秋深まる今日この頃。皆様いかがお過ごしでしょうか。保存修復室の横山です。
今年も、秋の庭園開放(2017年10月24日(火)~12月3日(日))の季節がやって参りました。毎年楽しみにしてくださっている方も、初めて庭園を訪れる方も、今年はぜひ、茶室「九条館」の前へお越しください。
トーハクファンの方は、きっとすぐに「おや? こんなところにこんなものがあったかな?」と気づかれるでしょうし、長年お付き合いくださっているディープなファンの方は、「お! 戻ってきたのか!」と思っていただけるかもしれません。九条館の前に、修理を終えた「大燈籠」が実に“8年ぶり”(修理期間も含めて)に、戻ってきました!
修復を終え8年ぶりに設置された大燈籠
この燈篭は、れっきとした東博の館蔵品(列品:G-4218)です。
京都で、現在も代々続く陶家・清水六兵衛家の四代(1848-1920)によるもので、陶製です。四代が61歳のときに作り、昭和13年(1938)に五代によって寄贈されました。陶製の燈籠という、器にとどまらない四代の作風の幅の広さを伝えるものとして、大変貴重な作例です。
近くでご覧いただければ、その大きさ、迫力に驚かれることでしょう。
総高は、2メートル30センチ強。宝珠、傘、火袋、中台、竿、基礎部、の大きく6つの部分から成り、総重量は1トンを超える、大変堂々とした作品です。
大燈籠をめぐる、この8年にはいろいろなことがありました。語りだすと、ちょっと長~くなってしまうのですが、およそ次のようなことが起こっていました。
【2009年10月】
日々、外で風雨に晒される状況から、燈籠の亀裂等劣化が進行
加えて不安定な地盤の状況により、いつ倒壊してもおかしくないことが指摘されていた
そこで、現場調査を実施し、いったんこの場所から撤去することが決まる
修復前の大燈籠 表面の旧修理痕、ズレや傾きが目立つ
【同年11月】
本館裏へ、解体して移動(担当は、重機を専門とするチーム!)
【2010年~13年】
修理に向けた調査・検討を重ねる
前例のない修理のため、修理仕様の決定、業者選定等にも慎重を期す
この間、3.11も発生。もし、従前の場所にそのままあったとしたら…(ドキり)
【2014年春】
会議に諮り、修理業者を決定
大型彫刻の修理を数々手掛けてきた「明舎(みんしゃ)」(代表:藤原徹氏(山形県))が行なうことになる
【2014年11月】
修理に向け、山形へ出発
大燈籠の搬出作業
【~2016年9月末】
明舎にて修理を実施
クリーニング、旧修理材の除去、新たな充填、補強等が施される
【2016年12月】
修理を終えた大燈籠を東博へ輸送
すぐに再設置を予定するものの、今後のさらなる安定性を確保するため、地盤の水平工事を行なうことになる
【2017年春】
設置箇所の地盤工事を実施
【同年6月】
満を持して、大燈籠を再設置!
2tトラック、クレーン、足場セッティングによる大掛かりな作業となる
大燈籠を再設置 1つずつパーツを持ち上げていきます
【同年10月】
秋の庭園開放にて一般お披露目
…本当に、いろいろなことがありました(しみじみ)。
大きな作品を安全に扱うことの難しさ、天候に左右される屋外作業の大変さを感じることの連続でした。
たくさんの人の手を経て、ようやく戻ってきた大燈籠。これからも庭園を彩るシンボルの一つとして、訪れた皆さまにあたたかく見守っていただければと思います。
なお、この燈籠にどういった修理が行なわれたのか、その詳細は、来春の「東京国立博物館コレクションの保存と修理」(2018年3月)でご紹介します。こちらもぜひ、お楽しみに!
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posted by 横山梓(保存修復室研究員) at 2017年10月18日 (水)
本館15室では10月3日から、特集「明治時代の日本美術史編纂」の展示を行っています。
この展示では、明治33(1900)年に刊行された『Histoire de l'art du Japon』及び、明治34(1901)年に刊行された『稿本日本帝国美術略史』の編纂に関わる資料から、当時の博物館活動の一端をご紹介しています。
昨年の12月から15室で展示していた特集「臨時全国宝物取調局の活動―明治中期の文化財調査―」では、明治20年代の全国的な文化財調査についてご紹介しました。
これは、明治21年から約10年間に渡って行われた大規模な調査で、この調査を経て古社寺保存法が制定されました。
この時期の博物館について調べていると、美術史の編纂に関わる資料を目にすることがよくあります。
重要文化財 推古帝時代・天智帝時代・天平時代・弘仁時代(部分) 明治時代・19~20世紀
この和書は制作年代ごとの全国の美術品目録です。臨時全国宝物取調局が作成しました。美術史編纂の際には参考にされたと考えられます。
明治22年(1889)には、当時の博物館総長であった九鬼隆一は美術史編纂の必要を宮内省に訴えており、明治24年に編纂の事業が開始されました。
明治24年(1891)に始まった編纂の計画では、上下巻の美術史を、年内に上巻、翌年に下巻という具合に刊行予定でしたが、なかなか予定通りには進まず、歳月が過ぎていました。
そんな中、編纂が進むきっかけとなったのが万国博覧会でした。
博物館に贈られた古美術品出品に対する記念牌と銀賞牌
(左)千九百年仏国巴里万国博覧会古代品出陳記念牌日本帝国博物館宛 ルイ・オスカル・ロティ作 明治時代・19~20世紀 パリ万国博覧会寄贈
(右)千九百年仏国巴理万国博覧会銀賞牌 日本帝国博物館宛 ジュール・クレマン・シャプラン作 明治時代・19~20世紀 パリ万国博覧会寄贈
明治33年(1900)に開催されるパリ万国博覧会で、日本は美術の紹介に力を入れることになりました。
古美術品の展示と美術史書の刊行が決定すると、明治30年(1897)に帝国博物館(東京国立博物館の前身)が美術史の編纂を嘱託されました。
東京国立博物館に残る『稿本日本帝国美術略史』の編纂資料は、計画書や伺い書、印刷依頼などの公文書が時系列に沿って綴られています。
執筆のための参考資料、原稿、校正原稿などもすべてではありませんが残っています。
公文書:帝国美術歴史編纂関係書類 下 明治時代・19~20世紀
参考資料:帝国美術略史関係資料 明治31年(1898)
編纂に関する公文書には、『Histoire de l'art du Japon』が出来上がるまでの経過が記録されています。
原稿が仕上がると印刷は博覧会事務局が行い、完成した『Histoire de l'art du Japon』は国内外に配布されました。
海外に日本の美術を紹介することが主目的であったため、明治20年代に計画したものとは違ったそうですが、初めての公式の美術史として翌34年には日本語版の『稿本日本帝国美術略史』が刊行されました。
『Histoire de l'art du Japon』、『稿本日本帝国美術略史』には図版がたくさん使用されています。
今回の特集では、写真師の小川一真が臨時全国宝物取調局の文化財調査の際に撮影した写真の中から、図版に使用されていると思われるものを展示しています。
(左) 重要文化財 三尊仏横面 小川一真撮影 被写体現所蔵者=薬師寺 明治21年(1888)(展示は2017年10月29日(日)まで)
(右) 重要文化財 華厳磬 小川一真撮影 被写体現所蔵者=興福寺 明治21年(1888)(2017年10月31日から展示)
『Histoire de l'art du Japon』、『稿本日本帝国美術略史』ができる過程を通して、博物館を取り巻く当時の動向をご覧いただければと思います。
特集「明治時代の日本美術史編纂」は、2017年11月26日(日)まで展示中です。
※会期中、展示替えがあります。(作品リスト)
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posted by 三輪紫都香(百五十年史編纂室) at 2017年10月13日 (金)
2017年度の考古相互貸借事業はいわき市考古資料館と行います。
この貸借事業では、特集「いわきの考古学―貝塚と横穴墓―」と題して、いわき市から出土した縄文時代と古墳時代の名品を展示します。
今回のブログでは貝塚から出土したお宝を紹介しましょう。
縄文時代の交流を示す土器から展示ははじまります
福島県いわき市は浜通りと呼ばれる太平洋に面した地域で、その沖合は親潮(寒流、千島海流)と黒潮(暖流、日本海流)が交わる潮目の海、良い漁場として知られています。
このような漁業に適した自然環境が日本列島に出現するのは、実は縄文時代になってからです。
縄文時代になって氷期が終わり、温暖化が進むことによって、各地に入り江や干潟が新たに生まれます。この環境を積極的に活かしたのが縄文時代の人びとです。
いわき市には縄文時代前期から晩期の貝塚が密に分布することでもよく知れられ、往時盛んに行われた漁業の様子を貝塚から出土したさまざまな漁撈具から知ることができます。
現在と素材は違うも大きく形の変わらない鹿角製銛頭や釣針などの漁撈具
とくに寺脇貝塚から出土した結合式釣針は寺脇型と呼ばれる特徴的なものです。軸部と鉤部(かぎぶ)を別作りにした大形の釣針で、外洋に回遊する大型魚を外洋に回遊する大型魚を対象にしていました。
大形の釣針を作るため、また破損した際に備えて軸部と鉤部を別作りにする工夫が見られます。
これら漁撈具の多くは鹿の角や骨で作られました。
結合式釣針(寺脇型)。この釣針で狙った獲物はマダイやマグロ、サメなどの大型魚です
一方、装身具には笄(こうがい)や垂飾(すいしょく)、腕輪や腰飾があります。これらも動物の角や骨でしばしば作られました。
いわき市域の貝塚から出土した垂飾には鹿の角や骨に加えて、イノシシやサメの牙、サメの椎骨などで作られたものがあります。
イノシシやサメは凶暴で、時に人に危険を及ぼす恐れのある動物ですが、当時の人びとはあえて、このような動物の骨や牙を用いて装身具を作りました。
その背景には動物への畏怖や動物のもつ力にあやかりたいという思いがあったためと考えられています。
さまざまな動物の骨や牙で作られた装身具は、縄文人の動物観を知る手がかりです
また縄文時代の儀礼の道具である岩偶(がんぐう)や人面付岩版(じんめんつきがんばん)も見どころ。
これらは、いわき市域では縄文時代晩期に盛行しました。
この材料となったのが阿武隈(あぶくま)山地の東縁に発達する相双(そうそう)丘陵を形成する凝灰質泥岩(ぎょうかいしつでいがん)です。軟質で加工がしやすいため岩偶や岩版の材料として用いられました。
泥岩の素材の柔らかさを感じさせる岩偶や岩版は儀礼に用いられました
今回ご紹介した貝塚から出土した骨角製の漁撈具や装身具、そして儀礼の道具である岩偶や岩版の材料は、「地のもの」。いわきの素材を見事に活かしたものです。
これらを作り出した当時の縄文人の姿を思い浮かべながら、展示をごらんいただければと思います。
※今後SNS(Twitter, Facebook, Instagram)でいわきの考古作品を紹介していきます。「#1089考古ファン」で検索してみてください。
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posted by 品川欣也(考古室主任研究員) at 2017年10月11日 (水)
紫禁城。こは夢魔のみ。夜天よりも厖大なる夢魔のみ。
(芥川龍之介 『北京日記抄』より)
芥川龍之介(あくたがわりゅうのすけ)が北京を訪れたのは、清朝が滅んで10年を経た大正10年・中華民国10年(1921)のこと。紫禁城(しきんじょう)には清朝最後の皇帝となった宣統帝溥儀(せんとうていふぎ、在位1908~1912)が未だ居寓し、紫禁城は僅かに文華殿と武英殿だけが「古物陳列所」として公開されるにとどまっていました。
明の永楽帝(えいらくてい、在位1402~1424)から清の宣統帝までおよそ500年、明・清両朝合わせて24人の皇帝が皇宮とし、その実態が依然として厚いベールに覆われていた紫禁城に、芥川龍之介はうなされるような空気を感じたのでしょうか。
芥川龍之介の訪中から遡ること20年、清朝末期の明治34年・光緒27年(1901)に一人の日本人が紫禁城を撮影しました。写真師・小川一真(おがわかずまさ、1890~1929)です。
太和門 小川一真撮影 明治34年・光緒27年(1901)(前期:10月22日まで)
雑草が生い茂る紫禁城
当時、北京は前年に起った義和団事件で八か国連合軍の占領下にあり、小川一真は清朝第11代皇帝の光緒帝(こうしょてい、在位1875~1908)と慈禧皇太后(西太后、じきこうたいこう(せいたいこう))が西安へ逃れている最中に行われた東京帝国大学の紫禁城の建築調査に同行し、紫禁城を中心に「北京城写真」と呼ばれる一群の写真を撮影しました。
万寿山ノ廊 小川一真撮影 明治34年・光緒27年(1901)(前期:10月22日まで)
驚くほどの被写体深度で撮影された頤和園の回廊
東四牌楼ノ民家 小川一真撮影 明治34年・光緒27年(1901)(後期:10月24日~11月19日)
ぬかるんだ道に馬が足を取られた一瞬をとらえています
さて、小川一真の撮影した紫禁城の写真を見て、光緒帝の在位中にも関わらず、雑草が茫々と生い茂り、荒城と化した紫禁城の姿を不思議に思われる方も多いのではないかと思います。
東京帝国大学の伊東忠太(いとうちゅうた)の日記『渡清日記』(日本建築学会所蔵)に、こんな一節があります。
「…庭前雑草人ヲ没ス、常ニ斯ノ如キ乎、官吏答テ曰ク、天子在サバ一草生スルモ吾人ハ斬ニ処セラルベシト」(紫禁城ではいつも人が隠れてしまうほど雑草が生い茂っているのか、と官吏(役人)に問いかけると、天子(皇帝)がいらっしゃれば一本の草が生えただけで私は処刑されてしまいます)との回答に、「更ニ問テ曰ク、庭前屋上高サ六尺ニ及フ灌木アリ、コレ三四年ヲ経タルモノナラザルベカラズ、修繕ヲ怠ルニ非ズシテ何ゾヤト」(前庭の屋根の上には高さが六尺に及ぶ灌木があり、これは三~四年は経ているに違いありません。修繕を怠っているに他ならないではありませんか)と問うと、官吏はついに答えなかったそうです。
芥川にとって紫禁城は「夜天よりも厖大なる夢魔のみ」と映ったようですが、北京での滞在はすこぶる居心地が良かったらしく、北京の街並みや人々への愛着を終生にわたって持ち続けていました。小川一真が撮影した北京城に、みなさまは何をお感じになりますでしょうか。
この小川一真の「北京城写真」を、現在、平成館企画展示室において展示(特集「清朝末期の光景―小川一真の北京城写真―」(前期は2017年10月22日(日)まで、後期は10月24日(火)~11月19日(日))しております。小川一真の優れた写真技術によって撮影された清朝末期の光景。今は失われた当時の貴重な雰囲気をご堪能ください。
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posted by 関紀子(登録室アソシエイトフェロー) at 2017年10月06日 (金)
今回のブログでは、展示中の様子や、出品作家に聞いた作品に関するエピソードをいくつかご紹介しようと思います。(前回のブログはこちら)
今回いらした作家さん、展示が出来上がった状態を見に来るというより、ほぼ自ら展示をした人が多く、このように主体的に展示に関わるところもまた「フランス人間国宝」ならでは、なのだそうです(監修者のエレーヌ・ケルマシュテールさん曰く)。
基本的に、自分の作品は自分で展示します。
左は扇「香り立つポップアップ」を整えるル・グエンさん
右は、「茶碗 Tenmoku(天目)」の展示順序や表裏の配置を検討しているジレルさん
さて、本展に出品している作家15人のうち、一番先に来日したのは、フランソワ=グザヴィエ・リシャールさん(壁紙)とピエトロ・セミネリさん(折り布)のおふたり。どちらも室内装飾分野に関わっているためか、お互いの部屋(リシャールさんは第3室、セミネリさんは第5室)を行き来し、「どんな感じ?」など話しながら展示作業を進めていたのが微笑ましかったです。
リシャールさんに「今回の展覧会で挑戦したところは?」と尋ねたところ、「初めて和紙を使ってみたよ。とても感じがいいね」とのお答えでした。木版の木型は主に18世紀のものですが、当時5色・10色と多色刷りされていたものを、和紙に白色だけで刷ってみたところ、その透け具合が気持ちよかったので今回の展示品ができたのだそう。
なおこの部屋、彼の展示が終わらないとル・ベールさんの真鍮とドゥ・コーヌさんの麦わら象嵌チェスト(150kg近くあります!)が置けないので、かなり頑張って急いでくれましたが、どの順にどう掛けていくか、垂直に下がっているか、など細かくチェックしながらだったため、結局5日がかりとなったのでした。
写真左:自ら脚立に乗って展示するリシャールさん(右)と、手伝う日仏スタッフ
写真右:巻き上げの最終仕上げも自分で
セミネリさんの作品は、タイトルが「隠遁者」とか「深き淵より」と、なんだか重た~い感じだったので、ご本人もそういう人だったら話しかけづらいな。。。と思っていたのですが、全くそんなことはなく、静かで物腰柔らかなとっても優しい方でした!
展示室中央に置かれた作品「トレーン」は、ミャオ族から物々交換で入手した18メートルもある布を、アシスタント含め4人で2か月かけて折った作品だそう(その他の作品は一人で制作)。手順としては、図面を引き、布にテープで折り位置の目処をつけ、端から手で折っていくそうで、折り方にもよりますが、出来上がりの2~3倍の布が必要になるそうです。布が掛けられている木の支持具もセミネリさんのデザインなので、作品と統一のとれた支持具にもご注目ください。
作品を整えながら、全体的な配置にお悩み中のセミネリさん
でも写真をお願いすると笑顔で対応。ありがとうございます!
その後エマニュエル・バロワさん(ガラス)が来日し、そのあとは次々と作家さんたちが来て、会場内の人口密度と賑やかさは一気に上がりました。
バロワさんは、ご自身とアシスタントさんとの2人だけで「探求」を黙々と組み立てていたのですが、最後に大工さんたちと総がかりで鉄の枠組みを外した時の、揺れたガラスの美しさ(と怖さ!)は圧巻。この壮大なガラス作品は、東博構内で屋外展示されている黒門(重要文化財)からインスピレーションを受けて制作されたそうなので、展覧会からの帰り道に、ぜひ黒門もご覧になってくださいね。
一枚ずつ丁寧にガラスを磨きながら並べていくバロワさん
ちなみに並んでいるガラス板の数は約80枚
ジェラール・デカンさん(紋章彫刻)には、かねてより疑問だったガラスへの刻印方法を質問。すると「まず初めにいくつも動物の石膏型作って、それを石膏版に押していく。そのあとそこにガラスを流し込んで作っているんだよ」とのことでした。水平状態で制作されているのですね!いわれてみれば当たり前なのですが、紋章というとなんだか “上から押し付ける”という先入観があったので、目から鱗でした。。。
作品について説明してくれるデカンさん
(お隣は制作パートナーのソフィー・ルノワールさん)
また、傘の展示はまさに協同作業。12人がそれぞれ1本ずつ傘を持ち、作家のミシェル・ウルトーさんが「君はあっちへ、君はこっちでしゃがんで、あと君はもっと腕を伸ばして!」と傘の配置を指示。そして監修のエレーヌさん、空間デザイナーのリナ・ゴットメさんに相談するのですが、傘持ち部隊から「早く~!」「しびれてきた~!」「壁になっちゃうよ~」などとヤジが次々。ようやく場所が決まって「オーケー決まったよ!皆ありがとう~」となった後、皆が適当な場所に置いたので、いざ大工さんが支持具を取り付ける時にまた場所がわからなくなるというコメディな一幕も。。。(ウルトーさん自身もよく覚えてなかったのに、しっかり者のリシャールさんが写真を撮っていたので事なきを得たのでした。良かった!)
傘の展示でわいわい相談中。左からボネさん(鼈甲)、一人置いてウルトーさん(傘)、
ケルマシュテールさん(監修)とほぼ隠れてしまったル・ベールさん(真鍮)、
リシャールさん(壁紙)、そして後姿のゴットメさん(空間デザイン)
先に展示が終わった作家は他の展示を手伝ったり、似た技術の作家同士「ここどうやって作ってるの?」とか「これ何の素材?」などお互いに吸収しあおうとする姿が印象に残った展示作業期間。彼らの人柄の良さと、更なる進化を求める作家としての前向きな姿勢を感じることができた1週間強でした。
カテゴリ:2017年度の特別展
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posted by 熊谷美和(特別展室アソシエイトフェロー) at 2017年10月04日 (水)