キッパリ)。



えー、あくまでも私見ですが、現存している大包平と同じ時代、12世紀後半の太刀の多くは、もともとの刃渡り(刃長)が2尺7~8寸(82~85cm)くらいあったと考えています。でも、そんな中で、数は少ないけど3尺(約90cm)前後のものもある。大包平の刃渡りは2尺9寸4分(89.2㎝)で、この数少ないほうに入ります。こうした長い太刀の使い方は正確に伝えられないけど、確実に言えることは、これだけ大きな太刀が現代に残っていて、ものすごい迫力を持っているということ。

だから“大”包平なんだほ!
こんだけ大きいんだから、すんごい重いんだほ?

確かにこの太刀の重量は、当館の先輩である佐藤貫一氏(号 寒山)が計測していて、1,350gあるらしい(※1)。江戸時代に多くあった2尺3寸(69.7㎝)の刀剣は大体800gだから、それに比べたら重いといえるね。でも実際に持つと、1kgを超える鉄の塊のような重々しさは感じないんだよ。これは、さっき言った反りのカーブや厚みの調節など、手に持ったときのバランスが相当考えられているからだと思うね。
そのほかにも目に見える部分で、ある工夫がしてあるんだけど、トーハクくん分かるかな?
(※1 佐藤寒山 『日本刀は語る』 青雲書院 1977年 204ページ)

(どれどれ・・・)
おっ、もしかして!
隣に展示している太刀、古青江貞次と比べると、刀身に溝があってへこんでるんだほ。きっと余分なお肉を削って身軽にしているんだほ?

国宝 太刀 古備前包平(名物 大包平) 平安時代・12世紀(部分)
国宝 太刀 古備前包平(名物 大包平)の茎(なかご)から刀身に施された溝

重要文化財 太刀 古青江貞次 鎌倉時代・13世紀(部分)
重要文化財 太刀 古青江貞次(部分)

重要文化財 太刀 古青江貞次 鎌倉時代・13世紀
重要文化財 太刀 古青江貞次 鎌倉時代・13世紀

すごーい、正解だよ、トーハクくん!

でも削っちゃったら、ポッキリ折れそうだけど、大丈夫だほ?

大丈夫。確かにこの溝(樋[ひ])がない方が強度は優れているけど、刀身の重量を軽くさせ、なおかつ打撃を受けたときに衝撃を吸収する、そんな理にかなった形状になっているんだ(※2)。溝のある刀身の断面をみると“H”の形に見立てることができるよね(図)。工学でもこの形は、H形の側面から重量がかかったとき、少ない材料で高い強度を発揮できる構造として知られているんだよ。
(※2 臺丸谷 政志 『日本刀の科学』 SBクリエイティブ 2016年 108ページ)

 図 溝(樋)のある刀剣の断面イメージ

さすが国宝、大包平! ところで酒井さん、大包平は大きいから国宝なんだほ?

うーん、ちょっと違うね。とはいっても、これは僕なりの考えなんだけど・・・

ほー?

国宝になる刀剣の条件、それは、健全、刀工の個性、そして伝来。どれも大切な要素なのだけど。

へー。でも、太刀の健全ってなんだほ? なにが、すこやかなんだほ?

健全っていうのは研ぎ減りがしていない、生(うぶ)のまま(磨上[すりあ]げていない)、つまり生まれたままの姿ってことだね。
この3条件はいうなれば美術工芸品の分野にとっては大事な要素で、この3つを兼ね備えているものって単純にすごいなって、相当に大切にされてきたと思うんだよね。
んで、特に大包平はそれについて比類がないんだ!

分かった!!!
大包平の「大」は大きさじゃなくて、“グレート”の「大」なんだほ!

いいこと言うね、トーハクくん! さっき紹介した佐藤氏もそう言ってたなぁ(※3)。
(※3 佐藤寒山 『日本名刀物語』 白凰社 1962年 124ページ)

健全で個性があって、伝来もしっかりしてる。きっといままでの所有者にうーんと大事されてきたんだほ。

この大包平の手入れや展示をしていると、それはもう、すさまじいぐらいに大事にされてきたのが伝わってくるよ。

なんでだほ? グレートなオーラが出てて、大事にしなきゃって思っちゃうほ?

なんでだろうね?
実はこの大包平、古備前の刀剣のなかではいい意味で相当変わっているんだよ。きめ細やかな地鉄や、上から下までむらなく明るく反射する刃文は、あまり古備前の刀剣にはないんだ。「偉大なる例外」と言っていいくらい。それに伝来も池田家で大切にされていた以前はよくわからない。
うーん、おそらくこの太刀を最初に見出した人は尊敬されるべき人だと思います。例外を認めて名刀とみなすのは「高い見識」と「風格を見極める判断力」、そしてこれらを自らの見解として発信する「大きな勇気」が必要です。たぶんこうして見出された美と大事にしなくちゃいけない気持ちには大きな関係があると思います。
謎が多い太刀だけど、それはそれで展示を見にきたお客さんにも想像を膨らませて一緒に考えてほしい、僕はそんな風に思うよ。

しっぶー!。うん、僕も一緒に想像するほ。
酒井さん、またいいのがあったら話を聞かせてほしいほ。今度はユリノキちゃんも連れてくるほ。
今日は、ありがとうだほ!

あいよ。また遊びにくるといいほ。あ、言葉うつっちゃた。


 

国宝 太刀 古備前包平(名物 大包平)は本館13室で4月8日(日)まで展示中だほ。
みんな見にきてほしんだほーっ!
 

 

カテゴリ:研究員のイチオシトーハクくん&ユリノキちゃん

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posted by トーハクくん at 2018年03月13日 (火)

 

私のお気に入りの1点(「アラビアの道ーサウジアラビア王国の至宝」より)


香炉、タイマー、ナバテア王国時代・前1~後1世紀頃、タイマー博物館蔵(本展No. 149)

「アラビアの道」展のほとんどの展示室に登場するもの──それは香炉です。この展示には古代から現代の約20点の香炉や香を焚いた祭壇が展示されています。
アラビア半島のオアシス都市タイマーで出土したナバテア王国時代のこの香炉は、砂岩を彫ってつくられたもので、わずかに丸みを帯びた形状が砂岩の質感と相まって温かみのある趣を醸し出しています。
アラビア半島では既に青銅器時代には香が焚かれていました。鉄器時代以降(前1200年頃~)の隊商都市からは、さまざまな香炉や香を焚いた祭壇が出土しています。古代の代表的な香は、アラビア半島の南西部に生育する低木からとれる樹脂香料、乳香と没薬(「アラビアの道」展第3章にて展示中)でした。これらは古代オリエント世界各地の神殿で神々に捧げられる神聖な香でもありました。新約聖書には、キリストの生誕に際して、東方三博士が黄金とともに乳香と没薬を贈り物として持参したことが記されています。
 

香炉、カルヤト・アルファーウ出土、1世紀頃、キング・サウード大学博物館蔵(本展No. 186)
前面にはクスト(インドなどが原産のオオホザキアヤメ科コストゥス属の植物の根茎か)という香料の名が刻まれている

No. 149のように四隅に角のある香炉や祭壇は青銅器時代よりレヴァント(シリア・パレスティナ)によくみられますが、アラビア半島の香炉にこのような角が作られるようになるのは、前6世紀頃の北西アラビアで、ちょうど新バビロニアの王ナボニドスが北西アラビアのオアシス都市タイマーに滞在した頃にあたります。この時、ナボニドスとともにやって来た人々の中には、ユダヤ人などレヴァント出身の人々も含まれていたようです。
 

タイマー出土の香炉(前6世紀頃、タイマー博物館蔵) ※本展には出品されていません。

その後、No. 149の香炉を作ったナバテア人が前4世紀頃に北西アラビアに台頭し、前2世紀には独自の王国を築いて香料貿易で栄えました。ナバテア王国は106年にローマ帝国の属州に組み込まれますが、そのローマ帝国の神殿でも、オリエント世界の影響を受けた角のある香の祭壇が使われていました。
イスラーム時代以降の香炉については、さまざまな形状・材質のものが残されています。モスクでも香が焚かれますが、古代のように神に香を捧げるという意味合いはありません。
 

香炉、ラバザ出土、7~10世紀、キング・サウード大学博物館蔵(本展No. 319)

 
香炉、ラバザ出土、8~10世紀、キング・サウード大学博物館蔵(本展No 318)

現在サウジアラビアで一般的に使われている香炉も、No. 149の香炉と同様、四隅が角状の形をしています。角は、香炉の見栄えを良くするだけでなく、誤って服などが火皿に入ってしまうのを防ぐ大切な役割を担っています。
 

香炉、リヤド、19世紀、サウジアラビア国立博物館蔵(本展No. 406)
現在も同様の香炉が使われ続けている


香炉の使い方は古代も現在も変わりません。まず、火皿の中に着火済みの炭を用意し、その上に少量の樹脂香料や香木をそのまま置くだけで、すぐに香り高い白い煙が立ち上ります。乳香と没薬、とりわけ前者は現在でもよく使われますが、最も好まれているのは、インド洋世界から輸入される伽羅と沈香です。その他、複数の香が調合されてつくられたものを含め、現在の家庭では多種多様の香が楽しまれています。


香を焚く準備─香炉の火皿に着火した炭を用意する(現代のサウジアラビアの香炉) ※本展には出品されていません。

 
現代のサウジアラビアで最も好まれている沈香(その高級品が伽羅と呼ばれるが、アラビア語では両者ともに「ウード」と呼ばれる) ※本展には出品されていません。

 
現代のサウジアラビアの香の店(リヤド)─香木などとともに、香油や香水も扱う

曜日・時間限定で開かれている表慶館前のアラブ イスラーム学院による遊牧民テントでは、香炉を含むアラビアの民具を手に取ってご覧いただくことができます(テントが開かれている時間はこちら)。こちらも是非どうぞ。
 

カテゴリ:研究員のイチオシ2018年度の特別展

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posted by 徳永里砂(アラブ イスラーム学院研究員・金沢大学国際文化資源学研究センター客員准教授) at 2018年03月05日 (月)

 

特集 おひなさまと日本の人形―日比谷家の雛人形を中心に―

金のびょうぶに うつる灯(ひ)を
かすかにゆする 春の風
すこし白酒 めされたか
あかいお顔の 右大臣

今年もおひなさまの季節がやってきましたね~。毎年この季節になると、博物館の研究員として、雛人形の展示に大忙しです。
あまり世の中では知られていないと思いますが、トーハクのお雛様展示は毎年内容が違うんです(写真1)。
一般的に博物館での雛人形展示は同じ作品を例年並べることが多い傾向にありますが、トーハクでは毎年テーマを決めて展示を行っています。
そのため、滅多に展示しない作品も多く、是非とも毎年注目して頂きたいと思います。


写真1 特集「おひなさまと日本の人形」会場の様子

今年の特集「おひなさまと日本の人形」(本館14室 2018年3月18日(日)まで)では江戸の地を中心とする関東地域で作られた雛人形と、関西を中心に作られた木彫の人形に焦点をあてました。
気づかれにくいのですが、「おひなさまと日本の人形」といういつものタイトルには、「おひなさまと、それ以外の人形の展示」という意味が込められているんです。
さてさて、雛人形の制作というと、「京都が本場!」というイメージがありませんか。それは正しいイメージです。衣裳を着せ付けた雛人形の発祥は京都ですし、日本の人形文化自体、京都が中心となって牽引してきたからです。

しかし、関東だって負けていません。むしろ、幕末から明治にかけて、江戸の町は個性的な人形を作る作家を多く輩出し、人形文化の爛熟を向かえました。

今日、多くの方々がイメージする華やかな衣裳を着た雛人形を「古今雛」と称しますが、これはそもそも大坂出身で江戸日本橋十軒店(じっけんだな:現在の中央区日本橋室町の三越前駅近く)に店を構えた初代原舟月が安永年間(1772~1781)頃に創作し、二代舟月によって寛政年間(1789~1801)に完成された形式に仕上げられたものなのです。
その他にも江戸では末吉石舟(すえよし せきしゅう)や仲秀英(なか しゅうえい)、川端玉山(かわばた ぎょくざん)など伝説的な名工が活躍していました。

では何故、いまでも京都の人形ばかりが目立っているのでしょうか。
それは圧倒的に江戸で作られた人形の現存例が少ないからなのです。

「火事と喧嘩は江戸の華」というように、江戸の町は度重なる大火に襲われました。また関東大震災や東京大空襲によって壊滅的な打撃を被り、こうした中で江戸製のお雛さまは、その多くが失われてしまいました。
雛人形を紹介する本を通覧しても、江戸で作られた人形は少しだけしか掲載されておらず、今となってはその存在自体が貴重なものとなっています。

そうした江戸製雛人形(古今雛)のなかで今回特に注目したいのが、日比谷家ご寄託のお雛様です(写真2)。
日比谷家は江戸を代表する豪農で、「日比谷区」という名の起源ともなった名家です。


写真2 古今雛 日比谷家伝来 江戸時代・安政7年(1860) 個人蔵

明治10年に発行された日本で最初の和独辞書『和獨對訳字林』は、日比谷家6代の健次郎(または健治郎、天保7年(1836)~明治19(1886))がスポンサーとなって出来上がったものですが、このお雛様は安政7年に健治郎が長女の「しん」の初節句に際して求めたものであることが、箱書き(写真3)と家系図によってわかります。


写真3 お雛様の箱

さて、このお雛様のすごいところは、江戸製であること、一人の作者による大型の人形一式が伝えられていること(現在のようなデパートのセット販売が始まる以前、江戸時代には内裏雛は誰々の作、三人官女は誰々の作というように、自由に人形の組み合わせを考えて購入するのが当たり前でした)、箱書きに「安政七年 春三月」(まさに「桜田門外の変」が起きた時です!)とあり、制作年代がわかること、誰のために誂えられたものかわかること、などです。
つまり美術的評価とともに、歴史学や文化史の上からも貴重な史料と評価することができるでしょう。

しかし、寄託された当時、このお人形はかなり傷んだ状態でした。
髪は抜け落ち、道具はバラバラで、台座の漆もバリバリと剥がれ、セロハンテープで固定されていました(写真4)。


写真4 台座の漆剥離

このため、トーハクでは昨年から約1年を掛けて修理を行いました。
修理は保存修復課の職員である野中昭美(のなか てるみ)氏を中心として進められ、その立派な成果を展示会場でご覧いただけます。

通常、ひな人形の修理というと、欠けたお顔や台座の剥がれは塗り直し、傷んだ衣裳は新調するのが当たり前に行われていますが、文化財的価値をもったお人形にそういった手法をとることはできません。
そのため、今回はあくまで「文化財としての修理」の原則であるオリジナル部分を生かした作業を進めることになりました。

女雛のお顔をご覧ください(写真5)。修理前は額が欠け落ち、髪が抜けてしまっていました。しかし、欠けた額は保存されており、接合することが可能でした。
また頭髪の再生については専門家の技術が必要であるため、古い人形の修理にも精通されている博多人形作家の中村信喬(なかむら しんきょう)氏にお願いしました。
江戸時代の雛人形は、鬢(びん:髪の左右の張り出し)が強く張った現代の人形と異なり、もっと膨らみの少ない「おっとり」とした髪型をしています。
中村氏によって、当時の雰囲気をしのばせる再現性の高い修理を行って頂きました。


写真5 女雛・修理前(左)、修理後(右)

またもう一つ再現したのは、五人囃子のかぶっている侍烏帽子(さむらいえぼし)です(写真6)。
これはもう水にぬれてクチャクチャになったような状態で、再使用は叶いませんでした。
侍烏帽子は逆さまにすると、ちょうど舟のような恰好になるので、だれか日比谷家のご先祖に水に浮かべて遊んだ方がいらしたのではないかな~と想像しています。


写真6 侍烏帽子の新調(オリジナル(左)、新補(右))

この侍烏帽子については静岡の人形師である望月勇治(もちづき ゆうじ)氏に新調をお願いしました。
残されている作品を忠実に再現したもので、これを被ったお人形には艶と張りが甦ったように見えます(写真7)。


写真7 五人囃子・修理前(左)、修理後(右)

その他、衣裳については朽ちた織物を染織修理の方法で固定し直し(写真8)、めくれてしまった漆の層は固定。
また欠損部には丁寧な充填が行われました。いずれも一般的な人形の修理では考え難い、極めて丁寧な仕事です。


写真8 山崎真紀子(やまざき まきこ)氏による染織品部分の修理

こうした「文化財」としての雛人形の大掛かりな修理はトーハクとしてほとんど初めてのことであり、おそらく国内を見渡しても初めての試みではなかったかと思います。
雛人形については文化財として扱う意識が一般に薄く、また文化財修理の優先度からいっても低いことは否めません。

そうした中にあって、今回トーハクが行った修理は「文化財として雛人形をどう修理すべきか」という模索の中で行われたものであり、その試行錯誤の中で生み出された手法は、今後の人形を文化財として修理していく中で重要な指針になるものであると考えています。

オリジナルを大切にしつつ、お雛祭りにふさわしく、美しく艶やかに甦った日比谷家のお雛様(写真9、写真10)。是非ともみなさまには会場にお越しいただき、日本が誇る人形文化の素晴らしさと、保存修復の重要性を感じて頂ければと思います。


写真9 男雛・修理前(左)、修理後(右)


写真10 女雛・修理前(左)、修理後(右)

特集 おひなさまと日本の人形
本館 14室 2018年2月27日(火)~ 2018年3月18日(日)
 

カテゴリ:研究員のイチオシ特集・特別公開

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posted by 三田覚之(教育普及室) at 2018年03月02日 (金)

 

特集「江戸後期の京焼陶工―奥田頴川と門下生を中心に」

こんにちは。研究員の横山です。
暦の上ではもう春のようですが、まだまだ寒い2月。新たな陶磁器の特集展示が本館で始まりました。

この特集「江戸後期の京焼陶工―奥田頴川と門下生を中心に」(本館特別2室、2018年4月22日(日)まで )では、江戸時代後期(18~19世紀)の京焼陶工をご紹介しています。

京焼とは、広く「京都で焼かれた陶磁器」を意味します。
その内容は、仁清・乾山に代表される華やかな色絵陶器、中国や朝鮮半島の陶磁器から影響を受けた写し、茶湯道具にまつわるものなど、実に多様です。
都という立地により、様々なものの行き来や文化交流が盛んであった京都。そこで作られる陶磁器もまた、そうした影響を大きく受けて発展してきました。

今回の展示では、京焼のなかでも奥田頴川(おくだえいせん、1753-1811)という、京都で初めて磁器を作ることに成功した陶工を出発点とし、彼の門下の陶工たち(青木木米<あおきもくべい>、欽古堂亀祐<きんこどうきすけ>、仁阿弥道八<にんなみどうはち>)に着目しました。
彼らは京都で活躍するだけでなく、当時各地方の藩で盛んに取り組まれていた陶磁器づくりに呼ばれ、藩主主導の御庭焼などの開窯や発展に貢献しています。

重要美術品 色絵飛鳳文隅切膳 奥田頴川作 江戸時代・18~19世紀 大河内正敏氏寄贈
重要美術品 色絵飛鳳文隅切膳 奥田頴川作 江戸時代・18~19世紀 大河内正敏氏寄贈
頴川の作品については昨年、建仁寺蔵の「三彩兕觥形香」が新たに重要文化財に指定され話題になりました。


京焼の特徴の一つとして、江戸時代前期の仁清、乾山の頃から見られる陶工(工房)の「名前」が明らかになってくることが挙げられます。
後期の京焼作品もまた、そうした「誰が」携わったかを知りつつ、各作品から個性が感じられるところが見どころの一つといえます。

煎茶具一式 青木木米他作 江戸時代・19世紀
煎茶具一式 青木木米他作 江戸時代・19世紀
自らを「識字陶工」とし、文人でもあった木米。この時代の煎茶の流行にも敏感であったことでしょう。
今回は久しぶりに一式を並べました。


こうした後期京焼陶工たちのかかわりのあった地方諸窯として、今回は三田(兵庫県)、瑞芝(和歌山県)、春日山(石川県)、偕楽園(和歌山県)、讃窯(香川県)を展示の後半でご紹介しています。
三田、瑞芝の青磁、春日山の赤絵、偕楽園の交趾など、代表的な特徴もありつつ、どの諸窯にもそれ以外の作風のものにも取り組んでいて、多種多様な作風を一言で表わすのはなかなか大変です。
この時代、いかに各藩が陶磁器づくりに力をいれていたかということがうかがえます。

讃窯の作品群
讃窯の作品群
讃窯の作品群。
開窯にかかわった仁阿弥道八の得意とする作風がよくあらわれています。


讃窯資料のうち、木印
讃窯資料のうち、木印
讃窯資料のうち、木印。
この大きな「讃窯」印(拡大写真)が捺された作品が、実はすぐ近くにあります。
簡単に見つかりますよ!


この時代に作られたものについては、「バラエティ豊か」という一方で「混沌」としたところもあり、陶工たちのかかわり方や各諸窯の詳細は、博物館館蔵の伝世品からだけではまだまだうかがい知れないことも多い、というのも事実です。
ともあれ、陶磁器の常設展ではなかなかお見せできない作品ばかりですので、ぜひこの機会にお楽しみいただき、何か新たな「発見」があれば幸いです。

特集 江戸後期の京焼陶工―奥田頴川と門下生を中心に
本館 特別2室 2018年2月6日(火)~ 2018年4月22日(日)

 

カテゴリ:研究員のイチオシ特集・特別公開

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posted by 横山梓(保存修復室) at 2018年02月15日 (木)

 

天平の秘仏、葛井寺の国宝「千手観音菩薩坐像」がついに公開!

葛井寺は近鉄の藤井寺駅から徒歩で数分のところにあります。商店街に接していて、抜け道になっているようですが、足早に歩く人も本堂の前では立ち止まって合掌します。
本堂に置かれた大きな厨子は、毎月18日に扉が開かれ、多くの参拝者でにぎわいます。中には秘仏の千手観音菩薩坐像が安置されます。天平彫刻を代表する名品です。
特別展「仁和寺と御室派のみほとけ」には、その千手観音像が出品されます。関東にお出ましになるのは江戸時代初期に品川に出開帳して以来のことです。
等身よりも大きい体に、1041本の腕を持つ姿には迫力があります。千手観音であっても、実際に千本の腕を作った像はごく稀です。


国宝 千手観音菩薩坐像 奈良時代・8世紀 大阪・葛井寺蔵 (撮影:藤瀬雄輔)
均整の取れた美しい姿!


1041本の腕のうち40本は大きな手で、さまざまなものを持ちます。それらは後世につくり替えられたものですが、それぞれ意味があります。例えば髑髏は、あらゆる神々を使役できます。


大手で持った髑髏

さて、像は月に一度、拝することができますが、厨子に納められているので横や後ろ姿を拝することはできません。そこで今回の展覧会では360度ご覧いただけるようにしました。柔らかな背中や、頭上背面の大きく口を開けて笑う大笑面は、この機会を逃せば見ることはできないでしょう。


頭上背面、口を大きく開けて大きく笑う大笑面(撮影:藤瀬雄輔) 
ぜひ後ろからもじっくりご覧ください


展覧会に合わせて、CTの調査も実施しました。像内に小さな塔が納入されていることが知られていましたが、今回その姿を鮮明にとらえることができました。データの分析には時間がかかりますが、新たな発見があるはずです。


合掌する手のCT(撮影:荒木臣紀、宮田将寛) 
掌は木で、指は銅芯でつくって、その上に木屎漆で塑形


お像全体のCT(撮影:荒木臣紀、宮田将寛)
像内に小さな塔が見えます


天平彫刻の名品を360度からご覧いただける大変貴重な機会です。皆様どうぞお見逃しなく。

カテゴリ:研究員のイチオシ彫刻2017年度の特別展

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posted by 丸山士郎 at 2018年02月14日 (水)