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1089ブログ

江戸城大奥へようこそ 其の二 『千代田の大奥』について

東京国立博物館 平成館で開催中の、特別展「江戸☆大奥」(9月21日(日)まで)。

大奥展リレーブログ第2弾として、今回は楊洲周延(ようしゅうちかのぶ)筆、『千代田の大奥』について、お話いたします!
 
将軍の御台所(みだいどころ)や側室、またお付きの女中たちが生活していた大奥。その様子は公に語られることはありませんでした。というのも、大奥の女中はお勤めにあたって、大奥のことを外部に漏らさないよう約束させられていたのです。あわせて、江戸時代には大奥の事柄に関する出版統制が敷かれていました。そのため、大奥の内情は長らく隠されていたといえます。
秘密といわれると、あれこれ想像してしまうのが人間でしょう。本展覧会の第1章では、江戸・明治時代、そして現代にかけて、人びとが思い描いてきた「あこがれの大奥」を、作品を通して紹介しています。
 
本章でぜひご注目いただきたいのが、明治時代の人びとが抱いた大奥へのイメージがよく表された錦絵『千代田の大奥』です。東京国立博物館と文化学園服飾博物館所蔵作品をあわせて展示し、全期間、全40場面をご覧いただくことが可能となっています。
  
第1章「あこがれの大奥」より、『千代田の大奥』展示風景 楊洲周延筆 明治27~29年(1894~96) 東京国立博物館蔵
 
明治時代を迎えると、それまでの出版統制は解除されるとともに、江戸幕府下の時代を懐古的に振り替える風潮が高まりました。加えて、明治25年(1892)刊行の永島今四郎、太田贇雄(よしお)編『千代田城大奥』など、大奥の実態を聞き書きした文献も出版されるようになります。『千代田の大奥』の項目や描写が一部重なることから、このような文献を参考にして『千代田の大奥』は描かれたと考えられます。
 
ただ、『千代田の大奥』は、必ずしも大奥の真実の姿をうつしていたわけではなさそうです。昭和5年(1930)に出版された、三田村鳶魚(えんぎょ)による『御殿女中』は、十三代将軍徳川家定の御台所である篤姫(1836~83)付きの御中臈(おちゅうろう)であった大岡(村山)ませ子からの聞き書きをもとにした文献です。大奥の行事や暮らしが丁寧に記されるなか、『千代田城大奥』の内容や、『千代田の大奥』の描写を否定している記述も認められます。会場では、作品の各場面に短文の解説をつけていますが、実際には異なっていたと考えられる点をあわせて紹介しています。
 
  
『千代田の大奥』より「千代田の大奥 鏡餅曳」 楊洲周延筆 明治28年(1895) 東京国立博物館蔵
 
たとえば、1月7日に行われたという鏡餅曳(かがみもちひき)。これは、御三家や御三卿から献上された餅を、下男が賑やかしながら曳き歩くという行事でした。画中には、その様子を楽しげに見学する、華やかな衣装をまとった大奥の女中の様子が描かれています。ですが、『御殿女中』は
「お鏡曳きを大奥の大変な年中行事のように言い囃したのは、甚だしい間違いなのである。高級女中でない御次や、お三の間や、呉服の間でも、見物には出ない。」(朝倉治彦編、三田村鳶魚『御殿女中』鳶魚江戸文庫17 中央公論社 1998年 359頁)
と強く否定しています。お三の間とは、将軍や御台所に謁見できない「御目見以下(おめみえいか)」で、御台所の居室の掃除や、御中臈などほかの女中の雑用を担当していた役職でした。そのような階級の低い女中ですら、鏡餅曳をみることはなかったのです。
一方で、女中の私的な召使である「部屋方(へやがた)」は、曳き歩く様子を騒ぎ立てていたといいます。そのような様子からいつしか事実がゆがめられ、「千代田の大奥 鏡餅曳」が描かれたのでしょう。
 
また、こちらは髪を結いあげている様子を描いた「お櫛あげ」。青色の振袖をまとった女性の髪を、お付きの女中が櫛ですいています。
  
『千代田の大奥』より「千代田の大奥 お櫛あげ」 楊洲周延筆 明治27年(1894) 東京国立博物館蔵
 
御台所に関していえば、
「御台所がお目ざめになりますと、中臈がお嗽(すす)ぎを上げます。お櫛も上げます。お櫛と一処に御配膳をいたすのです。御配膳は御年寄の役、お鉢は中年寄、その扱いは中臈、品々を御次までは御次が持って来ます。(御台所は髪を結わせながら、食事をされるのである)」(同書、137頁)
と記述され、髪を結ってもらいながら食事をとっていたことがわかります。なお、お櫛あげは御台所付きの御中臈の仕事でした。仲間の御中臈の髪を結って練習をして上達してから、御台所の櫛あげに臨んだそうです。大奥の女中も同僚と練習していたことを思うと、なんだか親しみ深く感じますね。
 
人物や風景の美しい描写だけでもじっと見入ってしまう『千代田の大奥』ですが、大奥の実際のエピソードと照らし合わせてみても、非常に興味深い作品です。明治時代の人びとが、どのような大奥を思い描いていたのかが如実に伝わってきます。現代の私たちが、ドラマや漫画で大奥を想像するのと変わらないかもしれません。
 
連日猛暑日が続きますが、会場は作品保護のため、しっかり空調がきいております!一枚羽織るものをお持ちなってもよいかもしれません。
また、素敵な大奥展オリジナルグッズの数々も、皆様をお待ちしています。見て、感じて、ショッピングして、大奥展をご堪能いただければ幸いです。

↓以下、広報室編集担当より
 
『千代田の大奥』をモチーフにした展覧会オリジナルグッズ
左上:アクリルパネル(2,200円)、右上:大判はがき40枚セット(6,600円)、中央:三面クリアファイル(990円)(注)すべて税込み
他にも本作品をデザインしたグッズが盛りだくさん。ぜひ、会場でお手に取ってご覧くださいませ。

カテゴリ:「江戸☆大奥」

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posted by 沼沢 ゆかり(文化財活用センター研究員) at 2025年08月15日 (金)

 

金工動物園に潜むあやしいやつを捜せ!

東京国立博物館では、この夏、期間限定で、特集「金工動物園」(本館14室、8月24日(日)まで)を開催しています(図1)。


(図1)特集「金工動物園」(本館14室)の展示風景

暑い夏に、クーラーの効いた展示室(クーラーの温度設定は文化財に合わせています)で、冷たい肌触りの金属でできた動物たちをご観覧いただき、涼んでいただければという企画で、全国の動物園で夏バテ気味の白熊くんもここでは元気にしています(図2)。


(図2)白熊置物(しろくまおきもの)
津田信夫作 昭和19年(1944) 第二復員局寄贈


今日も夏休みの家族連れや海外からのお客様で賑わうこの動物園には、「瑞獣(ずいじゅう)・霊獣」というコーナーがあって、犀(さい、図3)や麒麟(きりん)、獅子(しし)、龍などの想像上の動物が展示されています。


(図3)犀形鎮子(さいがたちんし)
江戸時代・19世紀


「自在置物」のコーナーにもいる龍を除けば、ほとんどが実在の動物ですが、その中に実在の動物をかたどりながらも霊獣的な要素をまとう、ちょっと「あやしい」動物がいます。今回はそんな動物を捜してみましょう。

まず思いっきりあやしいのは、「鯉水滴(魚跳龍門)(こいすいてき ぎょちょうりゅうもん)」(図4)です。


(図4)鯉水滴(魚跳龍門)
江戸時代・18~19世紀


鯉とかいいながら魚の顔でありません。平成のはじめに鶴岡市のお寺で目撃された人面魚の仲間でしょうか。
その正体は龍になろうとしている鯉です。鯉が瀧を登ると龍になるという故事が中国にあり、それを踏まえて作られたものです。今でもよく耳にする「登龍門(とうりゅうもん)」として知られるこの故事は、立身出世を象徴する話で、東アジアで好まれました。水滴は硯(すずり)で墨を擦(す)る際に使う水を入れる容器ですから、この水滴を使っていた人は、何か受験勉強のようなものに励んでいたのかもしれません。

次にあやしいのは同じケースの「蝦蟇水滴(がますいてき)」(図5)です。


(図5)蝦蟇水滴
江戸時代・18~19世紀 渡邊豊太郎氏・渡邊誠之氏寄贈



蝦蟇とはいいながら、体が真ん丸で不敵な目つきをしています。よく見ると後ろ足は1本だけ。いよいよあやしげです。似た蝦蟇を捜すと……

(図6)蝦蟇鉄拐図屛風(がまてっかいずびょうぶ)(左隻)
曽我蕭白筆 江戸時代・18世紀
(注)現在は展示していません。
(図7)蝦蟇鉄拐図屛風(部分)
1本足で立っている蝦蟇

 

ここにいました。曾我蕭白(そがしょうはく)筆「蝦蟇鉄拐図屛風」(図6)の中に1本足で立っている蝦蟇(図7)がいます。この蝦蟇は妖術を使う蝦蟇仙人の使いの蝦蟇です。ただならぬ気配は、妖気によるものだったのですね。

この栗のようなものを背負った牛(図8)もよく見ると変です。栗のようなものはさておいても、前後の足の付け根に炎のようなものが見えます(図9)。何でしょうか。

(図8)金銅臥牛香炉(こんどうがぎゅうこうろ)
江戸時代・17世紀
(図9)金銅臥牛香炉
足の付け根の炎のようなもの

 

背中の栗にようなものは宝珠(ほうじゅ)といい、仏教で信仰された、何でも願いを叶えてくれる力を持った不思議な玉です。この牛は体の中が空洞で、宝珠が蓋になっていて、お香が焚(た)けるようになっています。宝珠に孔(あな)が開いていて、ここから煙が出ます。牛は仏教と結びつきが深く、大威徳明王(だいいとくみょうおう)や焔摩天(えんまてん)の乗り物として登場します。角が長いのは仏教の生まれたインドにいる水牛を意識したものでしょう。炎のようなものは霊気の表現で、この牛が霊獣だということを示しています。黄色い電気のモンスターが「ピカッ」と光る稲妻のような尻尾をつけているのと似てますかね。

「宝字文南天柳瑞獣柄鏡(ほうじもんなんてんやなぎずいじゅうえかがみ)」(図10)にもちょっと不思議な動物(図11)がいます。鼻が長いのが特徴で、先程の「金銅臥牛香炉」(図8)の牛と同じく、前後の足の付け根から霊気を発しているので、霊獣とわかります。何者でしょうか。

 

(図10)宝字文南天柳瑞獣柄鏡
銘「藤原光長」 江戸時代・19世紀 徳川頼貞氏寄贈
(図11)宝字文南天柳瑞獣柄鏡にいる不思議な動物

 

正解は悪夢を食べてくれるという獏(ばく)です。体は熊、鼻は象、目は犀、足は虎、尾は牛に似るとされた中国生まれの合成獣で、龍や鳳凰(ほうおう)ほどではありませんが、日本にも伝わって造形化されました。この鏡では「難を転じる」という南天と組み合わせられて、逆鏡を救う願いが込められています。獏は東南アジアやアメリカ大陸にいるバクと似ているというので同じ名前になっていますが、元々は空想の動物なのですね。

他にもよく見ていくと、あやしげな動物が隠れています。動物と人間の距離が近く、人間がいかに動物にいろいろな思いを託してきたことか。夏の日の思い出に、普通の動物園にはいない、ちょっとミステリアスな動物を捜しに、展示室に来てみてください。

 

カテゴリ:特集・特別公開工芸

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posted by 清水健(工芸室) at 2025年08月07日 (木)

 

江戸城大奥へようこそ 其の一

今年の梅雨が明けて夏本番となった7月19日、特別展「江戸☆大奥」が開幕いたしました。

現在の皇居の地にかつて存在した江戸城。その本丸御殿の奥深くに、徳川将軍の御台所(みだいどころ)や側室、女中たちが暮らす大奥がありました。大奥は将軍家のプライベート、つまり秘された空間であることから、江戸時代の大衆にとっては到底うかがい知ることのできない世界でした。それゆえ大きな関心の的となり、小説や浮世絵、歌舞伎などで大奥の世界はたびたび取り上げられてきました。

しかしそこで描かれることには絵空事も含まれます。この展覧会は大奥に生きた女性たちのゆかりの品々や関連する資料によって、大奥のリアルに迫ろうとするものです。


本展メインビジュアルは明治期に描かれた、揚州周延(ようしゅうちかのぶ)筆『千代田の大奥』をもとにデザインされました。第1章「あこがれの大奥」では、『千代田の大奥』すべての場面をご覧いただくほか、現在でも漫画やドラマの舞台として人気を博す、いわば幻想の大奥から展覧会がはじまります。

 このブログでは大奥の歴史を語る上では欠かせない大奥に生きた女性たちに焦点をあてつつ、本展で展示されているゆかりの品々を取り上げていきたいと思います。

 ―そろそろお話しましょうか。わたくしたちの、真実を

会場でこの文言が見えた先、第2章「大奥の誕生と構造」で時代は一気に遡ります。

今から四百年ほど前、三代将軍徳川家光の治世において大奥は将軍家を支える体制が整えられていきました。その大奥の礎を築いた女性が春日局(斎藤福)(かすがのつぼね(さいとうふく))です。乱世を生き抜き、乳母として養育した家光が将軍に就任したのち春日局は、徳川家直系の子孫に将軍を継がせるために力を尽くします。

 
天樹院(千姫)復元衣装 令和3年(2021) 兵庫・姫路城蔵
茨城・弘経寺(常総市)に伝わる姿絵「天樹院(千姫)像」を参考に、現代の技術で復元した衣装。千姫は再嫁した本多忠刻と30歳のときに死別し、姫路城から江戸城へと戻りました。家光の姉である千姫もまた徳川家の子孫を養育し、春日局とともに草創期の大奥を支えた人物です。

家光の信頼厚く、大奥で大きな影響力をもった春日局。その春日局の目にとまり家光の側室となった桂昌院(お玉の方)(けいしょういん(おたまのかた))は、家光の四男となる徳松、のちの五代将軍綱吉を生み育てました。

桂昌院(お玉の方)の実父は京都堀川通の八百屋仁左衛門とされ、けして高い身分の出身ではありませんでしたが、大奥に女中として出仕したのち、将軍の子を産み育て、ついには将軍の母となり破格の地位と財を得たことから「玉の輿(たまのこし)」という言葉の語源となったともいわれます。

そのお玉の方の所用と伝わる振袖が、第3章「ゆかりの品は語る」の冒頭に展示されています。

 
重要文化財 振袖 黒綸子地梅樹竹模様 桂昌院(お玉の方)所用 前期展示:7月19日~8月17日
江戸時代 17世紀 東京・護国寺(文京区)蔵
桂昌院の発願により天和元年(1681)に創建された護国寺に伝わった振袖。梅の立木の藍地と、竹の節が見える紅地は、型紙を使う摺匹田(すりびった)で斑点をつけています。地の黒は、近年行われた蛍光X線調査の結果、鉄分を媒染(ばいせん)剤として山桃樹皮を煮出した汁で染める「黒茶染」によるものと考えられます。摺匹田も黒茶染も当時最新の染色技法でした。

家光の没後、お玉の方は25歳で出家して桂昌院と称し江戸城を離れますが、およそ30年後、自ら育てた綱吉の将軍就任にともない再び江戸城三の丸へ入ります。桂昌院は仏教に深く帰依したことで知られ、莫大な財力を背景に東大寺大仏殿や法隆寺、長谷寺など多くの寺院再興に尽力しました。79歳まで生きた桂昌院はその晩年、女性としての最高位、権勢を誇った春日局をも超える従一位の官位を賜ります。その人生は文字通り栄華を極めたといえるでしょう。

将軍綱吉から瑞春院(お伝の方)への贈り物—興福院所蔵の刺繡掛袱紗—

生まれに関わらず大奥で大出世をとげた女性は桂昌院ばかりではありません。

瑞春院(お伝の方)(ずいしゅんいん(おでんのかた))もまた、下級武士の家の出ながら、桂昌院にお仕えする侍女であった頃に綱吉の寵愛を得て、明信院(鶴姫)(めいしんいん(つるひめ))と嫡男となる徳松(5歳で夭逝)を出産します。瑞春院(お伝の方)は綱吉との間に子を成した唯一の女性であったことから、大奥では「御袋様(おふくろさま)」「三ノ丸様」などとよばれ、81歳で亡くなるまで大きな権力を持ちました。

綱吉から瑞春院(お伝の方)へと贈られた美麗な刺繡掛袱紗(ししゅうかけふくさ)が、奈良にある浄土宗の尼寺・興福院(こんぶいん)に伝わります。これら31枚もの掛袱紗は、年始や歳末、五節供など大奥における年中行事の祝い事にあわせた贈り物に掛けられていたものです。綱吉の没後、瑞春院はその菩提を祈り、これらの掛袱紗を興福院へと寄進しました。

 
第3章「ゆかりの品は語る」展示風景

その洗練された模様構成と冴えわたる刺繡はまさに美麗の極み、当代一の職人の手により丹精込めて作られたことがわかります。

左:重要文化財 刺繡掛袱紗 水浅葱繻子地菖蒲に蓬と躑躅酒器「楽寿」字模様 瑞春院(お伝の方)所用 前期展示:7月19日~8月17日
*右は2本並ぶ酒壺(左)の肩あたりを拡大。
江戸時代17~18世紀 奈良・興福院(奈良市)蔵
興福院に伝わる刺繡掛袱紗は、前期(7月19日~8月17日15枚と後期(8月19日~9月21日)16枚で展示替えして一挙公開。31枚すべてを会期中にご覧いただける貴重な機会です。

左:重要文化財 刺繡掛袱紗 紅繻子地宝尽と梅「万寿」字模様 瑞春院(お伝の方)所用 後期展示:8月19日~9月21日
*右は中央の宝袋より拡大。
江戸時代17~18世紀 奈良・興福院(奈良市)蔵
息をのむような精緻な刺繡美の世界を会場でぜひご堪能ください。

興福院の刺繡掛袱紗は、すべての袱紗に共通して、新春を寿ぐ松竹梅、春の桜や柳、夏にかけて花を咲かせる杜若(かきつばた)や百合、秋草である芒(すすき)や撫子、菊といった四季折々の植物を、瑞々しくのびやかにあしらいます。植物や文字に込められた吉祥性に重ねて、宝尽(たからづくし)といった瑞祥モチーフや、熨斗(のし)や扇のように長寿繁栄を象徴するモチーフを多くに取り合わせています。寿ぎのモチーフを幾重にも重ねる掛袱紗からは、瑞春院(お伝の方)のこの上ない幸せを祈る、将軍綱吉の真心が伝わってくるようです。

江戸城・大奥における最後の御年寄・瀧山

大奥は、将軍とその正室である御台所の生活を支えるところであり、そこにお仕えするする女性は千人とも、三千人ともいわれる大規模な組織です。その大奥運営の一切を担い、時には幕閣(ばっかく)と渡り合うほどの影響力を有したのが御年寄(老女)という役職の女性たちでした。もちろん才覚や運にもよりますが、大奥に奉公して年功を積み、出世して大奥を取り仕切る、つまり大奥の最高経営責任者として栄達する道もありました。


女乗物 瀧山所用 
江戸時代19世紀 埼玉・錫杖寺(川口市)蔵

江戸時代後期、十三代将軍家定と十四代将軍家茂(いえもち)に将軍付御年寄として仕えた瀧山(たきやま)が所用したと伝わる女乗物をはじめ、日記や身の回りの品々が会場には展示されています。現代では大企業にも相当する規模である大奥の日々のくらしや行事をつつがなく取り仕切る、その責任ある仕事にはやりがいも苦労も多分にあったことでしょう。

第4章「大奥のくらし」では女性たちが大奥で、どのような日々を過ごしていたか、華やかな婚礼調度や、実際に身にまとっていた四季折々のご衣装、女性の役者が歌舞伎を演じるときにまとった衣装や小物をたくさん展示しています。

第4章「大奥のくらし」展示風景

大奥で行なわれていた女性による歌舞伎とその衣装にまつわる話は、本展担当のチーフ小山弓弦葉より今後公開の1089ブログでたっぷりご紹介予定ですので、どうぞお楽しみに。


第4章「大奥のくらし」展示風景

武家の頂点である徳川将軍家を支え、つないだ女性たち。それぞれの人生を生きた証ともいえる品々をつうじて、長きにわたる大奥の歴史や文化を、いま感じてみてはいかがでしょうか。

長くなりましたが最後に…

連日暑い日が続きますので、金曜と土曜は20時までの夜間開館(8月10日(日)、9月14日(日)も20時まで開館!)のご利用がおすすめです。東博コレクション展(平常展)も特別展と同じく夜間開館しています。現在、本館特別1室・特別2室では、徳川家ゆかりの寺院で、大奥の女性たちも参拝に訪れた寛永寺のご寺宝を紹介する特集をご覧いただけます。(8月31日(日)まで。1089ブログはこちら

特別展「江戸☆大奥」ご鑑賞とあわせて、ぜひ東博コレクション展もお楽しみください。

カテゴリ:「江戸☆大奥」

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posted by 髙木 結美(平常展調整室) at 2025年08月05日 (火)

 

特集「創建400年記念 寛永寺」で味わう、上野の江戸文化(後編)

本館特別1室・特別2室では現在、特集「創建400年記念 寛永寺」を開催しています。

特別1室の第1~3章について前編ブログでご紹介しましたが、今回の後編ブログでは特別2室の第4~6章を見ていきましょう。

(注)会場は撮影不可となっております

第4章展示風景
第4章展示風景
第4章「徳川家の祈祷寺・菩提寺 近世仏教の造形」
寛永寺は、建立当初は徳川幕府や天下万民の安泰を祈る祈祷寺でしたが、3代将軍家光から4代将軍家綱の時にかけて、将軍家の菩提寺も兼ねるようになりました。また、寛永寺には6人の将軍と御台所などが葬られています。この章では、徳川将軍家ゆかりの寺院にふさわしい端正な造形を見せる仏画や仏像、仏具などをご覧いただけます。
 

文恭院殿葬送絵巻

文恭院殿葬送絵巻
文恭院殿葬送絵巻(ぶんきょういんでんそうそうえまき)
江戸時代・19世紀 東京・春性院蔵

 文恭院は天保12年(1841)閏正月(うるうしょうがつ)7日に没した11代将軍家斉の諡号(しごう)で、本作品はその葬送の様子を描いています。
 

観音菩薩立像
観音菩薩立像(かんのんぼさつりゅうぞう) 
鎌倉時代・13世紀    東京・寛永寺蔵

上野の山から不忍池に臨む清水観音堂は、京都東山の清水寺を模したお堂で、天海により建立されました。本尊の千手観音像も清水寺から迎えられました。本尊の右側に本像が安置されています。整った優美なプロポーションが大変美しいです。 
 

右は説相箱 左は戒体箱
右:説相箱(せっそうばこ) 左:戒体箱(かいたいばこ) 
ともに江戸時代・17~18世紀   東京・寛永寺蔵

寛永寺所蔵の美麗な仏具も多くご覧いただけます。

第5章「博物館とのつながり 博物館構内出土品」
当館の建っている場所には、かつて寛永寺の本坊がありました。本坊とは住職の居住する建物のことで、広い敷地の中にさまざまな用途の部屋をもった大きな建物がありました。この章では、当館の構内から発掘された焼塩壺や抹茶茶碗などを展示しており、当時の本坊での生活を垣間見ることができます。

第5章の展示風景
第5章の展示風景

焼塩壺 焼塩壺蓋
焼塩壺 焼塩壺蓋(やきしおつぼ やきしおつぼふた)
東京都台東区上野公園 東京国立博物館構内出土 江戸時代・17~18 世紀 東京国立博物館蔵

焼塩壺の中には、にがり成分を含んだ粗塩が詰められ、使用の際に壺ごと火に入れることで、苦味が抜けた焼塩をつくっていました。これらの焼塩壺が発掘された場所は、かつて寛永寺本坊の調理に関係する部屋があった場所であることが今回の展示に際しての調査でわかりました。
 

第6章「文化の集まる地 現代とのつながり」
寛永寺は、江戸幕府や朝廷とのつながりからあらゆる文物が集まり、多くの文化人が交流する場でもありました。現在は、上野公園として整備され、当館をはじめとする博物館や美術館などの文化施設が設立され、今も文化と人が集まる場所となっています。
この章では、15代将軍慶喜による油画や書、江戸の文化人たちが愛した銘石、また当時の最新技術であった一切経の刊行に使われた木活字と実際に印刷された一切経など、寛永寺と子院に集積されたさまざまな文物を展示し、今につながる様子をご紹介します。
 
源氏物語図屛風
源氏物語図屛風(げんじものがたりずびょうぶ)
安土桃山~江戸時代・16~17世紀 東京・円珠院蔵 


千葉・国立歴史民俗博物館の「醍醐花見図屛風」と一連のものであったといわれています。
 

重要文化財 天海版木活字
右:重要文化財 天海版木活字(てんかいもくかつじ) 
江戸時代・17世紀 
左:天海版一切経 大般若経巻第一、大般若経巻第六百、新刊印行目録巻第五(てんかいばんいっさいきょう) 
江戸時代・寛永14年~慶安元年(1637~48)刊 
ともに東京・寛永寺蔵
 
天下三銘石之一「黒髪山」
天下三銘石之一 「黒髪山」(てんかさんめいせきのいち くろかみやま) 
江戸時代・17世紀 東京・寛永寺蔵
 
江戸時代の文人・中村仏庵や松平定信が所有したのち、寛永寺に納められました。日光の男体山(別名:黒髪山)に見立てられ、天下第一の銘石とたたえられました。
 
黒髪山縁起絵巻
黒髪山縁起絵巻(くろかみやまえんぎえまき) 
鍬形蕙斎筆    江戸時代・文化10年(1813) 東京・寛永寺蔵


当時一流の9人の文化人が「黒髪山」を鑑賞する様子が描かれています。
 
蓮華之図
蓮華之図(れんげのず) 
徳川慶喜筆 明治時代・19世紀 東京・護国院蔵  
 

本特集は8月31日(日)まで開催しています。その期間、当館から寛永寺に一番近い西門から退出していただけるようにもしていますので、展示をご覧になったあと、寛永寺まで足を延ばしていただく際に、是非ご利用ください。

同時期に特別展「江戸☆大奥」も平成館特別展示室で開催しています。この夏は、本特集とあわせて上野で江戸文化をお楽しみください。
 
 

公式図録販売中


本特集の公式図録をミュージアムショップで販売しています。作品のカラー図版やコラムのほか、江戸時代の寛永寺の地図上に現在の上野公園の主な施設を記載した「重ね地図」も掲載。上野ファン必携の一冊です。


特集「創建400年記念 寛永寺」

編集・発行:東京国立博物館
定価:1,210円(税込)
全36ページ(オールカラー)

ミュージアムショップのウェブサイトに移動する
特集「創建400年記念 寛永寺」公式図録表紙

 

 

カテゴリ:研究員のイチオシnews彫刻書跡考古特集・特別公開工芸

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posted by 沖松健次郎(列品管理課長)、長谷川悠(出版企画室) at 2025年08月05日 (火)

 

特集「創建400年記念 寛永寺」で味わう、上野の江戸文化(前編)

本館特別1室・特別2室では現在、特集「創建400年記念 寛永寺」を開催しています。
 
展示風景
展示風景
 
東京・上野の寛永寺は、天台宗の寺院です。寛永2年(1625)に、徳川幕府の安泰と万民の平安を祈願するため創建されました。当館が所在する上野公園一帯は、かつては寛永寺の敷地でした。
本特集では、寛永寺とその付属の寺院(子院)に伝わる絵画や工芸品、仏像彫刻、当館所蔵の寛永寺ゆかりの作品、構内から出土した考古遺物などを通して、寛永寺の歴史や当館との関係性をご紹介しています。
 
寛永寺 根本中堂
寛永寺 根本中堂
 
本特集は6章構成で、特別1室は第1~3章、特別2室は第4~6章をご覧いただけます。
今回の前編では、特別1室の展示を見てみましょう。
 
(注)会場は撮影不可となっております
 
第1章「江戸の護り 上野の山」

寛永寺の正式名称は「東叡山寛永寺(とうえいざんかんえいじ)」。「東の比叡山」の名のとおり、京の都の鬼門(北東)を封じる役割もある天台宗の総本山、比叡山延暦寺にならい、江戸城の鬼門に位置する江戸の護りとして上野の山に建てられました。
この章では、江戸時代の地図より、寛永寺が上野の山に建立された地理的な背景をご紹介します。
 
第1章展示風景
第1章展示風景
 
東叡山之図
東叡山之図(とうえいざんのず) 
江戸時代・17~18世紀 東京国立博物館蔵
 
上野台地の麓(ふもと)にある不忍池は、比叡山と琵琶湖の関係になぞらえられ、かつての寛永寺敷地内の建物も延暦寺内の配置にならって建てられていました。
 
第2章「江戸仏教の先導者 慈眼大師天海」
 
寛永寺を建立した慈眼大師天海(じげんだいしてんかい)は、徳川家康・秀忠・家光と、三代にわたる徳川将軍の帰依(きえ)を受け、幕府の宗教政策や朝廷との関係において影響力を持ち、信長焼き討ちで疲弊した比叡山延暦寺の復興にも尽力するなど、当時の仏教界において先導的な存在でした。
 
この章では、天海の肖像画や、彼が復興した法会に関する書、寛永寺内における天海に対する信仰を伺える仏画など、天海を理解する手がかりとなる作品をご紹介します。
 
第2章展示風景
第2章展示風景 
 
慈眼大師像(模本)
慈眼大師像(模本)(じげんだいしぞう もほん)
森田亀太郎模 大正~昭和時代・20世紀 東京国立博物館蔵 原本:江戸時代・17 世紀 埼玉・喜多院蔵
 
第3章「近世高僧伝絵の白眉 両大師縁起絵巻」
 
当館の東隣には寛永寺開山堂(両大師)があります。ここには、寛永寺を創建した慈眼大師天海と、比叡山延暦寺の中興の祖といわれる第18代天台座主(天台宗を統括する最高位の僧職)慈恵大師良源(じえだいしりょうげん)の2人がまつられています。良源は正月三日が命日であることから「元三大師(がんざんだいし)」とも呼ばれています。
 
この章では、住吉具慶(すみよしぐけい)がこの2人の生涯を描いた「元三大師縁起絵巻」と「慈眼大師縁起絵巻」を展示しています。具慶は後に徳川幕府の御用絵師となりますが、その背景にはこの絵巻の制作の功があったと考えられます。2つの絵巻はあわせて両大師縁起絵巻と呼ばれており、緻密な細部描写や活き活きとした人物描写、発色の良い質の高い絵具を用いた華やかな画面がみどころです。
 
また、元三大師縁起絵巻はもともと6巻一組で制作されましたが、現存しているのは3巻分だけです。しかし、当館では全巻分の稿本(下絵)を所蔵しており、今回の展示では、失われた巻を稿本によってご覧いただきます。寛永寺の作品と当館の稿本を一緒に展示するのは初めての機会になりますので、是非ご覧ください。
 
元三大師縁起絵巻 巻第二
 
元三大師縁起絵巻 巻第二
元三大師縁起絵巻 巻第二(がんざんだいしえんぎえまき) 
住吉具慶筆 江戸時代・延宝 7年(1679) 東京・寛永寺蔵
展示期間:8月3日(日)まで。巻第五は8月5日(火)~31日(日)で展示
 
元三大師縁起絵巻稿本のうち巻第四
元三大師縁起絵巻稿本のうち巻第四(がんざんだいしえんぎえまきこうほん)
住吉具慶筆 江戸時代・延宝7年(1679) 東京国立博物館蔵
展示期間:8月3日(日)まで。巻第六、巻第七は8月5日(火)~31日(日)で展示
 
慈眼大師縁起絵巻 巻一
 
慈眼大師縁起絵巻 巻一
慈眼大師縁起絵巻 巻第一(じげんだいしえんぎえまき) 
住吉具慶筆 江戸時代・延宝7年(1679)  東京・寛永寺蔵
展示期間:8月3日(日)まで。巻第二、巻第三は8月5日(火)~31日(日)で展示
 
特別2室の様子は、後編ブログでご紹介します。
 
本特集は8月31日(日)まで開催しています。その期間、当館から寛永寺に一番近い西門から退出していただけるようにもしていますので、展示をご覧になったあと、寛永寺まで足を延ばしていただく際に、是非ご利用ください。
 
同時期に特別展「江戸☆大奥」も平成館特別展示室で開催しています。この夏は、本特集とあわせて上野で江戸文化をお楽しみください。
 
 

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編集・発行:東京国立博物館
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カテゴリ:研究員のイチオシnews特集・特別公開絵画

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posted by 沖松健次郎(列品管理課長)、長谷川悠(出版企画室) at 2025年07月29日 (火)

 

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