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私のお気に入りの1点(「アラビアの道ーサウジアラビア王国の至宝」より)

「アラビアの道-サウジアラビア王国の至宝」展はオープンして3週目。
連日多くのお客様にご観覧いただいております。どうもありがとうございます。

この展覧会、総合文化展チケット、仁和寺展チケットで見ることができ(!)、
すべての展示品が撮影可能です(フラッシュ、三脚はNG)!
ということは、表慶館の内部も撮影できます!

 
表慶館内部

さて、今回は、じっくりご鑑賞いただきたい展示品を1つご紹介いたします。
「カァバ神殿の扉」です。


カァバ神殿の扉  オスマン朝時代・1635または1636年  サウジアラビア国立博物館蔵

時の経過とともに表面の金色はだいぶ剥がれてしまいましたが、
展示室で鈍く輝く扉には重厚感があり、その歴史を感じさせます。
イスラーム教徒でもなく、考古学を専門とする(普段、発掘品や古代のモノばかりに興味を示します・・)僕にとっても、最も印象的な展示品の一つで、
前を通りかかるたびに、立ち止まって見入ってしまいます。

イスラームの聖地、マッカ(メッカ)の聖モスク。
その中心にある1辺が10mちょっとの、立方体に近い外観の石造建築がカァバ神殿です。
イスラーム教徒にとって最も重要な聖地であり、
たくさんの巡礼者がひしめきながら神殿の周囲を回ります。
マッカ巡礼(ハッジ)はイスラーム教徒の5つの義務の一つであり
巡礼者個人にとっては、人生の一大イベントでもあります。


キスワ マッカ 1992年 サウジアラビア国立博物館蔵

カァバ神殿はキスワと呼ばれる黒い布で覆われています。
キスワは金糸による刺繍で彩られています。実物をみると立体感があります。

扉にもどります。


上部にある優美な書体の銘文は、イスラームの聖典クルアーン(コーラン)の一節と、
オスマン朝のスルターン、ムラト4世による扉の設置を記したもの。


マッカの聖モスクは1630年に発生した洪水で大きな被害を受けました。
カァバ神殿の扉の中央付近まで水が押し寄せたことが記録されています。
その後、カァバ神殿はムラト4世による大改修が実施され、現在の姿となりました。
新しい扉は、オスマン朝の都イスタンブールで、
おそらく王室直属の工房で製作されたものと考えられています。
扉の設置(1635または1636年)は、大改修工事の締めくくりとなったようです。
以降この扉は、およそ300年にわたって使われ、多くの巡礼者たちを迎えました。


1937年に撮影されたカァバ神殿の写真。同じ扉がまだ使われています


カァバ神殿の扉 中央部分

扉のアクセントになっているのが、中央を飾る印象的なマンダラ装飾。
よく見ると、その周囲にも精緻な植物文様が打出されているのがわかります。
こうした装飾は、扉が製作された17世紀前半にはほとんど類例がないもので、
おそらく、「先代の扉」に施されていた文様を受け継いだものとみる研究者もいるようです。


カァバ神殿の扉 裏面

ちなみに、人目に触れることのない扉の裏側にも、装飾が彫り込まれています。
写真のように、「カァバ神殿の扉」は左右2枚の扉で構成されています。
見た目以上に重量があり、展示作業では、力持ち6人で片方ずつ慎重に運びました。

イスラームの2大聖地である、マッカの聖モスク、マディーナの預言者モスクを管理し、
多くの巡礼者を保護することは、イスラーム世界の有力な君主が代々務めてきた重要かつ名誉ある役割。
現在はサウジアラビア国王が「二聖モスクの守護者」の称号を受け継ぎ、
聖地のモスクを管理しています。


現役の「カァバ神殿の扉」は装飾のデザインが一新され、金色に輝いています

ということで今回の展覧会、
なかなかお目にかかることのできない「カァバ神殿の扉」を、間近で見ることができる大変貴重な機会です!
展示室で、イスラームの聖地マッカ(メッカ)に思いをはせてみてはいかがでしょうか。
 

カテゴリ:研究員のイチオシ2018年度の特別展

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posted by 小野塚拓造(東洋室研究員) at 2018年02月05日 (月)

 

呉昌碩のミ・リョ・ク《続編》

このたび、15回目の節目を迎えた東京国立博物館と台東区立書道博物館連携企画「呉昌碩とその時代―苦鉄没後90年―」(両館ともに2018年3月4日(日)まで)では、清時代の末から中華民国の初めにかけて一世を風靡した文人・呉昌碩の書・画・印や、硯・拓本を一挙に公開しています。呉昌碩の為人(ひととなり)と各世代の名品を概説した前半のブログを受けて、ここではピンポイントで呉昌碩のエピソードをご披露しましょう。

呉昌碩写真
僕の姿、全部見せます!
呉昌碩写真、中華民国10年(1921)、(呉昌碩78歳)
台東区立朝倉彫塑館蔵
展示:2018年1月4日(木)~3月4日(日)台東区立書道博物館


太平天国の乱で多くの家族を喪(うしな)い、辛うじて父と二人で生き延びた呉昌碩でしたが、25歳の時に父が逝去。その4年後に、呉昌碩は施酒(ししゅ)と結ばれるものの、安穏(あんのん)と郷里に暮らす経済力もなく、各地を転々として多くの師友と交わり、見識を広めていきました。模索時代の呉昌碩に、精神的にも技芸においても、温かい手を差し伸べた師友の一人が楊峴(ようけん)です。
楊峴もまた、太平天国の乱で次女以外の家族を喪い、捕虜となった次男の鴻煕(こうき)は行方が分からなくなる艱難(かんなん)を嘗(な)めていました。詩文書画はもちろん、鑑定にも造詣が深い楊峴を呉昌碩は師と仰ぎ、師弟の契りを結びたいと申し出ますが、楊峴は友人の関係が良いと、婉曲に断りました。楊峴は25歳年少の呉昌碩に、息子の姿を重ねていたのかも知れません。楊峴と意気投合した呉昌碩は39歳の時に家族を連れて、何と蘇州の楊峴の隣に転居、二人は創作の理念から体調不良時の漢方の処方に至るまで、ありとあらゆる事象を語り合いました。

行書缶廬潤目横披
明朗会計、この価格でお引き受けします。
行書缶廬潤目横披、楊峴筆、清時代・光緒16年(1890)、(呉昌碩47歳)
個人蔵
展示:2018年1月2日(火)~3月4日(日)東京国立博物館


呉昌碩は44歳の時に、友人の資金援助を受けて上海県丞(けんじょう)の官職を買い、上海に転居します。しかし、小官の俸給だけでは生活もままならず、売芸によって糊口を凌いでいました。そんな呉昌碩を、楊峴が側面から支えた作例が行書缶廬潤目横披(ふろじゅんもくおうひ)です。潤目とは価格のことで、この価格一覧表には、例えば印は一文字6銭、極大印や極小印、質の悪い印材は受け付けない。書斎名の揮毫(きごう)は4円、ただし過大なものは受け付けない、などと書かれています。晩年、70代の呉昌碩は地位も名誉も手に入れ、何度も潤目を増訂していますが、この潤目は呉昌碩47歳、現存する最も若い作例です。書家・詩人として盛名を馳せていた楊峴が、若い呉昌碩のために揮毫した潤目は、大きな訴求力があったことでしょう。

牡丹図軸
楊峴先生の自宅で描きました。
牡丹図軸、呉昌碩筆、清時代・光緒21年(1895)、(呉昌碩52歳)
東京国立博物館蔵
展示:2018年1月30日(火)~3月4日(日)東京国立博物館

呉昌碩は56歳の時に、彼の官歴の中では最も高い地位となる安東県(江蘇省)の知事となりました。しかし、世事に疎(うと)い呉昌碩は上司や有力者への挨拶を怠ったため軋轢(あつれき)が大きくなり、わずか一ヶ月で辞職してしまいます。呉昌碩は、80日で官を辞した陶淵明(とうえんめい)の故事を踏まえて、「一月安東令」(一ヶ月だけ安東の知事を拝命した)という印や、「棄官先彭沢令五十日」(陶淵明より50日も早く辞職した)という印を書画に押して、芸苑を沸かせました。呉昌碩にとって、書画印のみで生計を立てる決意は大英断だったと思われますが、呉昌碩の書画はその後数年の間に、格段の進歩を遂げました。

「一月安東令」(『缶廬印存』より)
僕は一ヶ月で辞めました。
「一月安東令」(『缶廬印存』より)、呉昌碩刻、清時代・光緒25年(1899)、(呉昌碩56歳)
東京国立博物館蔵
展示:2018年1月2日(火)~3月4日(日)東京国立博物館


張瑞図後赤壁賦識語
襟を正して書きました。
張瑞図後赤壁賦識語、呉昌碩筆、中華民国2年(1913)、(呉昌碩70歳)
台東区立書道博物館蔵
展示:2018年1月4日(木)~3月4日(日)台東区立書道博物館


70代は作品の注文が殺到し、中には凡庸な作も見受けられます。しかし歴代の書画に記した行草書の識語は、謹厳な書きぶりに玲瓏(れいろう)な響きをたたえる傑作ばかり。呉昌碩は、歴史の中の自分を見つめながら書いていたのでしょう。

今回の連携企画では、呉昌碩が渦中にあった19歳から、没年にあたる84歳まで、各世代の作品を展示しています。西欧から近代的な思想が輸入され、多くの知識人が新旧の相克に悩んでいた時、古き良き伝統の護持者となった呉昌碩。書・画・印など多分野にわたる作風の変遷を通して、激動の時代に生まれ合わせた呉昌碩が何を見つめ、筆墨に何を託そうとしたのか、清朝最期の文人と称される呉昌碩の琴線に触れてみてください。

図録 呉昌碩とその時代―苦鉄没後90年―
図録 呉昌碩とその時代―苦鉄没後90年―

編集・編集協力:台東区立書道博物館、東京国立博物館、台東区立朝倉彫塑館
発行:公益財団法人 台東区芸術文化財団
定価:900円(税込)
呉昌碩の書斎の立体見取り図など、付録も充実!
ミュージアムショップにて販売中。
※台東区立書道博物館、台東区立朝倉彫塑館でも販売しています。

 

週刊瓦版
台東区立書道博物館では、本展のトピックスを「週刊瓦版」という形で、毎週話題を変えて無料で配布しています。
トーハク、朝倉彫塑館、書道博物館の学芸員が書いています。展覧会を楽しく観るための一助として、ぜひご活用ください。

関連事業
「台東区と朝倉文夫」 2018年3月7日(水)まで。
台東区立朝倉彫塑館にて絶賛開催中!
 

カテゴリ:研究員のイチオシ特集・特別公開中国の絵画・書跡

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posted by 富田淳(学芸企画部長) at 2018年02月02日 (金)

 

仁和寺の観音堂内部を再現!

現在開催中の特別展「仁和寺と御室派のみほとけ」(3月11日(日)まで)では、普段は非公開の仁和寺観音堂の堂内を再現したコーナーがあります。まるで本物のお堂のなかにいるかのような臨場感があり、仁和寺のお坊さんも驚きのクオリティー。たしかに、見れば、本物か?と、思わず柱に触りたくなってしまいます。触ってはいけません。でも、写真撮り放題の大判ぶるまいです。


観音堂内部の再現(第四章 仁和寺の江戸再興と観音堂)

観音堂は、もともと観音院といい、創建は平安時代にさかのぼりますが、現在のお堂は江戸時代初期に再興されたものです。現在、修行道場として用いられています。


観音堂外観

ご本尊は千手観音菩薩立像。観音さまは、33通りの姿かたちに変身(三十三応現身)して、地獄に落ちた人々までも救うミラクルなパワーをもっており、古くより人々に絶大な人気を誇ってきました。ご本尊のまわりに脇侍として不動明王立像と降三世明王立像、そして千手観音立像に付き従う二十八部衆像と風神・雷神像が並ぶ様は、まさに圧巻です。

お像には鮮やかに彩色が残っていることから、レプリカ!?と思われる方もいらっしゃるようですが、正真正銘の本物です。観音堂の完成と同時期の作とみられます。彩色をしたのは、観音堂の壁画を描いた木村徳応という絵仏師でした。徳応については、以下にふれます。


壁画は高精細デジタルスキャナで取得した画像です。照明の明るさと照合させて、描かれた尊像が映える紙に印刷されています。壁画の正面に描かれるのは、観音の聖地で説法をする観音とその33の応現身。


須弥壇正面の壁画 部分。補陀落山で説法をする観音菩薩を中心に、そのまわりに観音の三十三応現身の一部が見えます 



裏側の下段には、六道という、人が生前の行いによっておもむく6種の世界が描かれており(地獄道・餓鬼道・畜生道・阿修羅道・人間道・天上道)、その上には、それぞれの道に堕ちた人の救済を担当してくれる観音菩薩が描かれています。



六道のうち畜生道


亡者の生前の行いを映し出す浄玻璃の鏡。獄卒に鏡の前に引き立てられた亡者は、鏡のなかに、殺生をする自分自身の姿を見ることになってしまいます


六道のうちの地獄道。紅蓮の炎に包まれる地獄の大釜とそこに落とされようとしている人々

内陣を取り巻く板壁にも、『法華経』という日本でもっともポピュラーな経典にもとづいて、観音の救済場面が細かに描き出されています。


観音堂内陣の壁画

これらの壁画を描いたのは、近年注目を集めている木村徳応という絵仏師です。生年は文禄2年(1593)と考えられており、少なくとも75歳ごろまで活動していたことが知られています。当時の記録にも「仏画をよくし、諸宗の祖師像をよく写す。諸山に多く蔵せり。仏画師中の健筆たり」と評されており、江戸時代前期、京都を中心に、宗派を問わずさまざまな寺院で活躍していました。


徳応は、京都の黄檗宗万福寺に所蔵される涅槃図や寺を開いた隠元禅師の肖像画、万福寺にほど近い浄土宗平等院の十一面観音厨子扉絵など、仏画や肖像画を多く描いていたことが知られています。仁和寺の観音堂の大画面壁画は、徳応50代前半ごろの大作です。現在知られるなかでは徳応の画業のなかでも特筆すべき大作ですが、観音堂が非公開ということもあり、これまであまり知られていませんでした。

観音堂壁画に見る徳応の描線は、筆の入りに打ち込みがあって力強く、非常に明快な印象を受けます。彼の若い時期の作品に共通するものと言えるようです。


この知られざる江戸仏画にも、ぜひご注目ください。
 

カテゴリ:研究員のイチオシ2017年度の特別展

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posted by 皿井舞(絵画・彫刻室主任研究員) at 2018年02月01日 (木)

 

「日本美術のあゆみ―信仰とくらしの造形―」展 その2

1月17日のブログで紹介されたように、現在、バンコク国立博物館で、タイ王国文化省芸術局、文化庁、当館、九州国立博物館、国際交流基金の主催により、日タイ修好130周年記念展「日本美術のあゆみ-信仰とくらしの造形-」(2017年12月27日(水)~2018年2月18日(日))が開催されています。

昨年の春と夏に九州と東京で、タイ国外初出品も含む貴重な文化財を多数出品いただいた、日タイ修好130周年記念特別展「タイ~仏の国の輝き~」(2017年7月4日(火)~2017年8月27日(日))のお返し展という位置づけもあるこの展覧会。国宝3件、重要文化財25件を含む106件という規模で、総合的に日本美術を紹介するタイでは初の展覧会となっています。

展覧会は全体として、第1章 日本美術のあけぼの、第2章 仏教美術、第3章 公家と武家、第4章 禅と茶の湯、第5章 多彩な江戸文化、の5章から構成されています。

第1章では、日本に仏教が公式に伝来する以前、縄文、弥生、古墳時代の、火炎式土器や遮光器土偶、銅鐸、埴輪といった各時代を代表する作品を展示しています。特に人気なのは遮光器土偶。ドラえもんの映画、「新・のび太の日本誕生」で登場したツチダマで馴染みがあるようです。埴輪もにっこりとした微笑みがタイ人の好みにあっているそうで、人気の作品の一つとのこと。

人気の遮光器土偶
人気の遮光器土偶

笑顔が人気の埴輪 鍬を担ぐ男子
笑顔が人気の埴輪 鍬を担ぐ男子

第2章は日本に仏教が伝来した初期の頃の朝鮮半島系の金銅製の菩薩半跏像から、量感ある造形の9世紀の薬師如来坐像、撫肩で優美な姿の11~12世紀の大日如来坐像、全体にシャープな彫りと玉眼を用いた生生しい表情が特徴の鎌倉時代の如意輪観音坐像まで、大まかな仏像の流れがたどれるようにしています。
基本的にタイは上座仏教の国。仏像もほぼ釈迦像のみなので、様々な種類の仏像は、それらがどういう場面でどのように用いられたのか興味深々のようです。
仏画ではタイの方々にも馴染みある題材の涅槃図、そして堂内荘厳に用いる塼や華鬘や、法要に用いる密教法具などを展示しています。

「2章 仏教美術」の展示の様子
「2章 仏教美術」の展示の様子

第3章は、日本の歴史の中で常に政治的権力と文化の担い手となった公家と武家という二大階級の文化を示す作品を展示しています。公家文化として意匠を凝らした蒔絵の手箱、男性・女性の貴族の装束、公家文化の象徴ともいえる源氏物語を描いた屏風、武家文化として、太刀、刀、甲冑、武家女性の着物、武家のたしなみでもあった能の面、装束などを展示しています。このコーナーでは能面のうち、「万媚」と呼ばれる、色気と妖気を備えた高貴な若い女性を表現した面が人気とのこと。口元に僅かにたたえた微笑みがポイントのようです。

能面 万媚
能面 万媚

第4章は茶入、釜、茶碗、茶杓、花入、懐石道具としての鉢や蓋物、床の掛物としての墨蹟、水墨画といった、茶事で用いられる一通りの道具を展示し、茶の湯の世界への入り口としています。

「第4章 禅と茶の湯」の展示の様子
「第4章 禅と茶の湯」の展示の様子

第5章は町人文化の豊かさを示す、素材や技法、模様に意匠を凝らした町方女性のお洒落な着物、細部の細工にこだわった櫛や簪、春信、歌麿、写楽、北斎、広重、国芳の浮世絵、そして現代にも続く風習である雛人形などを展示しています。中でも北斎はタイでも知名度高く人気。また、春信の愛らしい女性像も好まれるようです。

舫い船美人 鈴木春信筆
舫い船美人 鈴木春信筆

会場の出口付近には北斎の「冨嶽三十六景」の中から「神奈川沖浪裏」をもとにした、簡易的な多色刷り版画の体験コーナーも。本来8回刷りのものを今回はインク4色で4回刷りとしています。
これが開幕直後から長蛇の列ができるほどの大人気。

長蛇の列ができるほど大人気の多色刷り版画の体験コーナー
長蛇の列ができるほど大人気の多色刷り版画の体験コーナー

展覧会そのものも非常に好評で、タイ王室のシリントーン王女殿下も行啓され、メモだけでなくスケッチもされながら2時間近く熱心にご覧になられました。

タイ王室の王女殿下行啓の様子
遮光器土偶の前でメモをとるシリントーン王女殿下

そして、ウィラ文化大臣も大変関心を持って下さり、準備段階から一般公開日までの間に4回も視察にお見えになられました。大臣は建築学を学び、日本への留学経験もある方で、現在も日本での歴史的景観保存・活用の事例研究などをされていらっしゃるそうです。
今回の展覧会への力の入れようは、自ら政府の広報部署へ展覧会の広報の指示を出されるほど。また、会期の前半最終日の1月21日には、開催記念として、ご自身の日本での経験に基づく日本文化に関する豊かな知識や鋭い観察眼を披露されました。タイでも大臣がこのような講演をされるのは異例とのこと。

ウィラ文化大臣講演チラシ
ウィラ文化大臣講演チラシ

大臣のあとに私も展覧会の内容についてお話をさせてもらいましたが、注目は午後の矢野主任研究員を交えたタイ側スタッフとの展示計画やケース制作、環境調整等に関する公開シンポジウム。

シンポジュームの様子
シンポジウムの様子(右から2番目が矢野主任研究員)

以前の矢野主任研究員の記事にもあったように、今回の展覧会開催に当たっては、作品選定はもちろんですが、その前提となる会場の環境整備から会場デザイン、ケース設計まで日本とタイ両国の各専門の担当者が何度も協議を重ね共に作り上げたものです。
その過程では、気候や文化の違いによる様々な困難も多々ありました。今回は国宝、重要文化財を多数出品するということで条件は厳しいものになります。
しかし、各担当者、特に保存担当の和田環境保存室長とデザイン担当の矢野主任研究員が、毎月タイに足を運び、現地の担当者と実地に膝を突き合わせて何度も協議を重ねる中で互いの信頼関係が生まれ、それに応じるようにタイ側も従来の常識を超える対応をして下さり、作品の質も、ケース設計も含めた会場デザインも、130周年の記念の展覧会にふさわしい上質のものとなったのです。

ケース設計の様子
会場でのケースモックアップのテスト
日本とタイ両国の各専門担当者が協議中

日本とタイ両国の各専門担当者が協議中
日本とタイ両国の各専門担当者が協議中

そうした経緯をタイ側の展覧会運営のトップの方から、保存、デザイン担当の方までそれぞれの視点で語られ、今後のタイ国内各地の国立博物館のリニューアルなどに今回の経験が活かされることが述べられていました。

単に作品を貸す側と借りる側という関係で終わらず、ともによりよい展示を作りあげ、お客様はもちろん、展示に関わった人にも喜びがあり、それが今後にも繋がっていくということを実感できた海外展となったことはとても得難い経験でした。

今後の更なる日タイ友好の一助となってもらえれば幸いです。
会期はあと1か月弱ありますので、タイに行かれる機会のある方はぜひ、訪れてみてください!コップ・クン・クラッープ!

カテゴリ:研究員のイチオシnews

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posted by 沖松健次郎(絵画・彫刻室長) at 2018年01月31日 (水)

 

空海の「三十帖冊子」、全30帖公開中です

今週から特別展「仁和寺と御室派のみほとけ」が始まっていますが、もうご覧になっていただけたでしょうか。実は、仁和寺に伝わるあの国宝、空海の「三十帖冊子」を、展覧会史上初めて、全30帖を一挙公開しています(~1月28日(日)まで)。


三十帖冊子 展示風景

「三十帖冊子」とは、弘法大師空海(774~835)が、遣唐使として中国(唐)に渡った際(804~806年)に、現地で経典などを写して持ち帰ってきたものです。携帯できる小型の冊子本で、空海は生涯手元に置いていたと考えられています。

 
三十帖冊子 中国の写経生の書写部分

空海は、唐において、真言八祖の一人である恵果(746~806)に学び、多くの経典を書写させてもらいました。20人余りの唐の写経生にも写してもらったという記録があり、「三十帖冊子」には、空海以外の書がたくさん含まれています。その写経生の書の多くは、とても小さな楷書で、丁寧に写されているように見受けられます。


三十帖冊子 空海直筆部分

そして空海も、「食寝を忘れて」書写したそうです。小さめに書いてはいますが、写経生よりも大きな文字になっています。行書で書写している部分も多いため、中国の写経生の文字と比較すると、印象ががらりと変わります。それにしても、空海の「聾瞽指帰」(国宝、金剛峯寺所蔵)や「風信帖」(国宝、東寺所蔵)と比べると、「三十帖冊子」の文字は1センチになるかならないか程の、小さい文字です。

 
展覧会オリジナルグッズ 空海の四十八文字御手本カードセット 4,536円

そんな小さな文字ですが、このように大きく拡大してみると、やはり空海!。一文字一文字に雰囲気があり、筆の穂先を自在に使いこなしているのが見て取れます。今回、「三十帖冊子」の中から、48文字を抜き出して拡大し、空海の書の手本帖がミュージアムグッズになりました。「三十帖冊子」には、空海の書の魅力が満載です!

「仁和寺と御室派のみほとけ」展の図録に、「三十帖冊子」の歴史を書かせていただきました。空海が生涯大切にした「三十帖冊子」が、紆余曲折を経て仁和寺に伝わり、仁和寺は応仁の乱で焼けましたが、そんな中でも護り続けられてきたものです。そして、6か年かけた修理が平成26年度に終了したため「三十帖冊子」全30帖をそろって観ることがかないました。

空海の息遣いが感じられる「三十帖冊子」、全帖すべてが見られるのは1月28日(日)まで。ぜひ全30帖をご覧になってください。
 

カテゴリ:研究員のイチオシ書跡2017年度の特別展

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posted by 恵美千鶴子(東京国立博物館百五十年史編纂室長) at 2018年01月19日 (金)